銀河英雄伝説 ヤン艦隊日誌追補編 未来へのリンク 作:白詰草
残念なことに
もう一人、ライオネル・モートン少将指揮する艦隊には、大きな被害はなかった。彼の手腕と力量は信頼が置けるものであり、ヤンもイゼルローンに残留してくれるように願い出ていた。駄目で元々、だが賭けなければ当たりも出ないということで。
しかし、この援軍は宇宙艦隊司令長官のビュコックが、なんとかかき集めてくれた虎の子の戦力だった。やはりというかなんというか、却下されてしまった。それでも、宙域の残骸の除去や、哨戒にも大きな協力をしてくれた。宙域を片付けないと、
それと入れ替わるように、クレーター修理の
「ああ、一隻が
あれが退くまでは、要塞周辺の艦隊演習は禁止だからな」
「頼まれたってごめんですよ!」
ヤンは行儀悪く座っていた椅子から、危うく転げ落ちるところであった。それが三隻作業中である。恐ろしくて、艦隊など出せやしない。なんとか転落を免れたので、二人は応接ソファに座を移した。
副官嬢が、紅茶と珈琲を運んで来てくれたが、両方ともなんだかえらく色が濃い。口をつけた先輩と後輩は、無言になった。薄茶と黒の目が、薄めるために琥珀色の液体を求めて
ややあって、キャゼルヌが口を開く。
「だが、あの工事に影響しない部分の要塞砲台や、
オペレーターに算出させて、管制にも反映済みだ。
さあ、さっさと撃って、せっせと
また追加の建材が入ってくるんだ」
同盟軍一の智将も、この先輩にかかっては掃除夫も同然である。
「はあ、わかりましたよ。ちょっとね、調べてみたいことがあるので、
私とスタッフでやらせていただいてもいいでしょうかね」
「かまわんさ。駐留艦隊の連中もあれには相当参っていたからな」
駐留艦隊の少将から大佐級が参加した、雷神の槌の砲撃演習。標的は、かつてガイエスブルク要塞と帝国艦隊であったもの。残骸になった無機物と有機物。
「帝国の要塞司令官と、駐留艦隊司令官の不仲の原因の一つだと思うんですよ。
戦艦乗りにしてみれば、安全なところから強力無比な兵器を撃っているだけだと思う。
だが、雷神の槌の砲撃を指示する側は、その強大さに尻込みをするはずです」
キャゼルヌは思わず頷いた。
「味方を巻き込まないようにしなければならない。
だが敵だからといって一方的な虐殺をしていいものかとね。
シェーンコップまでそう言うくらいです。大変な重圧ですよ。
それを理解せず、雷神の槌の威を借りて、好きに戦っては危なくなると安全地帯に戻ってくる。
なんと気楽な戦艦乗りだと思うようになる」
「なるほどな。それでおまえさん、あの見学をさせたのか」
「そこまで計算ずくじゃありませんが、安全な場所であっても、
決して容易いものではない、というのは知って欲しかったんですよ。
司令官は私が兼任ですが、部下の方はそういうわけにはいきません。
互いの仕事が見えにくいと、いろいろ不満も溜まるでしょう」
ヤンは何げなく口にしたのだが、キャゼルヌは溜息を吐いて同意した。
「たしかにな。
普段のおまえを見てると、司令官はサインをするだけの簡単なお仕事だと思うからな」
「先輩にはいつもお世話を掛けて、すみませんね」
「いや、いいさ。部下や敵の命を計算するより、物資や人件費の金勘定の方が楽さね。
だがなあ、ヤン。俺はおまえじゃないんで、やはりもしもを考えずにはいられないんだ」
キャゼルヌの珍しい口調に、ヤンは黒い頭を傾げた。
「どうしましたか、急にしみじみしちゃって」
「ユリアンがフェザーンに行ったのを見てな。あの子の父親は俺の部下だったことがある。
ちょうど十年前、おまえがエル・ファシルの脱出行を終えたころだよ」
黒い瞳が少し瞠られる。
「それは初耳です」
「戦死したのは、俺の部署から次の異動先だからな。
いや、ユリアンの父親のこともそうだが、おまえさん、あの時退役したがっていただろう」
「ええ、まだ年金は貰えないからって、先輩に止められましたよね」
ヤンは苦笑いを浮かべる。あの非常識な昇進で、出世は打ち止めだと思っていたものだった。
「ああ。きっと芸能界に引っ張り込まれ、いずれ政界からお呼びがかかると言ってな」
「美女と一緒に『私が選んだ究極の紅茶』とかCMで言うんですよね」
自分で言ってちょっと身震いしてしまう。これは無理だ。そして、ヨブ・トリューニヒト氏やネグロポンティ氏と席を同じくするわけだ。駄目、とにかく駄目。渋い表情で、更に渋い紅茶を啜り、ヤンもしみじみ寂しくなった。
「そういえば、そんなことも言ったな。だが、今にして思うんだが、止めなきゃよかったよ」
「冗談でも勘弁してくださいよ」
「真面目な話さ。この前の女帝の即位のニュースの時、おまえが色々言っただろう。
それで思ったんだよ。同盟に必要なのは名将ではなく、まともな政治家なんじゃないかとな。
おまえが政治家になっていたら、今よりもましだったんじゃないかとね。
帝国とも、おまえ自身にも。おまえだったら帝国逆進攻には反対しただろう」
キャゼルヌの言葉に、ヤンは髪をかきあげた。記憶力のいい人というのも、一面で大変だ。ちょっとしたことでも、ずっとずっと覚えているんだから。そんなに気に病む必要なんてないのに。
「ですが、ローエングラム公の天才は変わりません。イゼルローンが帝国のものだったら、
アムリッツァは起こらなくても、帝国の侵攻はもっとスムーズだったと思いますよ」
「そんなもんかね」
キャゼルヌは苦く言って、更に苦い珈琲を啜った。彼は薄茶の瞳を漆黒の水面に向け、眉間に皺を寄せた。その表情がカップの中に写りこんでいる。これは後輩にも自分の胃腸にもよろしくない。グリーンヒル大尉には、教育的指導が必要だろう。
「歴史のもしもを数えてもしかたがないとはそういうことです。
だから先輩、あの時の笑い話を気に病む必要なんてありませんよ」
「究極の紅茶か? だが、まずは普通でいいと思うぞ、俺はな」
料理名人の夫の言に、乾いた笑い声を上げるしかない独り者である。だが、それでふっと思いついたのだった。密命を指示していた技術士官からの課題を。
その後、ヤンと技術スタッフらが、雷神の槌の砲撃訓練兼宙域の清掃を開始したが、誰もあまり気にしなかった。ガイエスブルクの残骸処理は、すでに常態化した光景になっていたからだ。イゼルローンにも60兆トンの質量なりの引力があるので、処理を繰り返しても宇宙塵が寄ってくる。
もしも、シェーンコップ少将が管制室に同席していたら、砲撃の合図と発射の時間差を不審に思ったかもしれない。だが、彼は彼で要塞砲台の補充兵の訓練が忙しく、ヤンに同席するどころではなかった。艦隊戦の名将は、狙点や攻撃範囲の見極めも優れている。今さら手出しもいらないかと、本来の職務を優先させたのだった。半ば、ヤンの狙いのとおりに。
漆黒の魔術師が、白銀の女王にかけた呪い。
呪文によって、女王の剣を封印し、違う呪文によって抜刀させる。
新たな呪文に魅了された彼女は、使い古された言葉に耳を傾けなくなる。
ただ、その呪文のあまりのセンスのなさに、技術士官達は困惑したが。
「ヤン提督、本当にこのキーワードでよろしいのでしょうか」
「うん、かまわないよ。あんまり洒落た言葉だと、
似たようなCMを傍受して不具合が起こると困るだろう」
ヤンはもっともらしく言って、不器用に片目を瞑ってみせた。内心では、己の言語センスの乏しさに落胆をしていたが。これじゃ、キャゼルヌ先輩のキャッチコピーの方がまだましだ。
「は、了解しました。ではどの回路に潜ませますか?」
「そうだね……」
ヤンは黒髪をかきまわした。
「ガイエスブルク要塞主砲の被弾エリアに、生きているコンピュータはあるかい?」
指示を受けた技術士官は、司令官の指示に絶句した。そこは、ガイエスブルク要塞の主砲の直撃を受け、兵員の多くが死亡。残留放射能のせいで、近寄ることもできない。遺体の収容が可能になるのは、五年後との試算が出されたばかりだった。砲台は壊れ、操作する兵員はいない。だが、すべての機器の機能が失われたわけではなかった。
「お待ちください、ただいま調査します」
ややあって、彼は返答した。
「ありました。LB29ブロックの機器に、正常に稼働できるものがあります。
中央管制室へのアクセスにも問題はありません。中央管制室回線の任意切断、接続も可能です」
「じゃあ、そのコンピュータにしてくれ。
あと、二つ目の呪文の受付は、宙港管制室からもできるように頼むよ」
「了解しました」
「ありがとう。引き続き、内緒にしておいてくれ。たのんだよ」
技術士官らは、労いの言葉を口にする司令官に敬礼をした。
ヤンは無抵抗主義者ではない。一発殴られたら、1.1倍ぐらいにはお返しをしてやりたいのだ。あのエリアに取り残された、二度と目覚めぬ兵士たち。
もしも、ヤンの予測が的中してしまったら、五年後にようやく可能となる遺体の収容は不可能だ。それまで、彼らには罠の番人となってもらおう。あそこの検査までは咄嗟に思いつかないだろう。そして、呪いの箱を物理的に除去することもできない。
魔術師が女王に捧げる二杯の紅茶は、甘い毒に満ちていた。