銀河英雄伝説 ヤン艦隊日誌追補編 未来へのリンク 作:白詰草
ヤンは基本的に神なんて信じていない。だが、ローエングラム公を見ていると、神の存在を思わざるを得ないことがある。神の寵愛を一身に受けているような輝かしい青年。
だが、ヤンはひとりの神の存在は知っているし、信じてもいる。歴史学を愛する者は、彼の信徒になってしまうのかもしれない。
時を守護する神、クロノスだ。誰も愛することなく、誰をも信じない無慈悲な神。父を追い落とし、自分も同じ目に遭う事を恐れ、わが子達ですら飲み込んだ虚無の神。残酷さのあまり妻と末子に叛かれ、主神から転落したが、彼を殺すことはできなかった。だから今も時は流れ、この世に永遠不変のものはない。
わが子でさえ飲み込む時が、どうして人間に寵愛など与えようか。人は変わっていく生き物だ。赤ん坊は少年になり、青年から徐々に死へと向かっていく。心も同じく年を取る。誰だって我が子が一番可愛い。そうなった時に、臣下への態度はどうなるか。
更に時計が進み、自分に残された時間に応じて、だんだんと待つことが難しくなっていく。明日があると思えなくなるから、今にこだわるようになる。
若い頃の名君が、後年に暗君や暴君になることなど、歴史上珍しくもないことだ。最初から最期まで名君であり続けた人間のほうこそ、ダイヤモンドのように希少な存在なのである。
一人の人間であってもそうなのだ。ローエングラム公は
そんなことはありえない。世にあふれる凡百、蛙だからこそ蛙の子になる。いずれは蛙になるのが当然、場合によっては蛇や蠍が生まれるかもしれない。流血帝アウグスト、痴愚帝ジギスムントのように。
そうなったとき、誰も君主に否と言えない。冠絶した天才であっても、
それが専制君主の責務。誰にも縋れず、皆に対して公平であること。愛する唯一を持つことはできない。名君たろうとするなら。
そしてそれを貫き通さなくてはならない。死が訪れるまで。その孤独をあの天才は知っているのだろうか。親友を亡くしたことさえ、まだ救いだったと思うような道程だ。
こんな皮算用をしても本来は意味がない。ヤンが勝ち、彼が死ねば実現しない。彼が勝ち、ヤンが死ねば、ヤンには関係ない。そう、自分だけのことならばいい。
ヤンの被保護者のユリアン、キャゼルヌ家の二人の令嬢。そして同盟の大勢の子どもたち。彼らには、なんの責任も罪もない。これは大人としての義務だ。
もしもローエングラム公を
そして、第二のルドルフとなってしまうことがあるかもしれない。いやいや始めた軍人だけれど、たったの十年で大将になってしまったではないか。こんなことアッシュビー提督の調査中に、想像だにしていなかったが。
未来は誰も知らず、だから人は生きていける。いつか終わりが来ることを知るから、命はこんなにも尊い。その尊きものを刈る、大鎌を持つ死神。その原型もクロノスだったか。
ヤンも彼の御手の一つ。あの白磁と黄金と蒼氷色のダイヤモンドで造られたような首を、この手が刈り取るのだろうか。
ヤンはベレーを脱ぐと、髪を乱雑にかき混ぜた。これもまた皮算用の一つか。この一か月半、ヤンを悩ませているあの
「やれやれ」
「大丈夫ですか、ヤン司令官。ずいぶんお疲れのようですな」
溜息を吐いたヤンに、朗らかで朗々とした声が語りかけてきた。
「ああ、ありがとうパトリチェフ准将」
「一杯いかがです。アイリッシュコーヒー」
「コーヒーは苦手なんだ」
上官のおきまりの返答に、陽気な巨漢は笑みを浮かべて言い添えた。
「のコーヒー抜きですよ」
「ありがたくいただくよ」
ヤンは速やかに前言を翻した。ウイスキーのお湯割りが、紙コップの中で麗しい琥珀色にたゆたっている。薫り高い湯気に鼻腔をくすぐられながら、一口味わった。
「何を考えておいででしたか」
「まあ、いろいろとね。あの天才をどうこうしようなんて、大それたことなのかなと」
「なるほど、小官なんぞ根が単純ですから、そんなこと考えもしませんでした。
閣下、お宅に押し入った強盗が、絶世の美青年の天才だったらどうしますか?」
ヤンは目を瞠ってから、瞬きをした。
「……警察を呼ぶね」
ヤンの言葉に、パトリチェフは大きく頷いた。
「ええ、小官もですよ」
「貴官なら自分で片付けたほうが早そうだなあ」
「でも、それだと後がややこしいことになるじゃありませんか。
さっさと警察を呼んで、あとは裁判所にお任せする。
でも、その警察がなかなかこないと困りますがねえ」
「そうだね。いや、まったく貴官こそが真の賢者だよ。
警察が来ないと、市民が水をまいて追っ払ったりしなくてはならなくなる」
しみじみしたヤンの口調に、副参謀長は首を捻った。
「実感のこもったお言葉ですなあ。経験がおありで?」
「ああ、憂国騎士団とやらに押し込まれたことがあるよ。
なかなか警察が来なくてね。確かにあれには困ったものさ」
「ムライ参謀長のお言葉ではありませんが、困ったもんですよね。
あちらさん、水まいたぐらいじゃ退散はしてくれなさそうだ」
「本当にそのとおりさ。壷が割れたぐらいじゃすまなくなる」
「壷ですか」
「ああ、父の形見のたった一つの本物だった。
二千年ぐらい前の、地球時代の真品。もったいなかったよなあ」
「いやあ、そいつはもったいない。
形あるものはいつかは壊れると言いますが、それにしたってねえ」
ヤンとパトリチェフは顔を見合わせ、手の中のものを
「だが、人命はもっと惜しむべきものだね。
本来は差をつけてはいけないのだろうが、やはり
「そのとおりですとも。さて、多少は顔色が良くなられましたな。
キャゼルヌ少将ではありませんが、ちょっとお寝みになった方がいいですよ」
「しかしね」
平時なら諸手を上げて昼寝にいく司令官が、パトリチェフの進言に渋る様子だった。
「ここまで一月半、こんな調子じゃありませんか。
閣下が小一時間仮眠したところで、大きく戦況が動くとは思えませんよ」
「それもそうか。酔って寝ている間に死ねるなら、その方が楽だ」
縁起でもないことを言うヤンに、パトリチェフが陽気に請け負った。
「ご安心を。そんな状況になったら、いの一番に叩き起こして差し上げますとも。
さあ、行った行った。さもないと小官が片手で担いでいきますからな」
ヤンは、パトリチェフの逞しい腕を見た。以前、駐留艦隊司令官室の重たい椅子を、司令部で唯一軽々と運んだ彼だ。ヤンの今の体重は、あの椅子よりも軽いだろう。
「うーん、今日のところはそっちは遠慮しておこう。
お言葉に甘えて一時間ほど寝てくるよ。パトリチェフ副参謀長、よろしく頼む」
「ええ、お任せください。じゃあ、一時間だけですが、どうぞごゆっくり」
ベレーを脱いで、机上に置くと、伸びとあくびを一つ。久しぶりに自然な眠気に誘われる。ウィスキーのおかげだ。
そして、脈絡のない思考の流れが、方向を整えようとしていた。無慈悲なクロノスは、公平な神でもある。時は万人に等しく流れる。ヤン艦隊が結成されたばかりのころ、『敗残兵と新兵の寄せ集め』を後輩はウィスキーやワインに喩えた。いい味がでるまで、まだまだ時間がかかると。
ローエングラム公は天才だ。彼の戦略は、勝ち易きに勝つという正攻法だ。精強の大軍を集めたリップシュタット戦役は瞬く間に決着し、ガイエスブルク要塞を来襲させる余裕まであった。
ヤン艦隊は、ただの一個艦隊で四か所のクーデターの鎮定とドーリア星域の会戦に駆けずり回り、ガイエスブルクを退け、いま双璧の一人と戦っている。
これは時の錬磨ではないか? ガイエスブルクに来襲したケンプ艦隊は、ヤンが撃滅した。その時の援軍の双璧はともかく、それ以外の将帥の艦隊はしばらく実戦から遠ざかっている。ヤン艦隊は、戦闘続きで苦くも大きな経験となったが、かれらにとっては空白だ。
なにより、リップシュタット戦役は迅速に片が付いた勝ち戦だった。そろそろ焦れてきてもいい頃だ。特に、前線の分艦隊指揮官あたり。負けた相手を追い回すのは得意だろうが、さてさて、こちらは貴族の皆様のように育ちと諦めはよくないぞ。
イゼルローンで相手の三個艦隊を観察していると、練度の差異が見えてくる。ロイエンタール提督の本隊の巧緻さが飛び抜けているせいもあるが、比べると勘どころの差は大きい。提督の差というより個々の艦艇の動きが違う。本当にフィッシャー提督は宝だ。
ヤンは、もう一度あくびをしながら考えた。ちょっと寝て、アッテンボローの楽に勝てる案に朱を入れてみよう。グリーンヒル大尉も、安易にカンニングをさせるのは困ったもんだが、あいつの得意分野を生かすのは悪くない。
だが、もっと楽に、一人でも死者の少ない方法で。
完結の舌の根も乾かぬうちに、誠に申し訳ありません。
エピソードを追加しました。これが本当の完結になります。