十月も半ばを迎え、そろそろ秋の気配を感じてきた、この日の夜。
何気なくスマートフォンでツイッターを覗いていた良央は、とある情報を見て、思わず「おおっ!」と声を出してしまった。カーテンが開かれ、勉強中だったニニィが顔を出す。
「どうかしましたか?」
「俺の好きなミュージシャンが、今日の十時から路上ライブをするらしいんだ」
「路上ライブ、ですか?」
「簡単に言うと、アコースティックギターとかの楽器を持って路上で演奏することだよ。今、ツイッターを覗いたらその告知がされていたんだ」
場所は下北沢駅の近く。八時半だから、今からでも十分に間に合う距離である。
こんな直前の時間、しかもツイッターだけの告知だから、ミュージシャン側もひっそりとやるつもりなんだろう。
マイナーではあるが、そのミュージシャンの大ファンである良央は時折、その人のツイッターを覗いていたが、まさかこんな絶好のタイミングで路上ライブの告知がされるとは幸運だった。今日は金曜日だし、遅くなっても明日の心配をする必要はない。
すぐに行こうと決めた良央は、早速準備に取り掛かる。
普段はチケット代を払わないとミュージシャンの生の歌声なんて聞けないが、今日は交通費を払うだけでその歌声が聞けるのだ。次のチャンスが分からない今、行く以外の選択肢は考えられなかった。ちなみに、路上ライブに行くのはこれで三回目だった。
様子を見ていたニニィは、目を瞬かせる。
「行くんですか?」
「うん。場所が下北沢という所で、そこなら三十分ぐらいで着くし」
「そうなんですか」
「なんだったら、ニニィも一緒に行くか?」
勉強に戻ろうとしていたニニィが体を止める。
「別に無理にとは言わないけど、せっかくの機会だし行ってみないか」
少し間を置いてから、ニニィは首を縦に振った。
「はい。行ってみたいです」
思わず、「えっ?」と言いそうになってしまった。今の誘いは半分冗談のようなもので、ニニィのことだから、てっきり断るかと思っていた。
ともあれ、せっかく彼女が乗り気になってくれたので、良央は立ち上がる。
「よし。なら九時過ぎに出発するから、それまでに行く準備を整えておいて」
「何時間くらい演奏するんですか?」
「さあ。細かいところは分からないけど、ライブの時間はいつも一時間から二時間くらいだね。この前はちょっと長引いて十二時前に終わったかな」
ニニィは目を瞬かせる。
「十二時ですか……」
「別に最後まで見る必要はないよ。なんなら、途中で帰ればいいんだし」
「そうですね」
「途中で眠くならないか?」
「……頑張ります」
「じゃあ、そうと決まったら急いで支度だ」
「はい」
自分の好きなミュージシャンのライブに、一緒に誰かを連れていけるのは単純に嬉しいことである。良央は上機嫌になりながら、準備に取り掛かった。
※
丸ノ内線の新宿駅で降りた二人は、次に小田急線に乗り換える。
下北沢は最も早い快速急行でも停車する駅なので、あっさりと辿り着くことができた。
「どの辺りでやるんでしょうか」
「ええと、ちょっと待って」
ホームの隅まで寄って、良央は改めてツイッターを確認する。
ちなみに、現在のニニィの服装は相変わらず地味な色のワンピースと上着を羽織っており、頭にはまるで金髪を隠すかのように深々と黒の帽子をかぶっている。
ツイッターで北口付近にいることが分かったので、早速二人は移動を始める。
すると、閉店した店の前でアコースティックギターを持った一人の男性がスタンバイをしている所だった。良央にとって馴染みのある顔――例のミュージシャンだった。
そして意外なことに、彼の近くにはすでに五十人ほどの人だかりができており、思わず目を見開いてしまった。
「けっこう集まってるな……」
通行人の妨げにはならないよう、客はミュージシャンとは道路を挟んだ反対側に集まっており、静かに演奏が始まるのを待っていた。
通りすがりの人も何事かと顔を向けている。告知はツイッターだけのはずだが、さすがインターネットの力は大きいようである。
良央たちも隅の方に移動して、ライブが始まるのを待つ。
待っている間、後方で何度も小田急線が通り過ぎていく音を聞いた。
「あの方が、良央さんの好きなミュージシャンなんですか?」小声でニニィが問う。
「うん。もう聞き始めて五年くらい経つかな」
「五年……。長いですね」
「今年でデビューして十年になるかな。大きなヒットを飛ばしているわけじゃないけど、地道に活動を続けている人だよ」
「どうして好きになったんですか?」
「うーん。そうだな」
その時、車が道路を通りかかろうとしていたので、周りの人を含め、良央たちも後ろに下がる。路上で大きな音を出す以上、なるべく奏者も客も周りに迷惑を掛けてはならない。
車が通り過ぎていくのを見計らってから、良央は答えた。
「偶然インターネットの動画で、あの人の曲を聞いてさ。良い曲だなと思って試しにCDを買ってみたら、歌詞がすごく好みで、そのままどっぷりと浸かってしまった感じかな」
「そんなに歌詞がすごいんですか?」
「うん。さらっと読む限りだと、なんてことない日常的な歌詞なんだけど――」
ミュージシャンは横に置いていたビール缶を飲んで、ギターのチューニングを始める。ステージに立っている時とは違い、かなりリラックスしている印象だ。
「それがいかにすごいことなのかって、あの人の歌詞を読んでると思い知らされるんだよ」
チューニングを終えた彼は、「やります」と小声でつぶやく。
そして、美しいアコースティックの音色と共に、路上ライブが始まった。
※
路上ライブは、非常にリラックスした雰囲気で流れていった。
隣にコンビニがあるので、途中でミュージシャン自ら新しいビール缶を買いに行ったり、客からジュースの差し入れをもらったり、リクエストに応えてくれたりもした。
さすが相手はプロということもあり、マイクが無くても、その声は周囲に大きく響き渡った。楽器はアコースティックギター一本だけなのに、楽曲ごとに荒々しく、時には穏やかに弾き、楽器に触ったことのない良央でもその多彩な表現力に脱帽した。
立ち止まってくれる人は時間が経つたびに増えていき、最終的には七十人ほどになった。
最初はミュージシャンの声に圧倒されて、棒立ちになっていたニニィだったが、三曲目くらいになると、ゆっくりと体を揺らしながら聞くようになり、終盤になると良央と一緒に大きな拍手するようになった。どうやら、気に入ってくれたようだ。
この日はリクエストをほとほどにしか受け付けなかったこともあり、ライブが終わったのは十一時半を過ぎた頃だった。
ニニィも眠そうにしていたので、すぐに二人は下北沢駅に向かった。さすが快速急行が止まる駅とあってか、こんな時間でも中はかなりの人で混んでいた。
そして、改札口への階段を昇っている途中のことだった。
突然、ニニィがバランスを崩して転びそうになったのだ。
「あっ――」
とっさに良央が彼女の手を掴んで落ちないようにさせたが、その拍子にニニィは階段の角に右ひざを強打した。黒の帽子がひらひらと階段に落ちる。
「つっ……」
「おい、大丈夫か?」
通行人が帽子を拾ってくれたのて、とりあえず良央は礼を言いながらニニィの体を隅に寄せる。彼女は顔を歪めながら、右ひざを抑えていた。
「ごめんなさい。眠くて、ついバランスが……」
「気にするな。そんなことより足の方はどうだ? 痛むか?」
「ちょっと痛いですけど、これぐらいなら何とか歩けそうです」
痛そうにしながらも、ニニィは立ち上がる。
「分かった。だったら時間もないし、出発するよ」
ニニィの足を気遣いながら先へと進み、ようやく駅の改札口に辿り着く。
しかし、妙に周囲が騒がしい。おかしいと思いながら、改札口の前に置かれている看板を確認して、思わず良央は目を疑ってしまった。
その看板には、つい数分前に近くの駅で人身事故が発生してしまったという内容が書かれてあったからだ。これにより小田急線はいったん運転を見合わせすることになり、周囲の客が騒いでいたのだ。
もちろん、ニニィたちも他人事ではなかった。
「……無事に帰れるんでしょうか?」
「どうだろう。ちょっと待ってて」
スマートフォンで調べてみると、丸ノ内線の終電が十二時三十分なので、すぐに復旧さえすれば何とか間に合いそうな計算である。
しかし、駅員の説明によると、現時点で復旧の見込みが立っていないようで、良央は乱雑に頭を掻いた。
「よりによって、どうしてこんなタイミングなんだよ」
「他の電車に乗りましょうか?」
「確かに。それしか方法はないよな」
振替輸送を実施しているとのことだったので、二人は京王井の頭線から明大前経由で新宿に戻ることにした。
しかし、駅の構内は大勢の人でごった返しており、なかなか電車に乗ることができなかった。電車が到着しても、終電前で殺気立った人間たちが我先にと言わんばかりに車内に突入するので、ニニィを連れている良央はどうしても躊躇してしまうのだった。
結局、二人が電車に乗れたのは日付を跨いだ十二時過ぎ――。混雑で京王線も大幅にダイヤが乱れていたこともあり、良央たちが新宿駅に到着したのは、十二時二十九分だった。
さすがに、たった一分で小田急線から丸ノ内線のホームに辿り着けるわけもなく、二人が丸ノ内線の改札口に到着した時は、すでに「本日の電車は終了しました」という看板が立っており、良央はがっくりと肩を落としてしまった。
「……どうしましょう」震えた声でニニィが尋ねる。
良央はポケットの小銭を確認すると、たったの二百四十円しかなかった。
実は、家を出る時、千円札と定期券しか持ってこなかったのだ。
中野坂上から新宿までは定期券内だったので、これなら大丈夫だろうと財布を持ってこなかったことが、まさか裏目に出るとは思わなかった。
この金額では当然タクシーには乗れないし、ネットカフェに泊まることもできない。クレジットカードの類も、全て家に置いてきてしまった。
「仕方ない。ここから歩いて帰るしかなさそうだな」
「帰れるんですか?」
「昔、時間があった時、よく新宿から歩いて家に帰っていたから道は分かるよ。ここから家までは三十分くらいかな」
「三十分……」
「ひざの調子はどう? 歩けそうか?」
「今のところは平気です」
「そっか。なら行くか」
他に手段が思いつかない以上、良央たちはそのまま徒歩で帰ることにした。
近くにある階段を昇って地上に出る。
金曜日の夜ということもあり、新宿駅周辺は酔ったサラリーマンがあちこちに溢れており、週末独特の雰囲気を醸していた。緊張した様子のニニィは、帽子を目深にかぶる。
「大丈夫。普通に歩いていれば、何の心配もいらないさ」
彼女は右ひざを気にするような仕草をしながら、良央の服の裾を握っている。
彼にとっては歩き慣れた道だが、ニニィにとっては未知の世界だろう。
そのうちに周囲を歩いている人は少なくなっていき、良央たちは道路沿いの道に出た。
片側だけで二、三車線以上もある広い道路――青梅街道である。
深夜にも関わらず、道路には多くの車が行き交っていた。
「この青梅街道をまっすぐ進めば、中野坂上駅に着くよ。道路沿いだから夜中でもぽつぽつ人は歩いているし、ここなら少し安心できるんじゃないかな」
ニニィはこくりと頷く。しかし、服の裾は握ったままだ。
十月も半ばを迎えると、さすがに夜は肌寒くなってきた。
路上ライブの時から外に出っぱなしで、お互いに体も冷えてきたので、良央は自販機で温かい飲み物を買うことにした。
良央は缶コーヒー、ニニィにはレモンティーを選び、これで金は完全に無くなってしまった。
コーヒーで冷えた体を温めながら、良央は空を見上げる。
右手には半分欠けた月があり、空気もだいぶ澄んできているのか、以前より綺麗に映っているような気がした。星もぽつぽつとだが、小さく輝いており、やっぱり大都会の真ん中でも星は見えるんだなと思った。
ゆっくりとした速度で歩いていき、ついに二人は西新宿駅を通過する。
ここでようやく残り半分の距離となったが、ここでさらなるアクシデントが発生した。
「つっ――」
小さな唸り声とあげて、ニニィがその場で立ち止まってしまったのだ。
「ニニィ?」
「ひざが、急に痛くなってきまして……」
彼女は顔を歪めながら、ひざを押さえている。
「歩けるか?」
「……ごめんなさい。もう痛くて歩けないです」
良央は思わず頭を掻いた。
「しまった。百円くらい残しておけば良かったかな」
飲み物でお金を全部使ったことを、今さら後悔した。百円さえあれば、近くにあるファーストフード店で休憩することもできたのに、後先考えない使い方をしてしまった。
車が大きな音を立てて通過する。ここまでゆっくりとしたペースで歩いてきたため、時刻はもうすぐ夜中の一時だ。すでにホットドリンクは飲み干しており、このままニニィの回復を待っていると、さらに帰りが遅くなってしまう恐れがあった。
このままでは埒が明かないと思い、良央は思い切って行動することにした。
「ちょっと失礼」
佇んでいるニニィを、そのままお姫様抱っこの要領で抱える。
彼女の体は非常に軽く、いとも簡単に持ち上げることができた。
「えっ、えっ、えっ――」
ニニィは困惑しながら、良央を見上げる。
「な、な、なにするんですか!」
「んっ。イギリスじゃお姫様抱っこはメジャーじゃないのか?」
「そういうわけではなくて……ええと、ですね」
彼女は頬を赤らめながら、目を逸らす。
「いくら周りに人がいないとはいえ、これはちょっとまずいですよ」
「……うん。いざやってみて、これはやばいと思った」
夜中の一時に、少女をお姫様抱っこして歩いている男がいたら、間違いなく不審者に見られるだろう。素直にニニィの体を降ろすと、今度は彼女に背中を向けてしゃがんだ。
「じゃあ、家までおぶってやるから。それならお姫様抱っこよりマシだろ?」
しばらくニニィは迷った素振りを見せたが、やがて「すいません」と頭を下げた。
良央はニニィをおぶったまま立ち上がると、そのまま家に向けて歩き始める。当初はだいぶ緊張しているのが伝わってきたが、次第に力が抜けていくのが分かった。
少し歩いた後、ニニィがぼそりと口を開いた。
「今日はありがとうございます」
「んっ?」
「ライブに誘ってくれまして」
「どういたしまして」
夜空の月を見上げながら、良央は微笑む。
「そういえば、ゴタゴタしてて聞けなかったけど、今日のライブはどうだった?」
「音楽なんてあまり聞いたことなかったですけど、すごく良かったです」
「ホントか? アコースティック一本じゃ、変化に乏しくてたまに飽きてこないか?」
「……実は途中でちょっと眠くなってしまいました」
「だろうなー。だいぶ昔に一人で路上ライブに行ったことがあるんだけど、その時はあんまり曲を知らなかったから、途中で飽きて立ちながら寝そうになったんだ」
「バレなかったですか?」
「何とかね」
信号に差し掛かったので、良央はいったん歩みを止める。
「あの方のCD――良央さん、持ってるんですか?」
あの方とは、言うまでもなく今日のミュージシャンのことだろう。
「そりゃもちろん。全部持ってるよ」
「明日、聞いてもいいでしょうか?」
良央は一瞬驚きながらも、すぐに笑顔になった。
「全然いいよ。むしろ大歓迎! いやー。嬉しいな」
「そんなに嬉しいことでしょうか?」
「そりゃもちろん。自分の好きなミュージシャンに興味を持ってくれたんからさ」
信号が青になったので、良央は再び歩み始める。
もし、これでニニィが音楽を聞くようになったら、十二月にあるライブに誘ってみようと決意した。チケットはまだソールドアウトしてなかったから、彼女の分も確保できるはずだ。
しばらく、ニニィが何も言わなかったので、良央は「ニニィ?」と声をかけてみる。
しかし、返事は聞こえない。振り向くと、ニニィは目を閉じて規則正しい寝息を立てていた。
良央は小さく息を吐く。
――まあ、もう夜中の一時を過ぎてるからな。
ニニィはよっぽどのことが無い限り、十時半には床に就いている。
おまけにライブで二時間以上も立ちっぱなしで、しかもかなりの距離を歩いているのだ。疲れるに決まってる。
ちなみに共同生活が始まった際、十時には必ず居間の電気を消すことを二人の間で取り決めていた。消灯後は原則として小型の電気スタンドしか使えないので、ここ最近の良央は音楽を聞いたり、ひっそりとパソコンを開いて夜の時間を過ごしている。
その時、首筋に柔らかい感触がやってきて、良央は思わずぞくっとしてしまった。
正体はニニィの唇だった。おぶっている彼女を軽く持ち上げた際、偶然にも唇が彼の首筋に当たってしまったのだ。しかも、その状態を維持したままニニィは眠り続けている。
帽子のつばがぐりぐりと当たって少し痛い。
おまけに彼女の鼻息もちょうど首筋に当たるので、かなりくすぐったかった。
――起こすべきなのか?
だからと言って、このままニニィに無理に起こすのも気が引ける。しかし、どうせ家に戻ったら必ず起こさないといけないから、やるなら今のうちに――。
そんなことを考えているうちに、良央は中野坂上に辿り着いてしまった。