▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 18:16
京太郎の提案を受けて、照はしばし黙考した。顎をかるく上げ、硝子球のような瞳を虚空に浮かばせて、言葉が意味するところを吟味しているようだった。
ややあって、
「どんな?」
と、彼女はいった。
「そうだな――」
京太郎は少し首を捻り、考える素振りを見せる。
演技である。かれは腹案を既に用意していたし、口にすべき台詞もずいぶん前に選び終えていた。
「こういうのはどうだ?」
かれが照に持ちかけたサシウマの内容は、単純明解であった。通常の順位ウマの他、二人が競うのは互いの点差である。半荘が終了した時点で差し引きが100点であれば、敗者は勝者に100Gを渡す。当然、1000点であればその十倍、10000点であれば100倍となるわけである。
「いやいや、それ、ただのデカピンじゃないですか!」
京太郎の説明を耳にして、即座に異論を唱えたのは(この場では比較的)良識のある花田だった。
「そうだな」
「そうだなじゃなくて」
平然とする京太郎の袖を引いて、花田が口早に囁いた。
「……須賀くん、今日もう相当負けてるでしょ。やめといたほうが」
「だから大きく張るんじゃないか」こともなげに京太郎はいった。
「まさにどつぼに嵌ってる人の考え方!」
言い募る花田を横に除けて、京太郎は照を見る。彼女は京太郎が持ち出した非常識な(年齢を度外視したとしても、それは全く非常識な)レートについて、特別な感想を持たないようだった。動揺も憐憫も昂揚も、照の面差しには見当たらない。
「いい。べつに構わない」
と、彼女は言った。
事も無げに無謀な賭けを請け負った。そこには力量への自負も京太郎への軽侮もない。金銭の多寡を、照は問題にも感じていないようだった。少なくとも表面上はそう見えた――京太郎の思惑からは外れた、かれの知らぬ照の性質だった。
思惑が外れた、というのが京太郎の偽らざる心境だった。ここからリャンピン程度まで引き下げる用意がかれにはあって、あまりにも無頓着な照の承服に鼻白んでいる。けれどもそれを面に出すわけにも行かない。かれは平静を保ち続ける。それでも耳朶について離れない声がある。池田の言葉が反響する。
『いろいろと、もうまずいところまで足を踏み入れてるぞ』と、かれは思う。
反論の余地は無い。
すでに遊びの範疇を越えている。仮に照か京太郎の親にこの催しが露見すれば(そしてその確率はとても高い)追求は免れない。照やそれ以外の人間との関係性も含めて、京太郎はいよいよ、乗せてはならないものまで秤に積もうとしている。かれは自分の暴挙をある程度自覚しており、何度も後戻りを検討する。鹿爪らしくうなる花田と無表情に牌に触れている咲の様子をうかがう。
池田のいうことは正しい。京太郎に何か譲れないものがあったとしても、それは今日この日でなければ証せないという類のものではない。照と打つ機会は、作ろうと思えばいつでも作れるのである。ここで意固地になる利はない。へたをすれば二度と彼女と卓を囲めなくなる危険を冒すほどの価値が、この一半荘にあるとは思えない。
(いまのところ)
と、かれは思う。
(合計収支は照さんがプラス405、
もはや、乾いた笑いしか出ないほどの大敗である。
(たぶん、ここで止めとくのがいいんだろうな)
他人事のように京太郎は独白する。負けた負けたと手を叩き、悔しさも露にいつかの雪辱を誓うことが、この一日の正しい終わり方である。京太郎にもそれはわかるし、そうしてはならない理由もない。
たとえば、京太郎の一番欲しいものが照との居心地の良い関係性だったなら、そうしても良かった。
気の置けない仲間を増やして、こんなふうに時間を合わせて麻雀にふけることが目的なら、そうしても良かった。
けれども、そのいずれも、いまの京太郎にとっての最重要ではない。
かれは照を見る。
照は静かに視線を返す。
彼女は促すように、深く椅子に座りなおす。背もたれが軋む。片肘を肘掛について顎を支え、少し気だるさをまとった顔でじっと京太郎を見つめている。硝子の瞳が京太郎を閉じ込める。その中で問いが投げかけられる。京太郎が豪語した言葉の委細を、照は求めている。曖昧な決着を彼女は望んでいない。
全てを見せろと彼女は言っている。
この場の誰よりも、宮永照が、勝負の中断を望んでいない。
少年が張った意地の結末の価値を、彼女は見届けようとしている。
その結果としてかれが燃え尽きてしまったとしても、それを受け入れる用意が照にはある。
「じゃあ」
と、照が口火を切る。
取り返しがつかなくなるかもしれない門を開ける。
「はじめよう、京太郎」
呟く照に躊躇いは無い。
「勝負をしよう。ぜんぶを賭けて」
その鮮やかさに、京太郎もまた腹を括った。
「そして、教えて見せてよ」
▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 18:20
ルール:半荘戦
持ち点 :25000点持ち・30000点返し(オカ:20000点)
赤ドラ :あり([五]、[⑤]、[⑤]、[5])
喰い断 :あり
後付け :あり
喰い替え:なし
ウマ :あり(二位:10000点、一位:30000点)
サシウマ:あり(半荘終了時に須賀京太郎と宮永照の点差は1000点/1000円で清算)
レート :1000点/50円
チップ :一枚/100円
祝儀 :一発(チップ一枚)、赤ドラ(チップ一枚)、裏ドラ(チップ一枚)、役満(チップ五枚)
清算 :半荘清算(誰か一人の持ち金が
その他 :割れ目(積み棒、罰符は対象外)
その他 :多家和なし/頭跳ねあり
その他 :三家和/四開槓/九種九牌/四風連打/四家立直/
その他 :大三元・大四喜の
その他 :嶺上自摸符は2符、連風牌の雀頭は4符として扱う
その他 :暗槓への槍槓は国士無双和了時のみ有効
▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 18:20
極端なレートの高騰に、花田と咲はそれぞれ局面が終盤に移行したことを嗅ぎつけた。全体の収支はすでに照が抜きん出ており、一半荘での挽回はどうあがいても難しい。けれども彼女らは疲労の色濃い面貌にある種の祈念をはりつかせ、言葉少なく方針を受け入れた。
席順は、回り親ではなく今回も掴み取りで決まった。
東一局0本場
【東家】須賀 京太郎:25000
チップ:±0
【南家】宮永 咲 :25000<割れ目>
チップ:±0
【西家】宮永 照 :25000
チップ:±0
【北家】花田 煌 :25000
チップ:±0
各々席に着き、思い思いの姿勢で最初の開門を待つ。
京太郎は対面に座る照を凝視する。彼女には目線の揺らぎも指先の漫ろさもない。意味のない重心の移動もない。ただ少しだけ瞳が赤い。涙が溜まり潤んでいる。照が何度か欠伸を噛み殺していることを京太郎は見逃していない(もちろんかれ自身も、本音を言えばとても疲れている)。
見目から露骨な憔悴は見出せない。
それは余裕によるものかもしれない。
ただ確実に、疲労は蓄積されている。
(……はずだ)
祈りにも似た心境で、京太郎は照の内心が見目ほど安閑とはしていないことに賭けた。すでに十二時間近く麻雀を打っている。咲を通じて探った照の麻雀遍歴に照らしても、これだけの長丁場は過去例がないはずだった。年長の照は京太郎よりも体力的に恵まれているかもしれないけれども、少なくとも彼女が運動に秀でているという話はこれまで聞いたことが無い。そして集中力の持続は体力にも左右される。
疲労は失策を呼ぶ。
失策は勝機に繋がる。
そして京太郎には、最後の手札も残っている。
(ただ、)
卓中央のボタンを押下する。せり上がる四つの山を前に、起親の京太郎は賽を振った。
(――札を切れるかどうかは、完全に運だ)
鼓動を意識すると、心臓の存在感が増した。拍子は早鐘のそれである。右手の人差し指と親指を擦り、手汗を拭い、京太郎は苦笑する。自律神経に促されるように想像は具体的な結末へ及んで、敗北が現実味を帯び始める。
もちろん、負けというならばすでにこれ以上なく負けてはいる。けれども、この対局で何も残せなかったというのであれば、それは額面よりもよほど大きな傷になると京太郎は考えていた。自らそう仕向けた。ただの敗北を必要以上に大きくした。
遣り取りされる点棒の多寡以上のものを、かれは賭した。
一時間後の自分を思って、かれは表情を強張らせる。下腹部に石を呑んだような重さがある。寝不足や疲労、ストレスが手伝い鳩尾には痺れるような痛みも滲んでいる。勝ち目はひとつだけある。そう思わなくてはここにはいられない。ただ、それ以外の全ての目が、かれにとっての敗北である。大口を叩き風呂敷を広げ格好をつけて縺れ込ませたこの局面で、かれは今さら、重圧めいたものを意識する。手もなく破れ形無しになった自分を容易に想像できる。死力を尽くしてそれでも照に及ぶ光景を、ほんの欠片しか信じることができない。天に向けて手を伸ばすようなこの行為を、かれ自身測りかねている節がある。いったい、自分が掴もうとしている勝利までの距離はどれほどなのだろう? と京太郎は思う。身の丈に余ることだけはわかっている。だから足りない尺を、詰めるだけの工夫を凝らした。それでも結局、太陽を握ろうとしているのであれば石をいくら積んでも甲斐はない。
(怖い)
と、かれは心から思う。
(負けるのが怖い。何もできずに終わるのが怖い。見下げられるのが怖い。迷惑を掛けるのが怖い。かっこう悪くなるのが怖い。何をしてもおれじゃ無理なんだって、認めちまうのが怖い。これが麻雀なんだって思い知らされるのが怖い)
恐怖の種を、心中指折り数え上げていく。
(でも、それでもだ……)
頬が引きつる。
池田の助言を反芻する。
余裕の微笑というには、あまりに不恰好ではあったが。
京太郎は、歯を見せて笑った。
東一局0本場 ドラ:{⑧}(ドラ表示牌:{⑦})
配牌
京太郎:{一二四五①⑤⑥78東東西白中}
(それでも勝負は始まるし、終わる)
打:{西}
▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 18:22
(割れ目か――)
咲を蚊帳の外に置いて、京太郎と照の賭けは成立する。そして流れのままにまた半荘が始まり、咲は牌を打つ。
疲れはある。家庭で慣れている麻雀でも、所詮は子供を交えた遊戯である。夜っぴて打ち通したことはない。大人たちはそうでもないようだったけれども、照や咲といった子供たちは、頃合を見て場を辞すのが常だった。子供同士で卓を囲んだとしても、当然徹夜をしたことはない。単純に時間的な意味において、咲は未踏の領域に踏み込みつつある。
ただ、もう、倦厭はない。
牌を操る咲の手指に、鈍りはあっても辟易はない。
本音を言えば、身体は今にも眠り込みたいほど消耗している。結構なブランクを置いて、照と鎬を削り続けている今日だ。一戦々々における咲の消耗は尋常なものではない。体力的にも、面子の中では一際劣っている自覚が彼女にはある。
(つかれた。つかれたよ……)
視界を縁取る光にもやや陰りが見えている。目を利かせすぎて、時おり人物や牌の像が乱れる。長時間読書にふけり続けたときのように、眼筋が消耗して焦点を結び難くなっているのかもしれない。
コンディションもパフォーマンスも、一回戦から比して半減しかけているといっても過言ではない。
(でも、やめたくない)
照を凌いだ瞬間、何かをつかめた気がした。喪った遊戯の時間を取り戻した以上の充実感が、咲の心を捉えたのだった。それは単純に壁を一つ越えたための充実感である。停滞のあとの解放には楽が伴う。そして抜けた扉の向こうに、照がいる。わき目も振らずに前を目指す彼女がいる。その背を見て、咲は、急き立てられずにはいられない。
追いつきたいのではない。
(すがくんや、お姉ちゃんとのことなんて、もう関係ない)
越えたい。
超えたい。
咲の背を押すのは、原始的な衝動でしかない。
疲労が表層的な情動を削ぎ落とし、単純で根源的な衝動が原動力になる。
下家に座す照の顔に移ろいはない。仮面のように動かない表情を、咲はどうしても崩したい。出力はなんでもいい。ただ彼女が秘めてまるで見せない感情を暴きたい。それは咲本人にも由来が知れぬ暴力的な衝動である。
(勝っても負けても、たぶん、それだけじゃだめなんだ。お姉ちゃんには届かないんだ)
東一局0本場 ドラ:{⑧}(ドラ表示牌:{⑦})
1巡目
咲:{二五七⑦⑧⑧2345南南發} ツモ:{九}
「ふ……、ふっ」
覚えず、笑みが零れた。
怪訝な視線が三方から寄った。常ならば赤面しているところだ。けれどもいまの咲は、不思議と自意識が鈍感だった。
(つらいなぁ)
と、咲は思う。
下唇を噛む。
腕が重い。
明日はきっと筋肉痛だろうなと、頭の片隅で考える。
(みんな、こんなのに、いっしょうけんめいになって……)
打:{發}
(わたしも、……ばかだったよ、お姉ちゃん)
そして心の中央で、超人を超克するための方策を突き詰める。
▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 18:22
深い思慮があるわけではなかった。照を衝き動かすのはたんなる好奇心以上のものではない。「教える」と京太郎はいった。かれは照の知らない問いの回答について用意があるようだった。かなうならば、照はそれを知りたいと思った。だから京太郎の提案を呑んだ。損がない勝負だから受けた。
期待がないわけではない。それが皆無であれば、照はこの場に座ってはいなかっただろう。須賀京太郎は何かをずっと待っている。
照が視明かした『須賀京太郎』は凡俗の域を出る人間ではない。異才を持たず、技術的にもまだまだ伸びしろを持っている。つまり現時点では稚拙な打ち手だということである。それでもかれが麻雀と出会ってからの数ヶ月は、研鑽に研鑽を重ねた時間だということが照には
ただ、京太郎がこの勝負に見出している勝機だけは、照にもわからない。照はあくまで京太郎の本質を解剖しただけである。それは京太郎の心を読むこととは決定的に異なる。心理とは能力や属性ではない。照はただ見えないものが視えているだけであり、聴こえないものが聞こえるようになったわけではない。
照はだから、京太郎が二回戦からこちらずっと何かを待ち続けていることに気づきながらも、その『何か』の解答を知っているわけではない。照の持ち点が一定以上になったとき、かれが押し引きの基準を極端に緩めていることにも気づいている。それこそが京太郎の圧倒的な失点の根本原因だと理解している。実力的に劣っているという以上の割合で、かれは今日ここまで負けを重ねているのはそのためである。
目前の敗北よりも何かを優先して、京太郎は巧妙に暴牌を要所で打ち続けている。それは結果的に場における歪の元である照や咲の当たり牌になる。降りるべきところで降りずに進むかれは、それをしている花田よりも余計に点棒を吐き出し続けた。
そこまですることに、どれだけの意味があるのか、照は知らない。
京太郎の意地は、照にとって言葉以上のものではない。
かれの思い入れの大きさを知る照にとって、興味の対象は一つだけである。
――果たして、かれの一念が、壁を抜いて届くことがあるのかどうか。
それだけだった。
(わたしはたぶん、いま、生まれてから一番強い)
全霊を尽くすことを覚えた咲との足を止めた打ち合いが、照をかつてない領域にまで引き上げていた。卓に座る全員の本質が、いまの照にとっては火を見るよりも明らかで、詳らかだった。肉体的な消耗は莫迦にならなくとも、それを凌駕するように身の内は全能感覚で溢れている。山には完全に意識が行き届いている。誰がどんな手牌のときに何を切り出しどんなツモを経てどこへ向かうかがはっきりとわかる。
東一局0本場 ドラ:{⑧}(ドラ表示牌:{⑦})
1巡目
照:{一一四六七①②334白白北} ツモ:{2}
どんな相手にも、負ける気がしない。誰を相手取っても勝てる気がする。とはいえその心情は一時的な昂揚がもたらす錯覚だと照は知っている。傲慢や過信は失策に繋がり、油断が思わぬ事態を引き起こす。だからこそ、手を抜く心算も試す心算も、照にはない。
(でも、どこに行けばいいのかもわからない)
全力を尽くす。
京太郎の誓いも思惑も斟酌しない。
結果、何かを挫かねばならないというならば、それが自分の進むべき道だと受け入れるしかない。
打:{四}
熱の欠片もない視線を、照は対面の少年へ向ける。
口ほどにも無い結果しか、まだ残せていないかれだ。
それは妥当だったとしても――
(教えて見せればいい)
照は、納得していない。