「う゛…」
呻きながらも目を開けてみれば鼻を突く医薬品の臭いが最初にした。時間を早く感じさせる真っ白い壁と天井。
どうやらここは保健室のようだ。
(そうか……俺、テニスの時間中にボールが顔面に当たって)
ボールが直撃してからの記憶が一切ないことを鑑みると、もしかしなくても自分は気絶してしまったのだろう。体育の授業中に気絶なんて初めての経験だ。
「あら。目が覚めたようね」
「貴女は……」
保険医の
小山内先生は見た目20歳くらいのとても若い先生だ。一見すると先生というよりもキャンパスライフを送る大学生に見える。茶色っぽい髪のセミロングヘアと日本庭園の桜を思わせる瞳がなんとも印象的だった。
若くて綺麗ということで男子生徒にもかなり人気があるのだが、
(な、なんだ?)
冷房も利いてないと言うのにやけに寒い。
もし丈が人生経験豊富だったのなら、これが悪寒であるということが分かっただろう。しかし悲しいかな。丈は悪寒というものを明確に知るほど人生を生きてはいなかった。
「お友達に感謝することね。丸藤亮だったかしら、あの美味し……もとい可愛らしい子は」
「へ、美味し?」
「あの子が貴方をおぶって来たのよ。腐のつく女子なら狂喜しそうなシチュエーションだったわ。私はそっちに興味がないからどうでも良いのだけど」
ズイと小山内先生が顔を近づけてくる。口元にはニタリと形容するのが適当な笑みが浮かんでいた。
前世を除けば、丈とてまだ青春真っ盛りの中学生である。二十代の美女に顔を近づけられたりすればドキマギもする筈なのだが……何故か身の危険を覚えた。
このままではヤバい。なにか大切なものを失う。いや奪われる。そういう予感がビンビンとしていた。
「あ、あの……小山内先生?」
「ふふふっ、本当は寝てる間に悪戯……じゃなくて性的接触を……そうでもなかったわ。じっくりと触診をしようと思ったのだけど、起きてしまったならそれはそれで良いわ」
「え、あの、俺はですね……。あぁ! まだ授業終わってないから、今から授業出てきます! 俺!」
「駄目よ! 貴方は頭にテニスボールの直撃を喰らったのよ! 大きくて硬いモノを!」
「大きくて硬いとか怪しい発言しないで下さい!」
「いい。頭っていうのは本当に重要なところなの。今はなんともないと思っても、次の日……ううん、もしかしたら一年後に大きなダメージがあるのかもしれないのよ。そういう万が一を防ぐ為にも、これから貴方の肉体をじっくりと舐め回さないといけないのよ!」
「最初の方はいい話だと思ったのに、最後で本音をぶちまけてるって! ああもう! 俺は授業行きますから! 検査なら病院で受けます!」
「そんな! 私はこの学園の保険医として貴方の頭を治療する義務があるのよ!」
「アンタの方が治療して貰えぇええ!」
ヤバい、ヤバい、ヤバい。
これはもうヤバい。ヤバすぎる。一刻も早くここから逃げなければ、丈はこの保健室の塵と消えてしまうだろう。ベッドから跳ね起きると、そのまま全速力で出口のドアまで走る。
「あら、反抗期かしらぁ」
しかし性欲により身体のリミッターを解除した変態教師の身体能力は凄まじかった。丈がドアに到達するよりも早く回り込み、逃げ出さないよう両手を大きく広げる。
丈はどうにか擦り抜けられないかどうか目を凝らすが、保健室という狭い密室では難しい。丈にはアイシールド21みたいなランは出来ないのだ。
「ふ、ふふふふふふふふ。検診のお時間よ。注射は太い方と長くて細い方、どっちがイイ?」
「い、いやぁだぁあああああああ!」
「あら。そんなに激しく暴れて。なら両方に」
「ちょ、ちょっと待てぇぇ!」
小山内先生が保健室の棚から、巨大な注射と細くて長い注射の両方を取り出す。そしてその二つに共通しているのは明らかに普通のものではないということだ。
巨大な方は猛獣用ではないかと思う程にデカいし、細い方は竹刀くらいの長さがある。
「それじゃあ、いただきまぁす。んほぉぉおぉおぉおぉぉ!」
「ぎゃぁぁぁぁぁぁああああああ!」
もう駄目だ。
丈は十字を切り、全てを諦めかけたその時、救世主は現れた。
「止めろ!」
丈の悲鳴を聞いて駆けつけた亮が保健室のドアを強く開き、中に飛び込む。そして直ぐに室内における異常がなんなのかを理解すると、小山内先生にタックルを喰らわせ弾き飛ばした。
「大丈夫か? 小山内先生……一体なにが?」
しかし流石の亮もやや頭がパニックになっているようだ。
小山内先生の奇行をその目で目撃した丈は、直ぐに立ち上がると亮に言う。
「話はあとだ! 早く逃げないと二人とも犯られるぞ!」
「やられる?」
「俺達二人の未来が危ないんだ! このままじゃ望まぬ結婚と望まぬ子供を授かる羽目になる!」
「まるで意味が分から……待て。まさか、小山内先生は!」
「先生は重度のショタコンだ! 俺も今さっき犯られそうになった! 言動からして、お前も危ない!」
「ショタコンとは随分な言い様ね、ぼくぅ?」
脳天に糸でもついているかのような、重力に逆らった不自然過ぎる動きで小山内先生がグワンと起き上がる。目は大きく瞳孔が開き血走っていて、もはやマトモな状態とは口が裂けても言えなかった。
「私はただアソコに毛の生えてない年頃の男の子をこよなく愛しているだけよ。ショタコンという訳じゃないわ」
「そういうのをショタコンというんじゃないのか?」
冷静に亮がツッコミを入れる。ある意味、ショタコンという単語を亮が知っていた事の方が驚きだった。
「賢い子ね。ぐっふうぅううう、入学式の頃から貴方達にはギュっと目をつけていたの。そしたら今日、お目当ての子が一人、ここにやって来るんですもの。据え膳喰わねば女の恥。なので、いただきます」
「に、逃げるぞ!」
「わ、分かっている!」
亮もアレの相手をするのは御免だったらしい。踵を返し保健室から出ようとする。しかし小山内先生、もとい変態の変態っぷりは尋常ではなかった。変態は地面を蹴り跳躍すると、そのままクルクルと体を回転させながら丈たちの頭上を越えてきた。
着地地点は保健室のドアの真ん前。不味い。あそこを抑えられたら逃げ場がなくなってしまう。
丈は瞬時に頭を回転させ、ピカッと良い作戦を思いついた。保健室のテーブルに置かれていた布巾をとると、それを着地地点のあたりに放る。すると必然、華麗に着地しようとしていた変態(小山内先生)は布巾をふんずけることになり、そのままコミカルに地面に転ぶ。
ゴツンと鈍い音が保健室に響いた。
頭からドクドクと血が流れ倒れる小山内先生。
「殺ったか?」
「いいや気絶しているだけだろう。直ぐに目を覚ます。その前にここを出るんだ」
短くそうやり取りすると、倒れた小山内先生を飛び越えドアへ向かおうとする。だが変態の生命力はゴキブリ以上に高かった。
「お痛は駄目じゃあないの、うふ、うふふっふふふふ」
「……んなッ!」
「…………人間じゃない」
丈と亮が一様に恐怖を感じる。
ドクドクと頭から血を垂らしながら、小山内先生はぬわりと起き上がった。瞳に宿る色は狂喜と狂気。喜びと狂い。
「いいわ。そこまで私を拒絶するなら、デュエルで決着をつけましょう」
血を流しながら小山内先生がどこからかデュエルディスクを取り出し装着する。
「デュエルで私が勝てば私は貴方達を美味しくいただく。私が負ければここから出してあげる。答えは聞いてない。始めるわよ」
「待て! 俺達は体育の授業中だったため、デュエルディスクとデッキを持っていない!」
亮が申告するが、それは変態を喜ばせる結果しか生まなかった。
「あら、そう。ならデュエルは私の不戦勝ということね。これで合法的に貴方達を捕食できそうだわぁ」
※デュエルするしないに限らず非合法です。健全な男女交際を心がけましょう。
「くっ、ここまでか!」
丈の頭に走馬灯というやつが駆け巡る。
最初にこの世界に生まれ変わった時。二度目の入園式、卒園式、入学式、卒業式。亮との初デュエルや実技試験のこと。
それなりに面白い人生だったのだろうか。
丈はそう自問してから自答する。
良い人生だった。短いが友人もいてそれなりに楽しく出来た悪くない人生だった。丈は諦めたように目を瞑り、
「嫌な予感がしたから駆けつければ案の定だね」
保健室に木霊した声。それは紛れもなく吹雪のものだった。
「吹雪!」
「受け取るんだ丈! 君のデュエルディスクだよ!」
吹雪が持ってきたものを丈へ放る。
作ったばかりの新デッキが装填されているデュエルディスク、それを丈はしっかりとキャッチした。
「良し! これで戦える! だけどどうしてデュエルディスクを?」
「ちょっと花を摘みに行ったら亮と君の只ならぬ声が聞こえたからね。この学園だとデュエルが優先だから、万が一の為に急いでデュエルディスクを取りに行ったんだよ。悪いね亮。本当は亮のデュエルディスクも持ってこうと思ったんだけど、君のロッカーには鍵がかかっていたんだ」
今日ばかりはロッカーに鍵を掛けなかったことが役立ったらしい。といっても今後はしっかり鍵をかけるよう注意しておかなければならない。これでロッカーを開けたのが吹雪でなく他の生徒ならデッキごとデュエルディスクが盗まれたかもしれないのだ。
「任せたぞ丈。お前の新デッキの力を見せてくれ」
「おうともさ!」
兎も角だ。
これで貞操の危険は一旦去った。後は目の前の変態をデュエルでぶちのめすだけだ。
デュエルディスクを装着し改めて変態と向き直った。恐れはもうない。