孤独と共に歩む者   作:Klotho

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注意!この話には若干のR-15が含まれています(保健的な意味で)


『彌繕今昔』

 

 

あの人は、誰に何を言われようと私の母親だ。

 

 

「……」

 

スッとした意識の覚醒。私は静かに体を起こす。

 

 別段不思議なことでもない。夜中急に目覚めて眠れなくなるなんてことは、誰だって体験したことがあるだろう。例に漏れず、私も偶に覚醒しては眠れない……なんて事を繰り返している。そんな時、何故か決まって頭に浮かぶのは将来に対する漠然とした不安。これも、誰だって経験したことがあるだろう。自分の余生を惜しみ、家族との別れを恐れ、一人眠る夜に怯える。人によって様々だというが、少なくとも私は最後の方である。なんとなく、眠るのが怖くなるのだ。

 

だから立ち上がる。布団はスルリと落ちて、少し冷たい空気に全身が触れた。

 

チラと視線を隣で眠る母の布団に向けるも、そこには誰の姿も無く。

 

「……」

 

私は居間へと繋がる襖を開いた。

 

「母様」

 

「ん」

 

 誰も居ない筈の居間から返って来た返事。見れば、縁側と居間を仕切る障子が開かれていて、その縁側にポツンと一つ小さな黒い影が座っていた。彼女は私の声に反応して振り向き、やがてその無機質な表情を少しだけ和らげる。

 

その顔を見ると、何故か先ほどまでの不安は消し飛んだ。

 

「また眠れないの?」

 

「うぅ……」

 

聞こえだけ見ればみっともない話だが、これが初めてという訳ではない。

 

私が眠れない日は決まってひよりは何時も起きていて、こうして縁側に座っているのだ。

 

――けれども

 

「ど、どうして分かったんですか?」

 

 何時も起きている訳ではない。私と共に布団に入り、時には彼女の方から寝息を立てることすらある。朝起きれば布団に入っているし、夜起きても私がすぐ寝れる時は彼女も寝ている。――けれど決まって私が目覚めて眠れない夜だけは、彼女はいつだってこうして起きていた。態と寝る振りをしても眠るし、私だけ夜中起きて作業していても眠っている。それなのに、私が『孤独』を感じた時には、何時も起きていてくれるのだ。

 

だからこの質問も、初めてではない。

 

母の返答も分かっている。

 

「「勘」」

 

「ですね」

 

「うん」

 

互いに苦笑して、私は母の隣へと腰を降ろした。

 

「……なんとなく、私の方が先に起きるんだ。『あぁ、眠りにくい』って、ね。それが私の内心なのか、彌里の内心なのかは分からないけど」

 

妖怪である彼女にとって、朝よりも夜の方が本分なのは間違いない。

 

そんな時間に眠ること自体がストレスになっているのではないだろうか。

 

「……うん、多分彌里の方かな」

 

「そうなんですか?」

 

 意外とハッキリした答えに、私は思わず訊ねてしまう。母はそんな私の顔を見、背後の襖越しに寝室を見、そしてボソリと呟いた。

 

「――うなされてるから」

 

「うっ……すいません」

 

知らなかった。当たり前だ、寝ている自分を把握出来る生物なんて存在しない。

 

いや、母ならば出来るのか。

 

そんな取り留めのない考えを巡らせている間、母は黙って空を見上げていた。

 

「……」

 

「……」

 

 彼女はよく空を見上げることが好きだと言っている。その理由は何故か――ボンヤリと誤魔化しながらの答えだったが、自身が『生まれた』時に初めて見た物が夜空だったそうだ。それから様々な人妖と出会ってからも、母は時折空を眺めてはその光景を思い出していたらしい。輝夜姫と共に戦った満月、師匠と別れた三日月、月の出ていない星々だけの夜でさえ、人間の少年を一日泊めたなんて思い出があるそうだ。

 

そしてこれら全ての話を知っているのは、私一人だけなのである。

 

「ねえ、母様」

 

こうして眠れない日には、昔から彼女と二人縁側に座って。

 

「ん」

 

「今日もお話聞きたいです」

 

 最初は母の方からポツリポツリと語られていた話でさえ、今となっては此方から求める位の楽しみとなっているのだ。

 

そんな私に嫌な顔一つせず、彼女は一つ一つ思い出を言って聞かせた。

 

「良いよ。……うん、それじゃあ――」

 

 

これから語るのは、その中で最も私が印象に残った話である。

 

 

例えば、年齢的には既に大人と言っても良い女性が三人居たとしよう。

 

「……」

 

 一人目は金髪長髪で異国風の出で立ちで、頭にはドアノブカバーのような帽子を被った妖怪。少しは妖怪の間で知られている彼女だが、しかし今の状況に置いてはそんな肩書きに意味など一つもない。子育て経験のない独身娘である。

 

「……」

 

 二人目は黒く長い髪を一つに纏めた女性。先の妖怪とは違い、何処か真剣さを感じさせる鋭い瞳。人里の中では知らない者が居ない程有名な彼女だが、しかしこれも今の状況に置いては意味など無かった。男性経験のないうら若き乙女である。

 

「えい、えい」

 

「うー」

 

 最後の一人は、黒衣を身に纏った黒髪の少女。他の二人とは違い完全に少女の見た目である彼女だが、その年齢と経験は他の二人にも負けず劣らずと言っていい。肩書きも立場もそれほどではないので当然意味なんてないのだが、彼女にはほんの少しだけ他の二人よりも経験があった。

 

彼女が手先を動かして弄んでいるのは、小さな赤子。

 

人間の赤子だった。

 

「ねぇ、阿未。これって中々に無茶なお願いよね?」

 

「言うな、私も自分で薄々勘付いている。嫌な予感しかしない」

 

ヒソヒソと耳打ちをしながら赤子を見つめる少女二人。

 

場所は人里、妖怪退治屋兼ひよりの家。集まっているのは、家主と紫と阿未の三人である。

 

「私は反対。責任持てないし、私が育てたのは十六歳」

 

唯一生物を育てた経験のあるひよりの答えは、とても簡潔で。

 

「「……」」

 

育てた事のない二人は容易に頷く事が出来ない。

 

 それは立場的な問題でもあった。紫は彼女の夢である幻想郷実現の為に昼夜を問わず駆け回り、阿未は自身の役目である幻想郷縁起の編纂、それと里長達との会議。更には彼女自身が看病をされる事がある位なので、尚更世話をする事は不可能だ。

 

だから此処へ来た。最後の手段として、ひよりに育てて貰う為に。

 

「――そこを何とか、お願い出来ないか?」

 

「嫌」

 

 頭を下げて見るも、やはり彼女は首を縦には振らない。それもその筈、ひよりは将来的な見通しを立てた上で育てることは不可能と判断しているのに対して、紫と阿未は今目の前ではしゃいでいる赤子が『可哀想だから』と、そんな理由で育ててあげたいと思っているのだ。表現は悪いが、感覚としては捨てられた動物をついつい持ち帰って世話をしたがる子供のような感情から来ているのであろう。

 

だからひよりは断った。此処で下手に譲ってしまうのは危険だったから。

 

彼女達にもそれを分からせる必要があるだろう。

 

「じゃあ、追加で育てられない理由。一つ目、私が妖怪でこの子が人間だから。二つ目、何時までこの里に居られるか分からないから。三つ目、育て方を知らないから」

 

責任を持てないとは、つまりこれら全てに置いてである。

 

あまり本人を前にしてする話ではないかも知れないが。

 

「……ぐむ」

 

「……その通りなのよねぇ」

 

既に彼女達も理解している通り、人里内でこの子を育てられる家庭はない。

 

それは家庭内での余裕も含まれているだろうが、あるいは――

 

「分かった、とりあえず今日一日は私の家で何とかしよう。一応ひよりとゆか――ひよりも、少し考えて置いてくれないか?」

 

「えぇ、良いわよ。勿論私も考えて置くわ」

 

「……分かった」

 

「すまんな」

 

「ちょっと」

 

 阿未は立ち上がり、ひよりと入れ替わるようにして元気に笑う赤子を抱き上げる。その姿は中々様になっていたが、やはり何処か不慣れでもあった。

 

彼女は草履を履き、出口で一度此方を振り返る。

 

「……」

 

何も言わず出て行った。

 

 

 

 

その夜、私は生まれて初めて寝付けず目を覚ました。

 

「……」

 

 目を閉じれば、外から聞こえる梟と鈴虫の鳴き声。風の擦れる音。他に一切の音がしない辺りを考えると、どうやら今は真夜中であるらしい。私は体を起こして、そのまま星々が爛々と輝く夜空の見える外に出た。

 

思い浮かぶのは昼間の事。捨てられず拾って来たという、あの赤子。

 

もし、あの子が誰かに引き取られたとしても――

 

「本当に貴女の判断次第と言っていたわよ。無理強いもしない、義務でもない、断りたければ一日稗田の家へ行かなければ良いって」

 

「……」

 

阿未が私の所へ連れてきた理由。即ち、他の家で引き取れない理由は

 

つまる所、私がそうであった事と同じなのだろう。

 

「……ねぇ、紫」

 

言葉はポツリと、まるで息を吐くように出た。

 

「妖怪に育てられたという理由で誰かから迫害を受けるかも知れない。私が無責任に育てた十数年で、あの子の一生は決まってしまうから。だから私は、断るつもりだった」

 

私の場合は一生の途中で、『一つの生』を終えてしまった訳だが。

 

「でも、きっとあの子は私が育てないと幸せにはなれない。他のどの家でも、あの子を引き取ることは出来ない。『血の繋がった家族』じゃなきゃ、理解する事なんて出来ないから」

 

血は繋がっていない。

 

けれど、私とあの子は繋がっていた。

 

「あの子は私なんだよ、紫。あの時幸せになれなかった私であり、将来はそうなる予定の私」

 

今日の夜空は星々だけが輝いていた。丁度、あの時のように。

 

「そうねぇ。確かにあの子は、貴女と似ているわ」

 

「……」

 

「けれど一つ違う点があるとするなら、それはあの子の境遇を理解出来る人が此処に居るという事。当時の貴女には差し伸べられなかった手を、今は貴女が差し伸べる事が出来る。私でも阿未でも出来ない理由は、やっぱり同情と哀れみであの子を見ているから。

 だけど貴女だけはあの子を自分の娘のように思うことが出来る。自分の娘のように、想うことが出来る。現に、貴女はこうしてあの子の将来を案じているのよ」

 

 

「だから、後は貴女が決めること」

 

 ふわりと、彼女にしては珍しくゆっくりと妖力が引いていく。まるで病人に対してそうするかのように。そうして八雲紫は自分の役目だけを終えて去っていった。

 

残された私は、一人夜空を見上げる。

 

「……」

 

 

私が生まれて初めて空を見上げた時、そこには誰も居なかった。

 

 

 

「貴女の名前は彌里」

 

「みさと?」

 

 ひよりが彌里の手を触りながら呟いた名前に、紫が首を傾げる。それもその筈、ひよりがこの赤子――彌里を私の家に引き取りに来たのは数十分前で、その時には彼女は既に名前を考えていた。

 

彌里。どういう意味を込めたのか、実は私は彼女から聞いていた。

 

「あぁ、彌縫……補い合わせること、欠点の取り繕い。この場合は前者だな。――その前者に、里をつけて『彌里』……驚いたよ、まさかこんなにしっかりとした名前を考えているとは……」

 

補い合うという事は、つまり里との関係が深くなければならない。

 

神社に住んでいて尚関係が深く、妖怪退治屋として人里と互いの欠点を補い合う。

 

彌里

 

「……決まってないなら提案しようと思ったのに、想像以上に良い名前だったわ」

 

「ちなみに、なんて名付けるつもりだったんだ?」

 

意外なことに、紫も名前を考えてきていたらしい。私は興味本位で訊ねた。

 

そして後悔。

 

「ゆか「却下」……ちょっと、まだ何も――」

 

「貴女は彌里」

 

「うー?」

 

「……」

 

流石に押し黙った。紫にしては珍しく、物悲しそうな表情で。

 

 その姿に表面上は喜びつつも、内心ではそれ以上にこの二人に感謝していた。ひよりの方は言わずともがな、此処まで考え込んでいてくれるのであれば心配はないだろう。そして彼女の傍には、お世辞にもセンスが良いとは言えないが知識を持った紫も居る。そして私も、最大限のフォローをするつもりだ。

 

彼女達ならば、きっと彌里を幸せにする事が出来る。

 

「ふふ……では、私は一度報告に戻るとする」

 

「分かった」

 

「あー」

 

親子の返事と無言の圧力に見送られ、昨日と同じように一人草履を履いて外に出る。

 

昨日と違う点は、この腕に何も抱いていない事。

 

 

 

 

こうして私は母となり彌里は娘となった訳だが、その全てが順調だったという訳ではない。

 

一番の問題はその――食事、というかその、なんというか、つまりアレだ。

 

授乳。

 

 

「あぁぁぁん!」

 

「「「……」」」

 

例えば、年齢的には既に大人と言っても良い女性が三人居たとしよう。

 

以下略。

 

「えーと……」

 

どうすれば良いの?

 

私の疑問は、恐らく阿未とひよりの内心も代弁していた。

 

 赤ん坊とはいえ、彌里は人間。ちゃんと衣食住を整えてあげなければ死んでしまう。衣食住の衣と住に関しては現在進行形で何とかなっているが、しかし食の方は大問題だ。結論から言ってしまえば、つまり私達は――

 

「誰かお――その、授乳、とか……」

 

「やめろ、初心な言い方をするな」

 

「……うーん」

 

 知識としては知っている。つまり、女性の乳房から直接与えてやれば良いのだ。しかしその条件として、産気づくという状態が必要らしい。捨て子を拾った私達には縁のない話ではあるが。

 

だからと言って、このまま停滞する訳にもいかない。

 

「ひよりが母親になった影響で出たりとか」

 

「おら」

 

「てい」

 

両サイドから貫手を脇腹に受けた。

 

「だ、誰かに下さいって聞いて回るとか……」

 

「……おら」

 

「……てい」

 

少し考えていたらしい、若干優しい貫手を脇腹に受けた。

 

「じゃ、じゃあ牛の乳とかは!?」

 

「……」

 

「……」

 

完全な沈黙。但し、今度のそれは呆れではなく思考による物。

 

つまり、代理品で何とか出来ないかという話。

 

「……分かった、その線で調べてみよう。ひよりと紫も一応頼む」

 

「えぇ、分かったわ」

 

「了解」

 

 そして解散。何となく気まずい空気、私はそそくさとスキマへ逃げ込んだ。今考えてみても、ひよりが出せるようになるとは到底思えない。それを考えるなら私や阿未の方がまだ適任だっただろうに。

 

つまり、私が逃げたのは空気ではなくひよりからで。

 

当然逃げられる訳もなく。

 

「戻ったぞ……何をやっているんだ、お前等は」

 

「絞ったら出ないかと思って」

 

「出る訳ないでしょ!」

 

 

行為に及んだのか、それとも私が防ぎきったのかは、想像にお任せします。

 

 

 

結果的に言えば、それ以外は何とかなった。

 

 紫がなんだか難しいことを言っていたが、牛乳に良く火を通して麹を混ぜ、暫く置くことで何とか代理に出来るとの事だ。どうやら赤ん坊には『たんぱくしつ』というのが多過ぎると良くないらしく、それを分解出来る『たんぱくしつぶんかいこうそ』を含んだ物を混ぜれば、と言っていた。しかしそれにも当然赤ん坊に与えてはいけない物もあるらしく、やはり母乳が一番良いとの事。

 

……実は、何度か阿未が頼み込んで貰って来てもくれていたのだが。

 

「……」

 

「……」

 

それは現在、私の手の中で完全に空気と化していた。

 

 彌里の方はというと、グッタリしていて元気がない。声もあげない。当然の如く焦った私と紫だったが、今は阿未からの説明を聞いて納得している。どうやら、大体の赤ん坊は共通して掛かる病気らしい。

 

病名までは分からないが、少し早いとも言っていた気がする。

 

「……」

 

「……」

 

 阿未も偶に病気で布団に入るときがあるが、彼女の場合は此方を見て、冗談を飛ばして、少しだけ私や紫に頼みごとをしたりする。だからそこまで深刻に考えたことはなかった。

 

けれど、彌里は違う。

 

何をして欲しいかも、伝えたいかも、今どうなっているのかすら分からないのだ。

 

それがどうにも、自分の無力さを見せ付けられているようで――

 

「……がんばれ」

 

「……」

 

そっと、彼女の手を握った。

 

とても暖かく、そして小さかった。

 

 

 

「――とまぁ、こんな感じかな」

 

 母がそう言って口を閉じた瞬間、私も同時に現実へと引き戻される。逆に言えば記憶にすら残っていないような話を聞いて、私は完全にその世界へ魅入ってしまっていた。……自身の記憶にはない、自分自身の話。それがどれ程貴重な物であるのか、多分漠然とながら感じていたのだろう。

 

母は、ひよりは、時間さえあれば何時も夜空を見上げる。

 

同じように私も見上げた。

 

「……」

 

「綺麗、ですね」

 

「うん」

 

 沢山の話をして貰った。佐渡島という場所の話や、月にある都の話、亡霊となった女性と子供好きの半人半霊の話も。それらは全てこの人の思い出であり、この人自身であり、そして私の思い出でもあるのだ。そうやって母の人生を聞いて、自らの進む道を決めて行く。なんとなくそれが、今の私には誇らしく思えて。

 

    

何時の間にか、一人で眠ることの不安は消え去っていた。

 

「――ふぁ、ぁ」

 

後に残るは、本来の欲求を満たそうとする欠伸のみ。

 

「あはは」

 

「……ふふ」

 

二人して顔を見合わせて、笑いあった。

 

「それじゃ、今日の話はお終い。私も寝る」

 

「あ、待って下さい母様!今日は一緒に寝ましょう!」

 

 

流石に渋る母と問答を繰り返す内に、居候の蓬莱人が起き出して来て怒鳴るのだが。

 

――彼女も含めて三人で眠った。

 

 

それはまた、別の機会に。

 

 

「――おぅい!博麗の巫女様ぁ!」

 

「……と、これとこれ。後は――はーい!もう少し待って下さい!」

 

 ガサゴソと戸棚の中を漁り、巫女服に着替えつつ妖怪退治に必要な道具に手を伸ばしていく。陰陽玉、霊符、神霊召還の為の術式セット……それと、お守り代わりの意味を成さない紙切れ一枚。

 

それらを全て服の袖に隠した巾着へと入れて、私は外へと飛び出した。

 

「すいませんっ、お待たせしました!」

 

「いやいや、此方こそ急に済まんなぁ。人里に新しく人が来たってんで、木材が足りなくなっちまってよ」

 

「成る程……では、急いだ方が良いですね!」

 

 彼の背後には他にも数人の男達が待機していて、それだけでも随分と大きな建物を建てるつもりなのが分かる。果たして誰が越してきたのか……まさか寺子屋を建てるつもりでもあるまいし。

 

彌里は彼等と共に神社を出ようとして――慌てて踵を返した。

 

「ちょ、ちょっと待ってて下さい」

 

お参りか?と真剣な表情で訊ねてくる棟梁に頷きを返し、私は神社の横へと抜けた。

 

「はぁっ……はぁっ……」

 

全力疾走。途中の茂みに生えていた小さな花を『プチリ』と引き抜き――

 

生物の気配がしない社へと辿り着く。

 

「はぁー、はぁー」

 

案の定、そこには既に真新しい紫の花が一輪添えられていて

 

 

「母さん、今日も頑張って来ますね!」

 

私はその横にもう一輪、先ほど取ったばかりの花を添えた。

 

 

 母のことだから、きっと必要ないと言って断っただろう。けれど、私にはあの人の声が聞こえないし、伝えたい事も分からない。

 

――だから、私のしたいようにさせて貰うことにしたのだ。

 

あの人が私にそうしてくれたように

 

私が誰かにそう出来るように

 

その為に、まずは目先の依頼を解決してしまおう。

 

 

「それでは、また明日」

 

ニコリと笑って頭を下げて、彌里は神社へ向けて駆けて行く。

 

もう振り返らなかった。

 

 

社には、小さな桃色の花と紫の花が一輪ずつ。

 

 

 

有名な逸話である。

 

 

 ある一人の男が年初の折に初参りをする為、近くにある中で最も徳の高い巫女の住まう神社へと足を運んだ。長く続く階段をやっとの思いで上りきり、『年始多忙につき、不在多し』と書かれた立て札を見て、それは残念だと思いつつも賽銭を入れ、本坪を鳴らした。すると丁度暇の最中であったのか、巫女はひょっこり境内にまで出てきてくれたのだ。男は感極まって、思わず彼女にこう言った。

 

何か書いてくださいませんでしょうか、是非家の宝にしたいと思います。

 

えぇ、構いませんよ。

 

 巫女は嫌な顔一つせず頷き、懐から取り出した札のような小さき紙に、同じく懐から取り出した小筆でサラサラと何かを書き記した。男はそれを期待と歓喜の眼差しで見つめていたが、やがて巫女がその札を見せると、男は先ほどとはうって変わったかのように顔を真っ赤にした。

 

親死子死孫死とは。めでたい言葉をと、そう伝えた筈でしょう。

 

……。

 

巫女話さず小さく頷き、やがてもう一枚紙を取り出し筆を走らせた。

 

そこには――

 

孫死子死親死、これで宜しいでしょうか。

 

……。

 

 今度は男が黙ってしまった。そうして、ようやく彼女が伝えようとしていることに気が付いた。慌てて謝罪をしようと顔を上げれば、巫女はそんな男を見てニッコリと微笑むのである。

 

私も何時かは、自身の全てを子へと知らして死にたい物です。

 

 よくよく見てみれば本堂の扉の隙間から小さな童子が一人、男をジッと見つめていた。恐る恐る巫女に視線を戻すと、彼女は一度深く頷き、そうして踵を返していった。

 

それは私の母が言葉なくして教えてくれた物です、ゆめゆめお忘れなきよう。

 

……ありがたく、頂戴させて頂きます。

 

男は巫女とその子の姿が見えなくなるまで頭を下げ続けた。

 

そしてその紙を後生大事に持っていたとか。

 

 

 

 

 

 




この一話を書き上げるにあたって、私は赤ん坊の食事について詳しくなりました。

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