「おい、なにやってんだよ……」
枯れた声で言うと、ニニィが驚いたように起き上がる。
彼女は良央の手を握りながら、布団の隅に頭を置いて眠っていたのだ。
「あっ、わたし――」
「俺はインフルなんだぞ。そんなところで寝ていたら、うつっちまうだろうが」
ようやく状況を把握したニニィは、慌てて頭を下げる。
「す、すいません……。つい眠ってしまいました」
「いったいどうしたんだよ」
「じ、実は、買い物から帰ってきましたら、良央さんが泣いていたんです」
良央はぽかんと口を開く。
「俺、泣いていたのか?」
「はい。寝ながら」
この瞬間、先ほどまでの夢が一気に蘇ってくる。あの夢の中でも理恵が死んだ直後、良央は涙を流していた。不覚にも、現実の自分も一緒に泣いてしまったようだ。
「すごく苦しそうにしていたので、心配で手を握ってましたら、つい……」
「ああ、よく分かったよ」
ふーっ、と良央は息を吐く。こんな狭い部屋だから、インフルエンザがうつるリスクはそんなに変わらないと思うが、本当に良い子である。
「気にするな。インフルのせいで、ちょっと気が滅入ってただけだ」
「……そうですか。じゃあ、体の方はどうですか?」
「さっきよりはましになったかな」
「お腹の調子は?」
「食欲があるわけじゃないけど、そろそろ食べないとヤバいよな」
良央はお腹をさする。もう一日以上、何も食べていなかった。
「じゃあ、おかゆを作ります。ちょっと待っててください」
そう言って、ニニィは立ち上がる。
窓を見てみると、すっかり外で暗くなっているようで、だいぶ眠ったようだ。
枕元に置いていたスマートフォンを確認すると、時間は夜の八時だった。
ついでに熱を計ってみると、三十八度台に下がっていた。まだまだ予断は許さない状況とはいえ、峠は越えたようだ。体の倦怠感も昼頃に比べたらだいぶ改善されていた。
だいぶ汗をかいていたので、後で新しいパジャマに着替えようと思いながら横になる。台所ではニニィが黙々と夕食の支度をしている。
その姿を眺めながら、良央はそっと目を閉じた。
こうすると、料理を作っている音がよく聞こえてくる。
鍋からコトコトと煮えている音。卵をボールでかき混ぜる音。冷蔵庫が開かれる音。まな板で材料を切っている音。ザクッザクッと小気味の良い音は、おそらくネギか何かだろう。そのどれもが遠い昔、母親と一緒に暮らしていた時によく聞いていた音だ。
不思議と、それを聞いているだけで奇妙な安心感を抱いた。音だけでこんな気持ちになれるなんて、本当に風邪で頭がおかしくなったもんだと良央は思った。
おかゆはすぐに完成して、ニニィは湯気の立った皿を運んでくる。
「栄養を考慮しまして、ニンジン、たまねぎといった野菜をちょっと入れてます」
風邪のせいですっかり嗅覚は鈍っていたが、おいしそうなおかゆを眺めているうちに、少しだけ食欲が湧いてきた。
何とか起き上がった良央は「いただきます」と言って、ゆっくりとスプーンを口に運ぶ。まだ喉が痛いので腹に入れる作業は苦しかったが、何とか完食することができた。
「ごちそうさま、うまかったよ」
「お皿、運びますね」
ニニィは皿を流し台に持っていくと、今度は水の入ったコップを持ってくる。良央に薬を飲ませるためだ。それを済ませると、コップも流し台に持っていこうとする。
「そういえば、ニニィの方は夕食を済ませたのか?」
「いえ、自分のはこれから作ります」
「そうか……」
良央の言いたいことを察したのか、ニニィは微笑んだ。
「私のことより、今は自分の体調を優先してくださいね」
「ああ、そうするよ」
ここで良央が脱いだパジャマを回収して、洗濯機に放り込む。すでに夜の九時を回っているのに、まだまだ家事は残っているようだ。
自分のせいで、またニニィに負担を掛けさせてしまっている。
インフルエンザが治ったら、何か彼女にお礼をしようと良央は決めた。病気の看病してくれたことへのお礼ではなく、普段から頑張って家のことをやってくれるお礼である。
小さく息を吐いて、良央は目を閉じる。
とにかく、今は治療することだけを考えようと決めた。
※
その後、良央の症状はどんどん改善されていった。
不安材料だったニニィへの感染も無く、平熱に下がった後は、彼女と一緒に家の中で安静にしながら過ごしていった。良央が大熱を出した直後にニニィが当分の食料を買ってくれたので、二人とも一歩も外に出ることはなかった。
そして、クリスマスイブのこの日――。
俊樹の誘いを断るため、ニニィはスマートフォンをいじっていた。
当初、良央は熱も下がったし行っても大丈夫だと主張したが、ニニィがどうしても譲らなかった。インフルエンザの潜伏期間はとっくに過ぎているが、無理に外出してぶり返しをしたら元も子もないので、行かない方がいいとニニィが断言したからである。
結局、専門家のニニィの言うことに従うことにした。
「悪いな。俺のせいで行けなくなっちゃって」
「いえ、機会はいつでもありますって」
送信を終えたニニィは、スマートフォンをテーブルに置く。前日でのキャンセルになってしまったが、インフルのことはだいぶ前に伝えていたので問題はないだろう。
すっかり元気になっていた良央は、読んでいた本から時計に視線を移す。
午後二時前――。そろそろ三日前に注文していた品が届くはずだ。
その直後、絶好のタイミングでインターホンが鳴った。
良央が応対すると予想通り宅配業者がやって来たので、すぐに玄関のドアを開けて、品物が入った箱を受け取る。
その箱を持って、勉強しているニニィの前まで来た。
「ニニィ。俺からのクリスマスプレゼントだ。受け取ってくれ」
「えっ。私にですか?」
「気に入ってくれたら嬉しいけど」
箱を受け取ったニニィは中身を開けて、大きく目を見開く。
入っていたのは、一体のテディベアだった。
本当はこっそりと新宿のデパートに買いに行きたかったのだが、さすがに外に出られる体調ではなかったので、やむなくインターネットで評判の高いテディベアを購入したのである。
「すごく可愛くて柔らかい……」
テディベアを抱き寄せたニニィは、良央と目を合わせる。
その頬は、ほんのりと赤く染まっていた。
「ありがとうございます。嬉しいです」
「いやいや。こちらこそ、いつも家の仕事をやってくれてありがとな」
ライブの前までは、ニニィにプレゼントをあげることなんて考えてなかった。
しかし、風邪をきっかけに改めてニニィの大切さを知った良央は、こうしてプレゼントすることに決めたのである。こんなタイミングでなければ、普段のお礼なんて恥ずかしくてできない。クリスマスの前に気付いて本当に良かった、と良央は思った。
すると、ニニィはテディベアを置いた。
「私もあげなきゃ……」
そして、部屋の隅に置いてあった学校の鞄に手を伸ばす。
中から取り出してきたのは、白と黒のストライプ模様のマフラーだった。
「いつもお勤めごくろうさまです。これは私からのクリスマスプレゼントです」
良央は口をぽかんとさせる。まさか、ニニィからプレゼントがもらえるとは予想外だった。よく確認すると、どうやら売り物の類ではなさそうだった。
「もしかして、それって手編み?」
「はい。一ヶ月前から、こっそり作ってました」
ニニィからマフラーを受け取って、すぐに首に巻いてみる。
「どうかな?」
「似合ってますよ」
「ありがとう。すごくあったかいよ」
もともと暑がりなので普段はマフラーなんてしていないが、これからの寒い時期に心強い味方になるのは間違いなさそうだった。この際だから、今年から巻こうかなと思った。さすがに、このまま使わないでいるのはもったいない。
プレゼントも終わり、そのまま良央は読みかけの本に戻ろうとした時だった。
「良央さん。今、ちょっといいですか?」
ここでなぜかニニィは正座の姿勢になる。
「どうした?」
「変なタイミングかもしれませんけど、お願いがあります」
いつにも増して真剣な顔で、ニニィは断言した。
「これからもずっと、良央さんの家に居続けてもいいでしょうか?」
良央は口をぽかんとさせてしまう。
「居続けるって、どういうこと?」
「私が良央さんの部屋に来たばかりの頃、柳原さんがここにやってきた話は覚えていますか?」
「ああ、大叔父さんの病気をニニィに話してくれたことだろ」
「実は、おじいちゃんの病気以外にも、いろいろな約束を柳原さんと交わしたんです」
「約束?」
「はい」ニニィはこくりと頷く。
「まず一つは良央さんとの生活が嫌になったら、柳原さんに電話をする約束です。もし、電話をしたら、すぐに私を別の場所に住まわせる手配をしてくれると言ってくれました」
「ほうほう……。まあ、考えてみたら当たり前のことかもしれないな」
なんせ、こんな狭い部屋で二十五歳の男と年頃の少女が生活するのである。
女性の花蓮からしたら、ニニィの身が心配でたまらなかったのだろう。
「それともう一つ。もし、病気のおじいちゃんの介護をする覚悟が決まったら、これも柳原さんに電話をする約束です。ただし、こちらは十二月末までの期限付きで、電話をしてくれたら、おじいちゃんが入院している病院を教えてあげると言ってました」
「なんで十二月末まで?」
「私の高校受験を考えて、その期限にしたそうです」
「なるほど。高校受験か」
「おじいちゃんは中野から離れた病院にいまして、もし卒業を機におじいちゃんの介護をしたいなら、病院の近くにある高校を受験する必要があるからです」
「つまり、大叔父さんのために中野を出て行くってことか」
「はい。病院の近くで暮らさないといけませんから」
ライブの前日、良央は会社を休んでニニィの三者面談に行った。
彼女の成績は常にトップクラスを維持しているようで、これならどの高校でも全く問題ないと先生からベタ褒めを受けてしまった。一応、希望用紙には近隣の最難関高校を記入していたが、肝心のニニィはどこか上の空で聞いていた。
「最初の約束はともかく、おじいちゃんの介護の方はすごく迷いました」
ここで彼女は鞄から進路希望の用紙を持ってくると、それを良央に見せる。
中身は先日と変わらず、第一希望は近隣の最難関高校だった。
「でも、決めました。私はこの進路希望の通りに受験します。それでおじいちゃんの病気を治すために、ちゃんとした大学に入って、専門の機関に入ります」
ニニィは進路希望の紙を床に置く。
「だから良央さん。これからもこの家に居続けてもいいでしょうか?」
良央の答えは言うまでもなかった。
「俺は構わないけど、それで後悔しないか?」
「はい」
「そうか。ニニィがそう決めたんなら、俺はその考えを尊重するよ」
ニニィは正座の姿勢のまま、ゆっくりと頭を下げる。
「ありがとうございます。どうかこれからもよろしくお願いします」
これに便乗して、良央も正座の姿勢になって頭を下げる。
「こ、こちらこそ、よろしくお願いします」
その直後、二人は同時に笑い合った。
「良央さんが正座って、とても珍しいですね」
「そうかな?」
ニニィは口元を吊り上げる。
「今日はクリスマスの特別メニューを作ります」
「おおーっ。それは楽しみだな」
ニニィはエプロンを着けると、いつものように台所の前に立つ。
つい四ヶ月前までは、赤の他人でしかなかった少女。その子が今や、あんな嬉しそうに自分のために飯を作ってくれるのだ。
彼女が家にやってきた頃は、圧倒的に不安の方が多かった。
おとなしい子なので、ちゃんと意思疎通ができるのか。
得体の知れない男と生活していて、彼女に大きな負担を与えてしまわないか。そもそも八畳で二人の人間がちゃんと暮らしていけるのか――。挙げたらきりがなかった。
しかし、多少のトラブルはありながらも、今日まで順調に生活は続いている。共同生活は大変な面もいろいろあるが、それ以上に一緒にニニィといることで、良央自身もこの上ない幸せを感じているのは間違いなかった。
――これからも、ずっとこの生活が続くんだろうな。
調理しているニニィを眺めながら、良央は思った。
いつか『終わり』の時がやってくるのは間違いない。
ニニィは中学三年生。良央は四年目の会社員である。でも、その時がやってくるのはだいぶ先のことで、少なくともニニィが高校を卒業する三年間は、この部屋で二人の生活が続いていくだろう。
そんなことを思っていた。
そう、思っていたはずなのに――。
※
二人で大いに盛り上がったクリスマスから、三日後。
唖然とする良央とニニィの前で、花蓮は淡々と言った。
「ニニィさん。来年の四月からイギリスの研究所に行くつもりはありませんか」
二人の生活の終わりは、あまりにもあっけなくやってきてしまった。