俊樹はその場で立ち尽くすことしかできなかった。
なぜなら、彼の前には金髪の女の子が立っていたからである。
――彼女の名前はニニィ・コルケット。
彼にとって、おそらく死ぬまで忘れることのできない名である。
彼女はあの事件が起こった日と全く同じ姿をしていた。小学三年生の図工の時間――。白黒の縞模様の服と赤色のスカート。当然、身長も当時と同じくらいである。
ニニィは無表情で俊樹を眺めている。
怒ることも泣くこともなく、ただ彼のことを死んだような目で眺めているだけだった。
「な、なんだよ……」
自分でも分かるくらい、その声は震えていた。
ここでニニィは足元に置いてあったバケツを手に持つ。そこには黒い液体が入っており、それが何なのかすぐに俊樹は察することができた。
背の小さいニニィはゆっくりとした足取りで近づいてくる。
何故か、俊樹は一歩もそこから動くことができなかった。
「おい、やめろ!」
俊樹が返した瞬間、突如としてニニィの顔が怒りの形相に変わる。
そして、声にならない叫びをあげながら、黒い液体を思い切り彼にぶちまけたのだった。
※
ここでようやく俊樹は目を覚ました。
ぜえぜえ、と息を吐きながら、ベッドから起き上がる。
ついでに顔や頭を確認してみるが、言うまでもなく黒い液体など付いていなかった。
がっくりと項垂れる。
「なんつー夢を見たんだ……」
ようやく中三の現実世界に戻った俊樹はベッドから出て、そのまま部屋から出る。
まだ九時前だが、さすがに二度寝をする気分じゃなかった。
今日は日曜日で部活も休みだし、友人と会う予定もなかったので、朝飯を食べたら適当にマンガでも読もうと決めた。
居間に行くと、妹の利香がソファーに座って、テレビを熱心な様子で見ていた。
歳が離れているせいもあり、いつも自分に甘えてくる非常に甘えん坊な妹である。
今、利香が見ているのは、小さい女の子向けの人気アニメだった。
カラフルな髪の色の魔法少女たちが、魔法の力を使って敵をやっつけていく内容だ。ちなみに、俊樹自身は一度も見たことがなく、概要を知っているのは単純に利香が母親に話しているのを聞いただけである。
洗面所で身だしなみを整え、居間に戻って来た時、ちょうどエンディングを迎えたようで、見終えた利香はソファーの上で大きく体を伸ばした。
「あっ、お兄ちゃん。おはよー」
「おはよう」
「ママ、もう出かけちゃってるから、ごはんは自分で作ってって」
「了解」
面倒なことではあったが、仕方なく俊樹はキッチンまで行く。
「ねーねー、お兄ちゃん。私、この前一人で買い物ができたんだよ。すごいでしょー」
「おお、すげーな。一人で行けたのか」
「それでね。帰る時にマリちゃんみたいにきれいな髪の人に会ったの」
「マリちゃん?」
「んーと。これがマリちゃん」
利香がお気に入りの筆箱を持って、俊樹のところへやって来る。
その筆箱には先ほどテレビでやっていた魔法少女たちが描かれており、ちょうど利香の指先は金髪の女の子で止まっていた。おそらく、金髪の子が『マリちゃん』という名前だろう。
――金髪の子?
その時、俊樹の中で先ほどの夢がフラッシュバックされた。
思わず、妹の両肩に手を置いた。
利香は何事かと顔をしかめるが、お構いなしに俊樹は訊いた。
「そのマリちゃんみたいな子って、俺と同い年くらいだったか?」
「ええと、そうだったかな?」
「どこで会ったんだ?」
「三角公園」
「ここからかなり近いな……。どんなこと話したんだ?」
すると、利香は首を傾げながら答えた。
「わたしがきれいな髪だと言ったら、あまりこの髪は好きじゃないって答えてた。でも、すぐに『ごめんね』と言って、お姉ちゃんのおごりでジュースを買ってくれたの」
つん、と背中が冷たくなるような感触が襲ってきた。
唾を飲み込んで、俊樹は恐る恐る尋ねた。
「その子の名前とか分からないか?」
「たしか『ににぃ』って言ってたような気がする」
疑惑が確信へと変わった瞬間だった。
「……ここに戻ってきてたのか」
だが、俊樹の心情はかなり複雑だった。嬉しい気持ちもあるのだが、その一方では戻ってきて欲しくなかった気持ちも存在しており、具体的なことは自分でもよく分からなかった。
俊樹にとって、ニニィは初恋の人だった。
それと同時に、取り返しのつかない傷をつけてしまった人でもあった。
金色の髪が好きじゃない――。
先ほどの利香が言っていたことは、その傷が未だに癒えていないことを意味するような発言だった。
「お兄ちゃん?」
利香が問いかけてくるが、俊樹は何も答えることができなかった。
◇
彼女から指定を受けた良央が向かったのは、源二郎の家だった。
彼の家は、中野坂上駅から一駅先にある中野新橋駅の近くにある。良央は数年ぶりに丸ノ内線の分線に乗って、彼女から説明された住所に向かった。
彼女とは、柳原花蓮のことである。
ニニィとの生活が始まった直後、良央のもとに源二郎から手紙が届いた。
その中に電話番号が記されており、そこに掛けてみたところ、応対してくれたのが柳原花蓮という女性だったのだ。彼女は現在、源二郎の身の回りの世話をしているらしい。
彼の家は、二階建ての何の変哲もない一軒家だった。
先日、源二郎から聞いた話によると、現在は遠くの病院に入院して治療を行っているらしいが、今日はわざわざ良央に話をするために戻ってきたらしい。
インターホンを押すと、「はい」と女性の声が聞こえてきた。
「失礼します。古川良央と申しますが、柳原花蓮さんはいらっしゃいますか」
「柳原は私です。少々お待ちください」
それからすぐに玄関の扉が開けられ、二十代半ばのスーツ姿の女性が迎えてくれた。
予想以上の美人だったので、良央は思わず息を呑んでしまう。
腰まで伸びた黒髪はとても艶やかで、凛々しい顔つきがスーツにとても似合っている。バリバリのキャリアウーマンといった感じで、良央の好みのタイプだった。
ひとまず、余計なことは考えようにして良央は頭を下げる。
「古川良央と申します」
「柳原花蓮です。お待ちしておりました。どうぞお入りください」
居間に入ると、源二郎がイスに座ったまま迎えてくれた。これまでスーツ姿しか見たことなかったが、今の大叔父は青のシャツに黒のズボンという私服姿だった。
「久しぶりだな。元気していたか?」
「はい。大叔父さんの方はいかがですか?」
「まあ、何とか頑張っとるよ」
良央は源二郎と向かい合う位置に腰掛ける。以前に比べて、彼に纏う生気が薄くなっているような気がした。顔色もあまり良くなさそうだ。
台所で三人分のお茶のグラスを用意してから、花蓮も源二郎の隣のイスに腰掛ける。
ぴん、と背筋を張った彼女の座り方に、良央は緊張を覚える。
「源二郎さんの体調も考慮しまして、本当は私一人だけで話をしても良かったんですが、源二郎さんがどうしても聞かなくてですね……」花蓮は苦笑する。
「ニニィの過去に関する重要なことだ。具体的な説明するのは君に任せるが、もし誤ったことがあったら私が訂正する必要がある」
「そうですね」花蓮は良央に目を合わせる。
「電話で話を聞かせていただきましたが、ニニィさんの服装の件でよろしいですね?」
「はい」
良央は改めて、先日の買い物の件を二人に話した。
「前から気になってはいましたが、どうしてニニィはやたら地味な服しか着ないんでしょうか? 学校の時以外は必ず帽子をかぶって外に出てますし、買い物の時に帽子を勝手に取ったら、ものすごく怒られてしまいました」
「そうだな……。まだ、ニニィはあの出来事を克服してないからな」と、源二郎。
「あの出来事?」
「それは後を追って説明しましょう」
花蓮はきっぱりとした口調で説明を始めた。
「まず、服装に関してですが、ニニィさんは目立つことをひどく怖がるんです」
「目立つこと?」
「ほら――。彼女は人目を惹く容姿をしているじゃないですか。そのせいで昔からやたら周りに注目されまして、かなりのストレスを感じていたそうなんです」
「言われてみれば、一緒に買い物に行くときもよく声を掛けられますね」
少し前に二人でスーパーに行った時は、いかにも好奇心旺盛そうなおばさんに唐突にニニィとの関係を聞かれてしまった。良央は正直に知り合いの子を預けていると言ったが、おばさんは良央のことを妙に疑っている様子だった。今、振り返ると非常に心外な話である。
花蓮は小さく息を吐いた。
「別に派手な服が嫌いなわけではないんです。ニニィさんも年頃の女の子ですし、着てみたい欲求はあるそうです。でも、いざ着てみると急に怖くなって、その場から全く動けなくなってしまうんです」
「それは深刻な話ですね」
花蓮は、隣の源二郎に顔を向ける。
「良央さんの家に移り住む際に、派手な服は全てこちらに置いていったんですよね?」
「ああ。もともと彼女が使っていた部屋のクローゼットに保管してある。とは言っても、中に入っているものは一度も着たことない服ばかりだけどな」
「いつ頃から着れなくなってしまったんでしょうか?」良央が問う。
「大きなきっかけとなったのは、やはり小学三年生の時の出来事だろうな」
「出来事って、さっき言ってた出来事のことですか?」
「そうだ」
ここで源二郎が花蓮に視線を投げる。
彼女は頷き、お茶を一口飲んでから言った。
「私から説明します。先ほど、ニニィさんは人目を惹く容姿をしていると言いました。しかも、外国の生まれで周りとは違う髪の色――。悲しい話ですが、小学校時代はその容姿が災いして、クラスメイトからひどい悪口やいじめを受けていたんです」
あまりのことに良央は言葉を失う。
ひどい話ではあるが、相手が小学生である以上、ありがちな話でもあった。
「これは後から学校から聞いた話ですが、小学校に入学してすぐにニニィさんは周りから悪口を言われてきたそうです。ニニィさんはあの通り、とてもおとなしい性格ですし、当時は日本語がうまく話せなかったのも、いじめを加速させた一因だったのかと思います。もちろん、ニニィさんに罪は一切ありませんが」
「当たり前ですよ。ちょっとだけ周りと違うだけで……」
「でも、誰にも打ち明けることができなかったそうです。日本にやってきたばかりで、周りに頼れる人もろくにおらず、一人ぼっちでかなり辛い日々を送ってきたそうです」
源二郎は苦悩に満ちた表情で、顔を下に向けている。それはニニィの保護者として、何もできなかったことを悔いているような顔だった。
「源二郎さん。そんな顔をしないでください」花蓮は見かねたように言った。
「考えすぎは体に毒ですよ」
「分かっておる。しかし、私はニニィが苦しんでいることに気付けなかった」
「責めたい気持ちは分かりますが、どうか今は自分の体を大切にしてください」
「そうだな」源二郎は目を閉じて、こくりと首肯する。
「髪の色が違うから、周りからいじめられていた……」良央はいったんお茶を飲む。「だから勝手に帽子を取った時、ニニィはあんな怒ったんですね。帽子をかぶっていたのはファッションでも何でもなく、単純に自分の髪を隠したかったからなんですね」
「ええ。まだ、自分の髪が大勢の人に見られるのが、怖くてたまらないんでしょう。それでも昔に比べたら多少は改善されたほうです。あの事件が起こった直後は、学校の中にいる時や家の中にいる時でさえも帽子をかぶっていたそうですから」
良央は小さく息を吐いた。
「いい加減、答えてくれませんか? 三年生の時、ニニィに何が起こったんですか?」
「結論を簡潔に言うなら、同級生たちによって、髪の毛を無理やり黒に染められたのです」
「えっ――」良央は大きく目を見開く。
「彼女が小学三年生の時です。それまでニニィさんは辛抱強く周りのいじめに耐えてきました。誰にも相談することもなく、黙々と学校に通い続けていたのですが、ついに学校を揺るがすほどの決定的な事件が起きてしまいました」
「それがさっきの事件ですか?」
「ああ。図工の時間で絵を描いている時ことでした。よくニニィさんをいじめていた何人かのクラスメイトが、こぞって黒い絵の具をニニィさんの髪に塗ったそうです。ニニィさんは激しく抵抗しましたけど、彼らはそんな彼女を羽交い絞めにして塗りたくったそうです」
良央の額から汗が流れ落ちる。
「すぐに先生が気が付いて彼らを止めましたが、ベトベトに塗りたくられたせいで、しばらく絵の具が落ちなかったそうです。ニニィさんはその日からしばらく学校を休むことになりました。いじめたクラスメイトたちもその日のうちに謝りに来まして、ほどなくして事件は鎮静化されましたが、学校の中ではしばらく大きな問題として取り上げられたそうです」
「そんなことがあったんですか……」
「ええ。胸が抉られるような話です」
良央は信じられない気持ちでいっぱいだった。
聞いているだけで、言い様のない怒りが胸の中でぐつぐつと煮え立ってくる。いくら相手が小学生でも、他人を傷つけることがそう簡単に許されるはずがない。
この瞬間――。
彼の脳裏に、家にやってきた初日にニニィと微笑み合った時のことを思い出した。
あの笑顔は間違いなく本物だった。
心の歪みを感じさせない笑顔だったからこそ、良央は安心してあの子に自分の部屋を託すことにしたのだ。しかし、昔のニニィはそんな笑顔を出す余裕すらない過酷な環境で生活していたのだ。
良央は汗を拭ってから、小さく息を吐いた。
「それからニニィはどうなったんですか?」
「すぐに学校に復帰しました。と言いますのも、事態を重く見た学校側が大幅なクラス替えを行いまして、ニニィさんをいじめた人をみんな別のクラスにさせたらしいのです。まあ、さすがに公には発表しなかったようですが、可能性は非常に高いとのことです」
「そうなんですか」
「それだけじゃありません。その事件の後、源二郎さんの悩みを聞いた私の祖母がこの家に駆けつけてきましてね。その際、ニニィさんとすごく意気投合したらしいのです」
「祖母?」
「はい。仕事でほとんど家にいなかった源二郎さんの代わりに、私の祖母が家の使用人となりまして、ニニィさんに家事やいろんなことを教えたそうです。特に祖母は料理がとても上手な人で、ニニィさんに自分のある限りの技術を全て教えたとか――」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
あまりのことに頭が追いつかず、良央は話を止める。
「花蓮さんのおばあさんが、ニニィに家事を教えたんですか?」
「ええ、私の祖母である柳原久子です」
あまりのことに、良央は源二郎と花蓮を交互に見る。
まさか、こんな所で二人に関係があったとは意外だった。
「久子さんのおかげで、ニニィはまた学校に行くようになったんですね」
頷いたのは源二郎だった。
「それは間違いない。家事や料理のスキルを教えただけでなく、どんな些細な悩みも真剣に聞いてくれる人だった。だから、ニニィもすぐに立ち直ることができたのだ。今のニニィがいるのは、間違いなく久子さんのおかげだ」
「その久子さんは今どうしてるんですか?」
「亡くなった」
えっ、と良央は目を瞬かせる。
「ニニィが中一の時に癌でな……。あっという間のことだった。それからニニィは、これまで興味を持っていなかった病気に関する研究を始めたのだ」
「……そのことについて、もうちょっと詳しくお願いできますか?」
良央はお茶を飲もうとしたが、すでにコップは空になっていた。