「社会人になってから、時間の経過がすげえ速くなるぞ。覚悟しとけよ」
そんなことは、大学時代から散々先輩たちから聞かされた話である。
とりあえず、頭の中では理解しておいて、社会人になった。
何とか内定をもらって、いざ実際に自分が社会人になってみると、先輩たちの言葉を身にしみて痛感することになった。
しかし、それはどうすることもできない問題である。
時間の速さに驚きながらも、何も変えることできない現実に奇妙な歯がゆさを感じた。しかし、その一方では「人生そんなものだよな」と、多少ながら受け入れている自分も存在した。
働き始めて三年目。良央はあっさりと二十五歳になった。
生活は相変わらず、何かありそうで何もなかった。八畳一Kの部屋は男の一人暮らしの常識に漏れず散らかっており、ひどい有様だった。この部屋が片づけられるのは、たまに男友達を呼んで麻雀をする時くらいだ。
大きな不満はない。でも、満足はしていない。
そんな生活にささいな魔法が掛けられたのは、お盆を過ぎた後のことだった。
※
この日の二十二時、仕事を終えた良央は憂鬱な気分で会社から出た。
今日は朝からトラブル続きで、ひたすらその対応に追われていた。
良央はイベント用品や備品のレンタルを行っている会社に入っており、彼の顧客から今日いきなりレンタルした機械が使えなくなったとのクレームの電話を受けたのである。
理由はすぐに察した。
その機械があまりに古すぎて、ついに壊れてしまったのである。
実はその注文を受けた時、もう古いから新しいものを購入した方がいいんじゃないかと担当の上司に相談したのだが、受け入れられずに終わった経緯がある。
何とか代替の物と交換して難を逃れたが、さすがに顧客からは猛烈な叱りを受けてしまった。しかも、会社に帰ってきてからは、その上司から「どうして何も相談してくれなかったんだ」と、相談したはずなのに何故か叱られてしまい、その日は沈んだ気分で仕事を行っていたのだ。
音楽プレイヤーは、優しいピアノの音が奏でられている。今日はさすがに精神的に疲れすぎていて、激しい音楽を聞いている余裕などなかった。
へとへとの体でマンションに着いた良央は、いつも習慣でロビーの郵便受けを開ける。
すると、一通の封筒が中に入っていた。いつもはダイレクトメールくらいしか入っていないので、これは珍しいことだった。
裏に書かれてある差出人を確認して、良央は目を見開く。
「瀬名源二郎?」
初めて聞く名前だった。送り間違えなのかと思ったが、表にはしっかり『古川良央』という自分の名前と住所が掛かれていた。
送り先は中野新橋。この家からかなり近い場所にある。
家に入った良央は音楽プレイヤーを止めて、すぐに封筒を開けてみた。
中には何枚もの手紙が入っており、それを読んで思わず「んっ?」と声を出してしまった。
手紙の内容を要約するとこうだった。
瀬名源二郎は、すでに亡くなっている母方の祖母の弟である。
つまり、良央の大叔父にあたる人だ。
その彼は今、イギリス出身の養子の子供と二人で暮らしている。
そして、その子供に関して大事な話があるから、良かったら連絡してくれないかという内容だった。手紙の最後には、源二郎の電話番号とメールアドレスが記載されていた。
――俺の大叔父さん、か。
脱いだワイシャツを部屋の隅に放り投げて、良央は考える。
一応、自分の親戚だということは分かったが、源二郎とはこれまで全く面識はなかった。
良央も詳しい話は知らないが、母方の一族とはその昔、母親と結婚のことで対立があったようで、それ以来疎遠になっていると聞いたことがある。ちなみに、その母親は六年前に亡くなってしまい、父親とは幼い頃に離婚したきり一度も会っていない。
事実上の天涯孤独の身だったが、まさかこのタイミングで親戚からの連絡だった。
万年床に横になり、良央は手紙の連絡先を眺める。
明日は仕事も休みだし、どうせ予定なんて何も入っていない。
とりあえず会ってみるだけ会ってみようと思い、良央はスマートフォンに手を伸ばした。
※
翌日、指定されたカフェに入るが、まだ源二郎たちは来ていないようだった。
店内は木を基調としたおしゃれな内装を施しており、ゆったりするには申し分のない場所だった。すでに源二郎の方で予約をしていたようで、店員に名前を告げると、奥のテーブル席まで案内してくれた。
昨晩、電話をすると、可愛らしい女の子の声が聞こえてきた。
おそらく、養子の女の子だろう。
名前と用件を伝えると、すぐに「少々お待ちください」と言って源二郎に代わってくれた。電話での大叔父は、とても堅物そうな感じがひしひしと伝わってきた。詳しい話は今日伝えるということになり、指定されたのがこの喫茶店だった。
注文したコーヒーが運ばれてきた直後、店の扉が開けられた。
入ってきたのは老人と少女だった。
灰色のスーツを着こなしている白髪の老人は、昨晩の電話で感じた印象の通り、とても堅物そうな人だった。歩き方がぎこちない所が気になったが、それ以外は立派な老紳士だった。
これは良央の予測だが、若い頃は絶対に格好良かっただろうと思った。
そして、その後ろをついていくようにして歩いているのは、彼よりも一回り小さい少女だった。黒の帽子をかぶって、うつむき加減で歩いているので顔はよく確認できないが、耳元から金色の髪がはみ出ている。本当に外国人のようだ。
老人が良央がいることに気付いて、そのままテーブルまでやって来た。
「古川良央さんですか?」
「はい」良央は席から立ち上がる。
「あなたが、瀬名源二郎さん?」
「そうです。この度は突然のお手紙、失礼いたしました」
「いえいえ。そんなことないです」
ここで二人は握手を交わす。
「改めまして、瀬名源二郎と申します。そして、こちらが娘のニニィです。お手紙でも伝えましたが、八年前に私の養子としてイギリスから日本にやってきました。――ほら、ニニィ」
「はい」
彼女が良央に向けて顔を上げた瞬間、思わず息を呑んでしまった。
――可愛い。とてつもなく可愛い子だった。
肌は透き通ったように白く、瞳は少し緑がかかっている。まるでおとぎ話に出てくる女の子が、そのまま現実にやってきたような少女だった。
それと同時に、すごく可愛い顔をしてるのに、どうしてこんな地味な服を着ているんだろうと思ってしまった。今、彼女は黒の帽子に茶色のワンピースを着ており、アクセサリーの類はつけていない。せっかくなら、もう少しおしゃれな服にしても良かったんじゃないのか。
「初めまして。ニニィ・コルケットといいます」
彼女の日本語はそんなに違和感がなく、発音は十分だった。
良央も気を取り直して、ぺこりと頭を下げる。
「古川良央です。よろしくお願いします」
三人は席について、源二郎はホットミルク、ニニィはレモンティーを注文する。
挨拶の時もそうだったが、席に座ってもニニィは帽子を外そうとしなかった。
「さて、いきなり呼び出したこともありますし、まずは単刀直入に申し上げましょう」
源二郎はニニィの肩にゆっくりと手の乗せてから、良央を真っ直ぐ見た。
「良央さん。しばらく、この子の面倒を見ていただけないでしょうか」
「えっ?」
あまりに予想外なことに、思わず間抜けな声が出てしまう。
「突飛な頼みであることは承知しています。しかし、ニニィの面倒を見れる人は良央さんが最適だと判断しまして、このようなお願いをする形になりました」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
大きな声を出してしまったので、飲み物を運んできた店員が驚いて足を止める。
源二郎が軽く頭を下げて、ホットミルクとレモンティーを受け取った。
「まあ、驚くのも無理はないでしょう」
「そりゃそうですよ」
良央はコーヒーを口に含み、ふうーっと大きく息を吐いて気分を落ち着かせる。
「どういうことでしょうか。詳しく説明してください」
源二郎はミルクを飲んでから、ゆっくりとした口調で言った。
「私事で勝手なことだとは承知していますが、仕事の都合で来年の四月から海外に行くことになりましてね。それは会社の大規模なプロジェクトになっていまして、下手したら何年も帰って来れない可能性があります。もちろん、その間ニニィを一人にしておくわけにはいきません。だから、こうして良央さんにお願いをすることにしたのです」
「いきなり、そう言われましてもね……」
良央は頭を掻く。
話を聞いていくうちに、「面倒なことに巻き込みやがって」という苛立ちが大きくなっていく。理由は分かったが、だからといって、いきなり今まで縁のなかった親戚にそんな話を持ちかけてくるなんて失礼だと思わないのか。
とはいえ、ここまで来た以上、もうちょっと詳しい話を聞いてやることにした。
「ニニィさんは養子なんですよね?」
「ええ」
「どうして、あなたが彼女を預けることになったんですか?」
「そうですね。でしたら、まずはニニィが日本にやって来た経緯から話をしましょう」
それから、源二郎の長い話が始まった。
彼の話し方は丁寧で聞き取りやすく、一切の無駄がなかった。
もともと営業の仕事をしている良央にとって、純粋にうらやましいと思ってしまった。三年目になった今でも、良央は自分の営業トークに自信を持てなかったからだ。
源二郎はある大手の貿易商社に所属しており、昔から世界中を飛び回って仕事をしてきた。今から三十年ほど前、仕事の関係でイギリスに長期滞在することになり、その最中にニニィの祖父母と親しくなった。
以来、コルケット一家とは手紙のやり取りをしたり、遊びに行ったりと親密な付き合いを重ねてきた。孫のニニィが生まれたとの連絡を受けた時も、祝福をするため半ば強引に仕事を休んでイギリスへと向かった。
しかし、転機が起こったのは八年前のことだった。
突然、ニニィの祖母から、至急イギリスに来てくれないかとの連絡を受けたのだ。
詳しい話を聞くと、ニニィの両親が二日前に信号無視の車に巻き込まれて、どちらとも亡くなってしまったらしい。
半ば信じられない気持ちで日本を出国して、源二郎が指定された病院に行くと、そこには病床に伏せているニニィの祖母がいた。
そこで、ニニィを養子にしてくれないかとの頼みを受けたのだ。
ニニィの両親は先日、事故で亡くなってしまった。
おまけに唯一の親族であるニニィの祖母も病気であまり長くない。
だから、三十年以上の付き合いがあり、かつ最も信頼できる源二郎に養子のお願いをしたのだ。あまりに突拍子のないお願いに源二郎も当初は断ろうかと思ったが、突然両親が亡くなって憔悴しきっているニニィの姿を見て、このまま放っておくわけにはいかないという思いが出てきて、ついに承諾をしたわけである。
それから様々な紆余曲折を経て、ニニィが六歳の時に源二郎の養子として日本に行くことが決まった。彼女の祖母は、ニニィが日本へ行った直後に力尽きたように亡くなってしまったらしい。
「ここまでの話は分かりました」
良央はカップのコーヒーを飲み干してから続ける。
「ですが、どうして、俺に彼女の面倒をお願いするんですか? いくらあなたの親戚だとはいえ、今日まで全く面識がなかったんですよ」
「それは承知しています。しかし、私にとっての親戚はあなたしかいませんでした」
良央は目を瞬かせる。
源二郎は自分の胸に手を置く。
「私は今日まで独り身でしてね……。両親や姉も亡くなり、ニニィがやってくるまではずっと一人で暮らしてきました。良央さんの存在を知ったのもつい最近のことで、よくよく調べてみたら、社会人として立派に自立した生活を送っているそうじゃないですか。しかも、ニニィとはそこまで歳も離れていないし、私の家からかなり近い場所にあるから、君の家からの通学にもあまり支障が出ない。いろいろと好条件が揃っていましたので、こうして良央さんに面倒をお願いすることにしました。一応、良央さん以外にも何人かの知り合いに並行で相談をしていますが、そちらの方はなかなか難航しているのが現状でしてね」
源二郎は深刻そうな顔で腕を組む。
「もちろん、断る権利はありますから、嫌なら断ってもいいです。しかし、身勝手なことだとは承知していますが、どうか彼女を助けてくれないでしょうか。君が断ってしまったら、最悪ニニィ一人で生活をせざるを得ない状況になってしまいます」
ごくりと唾を飲む。どうやら、事態は思った以上に深刻そうだった。
源二郎の隣に座っているニニィも、顔をうつむかせたまま固唾を呑んで見守っている。よっぽど緊張しているのか、体が異様に震えているのが分かった。
すると、源二郎が小声でニニィに言った。
「ニニィ。良央さんと話してみなさい」
「あっ、はい」
彼女は慌てた素振りで顔を上げる。
「……よ、良央さんは、今どちらに住んでいるんですか?」
「中野坂上」
「あっ、近いですね」
「ニニィさんはどこに?」
「中野新橋です」
「へーっ。近いな」
ここで良央は、源二郎からの手紙が中野新橋から送られてきたことを思い出した。中野新橋なら、良央の家からでも歩いていける距離である。
「昔は中野坂上駅の近くに住んでいました」ニニィは続ける。
「そうなの?」
「中学に進学する際に引っ越したんです」
「ということは、小学校も中野坂上の近くだったのか」
「はい。××小学校に通ってました」
「おおっ。同じ小学校なのか」
まさか、こんなところで母校の小学校の名前が出てくるとは思わなかった。
急に親近感が湧いてきた。
「じゃあ、今どこの中学に通ってるの?」
「××中学校です」
その答えを聞いて、思わず良央は唸ってしまった。
中野区外ではあるが、その中学は近辺では最難関の私立校だった。
「すごく頭が良いんだな。じゃあ、家では普段どんなことしてるの?」
「料理とか掃除とか……」
「他にはどんなことをやってるの?」
「ええと。勉強や研究だったり、お菓子とか作ったりしてます」
それからも、しばらく二人の会話は続いた。
おとなしい印象があったので、質問にちゃんと答えてくれるかどうか不安だったが、それは杞憂に終わったようだ。ニニィの方も、最後はだいぶ緊張が解けた様子で接してくれた。
話が終わると、源二郎が「会計をお願いします」と言って立ち上がった。
「結論は一週間以内で頼む。その際はまた私の携帯に連絡してくれ」
こうして、良央とニニィの初顔合わせが終わった。
※
その夜、万年床に横になって、良央はどうしようか悩んでいた。
源二郎の養子――ニニィと話した限り、特に悪い印象はなかった。
少しおとなしいが、基本的には真面目で良い子で、血の繋がっていない源二郎に対しても、家族として接しているような態度が感じられた。
しかし――。
良央は起き上がって、自分の部屋を見回してみる。
マンガやゲーム、CDなどが散乱しており、隅には昨日着たワイシャツと靴下が脱ぎ捨てられている。
あまりの汚さに、思わずため息をついてしまった。小さなテーブルの上にはカップラーメンの容器とビール缶が満員電車のように敷き詰められており、そういえばここ最近、家の中ではカップラーメンしか食べてないことを思い出した。
――こんな汚ねえ部屋に、あの子と一緒に生活なんてできるわけないだろ。
それに、大学一年からずっと一人で暮らしてきたのだ。このタイミングで誰にも縛られない一人暮らしの生活にピリオドを打つのは、少しもったいない気もした。
真面目そうな性格の彼女のことだ。
もし一緒に生活を始めたら、だらしないことはできなくなるだろう。一日中カップラーメンの食事なんかしていたら、きっと怒られるに違いない。
尻を掻いて悩んでいる矢先、スマートフォンから着信音が鳴った。
確認すると、今日登録したばかりの源二郎の名前が映っていた。
「はい、もしもし」
『もしもし。今、時間は大丈夫かな』
「大丈夫ですけど、いったいどうしたんですか?」
『ニニィのことで重要な話がある。――いや、むしろこれから伝える話の方が、今日話した内容よりも重要になってくるのかな』
良央は気を引き締める。
「どういうことですか?」
『ニニィのちょっとした秘密だ』