一応は姫扱いされている私と、宴の席とを隔てる薄い暗幕。
この道具の名を、御簾と呼ぶらしい。
……私は今日から、この幕を“御簾様”と呼ぶことに決めた。
ありがとう、御簾様。多分、数万年はその名を忘れません。
「輝夜、大丈夫かい!?」
「え、ええ……平気。私は平気よ、婆」
「輝夜ぁ……! 怪我はないか!? 何もっ……!」
「大丈夫だから、爺……少し、驚いただけ」
そう、驚いただけ。私は何もされていない。
多分……見られても、いない……はずよ。
いや、見られてない。絶対にそう。そうであるべきだわ。
そう思ってないと、怖すぎる……。
だって……。
……あいつ……絶対、あの時月に来た……ライオネル・ブラックモアなんだもの……!
「どこに行った!? 警備は何をしておる!」
「毒があるとはまことのことか!?」
「牛が! 牛が一頭もいない!」
「どういうことだ! 何が起きたのじゃ!」
宴は、終わったのだろう。
人間の騒々しい声色には、既にそのような気が抜けていた。
……無理もないわね。
突然、魔物のような恐ろしい面を付けた長身の男が乗り込み、大暴れしていったのだ。
全員が尻尾巻いて逃げ出さない分、むしろマシな状況だと言えるかもしれない。
それに……宴の主目的である、蓬莱の玉の枝。
それが、あいつの口から……“自分の製作物である”と告げられたのだ。
果てしなき冒険の末に手に入れたはずの秘宝が、人為的なものだった。
それも、職人への報酬を踏み倒した上でのもの。
……藤原の地位は、しばらく地に落ちることでしょうね。
ま、どうにも優秀な文官を抱えているようだし、真実はもみ消されるかもしれないけれど……私との縁談が解消されるなら、後はどうだって良いことだわ。
地上の人間と結ばれる?
冗談じゃない。月の民とも地上の民とも、褥を重ねるなんてまっぴらだわ。
……まぁ、さっきは……本物の蓬莱の枝を前にしてちょっとだけ焦ったけど。
ここまで宴が総崩れになってしまえば、後はどうにでもできそうだわ。
……あの枝を、無償で手に入れることすらもね。
「車持殿」
「……! は、はい……」
顔を赤くしたり青くしたりで忙しかった藤原は、簾越しの声に驚いたように反応した。
まさか私から声をかけられるとは思っていなかったのだろう。
実際、わざわざこのような奴を語らいたくはないけどね。けど、まだひとつだけ用が残っているのよ。
「此度の縁談。当然のことながら、なかったことにさせていただくわ」
「……は」
当然の通達だ。要求ですらない。今回の宴は、誰もが私への侮辱であったと認識していることだろう。
「そして。――このふざけた枝は、頂いていきますから。贋作でも、手折れば退屈しのぎにはなるでしょうから」
「……っ……」
藤原は何かを言いかけた。この期に及んで何の未練があるというのか……。
本当、欲深いというか。穢れの多い男ね。
「……屋敷へ戻るぞっ! 牛車を出せ!」
「車持殿ッ……それが、牛が……全くおらず、牛車は……」
「……チッ!」
その後、彼は散々部下やその場にいない石逗とやらを怒鳴り散らした後、徒歩で自らの根城へと帰っていった。
おそらく、今回の宴による醜聞やらの処理に追われるのだろう。
……本当、どうでもいいことだけれど。
「それよりも……」
藤原が残していった蓬莱の玉の枝を手に取り、眺める。
表面を撫ぜ、灯りに翳し……そして、確信する。
「本物……」
そう、本物なのだ。
宴にいた者たちは、この枝を贋物であると疑っていない。
用意させた藤原でさえ、信じ切っていることだろう。だからこそ、大人しく引き下がったし、こうして置き去りにしたわけだけど……。
……それでも、私にはわかる。
この枝は紛れもなく蓬莱の玉の枝の実物であり……慣れ親しんできたものに相違ないのだと。
「輝夜……良いのかい? その枝は……確かに美しいが、結局……偽物なんじゃろう」
「そうね、爺。けれど……良いのよ。わざわざ捨てる必要はないから」
「ふむ……お前がそう言うなら、取り上げはしないが……」
そして、この枝を作ったのは……あの石逗と名乗っていた男、ライオネル・ブラックモアなのだという。
……何故? 意味がわからない。
でも、嘘だと思えない。あれは……あいつは、不気味すぎるから。
何をするのか、あの大異変から何年も経った今でさえ、予想がつかないから。
「……永琳が来たら、隠居しなくちゃね」
「エイリン? 輝夜、エイリンとはなんだい?」
「ふふ、なんでもないのよ。爺」
「ふむ? そうか……しかし、まぁ元気を出すんだよ、輝夜。もっと良い殿方が、きっとすぐ見つかるさ」
……永琳。彼女と合流したら、速やかに身を隠さなくては。
けど、それまでは……もう少しだけ、この若き老夫婦の娘役を務めるのも、良いかもね。