銀河英雄伝説 ヤン艦隊日誌追補編 未来へのリンク   作:白詰草

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お酒は二十歳をすぎてから


命の水――ウィスケ・ベサ――

 ヤンは基本的に神なんて信じていない。だが、ローエングラム公を見ていると、神の存在を思わざるを得ないことがある。神の寵愛を一身に受けているような輝かしい青年。知と戦の神(アテナ)美の神(アフロディーテ)、そして多分、運命の女神(モイライ)にも愛されているのだろう。

 

 だが、ヤンはひとりの神の存在は知っているし、信じてもいる。歴史学を愛する者は、彼の信徒になってしまうのかもしれない。

 

 時を守護する神、クロノスだ。誰も愛することなく、誰をも信じない無慈悲な神。父を追い落とし、自分も同じ目に遭う事を恐れ、わが子達ですら飲み込んだ虚無の神。残酷さのあまり妻と末子に叛かれ、主神から転落したが、彼を殺すことはできなかった。だから今も時は流れ、この世に永遠不変のものはない。

 

 わが子でさえ飲み込む時が、どうして人間に寵愛など与えようか。人は変わっていく生き物だ。赤ん坊は少年になり、青年から徐々に死へと向かっていく。心も同じく年を取る。誰だって我が子が一番可愛い。そうなった時に、臣下への態度はどうなるか。

 

 更に時計が進み、自分に残された時間に応じて、だんだんと待つことが難しくなっていく。明日があると思えなくなるから、今にこだわるようになる。

 

 若い頃の名君が、後年に暗君や暴君になることなど、歴史上珍しくもないことだ。最初から最期まで名君であり続けた人間のほうこそ、ダイヤモンドのように希少な存在なのである。

 

 一人の人間であってもそうなのだ。ローエングラム公は(とんび)から生まれた有翼獅子(グリフォン)だろう。では、有翼獅子の子は有翼獅子か? 孫に曾孫(ひまご)玄孫(やしゃご)に至るまで? 

 

 そんなことはありえない。世にあふれる凡百、蛙だからこそ蛙の子になる。いずれは蛙になるのが当然、場合によっては蛇や蠍が生まれるかもしれない。流血帝アウグスト、痴愚帝ジギスムントのように。

 

 そうなったとき、誰も君主に否と言えない。冠絶した天才であっても、無謬(むびゅう)ではない。そして、時の残酷さから逃れる術はない。次から次へと手を打ってくる、その精神的、肉体的な精力が年とともに変わらずにいられるか。もう疲れた、面倒だと放り出したところで、誰にも肩代わりはできないのだ。

 

 それが専制君主の責務。誰にも縋れず、皆に対して公平であること。愛する唯一を持つことはできない。名君たろうとするなら。

 

 そしてそれを貫き通さなくてはならない。死が訪れるまで。その孤独をあの天才は知っているのだろうか。親友を亡くしたことさえ、まだ救いだったと思うような道程だ。

 

 こんな皮算用をしても本来は意味がない。ヤンが勝ち、彼が死ねば実現しない。彼が勝ち、ヤンが死ねば、ヤンには関係ない。そう、自分だけのことならばいい。

 

 ヤンの被保護者のユリアン、キャゼルヌ家の二人の令嬢。そして同盟の大勢の子どもたち。彼らには、なんの責任も罪もない。これは大人としての義務だ。

 

 もしもローエングラム公を(たお)したら、帝国はまたも内乱状態となるだろう。せっかく生活が向上した平民の多くに犠牲が出るかもしれない。ヤン・ウェンリーは、戦場にあっては何千万もの将兵を殺し、帝国にあっては、230億人の民衆の敵だと評されることになるに違いない。

 

 そして、第二のルドルフとなってしまうことがあるかもしれない。いやいや始めた軍人だけれど、たったの十年で大将になってしまったではないか。こんなことアッシュビー提督の調査中に、想像だにしていなかったが。

 

 未来は誰も知らず、だから人は生きていける。いつか終わりが来ることを知るから、命はこんなにも尊い。その尊きものを刈る、大鎌を持つ死神。その原型もクロノスだったか。

 

 ヤンも彼の御手の一つ。あの白磁と黄金と蒼氷色のダイヤモンドで造られたような首を、この手が刈り取るのだろうか。

 

 ヤンはベレーを脱ぐと、髪を乱雑にかき混ぜた。これもまた皮算用の一つか。この一か月半、ヤンを悩ませているあの金銀妖瞳(ヘテロクロミア)の名将をどうにかしないと、おちおち夜逃げもできやしない。それに、あの形のいい白い手が、自分の首を獲るかもしれないのだ。いや、そっちの可能性のほうが高いか、やっぱり。

 

「やれやれ」

 

「大丈夫ですか、ヤン司令官。ずいぶんお疲れのようですな」

 

 溜息を吐いたヤンに、朗らかで朗々とした声が語りかけてきた。

 

「ああ、ありがとうパトリチェフ准将」

 

「一杯いかがです。アイリッシュコーヒー」

 

「コーヒーは苦手なんだ」

 

 上官のおきまりの返答に、陽気な巨漢は笑みを浮かべて言い添えた。

 

「のコーヒー抜きですよ」

 

「ありがたくいただくよ」

 

 ヤンは速やかに前言を翻した。ウイスキーのお湯割りが、紙コップの中で麗しい琥珀色にたゆたっている。薫り高い湯気に鼻腔をくすぐられながら、一口味わった。

命の水(ウィスケ・ベサ)。語源となった名前をつけた人々の慧眼に、敬意を払いながら。

 

「何を考えておいででしたか」

 

「まあ、いろいろとね。あの天才をどうこうしようなんて、大それたことなのかなと」

 

「なるほど、小官なんぞ根が単純ですから、そんなこと考えもしませんでした。

 閣下、お宅に押し入った強盗が、絶世の美青年の天才だったらどうしますか?」

 

 ヤンは目を瞠ってから、瞬きをした。

 

「……警察を呼ぶね」

 

 ヤンの言葉に、パトリチェフは大きく頷いた。

 

「ええ、小官もですよ」

 

「貴官なら自分で片付けたほうが早そうだなあ」

 

「でも、それだと後がややこしいことになるじゃありませんか。

 さっさと警察を呼んで、あとは裁判所にお任せする。

 でも、その警察がなかなかこないと困りますがねえ」

 

「そうだね。いや、まったく貴官こそが真の賢者だよ。

 警察が来ないと、市民が水をまいて追っ払ったりしなくてはならなくなる」

 

 しみじみしたヤンの口調に、副参謀長は首を捻った。

 

「実感のこもったお言葉ですなあ。経験がおありで?」

 

「ああ、憂国騎士団とやらに押し込まれたことがあるよ。

 なかなか警察が来なくてね。確かにあれには困ったものさ」

 

「ムライ参謀長のお言葉ではありませんが、困ったもんですよね。

 あちらさん、水まいたぐらいじゃ退散はしてくれなさそうだ」

 

「本当にそのとおりさ。壷が割れたぐらいじゃすまなくなる」

 

「壷ですか」

 

「ああ、父の形見のたった一つの本物だった。

 二千年ぐらい前の、地球時代の真品。もったいなかったよなあ」

 

「いやあ、そいつはもったいない。

 形あるものはいつかは壊れると言いますが、それにしたってねえ」

 

 ヤンとパトリチェフは顔を見合わせ、手の中のものを(あお)った。もう少し濃いほうがヤンの好みだったが、口中に芳醇な味と香りを残し、喉から食道を絹のように滑り落ちていく。それが胃の中に納まると、体の芯に火が点る。

 

「だが、人命はもっと惜しむべきものだね。

 本来は差をつけてはいけないのだろうが、やはり無辜(むこ)の市民と強盗では優先順位が違うな」

 

「そのとおりですとも。さて、多少は顔色が良くなられましたな。

 キャゼルヌ少将ではありませんが、ちょっとお寝みになった方がいいですよ」

 

「しかしね」

 

 平時なら諸手を上げて昼寝にいく司令官が、パトリチェフの進言に渋る様子だった。

 

「ここまで一月半、こんな調子じゃありませんか。

 閣下が小一時間仮眠したところで、大きく戦況が動くとは思えませんよ」

 

「それもそうか。酔って寝ている間に死ねるなら、その方が楽だ」

 

 縁起でもないことを言うヤンに、パトリチェフが陽気に請け負った。

 

「ご安心を。そんな状況になったら、いの一番に叩き起こして差し上げますとも。

 さあ、行った行った。さもないと小官が片手で担いでいきますからな」

 

 ヤンは、パトリチェフの逞しい腕を見た。以前、駐留艦隊司令官室の重たい椅子を、司令部で唯一軽々と運んだ彼だ。ヤンの今の体重は、あの椅子よりも軽いだろう。

 

「うーん、今日のところはそっちは遠慮しておこう。

 お言葉に甘えて一時間ほど寝てくるよ。パトリチェフ副参謀長、よろしく頼む」

 

「ええ、お任せください。じゃあ、一時間だけですが、どうぞごゆっくり」

 

 ベレーを脱いで、机上に置くと、伸びとあくびを一つ。久しぶりに自然な眠気に誘われる。ウィスキーのおかげだ。

 

 そして、脈絡のない思考の流れが、方向を整えようとしていた。無慈悲なクロノスは、公平な神でもある。時は万人に等しく流れる。ヤン艦隊が結成されたばかりのころ、『敗残兵と新兵の寄せ集め』を後輩はウィスキーやワインに喩えた。いい味がでるまで、まだまだ時間がかかると。

 

 ローエングラム公は天才だ。彼の戦略は、勝ち易きに勝つという正攻法だ。精強の大軍を集めたリップシュタット戦役は瞬く間に決着し、ガイエスブルク要塞を来襲させる余裕まであった。

 

 ヤン艦隊は、ただの一個艦隊で四か所のクーデターの鎮定とドーリア星域の会戦に駆けずり回り、ガイエスブルクを退け、いま双璧の一人と戦っている。

 

 これは時の錬磨ではないか? ガイエスブルクに来襲したケンプ艦隊は、ヤンが撃滅した。その時の援軍の双璧はともかく、それ以外の将帥の艦隊はしばらく実戦から遠ざかっている。ヤン艦隊は、戦闘続きで苦くも大きな経験となったが、かれらにとっては空白だ。

 

 なにより、リップシュタット戦役は迅速に片が付いた勝ち戦だった。そろそろ焦れてきてもいい頃だ。特に、前線の分艦隊指揮官あたり。負けた相手を追い回すのは得意だろうが、さてさて、こちらは貴族の皆様のように育ちと諦めはよくないぞ。

 

 イゼルローンで相手の三個艦隊を観察していると、練度の差異が見えてくる。ロイエンタール提督の本隊の巧緻さが飛び抜けているせいもあるが、比べると勘どころの差は大きい。提督の差というより個々の艦艇の動きが違う。本当にフィッシャー提督は宝だ。

 

 ヤンは、もう一度あくびをしながら考えた。ちょっと寝て、アッテンボローの楽に勝てる案に朱を入れてみよう。グリーンヒル大尉も、安易にカンニングをさせるのは困ったもんだが、あいつの得意分野を生かすのは悪くない。

 

 だが、もっと楽に、一人でも死者の少ない方法で。最適(ベター)な考えはきっとある。

 




完結の舌の根も乾かぬうちに、誠に申し訳ありません。
エピソードを追加しました。これが本当の完結になります。

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