蜘蛛の巣に案内してさしあげます
誰かさんの日記に以下略された人
「今日はこれぐらいにしましょう。更識さん。」
「はい。」
放課後になってからもう数時間経っている。ほとんどの生徒は宿題をしているか、部活をしているか、夕食を取っている。
だが、昼休みの間に午前中の授業の宿題を終わらせた更識簪は、ある人物と共に整備室で、自分の専用機の開発を行っていた。自分の副担任、クラリッサ・ハルフォーフ。
「更識さん、どうかしましたか?」
「どうして、とび職の格好なんですか?」
「日本では機械系の仕事をするときはこの格好だと聞いていたのですが、違いますか?」
「違います。」
「それではこの白のダボダボズボンに足袋、腹巻、白のタンクトップ、タオルの鉢巻は間違いなんですか!日本の映画では確かにこんな格好だったと記憶しているのですが。」
「はい。」
「っく!何たる失態!明日から、すこしペンキで汚れた灰色のつなぎにしましょう。」
やっぱりこの先生はどこか普通違う。
掴みどころのない、雲のような、それでいて、何か芯のある、少し変わった人だ。
姉の楯無に似ているが、どこか違う。
そんなことを考えながら、ISの整備器具を片づけていた。
片づけが終わり、一息ついた時だった。
「では、更識さん。一緒にお風呂に行きましょう!」
「お風呂…ですか?」
「はい。日本の女性は銭湯で背中を流して交流を深め、お互いの乳を揉むというイベントがあると聞きました。」
訂正。かなり変わっている先生だ。
アニメや漫画が好きで、日本に対する知識にかなりのズレが生じてしまっている。
簪はクラリッサの申し出を断ろうとするが、強引に連れて行かされてしまう。
そして、2人で風呂に入ることとなった。
「やっぱり大きいですね。」
IS学園の大浴場はIS学園の生徒が入れるために設計しているため、そこら辺にある銭湯や温泉宿の大浴場より大きい。大きなホテルの大浴場やスーパー銭湯と変わらないぐらいの大きさがある。むしろ、これほどの大きさが無ければ、IS学園の生徒が風呂に入れない。一応寮の個室にシャワーはついているが、IS学園の大浴場は温泉から直接引いているため、温泉に入りたがる生徒の方が多いのだ。
そのため、浴槽は自然と大きくなる。
そんな大浴場は簪とクラリッサの貸切状態だ。
時間が遅いため、もう誰もが風呂に入り終わった後なのだろう。
どんな小さな音でも木霊し、反響する。簪とクラリッサは背中を流し、風呂に入る。
「先生。」
「なんですか?」
「そろそろ、教えてくれませんか?どうして、姉妹喧嘩することと、私の専用機の開発とどう関係があるのですか?」
「そうですね。なんだかんだで、説明していませんでしたね。……更識さん、貴方はお姉さんにISで勝ちたいと思っていた。でも、お姉さんと何かがあったせいで、勝ちたいという気持ちが薄れつつあり、専用機開発が遅れている。お姉さんと何があったかは知りませんが、更識さんにとって辛い何かだったはずです。」
「……。」
「だから、ちゃんと喧嘩して、自分の言いたいことお姉さんに言い返してやりましょう。気持ちをぶつけて、後腐れない方が更識さんもスッキリする筈です。」
「……喧嘩するために専用機を作るってことですか?」
「大正解です。」
簪はそんなクラリッサに何度も姉の強さを教えている。姉は強いから喧嘩をしても勝てないから、無駄だと。
だが、それでも、喧嘩をするべきだと言う。クラリッサ曰く、喧嘩は勝った負けたが重要ではないらしい。会話は言葉のキャッチボールだが、喧嘩は手と足の出る言葉のキャッチボール。しかも、体が激しく動くのだから、釣られて心まで動き、奥底にあった本音が出る。喧嘩の激しさが高くなれば高くなるほど、言葉がきつくなってきて、衝動的に言葉が出る。そのため、喧嘩の激しさが本音を言うためには必要となるわけだ。喧嘩で重要なことはどれだけ自分と相手の本音をぶつけ合うかであるとクラリッサは言う。
では、何故本音を話す必要があるのか。
喧嘩するほど仲が良いという言葉があるが、喧嘩して激しく本音をぶつけ会えるから、仲が良いと言えるというのが、クラリッサの持論だったりする。
建前だけで、付き合っているのは仲が良いと言えない。
だからこそ、仲良くなるには喧嘩というイベントが必要だと言う。
といっても、本音がぶつかり合って、そりが合わなかったら、仲が深まらず、喧嘩別れするだけだ。だが、それで良いとクラリッサは思っている。
人はごまんといるのだから、自分に合う人を探せばいい。
単に相手と話さず去るのなら、それは逃げだが、喧嘩して合わないと分っているのだから、それは逃げとは言えない。
簪は自分の本音を言っていないし、楯無の本音を聞いていない。
だから、簪には唯一無二の姉と向き合うために喧嘩をしなければならない。
だが、姉妹に素手の殴り合いの喧嘩をしろというのは酷な話だ。
そのため、ISの試合となったのだ。
「本音を叩きつけて、お姉さんの本音も聞いちゃいましょう!ついでに、お姉さんに勝ちましょう。」
「…うん。」
「気合が足りない!覇気を振り絞って叫べ!」
「は、はい!」
「よし!では、風呂から上がって、牛乳を飲みましょう!」
「どうして、牛乳なんですか?」
「日本の漫画で、風呂上りに牛乳を飲むという儀式がありました。どういう意味があるのか諸説ありますが、私は風呂で温まった体を冷えた牛乳で〆るためだと思っています。あ!それと、格好も重要です。全裸に腰タオルで、腰に手を当てて、瓶を片手で持ち、背中を反らせて、一気に飲む。」
「でも、大浴場に牛乳は売っていませんよ?」
「抜かりありません。」
そう言って、クラリッサがロッカーから出したのはクーラーボックスだ。
中にはびっしりと牛乳が詰まっている。
簪の好みがわからないため、自分の冷蔵庫から集めてきたらしい。
超高温殺菌牛乳、高温殺菌牛乳、低温殺菌牛乳、フルーツ牛乳、イチゴ牛乳、バナナ牛乳、コーヒー牛乳など様々だ。
「どうして、こんなにたくさんの牛乳を持っているんですか?」
「夢の中で、知り合いの馬鹿に…こんなことを言われたことがありまして…。」
「何を言われたんですか?」
「ゴホン……テメェ!なれなれしく触んじゃねぇ!ガリガリ言ってんだよ!まな板チビが!」
クラリッサはまるでチンピラのように、喧嘩腰に言う。
だが、恐さのかけらもない。軍人とは言え、クラリッサが綺麗な若い女性というのもあるが、簪に無駄な恐怖を与えないように手加減しているというのもあるだろう。
「……まな板チビ」
「……まな板チビです。」
クラリッサは突如どんよりと項垂れる。このような表情をするクラリッサは簪にとって初めてだ。まるで、風前の灯で、何か起きればそのままパタリと倒れて、帰らぬ人となってしまいそうだ。何か、地雷を踏んだのかと簪は心配になってしまう。
「そうです!まな板チビって言われたんですよ!なんですか!まな板チビって!ッキー!まったく、まな板って凹凸がないから、洗濯板以下じゃないですか!それに好きでまな板やってるんじゃないんですよ!もう、本当に、あの時はムカついて、あのジャンキー殴りかかろうとしたら、友人に後ろから羽交い絞めされたうえに、友人の妹が泣き出しちゃって……はぁ、私だってね、こうね、少しは大きくしたいわけですよ。何もはち切れんばかりのモノが欲しいって欲張りはしていないんですよ。なのに、マッサージやっても大きくならないし、土台になる胸筋を鍛えても大きくならないし…。」
クラリッサは自分の胸を揉みながら、ため息を吐く。
つまるところ、自分が貧乳だから、胸を大きくするために飲む牛乳を大量に持っている。
しかも、飽きないように多種多様の牛乳を用意しているあたり、本気が伺える。
ちなみに、クラリッサの寮の冷蔵庫の半分は牛乳で埋まっており、残り半分は豆乳で埋め尽くされている。他にも胸を大きくするエクササイズのDVDを購入して見ながら、体操したりするのだが、残念ながら3年でサイズが変わっていない。
それどころか、ダイエットをして胸が萎みかけるという大惨事が起きかけてしまった。
それ以降は、部分ダイエットだけをしながら、牛乳と豆乳を飲んでいる。
「先生。」
「…なんですか?」
「私も小さいから、先生の気持ち分ります。」
「おぉ!同士!」
クラリッサは簪に抱きつき、頭を抱き寄せ、自分の胸に押し当てる。
自分では小さいと言っているクラリッサの胸はそこまで小さくなかったというのが、顔を胸に押し付けられた簪の感想だった。
とても柔らかく、温かく、それでいて、弾力のあるクッションだった。
顔に押し付けられて分かったのだが、見た目以上にクラリッサの胸は大きい。
自分の胸とはまるで違う。自分の胸は形が変わるほど余裕がないのだ。
比べ物にならない、次元が違うと簪は分ってしまった。
クラリッサの抱擁から脱出した簪はクラリッサに宣言する。
「…やっぱり、先生も敵。」
「えぇ!どうしてですか!」
「……小さくない。」
「でも、私22歳なのに、成長期真っ只中の2年生のドイツの子達とあんまり変わらないし、山田先生なんて人間の形をした乳牛の乳お化けですし、完敗ですよ。」
「……乳お化けって酷いです。」
「え?」「え?」
簪とクラリッサのすぐ横に涙目の真耶と、頭を抱えている千冬が居た。
どうやら、2人はこれから風呂らしい。
千冬は女の価値は胸の大きさで決まるものではないと思っているため、簪とクラリッサのことが理解できない。それどころ、体質は仕方がないのだから、そんな下らないことで騒ぐなと言いたかった。一方の乳お化けと言われた真耶は泣きだした。
「私だってね。こんなに大きくなりたくなかったですよ。こんなに大きいと、可愛い下着が少ないんですよ。それに、男の人の視線が凄くて、外に出ると落着けません。それに、ちょっと、運動すると、汗ばむし、揺れるから動きにくいし……ッヒ!」
真耶の言葉は途中で詰まる。
クラリッサがISを部分展開していたのだ。ドイツの第3世代シュヴァルツェア・ツヴァイクのプラズマ手刀を真耶に向ける。プラズマ手刀の出力が高いのか、青白い光が走る。だが、一方のクラリッサの瞳から光が無くなり、死人のように濁った眼になっている。まるで、目の前の人間に襲いかかるゾンビのようだ。
簪は非生産的なことはしない為、クラリッサと同じ気持ちだったが、ISは使わない。
「ハルフォーフ先生、落ち着いてください。」
「デカいなら 斬り獲ってしまえ ホトトギス」
「なんですか!その不気味な川柳は!ほら、こんなところでISを展開するなんて、規則違反ですよ!」
「……つ。」
「聞こえない!『つ』って何ですか!とても気になるのですが!」
「五月蠅い!そんな何かの塊なんて!」
クラリッサは真耶の何かの塊を斬ろうと襲い掛かる。
IS装備相手に、幾ら元代表候補生の真耶でも素手ではなす術がなく、その場でヘタレるしかできなかった。一方、真耶に襲いかかるクラリッサの姿は容赦なく、足の折れた草食獣に襲い掛かる百獣の王ライオンのようだった。
クラリッサの横に居た簪はただそんな弱肉強食の風景を見ていることしかできなかった。
だが、この場にはクラリッサ、簪、真耶以外の人物がいる。
そう、
「いい加減にしろ!クラリッサ!」
世界最強が居た。
クラリッサは糸の切れた操り人形のように動かなくなった。