東方遺骸王   作:ジェームズ・リッチマン

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 神主は新たに村に加わった玉緒を避けていた。

 一度だけ顔合わせし、挨拶は交わした。だがすぐに仕事に行く素振りを見せ、それきり親交を深めないままである。そんな状況を良しとしていた。

 それは意図してのことであった。しかし、特別悪気があったわけではない。

 忙しいというのは本当だった。村人が歓迎をするなり宴の準備を整えるならば、その穴を誰かが埋める必要があるからだ。

 大宿直村は長閑ではあるが妖怪の多い危険地帯なので、一時でさえ退治屋に休まる時はない。

 妖怪にとって人間の宴の日など関係ないのだから。

 

 だが、それも言い訳である。退治と警備に没頭するのは構わないが、程度というものがある。

 新しく村に加わった若者を無視し続けるなど、とても年長者のやっていいことではない。

 

 彼自身、己の行動がひどく大人げないことには気付いている。

 向き合わなければならない問題であるとも。

 

 だが、村を守る義務を果たすことでそれを誤魔化し続けていた。

 人間を守る。村のために死力を尽くす……。

 

 ……それも長くは続かないとも、わかってはいるのだが。

 

 

 

「ふう」

 

 神主は禊のために玄武の沢まで出向いていた。

 神社の付近にも水場はあったのだが、人気のない場所で頭を冷やしたかったのである。

 

 玄武の沢は六角柱状節理の切り立った崖が特徴的な、複雑な渓谷である。

 規模は小さいが、幾重にも連なり蛇行する崖とその上を覆う樹林が探索や開拓を困難なものにしており、浮遊できない者には踏み入ることすら容易ではない場所だった。

 ここには滅多に人がこない。妖怪もそう飛べる者ばかりではない。

 沢の流れる音と涼やかな風だけがある、彼お気に入りの休憩場所なのだ。

 

「……玉緒、ね。半妖か……」

 

 思い起こすのは、ミマと共にやってきた一人の少女だ。

 側頭部より伸びる大きな角と、赤い髪。人ならざる容姿は隠しきれるものではない。名を玉緒という。

 容姿は、それら妖怪の特徴を排せば至って普通の少女であろう。

 性格も温厚。聞くところでは真面目で教えがいがあるとも評判だ。村での受けは非常に良い……。

 

 ……割り切れていないのは己だけ。

 再びそれを自覚するたびに、神主は頭を掻きむしりたい衝動に駆られた。

 

 相手は子供だ。半妖とはいえ。

 村の総意ならば。

 

 何度も自分に言い聞かせる。

 だが陰陽道での長い歳月と、そこで培った豊富すぎる様々な経験が、彼の心を否応なく苛んでゆく。

 鮮明に思い浮かぶのは、最後の仕事で出会ったあの妖怪尼であろうか。

 妖怪共に慕われ、同時に妖怪を思いやってもいたあの尼僧の顔が、神主にはどうしても忘れられないのだ。

 

 諦念に沈んだ、あの顔が……。

 

 

 

「何かお悩みのようですな」

「!」

 

 老人の声がした。気配は感じなかったのだが。

 

「何奴……?」

 

 札を手に振り返ると、そこには一匹の大きな亀がいた。

 ウミガメであろうか。何十年は長生きしたであろう、老齢さを感じさせる皺だらけの亀であった。

 

「なに、儂はただの長生きが過ぎた亀ですじゃ」

「亀……亀は、喋らんぞ」

「ほっほ……長く生きれば仙術の一つや二つ、自然に身につこうというもの」

「妖か」

「ともすれば、そうなのかも」

 

 警戒する神主とは裏腹に、老いた海亀は和やかな表情のままゆっくりと這い寄ってくる。

 彼は神主と並ぶようにして岩の上に立つと、その身体を無防備に地面につけた。

 その仕草が居座るためのものであろうことは、神主にもなんとなく伝わった。

 

「……この村には妖怪が多いと聞くが、よもやこんな場所にまでいるとはな」

「はっはっは……珍しいことではありませぬ。確かあなたは……神主、でしたかな」

「……私の名はどこにも筒抜けか」

「時折、あの神社の側にある池より見ていましたからの」

 

 これほど大きな亀がいて、気付かないものだろうか。

 神主はそう疑問に思ったが、深く訊いて真っ当な答えが返ってくるとは限らないと考え、やめた。

 

「あなたは己の力を存分に扱い、妖怪たちの魔の手から村を守っている。随分と高潔な方のようじゃ」

「……妖怪から見れば、厄介に見えるか?」

「ふむ。妖怪からどう見えているのかは儂にはわからない。しかし、少なくとも儂は高潔であると見ておりますじゃ。……他者の好意くらい、素直に受け取りなされ」

 

 諭すように言われると、まるで年長者より叱られているような気分になってしまう。

 年上相手というのが、神主はとことん苦手だった。こんな場でも、思わず頭を下げてしまうくらいには。

 

「実直、純朴。誠実……あなたは本当に高潔で、まっすぐな方ですじゃ。それ故、今こうして悩んでおられるのでしょう。身に染み付いた習慣というものは、なかなか拭い取れるものではない……」

「……亀殿、名前は」

「ほっほ。儂などただ爺とでも呼べばよろしい」

 

 亀は笑い、首を伸ばして神主に向けた。

 澄んだ碁石のような瞳には、一点の濁りもない。

 

「しかし、どのような岩も……長く水滴に晒されれば穿たれ、削れてゆくもの。布で払って拭い去れぬ巨岩もない。時間をかけさえすれば……」

「……ミマ様にも、同じような事を言われたよ」

 

 観念したように息を吐き出し、自嘲する。

 

「彼女にはわかるんだろうな。私が故意に避けていたことくらい……“私に免じて、少しは話してやってくれよ”って言われたよ。遠慮がちにだがね……」

「ふむ。ミマ殿とも話されたのですな」

「知っているのか? 爺様」

「もちろん。時々、彼女と語らうこともありますからな。ほっほっほ……」

 

 つくづく自分の知らないところで世界が広がっているものだ。

 村に慣れたと思っていた日々が、やけに遠く感じてしまう。

 

 それでも、先程頭を掻きむしっていた時と比べてみれば、神主の心は幾分かすっきりしていた。

 

「拭い去れぬものはない。時間さえかければ。か……なあ、爺様。私はこの通り、馬鹿のように頑固でな。そんな私でも……変われるのだろうか。己の最後に残った芯だったものを曲げて……それでも無事で、いられるだろうか」

 

 訊ねると、老いた亀はまた翁のような笑みを浮かべた。

 

「それを、仲の良い者達に訊ねるのですよ。あなたはこの村で、一人きりではないのでしょう? もっと人を頼りなされ」

「……」

 

 一人きりではない。当たり前のことが、やけに神主の心をハッとさせた。

 

「それと、あなたが棲んでいる神社……あそこはもう少し、綺麗に使いなさい。たまには掃き掃除をしても罰は当たらんでしょう。それと、池の周りも。よいですな?」

「は……はい」

「うむ。聞きましたぞ、神主殿」

 

 亀は満足そうに笑うと、緩やかに流れる沢へゆっくりと這い出していった。

 

「たまには今日のように、ゆっくり休まれると宜しい。役目ばかりでは生を謳歌することなどできませぬぞ」

 

 とぷりと泡の音がして、老いた亀は水面の下へと姿を消した。

 

 残された神主はばつの悪い顔を浮かべていたが、それもしばらくすると苦笑に変わり、やがて憂いのないものへと変わっていった。

 

「そう、か。ならば、やってみるか」

 

 子供のように説教されてしまった。

 だが、子供のように。そんな心構えこそ重要なのかもしれない。

 

 凝り固まった信念を一度捨て、子供のようにぶつかってみるとしよう。

 大人げない自分を変えるのは、まずはそれからだ。

 

 


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