今から六年ほど前――。
当時、小学三年生のニニィと源二郎は、久子に連れられて神田川沿いを歩いていた。
だいぶ昔、ここは『死の川』と呼ばれるくらいの非常に汚い川だったが、ここ二十年ほどで水質はだいぶ改善され、今ではこの遊歩道は絶好の散歩コースになっている。
「今日はあったかいね。絶好の散歩日和じゃない」
この日、源二郎とニニィに散歩をしよう、と提案したのは久子だった。
季節はすでに本格的な春を迎えており、心地よい風が吹いている。
「ニニィちゃん。暑くない?」
「……だいじょうぶです」
細々とした声でニニィは答える。
あの事件以来、すっかり彼女は塞ぎこんでしまっていた。
今も灰色の帽子に黒のシャツにスカートという、現在の精神状態を象徴しているような組み合わせの服を着ていた。
末広橋を通過する時、久子は近くに置いてある石碑を指差した。
「この石碑には『神田川』って曲の歌詞が彫ってあって、私の若い頃にものすごく流行ったんだけど、さすがにニニィちゃんは知らないよね」
ニニィは無表情で石碑を眺めている。
普段からそこまで感情を出さない子ではあるが、ここ最近はそれが顕著になっていた。
「まあ、いいわ。もうちょっと先に進みましょ」
久子はニニィの肩をとんとんと叩いて、さらに神田川沿いを進んでいく。
源二郎が久子に相談したのは、一週間前のことだった。
これまでずっと仕事一筋の暮らしをしてきた源二郎にとって、ニニィが初めて家にやって来た時はどうやって接していけばいいのか全く分からなかった。
もし、言うことを聞かなかった時はどうすればいいのか一人で悩んだりもした。
しかし、そんな心配は杞憂に終わった。
ニニィは源二郎の言うことはしっかり聞いてくれて、家事もちゃんと手伝ってくれた。口数は少なかったが、もともとおとなしい性格だったので、すぐに気にならなくなった。
時間が経つと源二郎はニニィのことを隅に置いて、再び仕事に集中していった。
その矢先に、例の出来事が起こってしまったのだ。
源二郎にとって、見えない場所から矢が突き刺さったような気分だった。
事件が起こるまで、ニニィが学校でいじめられていることに全く気付かなかった。
いったい自分はニニィの何を見てきたのか。彼女の異変に気付かないなんて、保護者失格なんじゃないか。
そんな悩みを聞いた久子は、肩を叩いて彼を励ましてくれた。
「起きてしまったことを今さら悔いても仕方ないでしょ。今、私たちがやらないといけないのは、ニニィちゃんがこの傷を引きずらないようにケアすること。私も協力してあげるから、あなたもしっかり手伝ってちょうだい」
七十を超えても生気のみなぎった凛々しい目は、源二郎にとってこれ以上ないくらい頼もしいものだった。そんな彼の様子を見て、久子は面白そうに笑った。
「あなたも昔に比べて、だいぶ変わったね。昔で仕事一筋でそれ以外のことは全く関心を持たなかったのに、こんなタイミングで初めて人間に興味を抱くなんてね」
そして今日、久子とニニィは初めての対面となった。
ニニィの態度は、事件が起きた直後とあまり変わりはなかった。
表情を変えずに、淡々と久子の話に相槌を打っているだけである。
このままではまずいと思ったのか、こうして久子が提案した散歩に付き合っているのだ。しかし、ニニィは顔をうつむかせたまま、ぼんやりと地面を眺めているだけだった。
春の風が荒々しく吹いて、地面に落ちている桜の花びらを舞い上がらせる。
その光景を見ておや、と源二郎は思った。さっきまで桜の花びらなんて数えるほどしか地面に落ちてなかったのに、前に進む度にその数が増えているのだ。
そして、『南小滝橋』という柱がある場所で、久子はいったん足を止めた。
「ここね。二人ともついてきてちょうだい」
源二郎たちは南小滝橋に入って、欄干のところまでやってくる。
「ニニィちゃん。そんな下ばっかり見てないで、前の景色を見てごらん」
久子に促されて、ニニィは前方を見る。
――その目から、徐々に感情が流れ込んでいくのが分かった。
三人の目の前には、無数の桜が咲き誇っていた。
川の両岸に植えられている巨大な桜並木が、まるでアーチのように神田川の上に広がっているのだ。源二郎も純粋に綺麗だと感心してしまった。
「ここらへんがこの辺りじゃ桜が一番綺麗なところでね。ちょっと年寄りには長い道のりだったけど、なかなか良い景色でしょ?」
久子はいつの間にか持っていたカメラで写真を撮る。
よく見ると、周囲にも撮影している人がけっこうおり、どうやらここは人気の花見スポットだったらしい。
「どう? ニニィちゃん」
「……すごくきれいです」
ニニィの視線は、桜並木から一向に離れない。
そういえば、ニニィが何かに感動している姿を見るのはこれが初めてのことだった。
久子は微笑みながら、帽子の上からニニィの頭を撫でる。
「私は十年以上、この辺りに住んでるけど、ここらへんは人がごちゃごちゃしているだけの何のたいしたこともない街だよ。でも、こんな街でも探してみると少しは良い景色があるんだよね。その一つがこれよ。ニニィちゃんは日本にやってきて三年が経ったと聞くけど、どれくらいこの国の良いものに巡り合ってきたのかしら?」
ニニィは顔を上げて、久子に目を合わせる。
「あら、初めて私の顔をまともに見たわね」
「……はい」
久子は嬉しそうに微笑む。
「ニニィちゃんって本当に可愛い顔してるのね。髪もすごくきれいだし、本当にお人形さんみたい。どうか、これからもよろしくね。ニニィちゃん」
「はい。よろしく、おねがいします」
うつむいたニニィの顔は、桜の花びらと同じ色に染まっていた。
◇
網の上でじゅうじゅうと肉の焼かれる音がする。
香ばしい匂いもたちこめてきて、さらに味への期待が高まる。
「よし。これぐらいかな」
良央は焼き終わったタン塩をニニィの皿へ置く。
彼女はこの店に来るのが初めてだったので、まずはレモン汁をつけずに、そのまま食べてもらうことにしたのだ。
ニニィは恐る恐るといった感じで、タン塩を口に入れる。
何度か咀嚼した瞬間、大きく目を見開いた。
「おいしい」
「だろ? この店のタン塩は、俺もお気に入りなんだ」
お気に召したことを安心して、良央は他に注文したカルビやハラミを網に置いていく。
「遠慮しないで食べてくれよ。ニニィのおかげで食費もだいぶ節約できてるから、今だけは何も気にせずに注文してくれ」
そう言って、今度は特上タン塩を注文する。
ニニィもメニュー表をじっくり眺めて、ビビンバとワカメスープを注文した。
日曜日の夕方、良央とニニィは家の近くにある焼肉屋に来ていた。
今日の朝、いつも家事を頑張っているニニィのために良央が提案したことだった。
二十席ほどしかない小さな店ではあるが、味のクオリティは非常に高く、近所では評判の店である。最近は中野坂上近辺もいろんな安い焼肉屋が出来て、ここも他の店に比べたら多少値は張ってしまうが、子供の頃から通っている良央にとって、焼肉はこの店以外に考えられなかった。
ここで良央は、さりげなくニニィの頭に視線を向ける。
――まだ早いな、と判断した。
その時、ポケットに入れていたスマートフォンが振動したので、それを確認する。送ってきたのは大学からの友人で、その文面に思わず舌打ちをした。
「まだ麻雀の誘いか……。しつこいな」
「誰からですか?」
「大学の友人。昔はよくやってたんだけど、さすがに今はそんな暇ないからな」
「最近、忙しそうですからね」
「それもあるけど、いつも俺の部屋でやってたからな」
「良央さんの部屋でですか?」
「あんな狭い部屋に大人の男が四、五人集まるんだぜ。一人暮らしの時はともかく、今やってきたら間違いなくとんでもないことになるよな」
「……そうですね」
ニニィは注文したビビンバの具をかき混ぜる。
特上タン塩も運ばれてきたので、しばし二人は焼肉タイムとする。その間に二十ほどの席は全て埋まり、店内は肉の焼ける音とささやかな喧噪に包まれた。
そして半分ほど平らげた時、いよいよ良央は話を切り出すことにした。
「いつになったら、その帽子を脱ぐつもりなんだ?」
びくん、とニニィはスプーンを動かす止める。
「まさか、イギリスは食事中に帽子を脱がなくてもいい風潮なんてあるわけないよな」
やや強気の口調に、ニニィはたじろぐ。
現在、ニニィは黒の帽子をかぶったまま肉を食べていた。
マナー的にあまりよくない光景だったが、今のタイミングまで何も言わないようにしてきたのだ。もしかしたら、自発的に外すかもしれないという希望的観測を抱いてのことだったが、どうやらその気は無さそうだったので、ついに切り出すことにしたのだ。
ニニィは顔をうつむかせながら箸を置く。
「……ごめんなさい」
「外さなくっちゃいけないって、自覚はあったんだな」
「ごめんなさい」
「別に謝ることじゃない。俺は帽子を外そうが外さまいが、あんまり気にしない方だからな。でも、俺以外の人と外食した時はどうだろうな」
網に焼いてある肉を、それぞれの皿に乗せる。
「焼肉屋は初めてだと聞いたけど、そもそもニニィは外食したことあるのか?」
「いえ、今日が初めてです」
「なるほどね。まあ、そもそもニニィの手料理が金を払えるくらいのレベルだから、わざわざ外食する必要なんてなかったんだろうと思うけど」
彼女は黙ったままでいる。
「改めて聞くけど、どうしてそんなに帽子を脱ぎたくないんだ?」
ニニィの急に顔が険しくなったので、良央はすぐに頭を横に振った。
「いや、言いたくなかったら無理に言わなくてもいいよ。でも、このまま大人になったら、いずれは俺以外の人と外食する機会が絶対にやってくると思う。その時もニニィは今のように、帽子をかぶったままで一緒に食べるつもりなのか?」
「そ、それは……」
「マナーにうるさい人だったら、すぐに怒られるぞ。下手したら、それだけでせっかく築いた人間関係が終わってしまうことだってあるかもしれないな」
良央は特上タン塩を口に入れる。こんな状況でもうまいものはうまい。
もし、このままニニィが黙り込んでいたら、源二郎の家に行ったことを話した方がいいのかもしれないと思った矢先だった。
「……怖いんです」突然、ニニィが小さな声で言った。
「んっ?」
「これを脱ぐといろんな人に見られてるような気がして、すごく怖いんです」
「いろんな人に見られるって、そんなことは――」
ニニィは唇をぎゅっと噛んだまま黙っている。
「ああ、ごめん。この前もスーパーで変なおばさんに絡まれたよな。まあ、世の中にはやたら突っかかってくる輩がごまんといるからな」
「なんで、みんな私のことをじろじろ見てくるんでしょうか?」
「そりゃあ、ニニィがすごく可愛いからじゃないのか」
ニニィが驚いたように良央を見る。その顔がどんどん赤く染まっていった。
「……そう、なんでしょうか?」
「もし自覚してなかったら、今から自覚しておいた方がいいよ」
「いえ……何となく、そうなんだとは知ってました」
「まあ、自覚してなかったら、どれだけ鈍感なんだよって突っ込んだんだけど」
良央は残りの肉を網に入れていく。
「やたら人目を惹く容姿をしている分、いろいろと怖い目に遭ってきたんだと思う。でも、だからといっていつまでも人を怖がっていたら、言いたいことも言えなくなっちゃうよ。怖い気持ちを我慢して向き合っていかないと、せっかく難病に効く薬を作っても、それを他の人に発表できないまま終わっちゃうかもしれないよ。ニニィだって、それは嫌だろ?」
「はい」
「さすがに、いきなり初対面の人に話しかけて仲良くなれとは言わないさ。話を戻すけど、俺の要望としては、帽子をかぶらなくても外出できるくらいの勇気を持ってほしいな。もちろん、ファッションで使いたい場合もあるだろうから、絶対にかぶるなとは言わない。それも無理そうだったら、せめて今――外食中だけは脱ぐようにしてほしいな」
良央は手を伸ばして、ニニィの帽子のつばに触れる。
ニニィは抵抗しない。肉の煙がたちこめて、細かい表情は把握できなかった。
彼は小さく笑って、帽子から手を放した。
「まっ。俺が強引に脱がしても意味ないか。こういうことは自分からやるべきだな」
そして、焼けた肉をお互いの皿に置いていく。
結局、ニニィは最後まで帽子を外すことなく、この日の焼肉は終わった。
外に出ると予想以上に風が冷たく、思わずぶるっと体を震わせてしまう。いよいよ、本格的な冬の季節がやって来ようとしていた。
大通りを通過して、マンションまでの細い道を歩いている時だった。
「あ、あの良央さん」
隣で歩いているニニィが震えるような声を出すと――。
顔をうつむかせながら、かぶっていた帽子を脱いだのだ。
あらわになった彼女の髪が、夜の風に吹かれてたなびく。
「今だけは、周りに誰も人がいないので」
「充分だよ。やればできるじゃないか」
「はい……」
街灯に照らされた髪は、いつもより輝いているように見えた。
「すごくきれいな髪だよ。せっかく良いものを持ってるんだから、これからは自信を持ってみんなに見せたほうがいいんじゃないかな」
ニニィは頬を赤く染めると、少し嬉しそうな顔で頷いた。
「今日はありがとうございました。ごちそうさまです」
「うん。気に入ってくれて良かった」
良央は微笑むと、彼女の肩にそっと手を置く。
彼女にとってこれが最初の一歩になることを信じて、良央は歩き続けた。