櫓から出る火がどんどん大きくなっていく。
「はっきり言いますと、私は源二郎さん――いえ、祖父を一方的に憎んでいました。尊敬する人間の子供を、祖母を裏切った人間のそばに置いていけない。そう思った私は、どうすれば二人を引き離せるのかを考えました。そして考えついた結論が、ニニィさんをイギリスの研究所に連れ戻すことでした」
燃え盛る炎に照らされながら、花蓮は静かに話していく。目の前で燃えている炎は、まるで彼女の感情を読み取っているかのように徐々に勢いが増している。
一連の話を呆然と聞いていた良央は、マフラーの位置を調整してから恐る恐る尋ねた。
「憎んでいた? ということは、今はどうなんですか?」
「今、ですか?」
花蓮は小さく笑って、どんど焼きから良央に目を向けた。
◇
「良央さん。もう十二時ですよ。起きてください」
ニニィの声を受けて、良央は目を開ける。
十二時という言葉を聞いて、意識が一気に覚醒した。
「もうそんな時間なのか?」
「そうですよ、早く準備しませんと、お祭りに遅れてしまいますよ」
「ああ、ごめん……」起き上がって頭を掻く。
「朝食――というより昼食になるますけど、いただきますか?」
「そうする」
大きなあくびをして、良央は洗面所に向かう。
今日はニニィと母校の小学校で行われる祭りに参加するつもりで、九時に目覚ましをセットしておいたが、気付かないうちに切ってしまっていたようだった。
昨日は帰ってきたのが午後の十一時で、慣れない作業に憤りを感じてた良央は夕食後、半ばやけくそ気味で布団に潜って、夜中の三時までゲームをしてしまったのだ。
顔を洗い終えた良央は、何となく鏡に映る男と目を合わせる。目の下にはクマが残っており、すっかり疲れたような顔色になっている。
その理由は、今年に入ってから仕事量が圧倒的に増えたからである。
良央はイベント用品などのレンタルを行っている会社に所属しているが、今年になってからレンタルだけではなく、イベントの設営などの業務にも関わるようになった。去年をもって設営に関わっていた人が退職したため、良央に白羽の矢が立てられたのである。
実際に木曜日と金曜日はクライアントのところに行って、今後行われるイベントについての細かいミーティングが行われた。以前に比べて外に出る機会が格段に増えたため、必然的に会社内でやらなければいけない仕事が増えるようになった。
その結果、終業時間を過ぎても残っている仕事を片づけなければならず、ようやく会社を出れるのが早くて九時――遅くとも十一時になってしまうのだ。
着替えを済ませて、居間に戻った良央は遅い朝食を摂り始める。ニニィが時間を配慮してか、メニューは野菜たっぷりのスープだった。
食べながら、良央は本を読んでいるニニィに言った。
「昨日、十一時頃に帰るってメールしたけど、俺が帰ってきた時はまだ起きてたじゃん。先に寝てても良かったんだぞ」
ニニィの視線が良央に移る。
昨晩、夜遅くに帰ってきたにも関わらずニニィは起きており、彼を迎えてくれた。そして良央の分の夕食を作った後、ようやく布団に就いたのである。
「今日が土曜日だったので、起きててもいいかなと」
「でも、翌日が平日の時はそうはいかないだろ」
「……そうですね」
「あんまり無理しなくていいよ。もし、帰りが遅くなるようだったら早めにメールするから、その時はニニィのペースで動いてもいいよ」
「あの、だったら夕食の方はどうしますか?」
「遅すぎたらあんまり食べられないし、無理して作らなくてもいいよ」
「い、いえ。無理じゃないです」
良央はスプーンを持つ手を止める。
「帰りが遅くなる時は冷蔵庫に入れておきますので、どうか食べてくれませんか?」
「……ああ、そこまで言うならいいよ。でも、本当にできる範囲でいいからな」
ニニィは安心したように頷く。
ともあれ、これからは彼女と一緒に夕食を食べる日が少なくなるのは確実だ。
去年までは七時から八時台の時間帯で帰ってこれたが、今年はそうはいかない日が多くなるだろう。彼女との生活はあと二ヶ月弱だが、地味に嫌な追い討ちである。
食事を済ませて、そろそろ外に出る準備を始めようとした時だった。
スマートフォンから着信が入ったので、確認してみると花蓮の名前が入っていた。
「もしもし」
「もしもし。良央さん、今お時間は大丈夫ですか」
「大丈夫ですけど、どうかしましたか?」
「もし、お時間が空いてましたら、良央さんの家にお邪魔できればと思いまして」
「えっ。今からですか?」
「はい。ちょうど残っていた仕事が終わって手が空きましたので」
そういえば、中野坂上に花蓮が所属している研究所の日本法人があることを思い出した。
普段は源二郎の世話と、病気の研究のために中野から離れた病院にいるらしいが、説明を聞くと今日はどうやら中野坂上に用事があったという。
ここで良央はあることを思いついた。
「花蓮さん。でしたら、今から一緒にお祭りに行きませんか?」
電話口の花蓮が「えっ?」と声を漏らす。
「今からニニィと一緒に近所の小学校でやる祭りに行くんです。もし、良かったらそこに一緒に行きませんか?」
※
良央とニニィは、急いで準備を済ませて家を出る。
待ち合わせの場所である中野坂上駅の改札口に行くと、柱の前で花蓮が待っていた。
今日の彼女はいつものスーツ姿ではなく私服姿だった。
ベージュのニットコートにジーパンを履いており、スーツ姿に比べたら全体に漂う凛々しさが薄らいでいるような気がした。でも、服装が変わったとはいえ、目を惹くような姿は変わらない。
良央は軽く手を振ると、花蓮はすぐに気が付いた。
「こんにちは。もしかして待たせましたか?」と良央。
「いいえ、そんなことないです」
ここで花蓮は、良央の首に巻いてあるマフラーに目を留める。
「あったかそうなマフラーですね」
「ニニィが編んでくれたんです」
「へえ。ニニィさんが……」
そして花蓮はニニィに視線を移すと、そのまま頭を下げた。
「こんにちは。改めまして、この度は本当にありがとうございました」
「いえ、こちらこそ誘っていただきましてありがとうございます」
「イギリスに移住までの手続きや、移住後の生活は私が全面的にサポートさせていただきます。おそらく二月中に一週間ほどイギリスに行かなければいけなくなりますので、詳細は近日中に連絡させていただきます」
「一週間ですか?」
「住む場所でしたり移住に伴う手続きでしたり、事前にいろいろ準備しなければいけませんからね。研究所の上層部ともお会いしなければいけませんし、かなり大変なことになるかもしれませんが、そこはあらかじめご了承ください」
つい一週間前、ニニィの移住が正式に決定し、その時も花蓮は良央の家にやってきたが、その時はお礼の挨拶だけで終わった。
しかし、今の説明を聞いていると、いよいよ渡英に向けて本格的に忙しくなりそうな感じだった。
「小学校から一番近い出口はあっちです。行きましょう」
良央は最寄りの出口を指差して歩き始めた。駅から小学校までは十分ほどである。目的地に近づいていくにつれ、周りを歩いている人も徐々に増えていった。
小学校の校門前に辿り着くと、ニニィは小さく声を上げた。
「あんまり変わってないですね」
「そうだな」
良央にとって十年以上前に卒業した場所であるが、外観に変化はなかった。
「お二人の母校なんですか?」花蓮が驚いたように尋ねる。
「あれ、まだ言ってませんでしたっけ? 実はそうなんですよ」
「……なるほど。考えてみればそうですよね。良央さんもニニィさんも、小学校時代は中野坂上近辺に住んでいたんですからね」
三人は校門を通る。良央たちの母校である中野小学校は、いったん校舎の正面玄関を通り抜けないと校庭に行けない構造になっている。
「下駄箱ってこんなに小さかったんですね」
校舎を通っている途中、ニニィは低学年用の下駄箱を眺めながら呟いた。
校庭に入ると、中心にそびえ立っている巨大な三角錐の櫓に目を奪われた。
あれは今回の祭りのメインである、どんど焼きである。
良央の代からすでに続いている、中野小学校の伝統行事である。ニニィも「なつかしい」と、呟きながら櫓を見ている。
「あそこにあるのはなんでしょうか」花蓮が良央に尋ねる。
「あれはどんど焼きと言って、日本の伝統行事みたいなものです。簡単に言いますと、お正月に使った道具を燃やして、今年一年を無事に過ごせるように願う行事なんです」
「お正月の道具をわざわざ集めて燃やすんですか?」
「まあ、可燃ゴミに出すよりかは、こっちの方が縁起がいいじゃないですか」
「なるほど。詳しいんですね」
「いえ……。昔から行われていた行事ですし、毎年のように見に行っては、母さんからどんど焼きに関する細かいうんちくを聞かされていたんです」
毎年、火災の危険性があるので行うか行わないかで議論がされているらしいが、今年も無事に行われるようだった。
とはいえ、周りが住宅街に囲まれているので、櫓の高さは三メートルほどの小さいものになっている。中には多くの門松やしめ飾り、書き初めといったお正月アイテムが入っていた。数は少ないが、だるまも中に含まれている。まだ火はついてないので本番はこれからだと思うが、すでに準備は万端のようだ。
校庭の外側には様々な屋台が並んでおり、大勢の子供たちもそこにいた。
ラインナップはくじ引きだったり焼きそばだったりストラックアウトだったり、当たり前だが子供向けの内容が多かった。
「お昼、何か買ってきましょうか?」ニニィが問う。
「俺、さっき食べたばっかりだからな……。花蓮さんはどうします?」
「そうですね。何か食べたいですね」
「じゃあ、まずは二人分の食べ物と三人分の飲み物を買うか」
こうしてニニィは焼きそば、良央と花蓮は飲み物を買うことになった。
良央たちはペットボトルの飲み物をすぐに買えたが、一時を過ぎたばっかりなので、ニニィが並んでいる焼きそばにはまだかなりの人が並んでいた。しかも、様子を見ると大勢の子供たちから話しかけられているようで、困ったような顔になっている。
「ニニィさん。すごい人気ですね」感心するように花蓮がつぶやく。
「出会った頃はこういった人が多く集まる場所が嫌いだったのに、ずいぶんと改善されたなと思います。今では帽子もおしゃれをする時以外は滅多にかぶらないですし」
「良央さんのご指導の賜物ですね」
「いえ……俺からはそんなたいしたことは言ってないです」
少し恥ずかしかったので、良央は話題を変えることにした。
「そういえば前から気になっていたんですが、花蓮さんは小学校はどちらなんですか?」
「私は日本ではなく、イギリスの小学校なんです」
「へーっ。いつから渡英したんですか?」
「生まれた時からイギリスです。日本の学校や大学には行ったことがありませんね。ただ、母は現地にいる日本人の父と結婚しましたので、昔から英語と一緒に日本語も学ばされましてね。おかげで、どちらの言語も不自由なく使えます」
確かに花蓮の日本語は、発音に違和感はなく完璧だった。そういえば以前、花蓮はイギリス在住だということをしゃべっていたような気がした。
喉を潤しながら、良央はちらっと花蓮の横顔を見る。
二人になる機会が少ないせいか、まだ花蓮のことをよく分かっていない。これは良い機会だと思い、以前から気になっていたことを含めて追究してみることにした。
「花蓮さんのおばあさんは久子さんなんですよね?」
「ええ、そうですけど」
「久子さんは日本で大叔父さんの家の使用人で働いていたと聞きましたけど、久子さんはよくイギリスに来ていたんですか?」
「いえ、そんなになかったですね」
「やっぱりイギリスと日本は遠すぎるからでしょうか?」
「正直に申し上げますと、私と祖母はほとんど面識はありませんでした」
「へーっ。そうなんですか?」
「祖母は、私の母が結婚したのを機に日本に戻ってしまったからです。それ以来、なかなか連絡が取れない状態が続きまして、次に会ったのは病気で亡くなる直前でしたね」
「えっ?」
良央は目を瞬かせる。
てっきり、花蓮の母が何らかの理由で渡英したのかと思っていたが、花蓮の言葉が正しいなら久子の代から渡英していたことになる。これは少し意外だった。
良央はペットボトルのキャップを締める。これは追究しないわけにはいかなかった。
「花蓮さんって、研究所に入ってどのくらい経つんですか?」
「十年になります」
マジか、と良央は思った。それが本当なら、花蓮はすでに三十を超えているということになる。見た目が二十代半ばくらいなので、すっかり同い年くらいだと思っていた。
「イギリスの大学を卒業して、研究所に入ったんですか?」
「そうですけど、それがいったいどうかしましたか?」
「となると、すごい偶然もあったものですね」
花蓮はきょとんとなる。
「久子さんの病気を知って、花蓮さんはイギリスから日本に来たんですよね? で、そこでニニィに出会いました。でも、ニニィの両親は花蓮さんが所属している研究所で大きな成果をあげています。その両親の娘がまさか遠く離れた日本で、自分の祖母と深い関わりを持っていたなんて、恐ろしい偶然もあったものですね」
この瞬間、まるでしまったと言わんばかりに花蓮は目を大きく見開かせた。
二人の前で、子供たちが大きな声をあげながら駆け抜けていく。
「良央さん、何がいいたいんでしょうか?」
「これは単なる偶然なのかなって疑問に思ったんです。どうせ、花蓮さんもあと少しで日本からいなくなってしまうわけですし、この際に訊こうと思っただけですよ」
内心かなり緊張していたが、なるべく平坦な口調で返す。
すると、花蓮はふっと笑った。
「もし、私が本当のことを言うとしましょう。その時、良央さんはどうされるつもりですか?」
「いや……。別に何もしませんよ。本当に何となく気になっただけですから」
その時、ようやく焼きそばを買い終えたニニィがこちらに向かおうとしていた。
「やっぱり偶然じゃないんですか?」
良央の問いに、花蓮は観念したように小さく息を吐いた。
「まさか、良央さんに問われるとはちょっと意外でした。でも、ニニィさんをイギリスに行かせる以上、ちゃんと話しておいた方がいいかもしれないですね。良央さんの言う通り、私とニニィさんの出会いは偶然ではありません。最近まで面識がなかったのは事実ですが、いろんな要素が絡まって、今日に至っているのだと私は思っています」
「いろんな要素ですか?」
嬉しそうな顔で近づいてくるニニィを眺めながら、花蓮は続けた。
「そうですね。私とニニィさんの出会いは運命だったと、言っておきましょうか」