新しい年を迎えて、いよいよ明日から三学期が迎えようとしているこの日。
玄関で靴ひもを結び終えた俊樹は、大きく息を吐いた。
この日、彼はニニィと一緒に東京ディズニーランドに行くことになっていた。もちろん、二人っきりではなく妹の利香と、保護者として良央が同行することになっている。
去年のクリスマスに利香と一緒にスカイツリーに行く予定だったが、ニニィの保護者である良央がインフルエンザを発症してしまい、急遽キャンセルとなってしまった。
その直後、利香がディズニーランドに行ってみたいとごねてきたので、良央と両親に相談をして、こうして行くことになったのだ。
ちなみに、良央はこの日のためにわざわざ休暇を取ってくれた。
その際、上司からいろいろ言われたらしいが、インフルエンザの前科があったので何とか押し通したと、笑いながら話してくれた。
「ちゃんと良央さんには感謝おきなさいよ。分かったわね」
玄関で母親がそう言ってきたので、俊樹と利香は「はーい」と答える。
「お兄ちゃん。早く行かないと遅れちゃうよー」
靴を履いた利香がやたら高い声で言ってくる。ディズニーランドに行くことが決まってから、今日まで利香はご機嫌な状態が続いていた。
家を出て、中野坂上駅に到着すると、すでに良央とニニィが改札口の前で待っていた。
良央は白と黒のマフラーを首に巻いていた。
「お姉ちゃん!」
利香の声に、ニニィがこちらに体を向ける。
肝心のニニィは、赤と青のコートと白のスカートを穿いていた。以前は地味な服を着ていたこともあり、今日は一段と可愛く見えてしまう。
改札口を通って、四人は丸ノ内線のホームで電車を待つ。まだラッシュの時間ではないので人はそこまで多くなかったが、あと三十分もすると、この場所もひどい混雑に見舞われる。
「ねえ、お姉ちゃん」
待っている最中、利香が口を開いた。
「お姉ちゃん、本当に四月からいなくなっちゃうの?」
ニニィの顔が一瞬強張る。
彼女が来年の四月から日本を出るという情報がメールでやってきたのは、一月三日のことだった。当初は何が何だか分からずに俊樹はメールで問い質してみたが、詳しいことは今日話すと言ってきたので、それまで我慢してきたのだ。
ニニィは微笑みながら首肯する。
「うん。まだ完全に決まったわけじゃないけど、ほぼ確実にそうだね」
「なんで? なんでなの?」
「困ってる人を助けるために、勉強しにイギリスに行くのよ」
彼女の返事は淀みが無く、あらかじめ考えていた答えなのだろう。
電車が到着したので、四人は中に入る。ちょうど二人分の席が空いていたのでニニィと利香をそこに座らせて、良央と俊樹は彼女たちから少し離れた場所で吊り革を握った。
「いったい、ニニィさんに何があったんですか」恐る恐る俊樹は問う。
「詳しく説明するよ」
丸ノ内線が東京駅に到着するまで、良央は事情を話してくれた。
◇
大晦日にニニィがイギリスに行く決意を固めた。
しかし、最終的な結論はいったん保留することにした。
正式に決まるのはニニィが新学期を迎えてからで、それ以降は移住に向けた準備が始まる。ニニィが前向きに考えていることについては、すでに花蓮にも連絡済みで、花蓮も安心したように「よくぞ決断してくれました。感謝しております」と電話で答えていた。
良央も本来はイギリスに行くことに賛成だったので、本来ならニニィの決断は歓迎しなければならない。しかし、その一方で奇妙な空虚感を抱いているのも事実だった。
お正月はそれなりに忙しかったのであまり意識はしなかったが、この数日間はやたらボーッとする時間が多くなってしまい、あまり仕事も捗っているとは言えなかった。
そして変化は良央だけではなく、ニニィの方にも起こっていた。
まず、やたらと料理に気合いが入るようになった。
以前から料理に対するこだわりは半端ではなかったが、お正月の三日間は特に顕著になっていた。本格的なおせち料理や和食など、やたら時間を掛けて作るようになり、台所に立っている時間が多くなってしまった関係で、それ以外の家事をほぼ全て良央がやる羽目になってしまった。しかし、時間をかけて作った彼女の料理はどれも絶品であり、いろんな料理の感想を聞いている時のニニィは顔をほころばせながら、とても幸せそうな顔をしていた。
初めて会った時に比べて、だいぶ表情が豊かになっているのも大きな変化だった。
また、料理と一緒に良央を外に誘う回数も多くなった。
一月一日は近所の神社で初詣。一月二日は中野ブロードウェイでショッピング。一月三日は池袋のサンシャインシティでプラネタリウムを一緒に見た。
これらは全てニニィの方から誘われたもので、去年まで自宅でひたすら研究や家事をしてきた彼女とは、まるで別人のように見えてしまった。
来週の土曜にも、近くの小学校でお祭り的な行事が行われるので、そこに行く予定となっている。
俊樹に簡単な事情を話して、電車に揺られること一時間――。
良央たち一行は、ようやく東京ディズニーランドに到着した。開園まであと十分ほどで、すでに入り口には大勢の人が並んでおり、良央たちもその中に入る。
「くれぐれも迷子にならないように気を付けるんだぞ」
「はーい」元気な声で利香が答える。
その直後、右手に生温かい感触がやってきた。
ニニィがどこか緊張した面持ちで、良央の手を握ったのだ。
「迷子になったら、いけないんですよね?」
「あ、ああ……。そうだな」
幼い利香はともかく、スマートフォンを持っているニニィは別に手を繋ぐ必要はない気がしたが、別に突っ込むほどではなかったので、そのまま受け入れることにした。
後ろにいる兄妹を確認すると、すでに二人も良央たちと同様に手を握り合っていた。
利香の方は嬉しそうに握っているが、なぜか俊樹の方は顔面蒼白になっていた。
「どうしたんだ。人込みが苦手なのか?」茶化すように良央が言う。
「ええ、まあ……」
俊樹は力が抜けたような声で答える。
その後、ついに開園時間を迎え、ゲート近くにいる人間がぞろぞろと動き始める。
もし、周りが体力のある人間しかいなかったら、このまま人気アトラクションに早歩きで向かっていたが、さすがに今日は控えることにした。
どうせ夜のパレードも見るつもりなので、のんびり楽しむつもりだった。
歩き始めると同時に、ニニィの握る力が強くなる。
ニニィの様子をうかがうと、彼女も良央のことを見ていたようで不意に目が合ってしまった。ニニィは慌てたように目を逸らす。彼女にとってこれが初めてのディズニーランドなので、もしかしたらそれで緊張しているのかもしれない。
ニニィを安心させるように強く握り返しながら、良央は前に進んだ。
◇
なんだよ、あれ――。
俊樹は目の前で手を繋いでいるニニィの姿を見て、大きな衝撃を受けていた。
現在、四人は人気アトラクションで並んで待っている。もう迷子の心配はないのに、それでもニニィは良央から手を離そうとせず、利香と楽しそうに話している。
時折、良央に視線を向けて話すが、その時だけ瞳の奥が異様に輝いて見えるのだ。
もう、結論は言うまでもなかった。
ニニィ・コルケットの心は、完全に古川良央に向けられている。
自分のことなんて、全く眼中にない様子だ。
先ほど、地下鉄の中で良央からニニィが四月にイギリスに移住することになった経緯を聞いたが、衝撃度は圧倒的にこっちの方が大きかった。ずっと前から片思いをしてきた相手だったため、お正月の時にイギリスに行くことを知った時は、かなりショックを受けた。
とはいえ、多少の時間が経つとそれなりに心の整理ができた。
でも、目の前に広がっている光景はいったい何なのだ――。
彼女は四月からイギリスに行くから、彼とは必然的に別れなければいけないはずだ。なのに、どうしてニニィは彼にあんな視線を向けるんだ。もう別れる未来は決まっているはずなのに、どうしてなんだ。
そして、いよいよ俊樹たちの出番が迫ってきた時だった。
「ニニィ、もう十分だろ」
業を煮やしたのか、良央は半ば強引にニニィから手を離した。
「初めてのランドで緊張する気持ちは分かるけど、もういいだろ」
「えっ、でも」
「そろそろ独り立ちしないとな」
「い、いやだっ――」
ここでニニィは慌てるように、自分の口を塞ぐ。
良央は首を傾げる。
「どうした?」
「い、いいえ……。何でもないです。ごめんなさい」
頭を下げたニニィは、そのままうつむいて無言になってしまった。
ここで列が前に進んだので、良央も釣られて前に歩き始める。すると、ニニィが手を伸ばして彼の手に触れようとするが、直前で思い出したように引っ込める。
「お姉ちゃん、どうしたの?」利香が尋ねる。
「ううん。なんでもない。本当になんでもない……」
微笑みながら答えるニニィだが、その表情はどこか苦しそうに見えた。
※
平日とはいえ、今日は休みの最終日だけあって、園内は比較的混んでいた。
休憩を挟みながら、人気アトラクションに乗っているうちに日もだいぶ沈んできた。このまま夜のパレードまでのんびりするのかな、と俊樹が思っていた矢先だった。
「ねえねえ、お兄ちゃん。あれに乗ろうよー」
彼の服を引っ張って、利香が指差したのは絶叫系アトラクションだった。
お昼を過ぎた頃は疲れた様子の利香だったが、先ほど一時間待ちのアトラクションで並んでいた時に昼寝をしたせいで、すっかり元気を取り戻していた。
アトラクション前に立てられている看板では、一時間待ちの表示だった。
「一時間も待つのかよ」
すると、利香がポケットからそのアトラクションの優先搭乗券を出してきた。
「これ、ごはん食べた後に取ったじゃん」
「ああ……。そういえばそうだった」
俊樹は肩を落とす。なぜなら、利香が寝ている間はずっと自分が彼女をおぶっていたので、だいぶ体力が消耗していたからだ。良央が何度も代わってやろうかと尋ねてきたが、そうすると利香が起きてしまう可能性があったので断っていた。また、俊樹はどちらかと言うと絶叫系を苦手としており、もう乗りたくないのが本音だった。
ちなみに、利香と同じ優先搭乗券は利香の分を含めて二枚しか発行していない。ニニィも絶叫系を極端に苦手としていたので、利香と俊樹の分しか発行していなかったのだ。
「有野くん。だったら俺が代わってやろうか?」良央が訊いてくる。
どうしようか迷ったが、ここは彼の好意に甘えることにした。
「お願いできますか?」
「よし、利香ちゃん。お兄ちゃん、疲れてるようだし、代わりに俺が行ってあげるよ」
「いいよー」
「じゃあ、ニニィと有野くんはそこまで待っててくれ。二十分くらいしたら戻ってくるから、何なら近くの店で休憩しててもいいよ」
思わず、俊樹は体をびくんと跳ねらせてしまう。
「じゃーねー。お兄ちゃん!」
良央と利香が視界からいなくなった後、恐る恐るニニィの方を見る。
彼女は寂しそうに良央がいなくなった方向を見つめていた。
「ここに突っ立っているのも難だし、どっかに座ろうか?」
「あっ、うん」
ぼんやりとしているニニィを連れて、俊樹は近くにあるベンチに腰掛ける。
近くにあった店に入るとペットボトルの温かいお茶が売られていたので、俊樹は二本購入して、そのうち一本をニニィに渡した。
「ありがとう。ちょうどあったかいものが飲みたかったの」
「そ、そういえば、まだ俺の方から祝ってなかったよな」
「なにを?」ニニィがボトルの蓋を開けながら尋ねる。
「イギリスのことだよ。良央さんから詳しい話を聞いたけど、かなり有名な研究所に行くらしいじゃん。――ニニィさんって、今十五だっけ?」
「まだ十四。三月で十五になる」
「でも、それってすげえことだよな。おめでとう」
「うん。ありがとう」ニニィは微笑む。
「でもさー。俺の見た感じだと、あんまり乗り気じゃない感じがするんだけどな」
彼女は目を瞬かせる。二人きりになるのは銭湯の時以来だ。
おそらくこんな機会は今しかないと思うので、俊樹はさらに追及してみた。
「もしかして、良央さんと別れたくないからか?」
ニニィはぶるっと体を震わせて、慌てたようにボトルのお茶を飲む。
どうやら図星のようだ。本当はもう少し直球な表現を言ってみようと思ったが、さすがにそれはやめておくことにした。
しばらく沈黙が流れた後、ニニィは静かに頷いた。
「うん。別れたくない」
「じゃあ、なんでイギリスに行かなくっちゃならないんだ」
「大切な人の病気を治すため」
「大切な人?」
「うん。私のおじいちゃん……。血は繋がってないけど、とても大切な人」
そうなのか、と俊樹は内心思った。
良央から話を聞いたとはいえ、さすがに細かいところまでは彼も話してくれなかった。
イギリスの研究所に関しても、最先端の医療の研究をやっている所だという、何とも抽象的なことしか話してくれなかったのだ。
今の話を聞くと、ニニィにとっては苦渋の決断だったに違いない。良央と別れたくなかったが、そうなると大切な人の病気を治すことができなくなってしまう。
俊樹はお茶を飲む。さっき買ったばかりなのに、寒さですっかりぬるくなっていた。
「ぶっちゃけ、良央さんって普段はどんな感じなの?」
ニニィは首を傾げる。
「どんな感じって?」
「いや、単純に家の中だとどんな感じで過ごしているのかなーと思って」
「そうだね。真っ先に言うなら、だらしない人かな」
「えっ?」
「掃除をする時はいつも隅に汚れが残ってるし、頼んでおいた玄関のごみ袋を持っていかない時があるし、缶ビールを普通のゴミ箱に捨てちゃうし、出した本やCDはだいたい放りっぱなしにしてるし、休日はひどい時は午後まで寝てるし、たまにお風呂に入らない時があるし、だらしないところを挙げたら本当に切りがない人なのよ」
突然しゃべり始めたニニィに、俊樹は唖然となる。
「……そうなんだ。それはちょっと意外だな」
「でも、すごく優しい人なの」ここでニニィは笑みを浮かべる。「いつも私が作ってくれた料理をおいしいと言ってくれるし、私が作ったご飯やお弁当は一度も残したことがないし、私がすごく忙しい時は何も言わないで手伝ってくれたりするの。それに良央さんがいなかったら、こんなおしゃれな服なんて一生着なかったかもしれない」
そして、良央が乗っているはずのアトラクションの方に目を向ける。
「どうにかして欲しいところはいっぱいあるけど、良央さんは本当に優しい人よ。最初に一緒に生活を始めた時はやっぱりちょっと怖くて、私がいろんな家事を率先してやったり、良央さんが悩んでいたニキビのことを調べて、その対策用のメニューを無理やり考えたりしてたけど、今は良央さんのためにご飯を作るのがすごく楽しみなの。良央さんがおいしそうにご飯を食べている姿を見ていると、こっちまですごくあったかい気分になれるの」
その目は生気に満ち溢れており、頬は赤く染まっていた。
「私、あの人に会えて本当に良かった。本当に……」
その瞬間、俊樹の中で何かが終わりを告げた。
実は今日、もしチャンスがあったらニニィに告白できれば良いなと、秘かに思っていた。
可能性は低いことは承知しているが、それでも自分の気持ちが伝えられればと思っていた。しかし、今の言葉で俊樹の中にあったささやかな希望も完全に潰えてしまった。
今、ニニィの目は完全に良央に向けられている。
もう、自分に出る幕はとっくに無かったのだ。
「でも、もうちょっとでこの生活も終わっちゃうんだよね」
ここでニニィは肩を落とす。
「……おかしいよね。自分で決めたことなのに。どうして……どうして、今さらこんな気持ちになっちゃうの?」
彼女は唇を噛んでスカートを強く握る。
その表情は苦悩に満ちており、俊樹はかけてあげる言葉が浮かんでこなかった。
遠くでジェットコースターの滑走音と一緒に、乗客の叫び声が聞こえてくる。タイミング的に、良央と利香もその中に含まれているかもしれない。
――何やってんだよ良央さん。ニニィさんがこんな苦しんでるんだぞ。早くニニィさんの気持ちを察してあげないと、取り返しのつかないことになるかもしれねえぞ。
多少の嫉妬も含ませながら、俊樹はジェットコースターに向けて心の叫びを放った。
◇
夜のパレードも見終え、良央たちはなるべく早めにランドから離れることにした。
「良央さん。平気ですか」歩きながら心配そうにニニィが問う。
「ああ、平気。この前はニニィをおぶって帰ったしな」
納得したように頷くニニィに対し、俊樹が驚くように良央に視線を向けた。
利香と二人でジェットコースターに乗った後、妙に俊樹の口数が減ったような気がする。
現在、利香は良央におぶられながら眠っていた。夕方にいったんは眠ったが、再び限界を迎えたようで、規則正しい寝息が耳元で聞こえてくる。
さすがに閉園間近の時間帯なだけあって、最寄りの舞浜駅はだいぶ混雑していた。
それでも電車の座席は何とか二つ分だが確保することに成功して、良央はニニィと利香を座らせた。よほど疲れているようで、利香はニニィの肩に頭を置いて再び眠ってしまった。すると、ニニィの方も目を閉じてそのまま眠ってしまった。
吊り革を握ったまま、良央は前方の窓を眺める。
すっかり外は真っ暗になっており、自分と隣にいる俊樹の顔が鮮明に映った。
「じ、実はですね」ここで俊樹が口を開いた。「今日ニニィさんにやろうと思ったんです」
「やろうって何を?」
窓に映る彼は照れくさそうに言った。
「……あのですね。告白をです」
「おおーっ。さすがじゃん」
その瞬間、良央は先ほど発言のささやかな意味に気付いた。
「――ええと、やろうと思ったってことは、結局やらなかったのか?」
「もう自分の出る幕じゃないと思ったのでやりませんでした」
「まあ、四月になったら日本を離れるしな」
「いえ、そういう意味で言ったわけじゃありません」
妙に力のこもった口調の俊樹に、良央は窓から視線を移す。
「どういうこと?」
俊樹が口を開こうとした瞬間、それまで眠っていたニニィが小さく唸り声をあげた。
ゆっくりと目を開けて、良央と俊樹に視線を巡らせる。
「あれ。私、眠ってましたか?」
「ああ……。東京駅までもう少し時間があるから、まだ寝ててもいいけど」
「いいえ。もういいです」
ニニィは大きくあくびをしながら体を伸ばす。
良央はさりげなく俊樹の様子をうかがうと、彼はうつむいたまま何もしゃべらなかった。さすがにニニィの前で話すわけにいかないので、仕方ないよなと良央は思った。