ニニィ   作:個人宇宙

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【05】にきび

 

 

 相変わらず厳しい残暑が続いている、九月の下旬。

 

「良央さん、良央さん」

 

 この日の朝、良央はニニィの手によって起こされた。

 

「遅刻しますよ」

 

 完全に意識が覚醒しない中、良央は手元の目覚まし時計を確認する。

 七時二十分――。目覚ましは七時にセットしていたが、いつそれを解除したのか全く覚えていない。ニニィに起こされたから良いものの、一人だったらまずかった。

 

「ごめん。今、起きる」

「おはようございます、良央さん」

「ああ、おはよう」

 

 良央は布団から出る。ニニィはすでに黒のセーラー服に着替えていた。

 

「朝食は作っておきました」

「ありがとう」

 

 良央は着替えを手に持って脱衣所に入る。顔を洗い、身だしなみを整えて、ワイシャツとズボンを着て脱衣所を出ると、すでにニニィが朝食の準備を終えていた。

 

 居間の真ん中に小テーブルを置いて、そこに二人分の朝食が並んでいる。つい数分前まで良央が寝ていた布団は部屋の隅に綺麗に整頓されており、居間を真っ二つに分けるように引かれていたカーテンも今は開放されている。

 

 良央がニニィと向き合う位置に座った後、食事が始まった。

 今日の朝食はサンドイッチとオムレツだ。サンドイッチは肉、野菜、果物と三種類の具材を挟んだものに分けられており、オムレツはトロトロで美味しかった。

 食べながら、何となく良央はカレンダーを見る。

 

「もう一ヶ月か」

「えっ?」

「ニニィがここに来てから」

「そうですね」

 

 サンドイッチを持ったまま、ニニィもカレンダーに目を向ける。

 気付いたら、良央は彼女を「ニニィ」と呼ぶようになっていた。どのタイミングでこうなったのか良央自身もよく覚えておらず、ニニィも特に嫌そうにしていなかったので、そのままこの呼び方が定着してしまったのだ。

 良央は、カレンダーから部屋の奥にある本棚に目を向ける。天井までそびえ立っている大きな本棚には、英語で書かれた薬学に関する研究書が隙間なく並べられている。

 

 ニニィと生活が始まってから最も高い出費となったのは、あの本棚である。

 源二郎が言った通り、彼女が持ってきた研究書の量は想像以上だった。

 ただでさえ八畳の居間に二人の人間が生活するので、うまく収納しないと、かなり狭苦しい部屋になってしまう。二人で話し合った結果、ニニィの意向を重視して、極力部屋にあるものを少なくすることで対処したのだ。

 

 それから一ヶ月――。

 彼女との生活は何事もなく、穏やかに流れていた。

 それまでだらしない生活をしてきた良央は最初の頃こそは違和感を抱いていたものの、一ヶ月も過ぎると少しは慣れた。

 朝食を終えた良央はスーツを着て、いざ出発しようとした時だった。

 

「あっ、良央さん」突然、ニニィが口を開いた。

「ネクタイがずれてます」

 

 えっ、と驚きながら確認すると、確かにネクタイが斜めにずれていた。

 

「ああ、ほんとだ」

「直します」

 

 ニニィは良央の眼前まで歩み寄ってきてネクタイを修正する。

 その手つきはとても手慣れたもので、あっさりと完了した。

 

「ど、どうも」

 

 戸惑いながらも礼を言う。

 すると、ここでニニィはじーっと良央の顔を見上げたまま言った。

 

「……大きなニキビですね」

「えっ?」

「そこです」

 

 ニニィはその細い指を、彼の左頬に向ける。

 手鏡を使って確かめると、彼女の言う通り、巨大なニキビが左頬に出来ていた。

 昨日まではだいぶ小さかったのだが、一晩でかなり成長してしまったようだ。

 良央は小さく息を吐く。

 

「顔はちゃんと洗っているつもりなんだけどなあ……」

「薬はありますか?」

「いや、そういうものは無いんだよ」

 

 時間も迫っていたので、二人は早足で部屋を出た。

 外に出る際、ニニィは帽子をかぶるのを忘れない。買い物だろうが学校に行くときだろうが、いつもこうなのだ。ちなみに学校に入る直前には、ちゃんと帽子を外しているらしい。

 

 やがて、二人は中野坂上駅に到着して地下への階段を下りる。良央は丸ノ内線、ニニィは都営大江戸線を使っているので、構内に入った二人はそのまま別れることになった。

 相変わらず朝の時間のホームは、やる気を減退させるくらいの人ごみで溢れていた。

 迷惑をかけない程度の音量で音楽を聞きながら、良央は大勢の人に並んで、やってきた丸ノ内線に入ろうとする。しかし、良央の前でついに車内に人が入れるスペースが無くなってしまった。やむを得ず、少し強引に前の人を押して何とか車内に入ることに成功した。押されたおっさんが良央を睨み付けてくるが、仕方ないだろと思いながら良央は目を逸らす。

 

 良央の目の前でドアが閉まり、ゆっくりと電車が進行する。

 走行中、ドアのガラスに映っている巨大なニキビを見て、良央はつい顔を歪めた。

 どういうわけか、昔から良央はニキビが出やすい体質だった。おかげで顔はニキビの跡が多く残っており、多少ながらそれにコンプレックスを抱いていた。

 

 ――二十五にもなって、なんでこうも出てくるんだよ。

 この間にも、丸ノ内線は少しずつ、そして容赦なく仕事場へと向かっていく。

 

 ※

 

「今日はニキビ対策のメニューにしました」

 

 この日の夕食、ニニィは皿を置きながら口を開いた。

 スマートフォンを持ったまま呆然とする良央に対し、ニニィは一枚の紙を渡してきた。

 そこには、今日の夕食についての詳しい説明が書かれてあった。

 

「これ、ニニィの手書きなの?」

「はい」

 

 よくこんな手間がかかることをできるな、と思いながらも良央は中身を読む。

 

『今日のメニューはひじきと大豆の煮物、焼き鮭のサラダです。ひじきにはビタミンB2が多く含まれていまして、ニキビを予防するのに効果的な食べ物です。焼き鮭にはビタミンB6が多く含まれています。ビタミンB6はビタミンB2の働きを助ける役目がありますので、一緒に食べるとすごく効果的です!』

 

 割と細かく書かれている内容に、良央は「へえ」とつぶやく。

 まさか、ここまで丁寧に解説してくれるとは思わなかった。

 

 読み終わった頃に夕食の準備が完了したので、二人はお互いに手を合わせて、「いただきます」と唱えた。

 ひじきと大豆の煮物に舌鼓を打ちながら、良央はニニィに言った。

 

「さっきのニキビって、どこで勉強したの?」

 

 ニニィは箸を止めて、自分のスマートフォンを良央に見せてきた。

 

「えっ。普通にインターネットで調べたの?」

 

 はい、とニニィはこくりと頷く。

 

「あそこにある本で調べたわけじゃなくて?」

 

 良央は部屋の隅に置いてある本棚を指差すが、ニニィは首を横に振った。

 

「あの本は、もうちょっと専門的なものです」

「専門的?」

「はい。難しい病気のこととか……。いろいろあります」

「へえ。そうなのか」

 

 ニニィはスマートフォンをしまう。

 

「しばらく、ニキビ対策用のメニューとかに変えることってできるの?」

 

 良央の問いに、ニニィは箸を動かす手を止める。

 

「はい。できますけど」

「じゃあ、治るまでお願いできるかな?」

 

 ニニィはすぐに頷いた。

 

「分かりました」

「悪いね。手間かけさせちゃって」

「いえ。むしろそちらの方がメニューは考えやすいです」

「じゃあ、よろしく頼むよ」

 

 たまには頑張ってみようと思いながら、良央はサラダに箸を伸ばした。

 

 ※

 

 それから二週間後、良央たちの努力は報われる結果となる。

 

「すごいな。跡形もなく消えてるぞ」

 

 すっかりニキビが消滅した頬を撫でながら、良央は満足そうに言った。

 スマートフォンで近くの皮膚科を調べて、内服薬と塗り薬をもらった良央は早速ニキビの治療を開始した。もちろん、その間もニキビ対策用の夕食メニューは残さず食べて、洗顔についても普通のせっけんからニニィが買ってきた市販の洗顔料を使うようになった。

 

 最初の数日間は大きな変化もなかったが、それ以降からニキビは少しずつ小さくなっていき、今日の朝には跡形もなく消滅していたのだ。すでに跡になっている部分はさすがに消えていなかったが、結果としては十分だろう。

 

「良かったです。治りまして」

 

 ニニィは良央のニキビがあった部分を、嬉しそうに見つめている。

 礼を言って、良央はニニィのスペースに置かれているテーブルを見る。

 食事用に使っている小テーブルは今、彼女の勉強用として使われていた。テーブルの周りには冊子が散乱しており、開きっぱなしのノートにはよく分からない英語が書かれている。

 本当に、真面目で勉強熱心な子である。

 

「薬学の研究をしてるんだよな」

 

 はい、とニニィは答える。

 

「すごいよな。まだ中学生なのに大人顔負けのことをしてるんだからさ」

「ありがとうございます」

「具体的にどんな研究してるの?」

 

 ニニィはしばらく黙った後、思い切ったように口を開いた。

 

「難病についての研究をしてます」

「難病?」

「はい」

 

 それを聞いて、良央は以前に源二郎が話してくれたことを思い出した。

 彼女の両親は昔、難病の特効薬の開発に成功したことがあると。そして、ニニィも両親と同じように難病で苦しんでいる人を助けたいという夢を持っていると――。

 

「ニニィの両親も同じような研究をやってたよな?」

「あ、はい」

「すごいことをやってるんだな。親子揃って」

「いえ、私なんてまだまだです」

 

 ニニィはじっと部屋の本棚を眺める。

 鎮座している本棚が、いつも以上に大きな存在感を放っているように見えた。

 

 


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