「私―――私で良ければ、力になります!こう見えて、私、
初春が胸に手を当てて、小声で、しかし気持ちの込もった目で言った。
周囲では、ペンを紙に走らせたり、ページをめくったり音が絶えず聞こえている。時折、彼女達が座るテーブルの横を、靴音を弾ませながら他の生徒が通り過ぎていく。
女子トイレでの、カツアゲ紛いの場面に飛び込んだ後、涙子はひとまずカオリを連れ出すと共に、初春に連絡を取った。あまり目立たず、話ができる場所として選んだのは、自習室の個室スペースだった。
連れて来たカオリはというと、落ち着かなそうに肩を縮めて座っている。時折、通路を生徒が通り過ぎる度、気にするように視線が揺れている。
涙子はカオリの隣、通路側に座っている。少し身を乗り出して、カオリの不安げな顔を覗き込んだ。
「カオリさん」
努めて優しく、声をかける。
「初春は頼りになりますよ。確かに、いろいろナリはちっちゃいですけど―――」
ちっちゃいって何ですか!と初春がむくれているのに構わず、涙子は話し続けた。
「―――立派な風紀委員です。なんていうか―――正しいことは正しい。間違ってることは違うって、しっかり言えるヤツですから」
涙子の言葉を聞いた初春は、今度は目を丸くして、照れたように顔を背けた。そのコロコロと忙しなく変わる表情が可愛らしく、涙子はカオリにはにかんでみせた。
カオリはちらりと初春を見て、涙子を見た。それから口を少し開いたが、言葉は出てこなかった。
「……えと、カオリさんは―――」
気を取り直したように初春がこちらに向き直った。
「3年の、何組ですか?」
「……B」
耳を傾けてなければ埃のように片隅に追いやられてしまいそうな声で、カオリが答えた。
初春の耳にはどうにか届いたようで、頷いた。
「3-Bですね。なら、そのクラスには、先輩が―――」
「無理だと思うよ」
今度ははっきり聞こえた。
カオリは、初春の言葉を遮るかのように声を出した。
「えっ……」
初春は口を噤んだ。涙子も先ほどまでの笑顔が自然と消えた。
「ああいうのは、初めてじゃないんだ」
ぽつり、ぽつりと、カオリが言葉を紡ぎ出した。
「1年の頃から、何かとね……こんなこと言ったら多分、引くと思うけど、私、
「そんなこと!」
憤慨して涙子は横から言った。
「あたしが今日見たのは、ハッキリ言って恐喝ですよ!悪いことは止めなきゃ、風紀委員なら―――」
「だから、言ってもどうにもならないよ。風紀委員に」
カオリの言葉に初春が目を大きく開いた。
「そんな!私たちは、困ってる人の味方ですよ!」
初春が体を前に乗り出して言った。
カオリは少し顔を上げた。
「初春さん、だっけ?」
カオリの顔がやや綻んだが、横にいる涙子には、ひどく力の無い弱い笑顔に見えた。
「優しいんだね、あなたは」
それから、カオリは涙子にも顔を向けた。
「佐天さんも、ありがとう」
「いえ……」
涙子は返事に詰まった。カオリの顔に表れているのは、幸せや楽しさ、希望の笑顔ではない。
物事を諦めきった時の顔だ。
「もしもね、私が貴方たちと同級生だったりしたら……うん。そうだったら私、良かったな」
涙子は、カオリの両手が、スカートの生地をいつの間にか強く握り締めているのを見た。
少しずつ零れてくるカオリの言葉に、壁を感じた。
見えない、それでいて高くて、分厚い壁。
ああ、この人は―――。
―――ずっと、ひとりだったんだろうな。
1年生の時から。
ひょっとすると、その前から。
自分には、理解できないのかもしれない。
自分には、何人も友達と呼べる人がいる。
初春がそう。
アケミも、むーちゃんも、マコチンも。
自分には、家族がいる。
学園都市から帰れば、家で出迎えてくれる。
ママが。パパが。弟が……。
「―――あの、ちょっと―――」
初春の唐突な言葉に、涙子は思考の海から引き揚げられた。
顔を上げると、カオリがいつの間にか立ち上がっていた。
「今日は、ありがとう。それに、―――そうだ、こないだの事件の時も。そのお礼がまだだったね」
カオリが笑顔を浮かべて初春や涙子に向かって言った。
頭上の白く無機質な電光が、ぼさぼさ髪のカオリを照らし、彼女の顔に陰を作っていた。
「本当に、嬉しかったよ」
その言葉に偽りはないのだと、涙子は感じた。
「けど、あの一件でも分かったろうけど、私、危ない奴らと付き合ってるから……。
あなたたち1年生が、関わっちゃ良くないよ」
カオリが、帰ろうとした。
涙子は口を開いた。
長い時間は経っていない筈なのに、やけに口の中がからからだった。
冷たい空気をすっと吸い込んでから。
「待って!!」
自分でも驚く位に、涙子は大声を出してしまった。
周囲のざわつきが、一瞬消えたのが分かった。
けれども、ここで黙ってはいけない気がしてならなかった。
涙子が見上げると、カオリは不思議そうな表情でこちらを見ていた。
「あの、」
涙子はゆっくり言葉を吐いた。
「―――友達に、なりませんか?」
「……
カオリが涙子の言葉を反芻した。
「あなたのこと―――カオリさんのこと、確かにあたしは、よく知らないけど」
涙子は、言葉の一つ一つを、自分にも言い聞かせるように話していった。
「でも……普通の、友達に、なれませんか?」
―――普通の友達のように。
「あたしは、なってみたい、です……」
結局、最後は尻すぼみになってしまった。涙子は目を伏せた。
こんなことを言うなんて。何度も会ったわけでもないのに。
たった一度や二度、トラブルの場に出くわしたというだけで。
カオリの表情が気になった。怒っているだろうか。
涙子が恐る恐る顔を上げると、さっきまでの位置に、カオリの顔はなかった。
カオリは再び座っていて、笑っていた。
「……ありがとう」
きれいな声。
諦めの顔ではない。トイレで出会った時の、あの笑顔だ。
「友達……ともだち、ね。なれるかな?すっごく、嬉しいよ。佐天さん。」
「もっ―――」
「もちろんですよ!!」
涙子が返事をしようとした所で、甲高い初春の声が割り込んだ。
初春が、携帯電話を手に、テーブルの向かい側から早足で涙子の席へと乗り込んできた。
涙子は初春に押しのけられて体勢を崩した。
「あたしたち、別に付き合いが何だろうが、関係ありません。その人本人を見てますから!ねえ、佐天さん!」
「う、初春、ちょっと、重いって―――」
「えっ!?あたし、そんな重いですか!?やだなあ!」
「いや、そういうことじゃなくて―――」
くすくすと、カオリが涙子と初春の様子を見て、笑い出した。
「ほら!カオリさん、やっぱり笑ってる顔が似合いますよ!」
初春がほっと息をついて、安心したように言った。
「とりあえず―――」
携帯電話を操作しながら初春が言った。
「連絡先、交換しませんか?」
涙子が大声を出して静まった自習室は、少し経つと、いつも通りの物音で満たされていた。
「あの花付けてる1年の子、風紀委員だって」
涙子たち3人の様子を、少し離れたテーブルから見る二人組がいた。
「どうする、ユミコ?」
ユミコと呼ばれた女子生徒は舌打ちした。
「どうするも何も、あんたの財布がなくなってんのはほんとのことじゃん、ユキ!」
「いや、そうだけど……」
バツが悪そうな顔をして、ユキが口ごもる。
「あの、トイレで脅したのは、やっぱまずいって……」
「なにそれ?」
不服そうに、顔をしかめてユキがユミコを睨んだ。
「あいつがやったに違いないし。あたしを疑うの?ユキ!」
そういう訳じゃ。と、ユキはユミコの剣幕の前に再び黙った。
「あの1年生が何か言ったとこで、風紀委員があの不良女の味方はする訳ないじゃん」
ユミコは目を細めて、連絡先の交換で盛り上がる涙子たち3人を見た。
「1年が文句つけるなら、教えてやりゃいーんだよ。言う事聞くべき先輩の選び方をね」
―――
「41号と、他のナンバーズを引き合わせる?」
書類をめくりながら眉を顰めていた大西が、皺だらけの顔を更に険しくして木山に言った。
「ええ」
木山は答えた。
「島君の
「木山博士、何もそんな―――」
大西が片手を広げて、抗議の声を上げた。
「あなたがここに来て、まだ3日だ。ずいぶんと結論を急いでいますな?」
「27号と呼ばれる、別の実験体との遭遇をきっかけに、島君は能力に目覚めつつある。あなたたちの見立て通りだとすれば、もう一度彼らを引き合わせれば、島君は能力行使にコツを掴むんじゃないかしら?その瞬間を観測することができれば、今後の研究に弾みがつくでしょう」
木山は、自分よりも背の低い大西に、気怠い視線を送った。
「たった3日といえど、私としては、今のところ目に見える成果が出ていないのは惜しいと思っています。Dr.大西。あなたもご不満げでしたし」
大西の持つ書類の束を見やって、木山は言った。
大西たちにははっきりと伝えてはいないが、
その原因として考えられる一つは、音声ファイルが対象に共有させる脳波パターン。それが不適合だということだ。
カギは、彼らにありそうだ。
「いや、しかし……」
大西は顎に手を当てて唸った。
「確かに、君の考えは試してみる価値があるかもしれん。だが、41号を保育園の者達に引き合わせるのは、大佐が頷くかどうか……」
「……
木山は腕組みした。
科学者共より、よっぽど人間らしい考えの持ち主かもしれないな、あの軍人は。
「……だが、直接引き合わせなくとも、手段はある」
大西が眉を上げて、木山を見た。
「……手段、とは?」
木山もやや視線を鋭くした。
「ウム、そうだな……君の言う通りだ、やってみようじゃないか。あの子どもたちは、
自分の研究成果をひけらかす時の笑みだ。
大西は、熱の籠った笑みを浮かべて、木山を見た。
島鉄雄は、目を閉じてベッドに横たわっていた。
耳には、ワイヤレスのカナル型イヤホンが取り付けられており、鉄雄は寝息を立てていた。
ベッド脇のサイドテーブルでは、木山に渡された携帯型音楽プレーヤーが、時折控えめに光を放っていた。
「……うぅ……」
唐突に鉄雄は唸り、体を起こして額を抑えた。
―――頭が痛い。
急に異物感に耐えられなくなり、シャカシャカと金属音がやけに響くBGMを鳴らすイヤホンを外し、床に捨てた。
なんだ、これは。頭がガンガンする。
眩暈がする感覚がして、吐きそうになる。落ち着かせるために、鉄雄は音楽プレーヤーの側に置かれた、水の入ったペットボトルに手を伸ばした。
ところが、暗闇の中で上手く掴めず、ペットボトルは床に落ちた。
蓋を外しっ放しのボトルの口から、ドボドボと白い液体が床に零れだした。
「ンだよ、くそっ―――……?」
悪態をついた次の瞬間、鉄雄は違和感を抱いた。
―――
鉄雄が床を見ると、暗闇の中で、ブラックライトに照らされたかのように、白い液体がやけに目立って飛び散っている。
それは、壁の方へと足跡のように続いていた。
鉄雄は再び眩暈を起こした。ベッドが揺れている。身体が支えられない。
たまらず四肢をベッドに投げ出した。
ベッドの金属製の骨組みが、ギシギシと音を立てている。
「違う―――!これは……」
何が違うのか、自分でもよく分からなかったが、とにかく鉄雄は声を出した。
出さなければ、圧し潰されそうだった。
眩暈かと思ったのは、本当の揺れだった。部屋が、赤ん坊の弄ばれるボールのように縦横無尽に揺らされている。
次の瞬間、白いミルクのような液体が伝っていった方の壁が、すさまじい音を立てて崩れた。
熊だ。
巨大なテディベアが、壁を壊して鉄雄の部屋に押し入ってきた。
それは鉄雄のよく知っているおもちゃでカオリの携帯のストラップに付いているものだった。それは音楽プレーヤーや実験器具の明かりをらんらんと反射する瞳をもっていて両の瞳からは絶え間なくミルクが流れ出していた。フェイクファーだかアクリルボアだかそんな生地の詳細までは鉄雄は知る由も無いが何故か頭の中にそういう関係ない用語が浮かんでは消え肩や肘脚の付け根といったツギハギの部分からも白い血が裂傷を際立たせるかのように滲み出てきていたそれは一歩一歩を安っぽい怪獣映画のように音を立てて踏み締めて鉄雄の上に覆い被さって来た目から鼻から口から垂れてくる血や涙や鼻水や涎が鉄雄の顔を濡らしたそれを鉄雄は冷たいと思った
鉄雄が腕を思い切り振り、目の前の怪物を払い除けようとした瞬間、轟音が鳴り響き、部屋の中の全ての物が怪物ごと押し流されていった。
けたたましい警報音が鳴り響いた。