―――くろこ くろこ!
それは学園都市に暮らす自分にとって、やはり誰のものよりも安心する声だった。
お姉様。心配は要りませんわ。敵はこれで制圧され、町には平穏が―――
「黒子!」
頬をぺちぺちと、痛みを伴わない程であったが、軽くはたかれている。
昼白色の柔らかな光が、視界の上側から自分へと振り撒かれていた。棒状の照明が、自分の頭側にある白い壁面に取り付けられていて、そこから発せられているようだ。そういえば、自分はどうも、工場の事務棟の冷たい床ではなく、柔らかいベッドに寝かされているようだ。
目が慣れてきて、自分を覗き込む人物の顔に焦点を合わせる。
「……おねえさま」
御坂美琴が口を開き、飲み込むように息を深々と吸った。
「私がもっと早く駆け付けてれば良かったんだ」
そう言うと、美琴は両手を再び伸ばし、黒子の頬を今度はより強く、両側へ引っ張る。
「そしたら、こんな風にあんたがまた病院に厄介になることはなかったのに……いや、そもそも帝国の奴らを深追いしない内に止めればよかったのかな」
ぴりっとした痛みを黒子は感じた。
お姉様は悪くない。これは私の責任―――そう言おうとしたが、フガフガとした気の抜けた音しか口からは出なかった。
―――第七学区、とある病院
「おや!目が覚めたようだね?」
緑のシャツの上に白衣をまとった、中年の男の医者が美琴の後ろに現れ、声をかけてきた。目と目の間が離れ、角ばった顎をしたその顔はまるでカエルのようだと黒子は思った。
「もう面会時間も終わりが近いんだ、そのままゆっくり寝かせてやってもいいじゃないかと言ったんだがね?どうしても君が目覚めないと不安だというんだ。まあ、君のことを心から想ってのことだからね?」
「もちろん、存じ上げておりますわ」
頬を引っ張る手が離れた後で、黒子は美琴に向かって言い、笑顔を作ってみせた。
美琴がはあと大きなため息をつく。
「ドクターからは心配いらないって聞いてたけど、あんたいつまでたっても起きないんだもの」
美琴に言われて、黒子はベッド脇に置かれたデジタル時計に目をやる。
工場の火災現場に駆け付けてから大分経っている。寮の門限も過ぎてしまっていた。
そんな美琴と黒子の様子を見ながら、カエル顔の医者はほんの僅かに安心したような笑みを見せる。
「友情は尊いものだけども、あまり騒がないでもらえたら嬉しいね?ご覧の通り、今夜は手一杯なんだ」
黒子と美琴が辺りを見回すと、同室内に4つベッドがある内、少なくとも向かい側のスペースは、別の誰かが寝かされているのだろう、カーテンで閉ざされ、物音がしなかった。医者の言葉から想像するに、どの病室のベッドも埋まっているのだろう。黒子も美琴も、申し訳なさそうに口を押さえた。
「君が受けた血流阻害の影響だが、短時間かつ血管の収縮が比較的小規模だったからね?それ自体の影響はほぼ無いと言っていい。念のため、血管拡張剤を低用量点滴させてもらったから、明日にでも問題なく退院できるだろうね?」
医者に言われて初めて、黒子は自分の片腕の静脈に点滴が繋がれていることに気付いた。パックのラベルに、「ニトログリセリン」と書かれている。
カエル顔の医者は、黒子の腕からバンドと瓶針を外しながら語る。
「付け加えるなら、君は極度に疲労していたわけだ。正確に言うなら、君の脳がね?
「……学区の端から端まで、ハイウェイを走る車と同じ速度で移動しましたわ。
黒子の気恥ずかし気な白状に、医者はやや弛んだ頬に片手を当てながら、それはそれは、と素直な感心なのか皮肉なのかよく分からない反応をした。
「携帯に何度も着信があった。みんなも心配してるみたい」
美琴に言われて黒子が携帯電話を開くと、その通り、何件もの通知が溜まっていた。
初春、固法先輩、常盤台の学生寮仲間……。
その着信一つ一つの内容を確かめようとして、黒子はふと思い出したことがあり、カエル顔の医者を見た。
「あの!私の傍に、他の女性が倒れていませんでしたか?」
医者は、一度瞬きをして黒子を見返した。
美琴がはっと顔色を変え、俯いた。
「あの人は―――ケイさんは、無事なのですか!?」
顎に再び手を当て、医者が考え込むような素振りを見せる。
「……管を外した直後で悪いがね、少し外へ出てもらえるかね?」
黒子が連れられたロビーは、ナースステーションの向かい側にあって、夜の時間帯ということもあり、閑散としていた。壁にかけられた大型のテレビからは、静かな音量で無人の空間に向かってニュースが流れている。その上、ほとんど白といっていいくらい極端に薄い桃色の床に、文句なしに白一色のロビーチェアが並んでいる風景が、目覚めたばかりの黒子には、ひどく無機質で冷たいものに思えた。印象とは裏腹に柔らかい椅子の一つに黒子と美琴が腰かけ、その隣の椅子にカエル顔の医者が座った。
「結論から言うと、あの化学工場の事務棟に倒れていた者は、全員助かった。少なくとも、ウチに搬送されてきた人たちはね?」
「少なくとも?」
「ここもそれなりの規模だが、全ては引き受けきれない。君もジャッジメントなら把握しているだろうが、レベルアッパーの罹患者でただでさえ病床がひっ迫している所に、アーミーのクーデター騒ぎ、そしてあの『帝国』という暴徒集団の騒乱ときた。倒れていたアンチスキルの方々は、近隣の病院と分散して何とか受け入れた。中には脳血管に関わる急性疾患を起こして危険な者もいたが、ひとまず命は助かっている」
「それで―――」
黒子はやや身を乗り出して医者に聞いた。
「私の近くで倒れていた若い女性―――ケイさんは」
医者が口を開きかけた所で、俄かに辺りが騒がしくなった。
「ここに居たかよ!ジャッジメント!」
赤い汚れたツナギを来た少年、金田正太郎だ。大股に、ライディングブーツの足音をずかずかと鳴らし、怒りを顔に湛えてやってくる。黒子は面食らった。
医者は眉を吊り上げ、美琴は非常識だとでも言いたげに顔を歪めた。
「一体どうし―――」
「鉄雄だ!お前は見たんだろ!!」
腕を広げ、口角泡を飛ばしながら金田が叫ぶように言う。
「どういう意味ですの?」
「山形だよ!!」
続けざまに別人の名前を口にされ、黒子は困惑する。
やめろって、とモスグリーンのジャケットを着た腕が金田を引き留める。金田の仲間の甲斐だ。
更にその斜め後ろには、花飾りを頭に乗せた少女が、縮こまった様子で落ち着かなそうにしている。
「初春!?」
「ごめんなさい、白井さん」
おどおどした様子で、初春が唇を噛んだ。
「白井さんが担ぎ込まれたって聞いて、急いで来たんですけど……白井さんの病室に向かう途中で、この人たちに捕まっちゃって……どうしても会わせろって」
「感心しないね?大声を出さないでほしいものだ」
カエル顔の医者が憮然とした顔で、腕組みをしている。
何事かと、カウンターの向こうから看護師もぞろぞろと出てきたが、金田は引き下がらない。
「お前が山形を一番速く追いかけてった筈だ!鉄雄が!奴が、山形をやったんだろ!?」
「私は見ていませんの」
黒子は立ち上がり、毅然と金田を見据えて言った。
「私だ到着した時には、既にお仲間の―――山形さんは倒れていました。近くには誰もいませんでしたわ」
金田の目が一瞬泳ぐのを、黒子ははっきりと見取った。
「……確かなんだろうなッ!」
「嘘などついても、仕様がありませんわ。私が知りたいぐらいですの」
クソッ!と金田はため息交じりの悪態をつき、拳を握り締めて視線を落とした。
「山形も、浜面も、ケイちゃんまで……鉄雄の野郎、許さねェ……」
「そんな大切な仲間なら、ここで何ウジウジしてんの?アンタ!」
言葉を投げ掛けたのは、美琴だった。
歯を食いしばって金田が顔を上げた。こめかみをひくつかせている。
「何だと……」
「仲間を、大切な人を守りたいなら、いじけてるヒマなんか無いって言ってんの」
美琴が続けざまに言い、金田が立ち上がる。
「お前に何が分かンだ―――」
「ええ、分かる訳ない!」
詰め寄ろうとした金田を遮るように出された美琴の声が、僅かに震えていた。
「アンタにとって、今出て来た名前の人がどんな関係だったかなんて私は知らない!けど、こっちも大切な人を、大切なモノを、
「お姉様……」
間を遮るように立ちはだかり、金田へと言葉を吐く美琴の背中へと、黒子は思わず声を漏らしていた。
美琴は金田に向かって更に口を開く。
「島鉄雄を、私は追う!見つけ出す!この手で借りを返さないと気が済まないの!アンタらバイカーズなんかよりも先に、私が倒す!」
「言ってくれるじゃねェか……」
金田の目にも力が灯っていた。
「アイツを一番よく知ってンのは俺だ。
世間知らず、と初春が呟いたが、金田の耳には聞こえていないようだった。
急に踵を返すと、金田は歩き出す。
「行くぞ甲斐ィ!招集だ!鉄雄を
おい、金田、と甲斐が声をかけるが、金田はずんずんと進んでいく。
甲斐は困ったような顔をして躊躇し、素早く黒子の近くへやって来た。
「悪い。アンタが見つけてくれなきゃ山形は死んでたんだ。アンタはむしろ、俺らのチームメンバーの、命の恩人なのに」
「山形さんは?無事なのですか?」
「一応、生きてる。けど、脳に酸素いってない時間が長かったから、この先どうなるかは……」
視線を泳がせてから、もう一度黒子や美琴を見た甲斐は、頭を下げた。
「金田も、近い仲間の一人をやられて気が立ってるんだ。俺だって、そりゃ憎いけど……とにかく。ありがとう」
甲斐が感謝の言葉を述べ、金田の後を追って去っていった。
「全く。院内で暴力沙汰なんて笑えないからね?保安員を呼ぼうかと思ったよ?」
カエル顔の医者がやれやれと首を振った。
「あの、ケイさんも、この病院に?」
黒子が問うと、医者は渋い顔をした。
「……あの建物にいた女性2人かい?確かにウチに運び込まれているが……特別な病棟にいる」
え?なんで?と美琴が疑問を口に出す。
カエル顔の医者は暫し思案した後、黒子を見た。
「君はジャッジメントだ。間もなく情報が回るだろうが……あの2人には、IDが無い」
初春が驚きの表情をする。
学生はもちろん、この学園都市の住民は、老人から赤子に至るまで、
「ここは病院だからね?貴賤問わず、どんな人間にも、治療が最優先だよ?だから一度は私の方から断ったが……だがね?いつかは警察病院行きだ。警備員が、ベッドの上のあの2人を追及することになるだろうね?」
ゲリラ。その予感がいよいよ現実味を増してきたことで、黒子はなんとも言えない感情を抱く。
ケイが銃を寄越してくれなければ、自分はホーズキ男に為す術が無かっただろう。そんな恩人であるケイが、テロリストと世間一般から看做されている反政府ゲリラの一員だという可能性が否応なく高まったことで、黒子の思いはぐるぐると複雑に渦を巻いた。
「初春さん。これだけ『帝国』がバカ騒ぎしたのに、島鉄雄の行方については何か情報は入ってないの?」
物思いに耽る黒子の代わりに、美琴が初春に聞いた。
しかし、初春は首を振る。
「それが、主だった襲撃メンバーは逮捕されたんですが……みんな碌な証言もしない内に、例の錯乱と昏睡状態に入ってしまって。まるで示し合わせたかのようで、不気味です。襲撃は、御坂さんたちが駆け付けたあの化学工場が最後のようで、今になって外は落ち着いていますが」
「あの最後の幹部。“鳥男”と“ホーズキ男”からも、何も聞き出せていませんの?何かを知ってそうな物ですが」
黒子からの質問に、初春は再度首を振る。
美琴が不意に口を片手で押さえた。黒子は心配そうに美琴を見る。
「お姉様?」
「いや、ごめん……嫌なことを思い出しちゃって」
黒子と初春が心配そうに覗き込む。
美琴はため息をついた。
「……“鳥男”が錯乱した時、私その場にいたの。あの目隠しを外したら……アイツ、目が無かった」
目が?と理解できない様子の初春と黒子に、美琴は自分の人差し指を目元に持って曲げ伸ばしする。
「駆け付けたアンチスキルが言うには、多分……抉り取ったんじゃないかって」
美琴の言葉に、初春がぐっと唾を飲み込んだ。
「一体何のために……」
分からない、と美琴は呟き、なおも訥々と語る。
「アイツは、ビルから転落する直前に言ってた。島鉄雄は止められないって。あと、
美琴の言葉に、黒子はぎゅっと自分のスカートの生地を握り締めた。
その通りだ。止めなければならない。
同時に、帝国の活動が収束したと聞いて、言いようのない不安が頭をもたげていた。
仮に島鉄雄を捕まえ、帝国が崩壊したとして、今レベルアッパーによって意識を失っている1万人近い人々は、元に戻るのだろうか?どうすれば救えるのだろうか?
黒子の脳裏に浮かんだのは、まず佐天涙子の屈託のない笑顔。それからなぜか、己の目を失った鳥男が、レベルアッパーの束縛から解放されたとして、その後どうやって生きていくつもりなのだろう、という、好奇心だった。敵方の人物の、悲惨であろう今後を訳もなく想像したことに、黒子は唐突な恐怖感を覚え、一層布地を握り締める手の力を強くした。
オホン、とカエル顔の医者が咳払いをしたことで、その場の雰囲気がリセットされた。
「実は、常盤台の学生寮の寮監さんから連絡があってね?白井君への労りと、それから……御坂君、君はすぐ帰宅するようにとのお達しなんだがね?」
やばっ、と美琴は時計を見た。
門限の8時20分を、長針は既に悠々と通り過ぎていた。
何にせよ、動き出すのは、明日の朝以降だ。
そのためにも、早く体を休ませ、英気を養わなければならない。
美琴や初春に別れを告げた黒子は、そう心に決めた。
病室へと戻る黒子の耳に、ロビーの壁掛けテレビからニュース音声が聞こえる。
……第二学区でのアーミー駐屯地本部ビル倒壊現場の捜索作業は、この後も夜を徹して行われる見込みです。この事件では、未遂に終わったクーデターの首謀者と見られる、敷島大佐等、五十名近くの所在が不明となっており、倒壊したビル内に閉じ込められている人もいる可能性があるとのことです。また、内務省のアンチスキル所管関係者によりますと、このビル倒壊は、逮捕を拒絶した敷島大佐による自爆という見方も、捜査関係者の間では現れているようです。続いて、今夕から第七・一〇学区の繁華街を中心に発生している、スキルアウトによる暴動については……
―――第七学区、南の外れの学生寮
掠れたベルの音が部屋に響く。
こんな時間に誰が?
怪訝な顔をしたカオリは、寝間着の上にパーカーを羽織って、ドアスコープを覗き込む。
今日の午後からカオリの寮周辺で警備についてくれている、アンチスキルの女性だった。歳は30代位だろう。がっしりとした体格で、髪を後ろで一つに縛っている。
「定時確認ね、カオリさん?変わりは無い?」
ドアの向こうからくぐもった声が聞こえる。
「いえ、大丈夫ですが」
カオリはふっと安心し、返事をした。部屋の時計をふり返ると、なるほど、事前に約束した安否の確認をするという時刻だった。
「こんな時間まですみません、私なんかのために」
「いいのよ。あなた、『帝国』の連中から目をつけられてる可能性もあるんだし。まあでも安心して。幹部級が捕まったらしくて、もう目立った騒ぎは収まっているって情報が来たの」
「そう、ですか」
鉄雄君は―――とカオリは言いかけて飲み込んだ。
涙子を昏睡状態に陥れた、レベルアッパー。それをバラ撒く元手だと判った以上、もはや島鉄雄は、カオリにとって、大切な存在でも何でもない。
そう自分に言い聞かせていた。
「コンビニで、割引のおにぎり、たくさんあったから、買ってきたの。安物で悪いけど、いくつか要らない?」
それは、ありがとうございます!と、カオリは声を弾ませてドアロックを外した。
決して懐事情が暖かくはないカオリにとって、素直に嬉しい申し出だった。
ドアを開けると、アンチスキルの女性が立っていた。先ほどまでの親し気な笑顔は消え失せ、無表情で突っ立っていた。コンビニのビニル袋など、どこにも見当たらず、手ぶらだ。
「あの……」
カオリが不安に思って声をかけると、アンチスキルは黙ったまま、部屋には入らず、脇へとどいた。
代わりに現れたのは、白衣をまとった女だった。
カオリはその人物に、見覚えがあった。
「あなたは……!」
「探したよ、カオリさん」
ボサボサに乱れた茶色の髪を揺らして、女が玄関に押し入って来た。
カオリは一、ニ歩退がり、三和土と床の段差に踵を躓かせて尻餅をついた。
「夜分にすまないね。君の力が、必要だ。手を貸してほしい」
木山春生の、隈がはっきりと浮かび上がった目から、ギラギラとした視線がカオリに注がれる。
白衣の袖から伸ばされる手が目前に迫って来るのに、カオリはぶるぶると震えて動けなかった。
次話から、最終章です。