それから五分後、家のインターホンが鳴ったので良央が玄関に行く。
扉を開けると、大きな鞄を持っているニニィがいた。
彼女は今、二週間前に新宿で買ってきた赤と青のコートと黒のチュールスカートを着用している。帽子はかぶっていない。初めて彼女と会った時と比べて、だいぶおしゃれを意識するようになってきた。
「待ってたよ。大叔父さんは居間にいるから、早く上がって」
こくりとニニィは頷くと、そそくさと家に上がって居間へと行く。
「おじいちゃん」
「ニニィ……。久しぶりだな。元気していたか?」
「うん。おじいちゃんは?」
「今のところはな。まだ病気の初期段階だから、これといって日常生活に大きな支障はない。しかし、これからどんどん症状が悪化すると医者から言われてるよ」
ニニィにとって、病気を知ってから初めての源二郎との再会である。
二人の声は嬉しそうにも聞こえたし、どこか悲しそうにも聞こえてしまった。
ここでニニィはコートを脱いで、椅子の背に引っ掛ける。コートの下は白の黒のボーダーカットソーであり、ここでようやく源二郎は彼女の服装の変化に気付いたようだ。
「ニニィ。その服はどうしたんだ」
「この前、良央さんが買ってくれたの。どうかな?」
源二郎は目を擦ってから、改めてニニィを眺める。
「似合っとるよ。まさか、あれだけ目立つことを嫌ってたお前が、そんなおしゃれな服を着るようになるとはな。そういえば、帽子もかぶっていないな」
「うん。もし良央さんがいなかったら、昔のままだったと思う」
「なるほど。良央さんのおかげか」ここで源二郎は良央に視線を移す。「――と、ニニィがしゃべっているが、良央さんはいったいニニィにどんなことを言わせたんだ?」
「い、いや。別にそんなたいしたことは言ってないですって」
「本当にそうか? この子は意外と頑固なところがあるから、私や久子さんがどれだけ言っても服装だけは断固として変えなかったからな」
ニニィは良央の隣の席に座って、改めて源二郎と向かい合う。
「まあ、余談はここまでにして本題に入るぞ。――ニニィ。詳しい話は良央さんから聞いたが、花蓮さんからイギリスの研究所に誘われたそうじゃないか」
「はい」
「まだ結論は出ていないと良央さんは言ってたが、そうなのか?」
ニニィはしばらく黙った後、こくりと頷いた。
「……まだです」
「住み慣れた土地を離れるのは辛いが、非常に魅力的な誘いであるのは間違いない。もしかしたら、二度とないチャンスかもしれない。しかし、それでもまだ決めかねているのは、ここにいる私や良央さんのことが気がかりだからなのか?」
すると、ニニィの体がびくんと反応する。
「そうなのか?」
彼の問いにイエスと答えるかのように、彼女は大きく体を震わせた。視線は手前のテーブルに向けたまま、黒のチュールスカートをぎゅっと握っている。
ふっ、と源二郎は小さく笑った。
「……お前は本当に優しい子だな。確かに数えるほどしか会えなくなってしまうが、だからといって二度と会えなくなるわけじゃない。今の時代、文明の利器を使えば、簡単に遠くからでも会話をすることができる。私もこの機会にスマートフォンを購入しようかな……。もし、イギリスで新しいスマートフォンを手に入れたら、すぐに私と良央さんに連絡先を教えてくれ。そうすれば、少しはお前の不安も解消されるだろう」
源二郎の言う通りである。
ニニィは日本で契約しているスマートフォンを使っているので、現地の会社と契約をすれば少なくとも連絡の手段は確保できるだろう。
もちろん、スマートフォンに限らず、今はいろんな手段で連絡を取り合うことができる。
「とはいえ、まだ行くと完全に決まったわけじゃないから、これ以上私から余計なことを言うのは控えていこう。イギリスに行こうが行かまいが決めるのはお前自身だ。この件について私からとやかく言うつもりはない。ニニィが決めた選択を私は尊重するつもりだ。良央さんとじっくり話し合って、お前自身が決めた道を進んでいけ」
「おじいちゃん……」
再び源二郎は良央に目を向ける。
「良央さん。荷が重いかと思うが、今はあなたがニニィの実質的な保護者だ。二人でじっくりと話し合って、最終的な結論を決めてくれ。もし、決まったら連絡をしてくれ」
「分かりました」良央は頷く。
ニニィの判断に委ねることを考慮してか、源二郎は自分が賛成だと言う意向は話さなかった。良央も源二郎と同じく、ニニィがイギリスに行くことには賛成派だった。
理由は源二郎とだいたい同じだが、「難病で苦しんでいる人を助けたい」という大きな夢を叶えるために、これ以上ない誘いだと思えたからだ。
しかし――。
その一方で、自分でもよく分からない息苦しさを抱いているのも事実だった。
まだ四ヶ月しか経っていないとはいえ、ここまで一緒に過ごしてきた大切なパートナーである。それがいなくなってしまうのは、単純に寂しいことなのは間違いなかった。
「で、また話が変わってしまうのだが……」
ここで源二郎の目線が、先ほどニニィが持ってきた大きな鞄に移った。
「ずいぶんと大きなかばんだな。何を持ってきたのだ?」
「良央さんと私――。明日の分の着替え」
「着替え?」
目を丸くされる源二郎に対して、良央が答えた。
「つまり、今日は二人ともこの家に泊まっていくつもりで来たんです。あっ、ちゃんと花蓮さんには許可とってありますよ? 説得するのが少し大変でしたけどね。もし、大叔父さんに事前に言ったら断られるかなと思いまして内緒にしてました」
「い、いや。突然そんなことを言われてもだな……」
「この機会を逃したら、もう二度とニニィと一緒に過ごせないかもしれないんですよ? まだイギリスに行くとは決まったわけじゃないですが、それでもいいんですか?」
「そう言われるとな……」
源二郎は考え込むように目を閉じる。
少し強引なやり方ではあるが、病気ですっかり他人に迷惑を掛けることに敏感になっている源二郎に対して、これが有効だと思ったのだ。
やがて、観念したように源二郎は言った。
「そうだな。せっかくの年末だし、久々にニニィの手料理を食べてみたい」
「決まりですね。じゃあ、堅い話はここまでにしまして、今日はここでゆっくり新年を迎えましょう。今から花蓮さんを呼び戻しますね」
良央が花蓮を呼び戻す間に、ニニィは鞄からビニール袋を取り出した。
「なんだそれは」源二郎が問う。
「昨日、インターネットで頼んだそば粉。今日は年越しそばを作るつもりなの」
「そば粉だと? 今から打つつもりなのか?」
「うん。今日は十割そばにするつもり。水もちゃんとミネラルウォーターを買ってきたし、道具もちゃんとしたものを持ってきたから」
「ほう……。それは本格的だな」
それから花蓮が家に戻ってきて、ニニィは台所で年越しそばを作っている間に、大人の三人でしばしの談笑が始まった。
その話の中で花蓮はニニィがイギリスに行こうが行かまいが、来年の四月からイギリスの研究所に戻ることを話してくれた。源二郎については研究所から後任の人間がやってきて、これまでと同様に病院で難病の治療に励むらしい。
良央にとって、花蓮が来年の四月に日本を離れるのは地味にショックだった。
とりあえず「時間がありましたら食事に行きませんか」と誘ってみたが、やんわりと断られてしまった。以前、源二郎の手紙に入っていた花蓮の番号も三月中に解約するとのことで、この三ヶ月のうちにどうにかしなければと、良央は秘かに決意をした。
そんなこんなでゆったりしている間に、年越しそばが完成した。
十九時を過ぎた頃、居間のテーブルに四人分の年越しそばが運ばれてきて、良央たちは思わず感嘆の声をあげる。
お盆の上には主役のざるそばの他に、つゆ入れ、ネギとワサビの小皿が載せられており、見た目は完全にお店で出てくるようなざるそばだった。
そばを眺めていた花蓮が、隣の源二郎に顔を向ける。
「すいません。さっき十割そばと聞きましたけど、いったい何か十割なんでしょうか?」
「ああ……。花蓮さんは長いことイギリスにいたから、あまりこういうことを知らないのか。簡単に言えば、そば粉を百パーセント使ったそばのことですよ。値段が安い店で取り扱っているそばは、だいたい小麦粉などの粉を何割か混ぜて作っているんです。味は好みがあると思いますが、単純な値段を比較しますと十割そばの方が高いですね」
「そばにもいろんな種類があるんですね」
「さて、こんな会話をしている間にも麺はのびてしまいます。生粉そばは非常にデリケートな食べ物ですからね。急いでいただきましょう」
ここで源二郎は台所のニニィに声をかける。
「――ニニィ。先に食べてしまっていいか?」
「今、そば湯を用意しているところ。もうちょっと待って」
「だったら、ついでに塩を持ってきてくれ」
台所からニニィがそば湯の入った容器と塩の入った皿を持ってきて、そそくさと良央の隣に座る。準備は整ったようだった。
「さて、いただきましょうか」
テレビでは年末恒例の紅白歌合戦が始まり、それを見ながらの夕食が始まった。
これまで何度か彼女の手打ちそばを食べてきたが、十割そばは今日が初めてだった。
まずはネギやワサビを入れず、つゆだけでそばを食べてみる。すると、しっかりとしたコシとそばの良い香りが口の中に広がり、思わず良央は目を見開いてしまった。
「うまいな」
「ええ。そばの香りがとても濃厚でおいしいです」
花蓮も感心したように、そばを口に入れていく。確かに百パーセントそば粉を使っただけあって、飲み込んだ後もしばらくそばの良い香りが口の中に残っていた。
源二郎はそばを箸で持ち上げて、うんうんと頷く。
「さすがニニィだ。麺が箸で切れることがない」
塩が入った皿にそばをつけて、ゆっくりと啜る。
何度か咀嚼した後、彼は幸せそうに口元を吊り上げた。
「うまい。安物の塩を使っているのが玉に疵だが、こんなところで贅沢は言うまい」
そして今度はネギとワサビをつゆに入れて、ずるずると豪快に口に運んでいく。病人とは思えない彼の食べっぷりに、良央と花蓮は思わず口をぽかんと開けてしまう。
そのうちに、まさかの一番乗りで源二郎は平らげてしまった。
締めのそば湯を味わうように飲んで、源二郎は安堵の息を吐いた。
「以前に比べて、また腕を上げたな。ごちそうさま」
すると、ニニィは照れくさそうに言った。
「ありがとう。これでも結構練習したんだよ」
「だろうな。もはや、本格的な店と全く変わらん味だよ」
あっという間に夕食は終わり、四人はそのまま紅白を見ることにした。
良央にとって紅白は久しぶりのことだった。本当は別のチャンネルでやっている年末恒例のバラエティ番組を見たかったのだが、さすがに三人の前では自重することにした。
「紅白歌合戦って、日本の有名なミュージシャンが大勢出てくるんですよね」
夕食の片付けも終わり、のんびりと紅白を見ていたニニィが問う。
「うん。今年を代表する人たちが大勢出るね」良央が答える。
「良央さんがこの前、連れてってくれたミュージシャンは出てくるんでしょうか」
「……いや、それは出てこないな」
「そうなんですか? あれだけ良い歌を歌っているのに」
「どれだけ良い曲を作っても、なかなか売れないことだってある。ニニィがよく聞いているミュージシャンだって、実はCDの売り上げはかなり低いんだ。悔しいことだけどな」
あのアコースティックライブ以来、ニニィはあのミュージシャンのファンになっていた。
勉強中も気晴らしとして、そのミュージシャンのCDを聞くようになっていた。
「あんなに良い曲なのに……。どうやったら、売れるようになるんでしょうね」
「さあね。宣伝の仕方とかタイアップとかいろいろあるかもしれないけど、やっぱり運の要素が大きいんじゃないかな。もちろん、良い音楽を作り続けることが大前提なんだけど」
「運、ですか……」
ニニィはテレビに目を向ける。
良央は音楽業界に詳しいわけではないので、どうして実力のあるミュージシャンが売りたくても売れない事態が発生しているのか、ちゃんと答えられるはずがなかった。
「そうですね。良央さんの言う『運』は、もっともなことだと思います」
すると、二人の話を聞いていた花蓮が割り込んできた。
「音楽に限らず、仕事や学業の分野で成功するためには、ある程度の運が必要だと私は思います。しかし、そう簡単に運はやってきません。ここで重要になってくるのは、自分で目の前のチャンスを見極めて、運を手に入れることだと私は考えています」
「自分で運を手に入れるんですか?」とニニィ。
「ええ。これは個人的な考えですが、どんな人間も生きていれば、勝手に良い運を掴めるチャンスが訪れると思います。しかし、それを実際に掴めるのは、ほんの一握りの人間だけです。大多数の人間は、せっかくのチャンスに気付かなかったり、気付いても掴み損ねてしまう場合が多いです。あの紅白に出ている歌手の方々はみんな、数少ないのチャンスを見事に掴んで、あの大舞台に立つことができたんだと思います。どんな世界も実力さえあれば成功できるほど、簡単にはできておりません」
花蓮は姿勢を正してから、改めてニニィを見る。
「話が変わりますが、ニニィさんが我が研究所に行くことは大変なチャンスだと思っています。このチャンスを逃したら、次はいつやってくるのか分かりません。もしかしたら、二度とお誘いがやって来なくなるかもしれません」
ニニィと良央は、口をぽかんとさせる。
まさか、紅白の話題からこの話を持ってくるとは予想外だった。
「だからニニィさん。お誘いするタイミングが唐突になってしまいましたが、今回はいろんな良い偶然が重なって、こうしてニニィさんを我が研究所に誘うことができました。どうか良い返事をお待ちしております」
ニニィは、緊張した面持ちで「はい」と答える。
花蓮は腕時計を確認すると、そのまま立ち上がった。
「それでは、私は先に失礼させていただきます。皆さん良いお年を」
「だったら、また駅まで送っていきましょうか?」良央も立ち上がる。
「いえ、そこまで遠くなので大丈夫です」
「そうですか……。良いお年を」
地味にショックだったが、そこは平然を装って答えた。
花蓮が帰った後、引き続き良央たちは紅白を見る。
終わりの時間が近づいてくるにつれ、ようやく今年も終わるんだなという実感が湧いてきた。
あっという間の一年だった。社会人になってから、なおさら感じるようになった。
それと同時に、今年はいろんな出会いがあったなとも思った。この二、三年はいつも一人でテレビを見ながら、年明けを迎えていたのだ。
そして、番組もいよいよ大トリを迎えた。
最後に登場してきたのは往年の演歌歌手だった。ここ数年はポップスの歌手が大トリをやっていたらしいが、今年はそうではないらしい。
最後なだけあって、演歌歌手の衣装は目を見張るほど豪華だった。
とはいえ、曲調が落ち着いたものだったので、舞台の演出はそれほど派手ではなかった。良央にとっては名前だけしか知らない演歌歌手だったが、ありったけの情念を込めたような歌声に思わず圧倒されてしまう。
普段はロックしか聞いていないせいか、妙に新鮮に聞こえてしまう。
その時、鼻を啜る音が聞こえてきた。
視線を動かすと、源二郎は静かに涙を流しながらテレビを見ていたのだ。隣で見ていたニニィも、ここでようやく源二郎の様子に気付いたようだ。
「どうしたの、おじいちゃん」ニニィが心配そうに尋ねる。
「悪いな。見苦しいところを見せてしまって。あの歌手は昔からよく聞いていてな。歳を取ると、どうしても涙腺が緩くなってしまうんだ」
源二郎は目頭を押さえる。
「全く……。よりによって、どうしてこんなタイミングであの曲を歌うんだ」
演歌歌手が歌っていたのは、死別をテーマにした悲しい曲だった。
サビの最後にこぶしを効かせた歌唱は、まるで死者に対する慟哭のように聞こえてしまった。余命宣告を受けた源二郎にとって、あのこぶしはどのように聞こえてしまったんだろう。
「最後になってしまうのかな……。あのこぶしを聞くのも」
源二郎のぽつりと呟いた言葉は、テレビの歌声でかき消されてしまった。
最後の曲が終わり、今年の勝利が紅組に決まったところで、番組はいよいよエンディングを迎えた。出演者が一斉に舞台に集まって、蛍の光が歌われる。
紅白では一番でしか歌われないが、良央にとっては二番の歌詞が割とお気に入りである。
「私、決めた」
その時、ニニィがぽつりと言った。
「私、イギリスに行く」
源二郎と良央が、驚いたようにニニィに顔を向ける。
彼女はいったん息を吐いてから続けた。
「イギリスに行って、おじいちゃんや病気で苦しんでいる人のために研究をする。絶対におじいちゃんを病気で死なせはしないから」
「ニニィ。いきなり何を言っておるのだ」源二郎が恐る恐る尋ねる。
「おじいちゃん。私が絶対におじいちゃんを助けるから。だから――」
彼女の体は大きく震えていた。
「もう、そんな悲しい顔しないで……」
しかし、緑のかかった目には並々ならぬ決意が込められていた。
テレビでは蛍の光が終わり、舞台からクラッカーが盛大に放たれていた。