ある休日、源二郎が居間でくつろいでいると、目の前に久子がやってきた。
「ねえ、あなたってそばが好物だったよね」
突然の問いかけに、源二郎は視線を新聞紙からエプロン姿の久子に移す。
吸っていた煙草をいったん灰皿に戻しながら答えた。
「……ああ、そうだけど」
「そう。分かったわ」
納得したように頷いた久子は、そのまま台所へと向かっていく。
しかし、扉を開けたところで振り返った。
「いい歳なんだから、そろそろ煙草を止めたらどうだい?」
「何を言ってるんだ。私の数少ない嗜みを潰す気か」
「ここはニニィちゃんも来るところなんだから、せめて自分の部屋で吸いなさいよ。もしかして、これまでニニィちゃんの目の前で平気で吸ってたの?」
ぐっ、と源二郎は言葉に詰まる。
これまでニニィのことはあまり考えず、ここで煙草を吸ってきた。
ヘビースモーカーほどではないが、それでも多い時は一日十本以上は吸ってしまう。
ニニィが煙草のことで文句を言ってきたことは無かったので、もしかしたら調子に乗って吸っていたのかもしれない。
「ニニィちゃん、こっそり私に教えてくれたよ。煙草の匂いは嫌いだって」
「そうなのか?」
「当たり前じゃない。煙を好んで吸う子供がいるとでも思ってるの?」
そう言って、久子は台所へと行ってしまった。
ばたん、と扉が閉められた後、源二郎は灰皿にある煙草を眺める。久子の言う通り、これからは居間で吸うのは自重した方がいいかもしれない。
源二郎は、煙草を灰皿で潰す。
久子がこの家の使用人として働き始めて、今日で三週間が経った。
自分一人ではニニィの面倒を見ることに限界を感じて、知り合いの久子に相談してみたところ、自分が彼女の面倒を見てやると断言したのである。
勤めている会社で新しい事業がちょうどこれから始まろうとしており、これから仕事が忙しくなりそうだと危惧していた源二郎にとって、久子はまさに渡りに船のような存在だった。
「ニニィちゃん。さあ、やってみなさい」
「はい……」
台所の方で久子とニニィの声が聞こえてくる。
扉が閉まっているので何をやっているのか分からないが、口調からしてだいぶ楽しそうだ。あの事件が起こった直後は、こちらも見ていられないほど塞ぎこんでいたニニィだったが、久子と出会ってからは徐々に明るさを取り戻していった。
この一週間はニニィの精神もだいぶ安定してきたので、家事のことをいろいろ教えていると久子は言っていた。肝心の学校の方も、クラス替えを機にうまくいっているようである。
源二郎は新聞紙を閉じて、台所の扉を眺める。
今日は日曜日で、彼にとって久しぶりの休日だった。
ここ最近は仕事で常に外に出ていたので、今日くらいは自宅でゆっくりとしようと決めていた。そういえば、三日前に買っておいた時代小説が鞄の中に入れっぱなしになっていたので、今日はそれを読もうと思った。
源二郎が立ち上がった直後、台所の扉が開かれた。
「あら、どこに行くの?」
「書斎に本に取りにいくだけだ」
「良かった。一瞬、外に出るんじゃないかと思ったから」
「そんなに出て行って欲しくないのか?」
「ええ。だって、今日のお昼はニニィちゃんが作るんだからね」
源二郎は目を見開く。
「ニニィが?」
久子は嬉しそうに微笑んだ。
「しかも、作るのはあなたの好物のそばよ。期待して待っててちょうだい」
※
それから一時間後、そばが完成してニニィが居間のテーブルへと運んできた。
ざるに盛られたそばを見て、思わず源二郎は目を瞬かせてしまう。麺の長さや太さがどれもバラバラで、明らかに市販で売られているものではなかった。
「もしかして、これはニニィが打ったそばなのか?」
「当たり前じゃない。まさか市販のそばを茹でるだけだと思ってたの?」
「ほう……。打ち方はお前が教えたのか?」
「ええ。手取り足取りね」
久子がニニィの肩をとんとんと叩く。
ニニィはやや緊張した面持ちで、三人分のそばを運び終えた。
それぞれ椅子に腰かけて、「いただきます」と唱える。
いびつな形のそばに不安を覚えながらも、源二郎はそれを口に運ぶ。すると、思ったよりもしっかりとしたコシをしており、喉越しも悪くなかった。
「うまい。形は少しいびつだが、これはうまい」
「やった! 良かったね、ニニィちゃん!」
「は、はい」
久子がハイタッチを求めてきたので、ニニィは恥ずかしながらもそれに応じる。
源二郎は感心しながら、そばを啜っていく。
実際、味に関してはそこまで悪くなかった。
仕事柄、昔から全国各地のそば屋に寄っているが、形はともかく味に関してはそこらの店と同じくらいのクオリティだった。
「ニニィちゃん。私が予想してた以上に器用な子なのよ」
久子は機嫌が良さそうに彼女の頭を撫でる。
「たった一回やり方を教えただけで、ここまで美味しいそばを作ってくれたのよ。ここまで要領良くやってくれると、他にもいろんなことを教えてきたくなっちゃうわね」
「例えば、どんなことを教えたいんだ?」
「そうね。料理とか掃除とか……。とりあえず、あなたが明日いきなり死んでも全く困らないくらいのスキルは教えておきたいね」
「失敬な。そう簡単に死んでたまるか」
「もう。冗談の通じない、頭の固いじいさんだね」
「ほっといてくれ」
久子は微笑みながら、ようやく箸に手をつける。
それ以来、毎日の夕食はニニィもしくは久子が作ることになった。
当初は仕事が忙しいことを理由にして食べない日もあったが、どんどん腕を上げていくニニィの料理を食べないのはもったいないと思うようになり、いつしか早めに仕事を切り上げるようになっていた。そして彼女が六年生の頃には、毎日の夕食が本気で楽しみになるくらいまでになっていた。
そんな矢先、久子が倒れたという連絡が源二郎の耳に入った。
◇
「まさかこんなことになるとは……。私も何と言えばいいのか」
向かいに座っている源二郎は、眉間に皺を寄せながら嘆いた。
十二月三十一日――。
良央は再び源二郎の家に行き、彼と今後のことついて、お互いに話し合うことになった。昨日、良央は花蓮に電話をかけて「大叔父さんと今後の話をさせてくれ」と頼んだところ、前回と同様に源二郎の家で話し合うことになったのだ。
ちなみに、花蓮は良央を居間に案内した直後、外に出て行った。
これは「なるべく二人で話し合いたい」と言う源二郎の希望で、花蓮もすぐに受け入れてくれた。
源二郎は大きく息を吐く。
「話をまとめると、以前からニニィは私の病気のことを知っていて、来年から花蓮さんの誘いでイギリスに行くことになった。これで良いんだな?」
「いえ、イギリスの件は結論が出ていないので、まだ行くと決まったわけではないです」
「結論が決まっていない?」
「まだ、ニニィが行くかどうか迷ってるみたいなんです」
良央はこの数日間のことを振り返る。
花蓮からイギリスの研究所に誘われて以来、どこかニニィは元気がなかった。
それは家事にも影響が出ており、昨日の大掃除はどこか精彩を欠いて、やたら時間が掛かってしまった。良央自身も進路のことについてニニィと話し合わないといけないと思っているが、結局この数日間は何も話せずに過ごしてしまった。
すでに、自分の中では『賛成』という結論が出ているはずなのに。
話を聞いた源二郎は腕を組む。
「まあ、迷うのは仕方ないことだろう。生まれ故郷に戻るとはいえ、六年間過ごした土地から離れないといけないんだからな」
「大叔父さんはどうですか? ニニィがイギリスに行くのは賛成ですか?」
「ううむ……。最終的にはニニィの意見を尊重するつもりでいるが、私個人の意見を言わせてもらうなら賛成だな。ただ、それはあくまでニニィの将来を考えた上での結論で、別に私の病気を治してほしいとの願望から言ったものではない。おそらく、ニニィが病気の治療法を見つける前に私は死ぬだろうからな」
「なに言ってるんですか。ニニィは大叔父さんの病気を治すために研究をしてるんですよ。ニニィのためにも、大叔父さんには一日でも長く生きてもらいませんと」
「長く生きる、か……」
ここで源二郎は微笑んだ。
「良央さん。言っておくが、私はとっくに死ぬ覚悟を済ませている。ニニィや花蓮さんはこの病気の治療法を探すのに必死になっているが、私としてはこのまま死んでもやむを得ないと思っている。私が生きている間に難病の治療法が見つかるなんて、さすがに思っとらんよ。なんせ、つい最近に見つかったばかりの病気で、ろくに研究も進んでないと聞いてるしな。今、私にできることは他人に迷惑を掛けることを最小限にしながら、生きていくことだけだ。だから良央さん――。もし、ニニィが私のために嫌々でイギリスに行くような態度を出してきたら、その時は全力で止めてくれ。この私のために、自らを犠牲にする必要はない」
叫んでいるわけではないのに、源二郎の口調には並々ならぬ迫力が込められてあった。
この人は本当に病人なのかと良央は思ってしまった。
源二郎は姿勢を整える。
「話を変えるが、昨日、花蓮さんから私の病気をニニィに伝えたという話を聞いて、年甲斐もなく怒り狂ってしまった。ニニィはまだ十四歳だ。しかも、信頼していた久子が病気で死んでしまったことで、病気に対して大きな恐怖と憎悪を抱くようになっていた。だから、病気のことは何も話さない方がニニィのためだと思って、わざわざ海外に出張に行くという嘘までついて、良央さんにも協力してくれるように頼んだのだ。しかし、花蓮さんはそんな私の苦労を水の泡にするような行為をした。私が何のためにニニィに病気を隠してまで、ここまでやってきたのかを知っているはずなのに、彼女は私の考えを無視してニニィに病気のことを話した。しかも、それが良央さんの家にやってきた直後ときたものだ」
「……はい」
「しかし、怒り狂ったと同時に、ひどく安心したのも事実だった」
声を落とした源二郎は、小さく肩を落とす。
「以前、居酒屋でくるべき時が来たら、病気のことをニニィに話すと言っただろう? 実を言うと、その時はニニィに病気のことは話さず、そのままうやむやにして終わらせてしまおうかと考えていたんだ。仕事先の海外でそのまま事故で亡くなってしまったと、そんな筋書きにしようかと考えていた。しかし、花蓮さんが本当のことを話したせいでその必要はなくなった。勝手に話したことは腹が立ったが、一方で一人で抱えるものが無くなったことによる安心感もあった。おまけに花蓮さんは、ニニィのことでさらに驚くべき話をしてくれた」
「驚くべき話?」
「私の病気を知ったニニィが、それを治療するために独自で研究をしていることだ。ただ、花蓮さんいわく、資料が少なすぎて全然進んでいなかったらしいがな」
源二郎は苦笑する。
「どうやら、あの子は私が予想した以上に優しい子のようだな。私はあの子に何もしてあげられなかったのに、あの子は私の命を救うために研究を始めた。成功する確率なんて万に一つの値くらいしかないのにな……。本当、優しすぎる子だよ」
「いえ、そんなことは無いと思います」
「どういうことだ?」
「大叔父さんは、ニニィの保護者として役目をちゃんと果たしていたと思います。以前、ニニィがこんなことを言っていました。大叔父さんは自分の作ってくれた料理をいつも『美味しい』と言ってくれて、すごく嬉しかったって」
「……ニニィが?」
「はい。だから、料理も今日まで頑張ってこれたって言ってました」
ここで良央はポケットからスマートフォンを取り出して、ある番号を押す。
唖然としている源二郎の顔を眺めているうちに、相手は出た。
「ニニィか? もう大丈夫そうだから、もう家に向かってきていいぞ」
電話口から「はい」という声が聞こえてきて、すぐに通話は終わった。
何が何だか分からずに困惑している源二郎に、良央は説明した。
「実は今日、ニニィと一緒に来ていたんです。でも、俺と大叔父さんだけで話したいこともありましたので、いったんニニィにはこの近くの喫茶店で待機するように言っておいたんです。おそらく、ものの数分でやってくるでしょう」