戦姫絶唱シンフォギア feat.ワイルドアームズ 作:ルシエド
(あ、あ゛つ゛い゛……これが噂の日本の梅雨……
日光が強くなくても熱がこもった空気、まるでサウナ……
何よりこの汗、汗がいつまで経っても乾かない!
いつまでもぬるぬるベタベタで……キツい……これはキツい……)
バル・ベルデは荒野の多い国であったが、そこまで暑い国でもなかった。
日本のように四季があるわけではなく、一年中気温がそこまで変化しない。
年間平均最高気温は25℃。年間平均最低気温は13℃。湿度も低い。
ゼファーはバルベルデで幼少期を過ごし、その後もF.I.S.という空調の効いた施設で過ごし、現在に至るまで同じように空調の効いた二課本部で過ごしていた。
そんな彼は今、東京のアパートに住んでいる。
一年を通してみると氷点下を下回ったり、40℃を超えたり、夏場は異常に蒸す東京に、だ。
現在、初夏。
意外と言うべきか妥当と言うべきか、ゼファーは夏という魔物に打ちのめされていた。
人によってはノイズよりヤバいと思っているかもしれない、日本だけでも毎年数千人の熱中症患者を救急車送りにし、数百人を死に至らしめている、夏という名の怪物に。
「わぅん」
「悪いハンペン、冷房は生活費節約と地球環境のために謹慎中だ。
この響に貰ったうちわで扇いでやるからこれで我慢してくれ」
「くぅん」
「……もしかして、俺の心配してくれてるのか?
おいおい、そんなことされても高い餌買ってやるくらいしかしないぞ」
汗ダラダラのくせに犬ばっかり扇いでいる主人を犬が気遣う光景。
どっちの方が賢い選択をしているのか分かったもんじゃない。
ハンペンは完治しない後ろ足のせいか部屋の真ん中でじっとしていて、立ち上がることもないまま可愛らしく主人の顔を見上げている。
ゼファーの一人暮らしを、一人と一匹暮らしに変える同居人。
そんな幼い無駄飯ぐらいに餌をやろうと立ち上がったゼファーの足を、チャイムの音が止めた。
「あれ、誰か来た?
ええっと、こういう時はドアの覗き穴?を使って……」
「ワゥン?」
不慣れな様子でゼファーはドアの向こうの人物を確認すると、慌ててドアを開ける。
そこには30℃を超える気温にも関わらず暑苦しい貴族風厚着私服を着ている土場。暑いなら脱げばいいものを、汗でびしょびよの首元が非常に暑苦しい。
対してその隣に立つ緒川は夏用とはいえ長袖長ズボンのフォーマルスーツ。
何故汗一つかいていない涼しい顔なのか、これが分からない。
だがゼファーは"忍者だから"と疑問にも思わず納得した。
「土場さんに、シンジさん?」
「やあ。私の家の余った扇風機を持ってきたんだけど、使うかい?」
「僕はゼファーさんの家の位置を知らなかった彼の付き添いです。
飲み物とアイスを買ってきましたが、食べますか?」
「ふ、二人共……! ありがとうございます! あ、座布団今敷きますので中にどうぞ!」
よく見れば土場は外側に保証書をテープで貼られた扇風機入りのダンボールを抱え、緒川は大きめのコンビニの袋を両手にいくつも持っている。
この夏場、窮地での大人の手助けに、ゼファーは歓喜した。
少年に招かれるまま、部屋に入った大人二人を迎えたのは無邪気な子犬の抜けた声。
「ワン」
よく来たな、でもご主人に迷惑かけんじゃねーぞ、とハンペンは言った。
が、犬の言葉なんて誰にも分からなかったので、その鳴き声は無視された。
第十五話:血も涙も、
ゼファーは自分が鍛錬してるだけなのに、見ていて飽きないのかと二人に言った。
響は飽きたら飽きるんじゃない? とよく分からない返事を返した。
未来は三人で話してるから別に、と彼女らしい答えを返した。
つまらない映画は飽きる。楽しい映画は見ていて飽きない。好きなものはいくら見ていても飽きることはない。つまりはそういう理屈なのだが、そこに考えが至るものはここには居ない。
そんな三人組のある日のこと。
ゼファーが連れてきた小さな子犬に、響と未来は女の子らしく飛びついていた。
「うわー、かわいー! ねね、なんて名前?」
「ハンペン」
「……あ、ああ、そうなんだ」
響の上がっていたテンションが、ゼファーのネーミングにより一瞬で下降する。
なんとなく、響はニュースで見た"変な漢字を刺青として刻んでしまう、それをカッコイイと思っている外国人"の姿を思い出した。
彼なりに大真面目な生き物へのネーミングなのかもしれない。
「……この子、もしかして怪我してるの?」
「車に轢かれて、ちょっとな」
「かわいそう……」
まず子犬の可愛さに目を引かれ、真っ先に名を聞くのが響。
同じように子犬を可愛いと思い、けれど次にその子犬の後ろ足の怪我の後遺症、子犬の痛みに目が行ったのが未来だった。
未来は可愛がるのではなく、慈しむようにハンペンを撫でる。
ハンペンもそんな彼女の意思を感じ取ったのか、初対面の相手に対し警戒心を露わにすることもなく、気持ちよさそうに撫でられるままにする。
「賢い子だね」
「だろ? 未来じゃなければ、こうも上手くは行かないとは思うけどな」
「未来だけズルい! 私もナデナデしてさしあげ……」
「ワン!」
「なして!?」
ワクワクしながら手を伸ばした響に対し、からかうように吠えるハンペン。
飛び上がるように手を引っ込めた響を、ゼファーと未来が笑った。
「で、今日はそれ何の修行なの? 長い布を腰に付けて、速く走って……」
「水の上を走る修行だ。今の俺には、これが必要だとこの前実感した」
「ばっっっっかじゃないの?」
長い布を腰後ろに付け走るゼファーを、子犬を抱えつつ未来が冷たい目で全否定する。
残念ながら、客観的に見ればこの場は未来の意見の方が完全無欠に正しい。
ハンペンが未来の膝の上から「ご主人に何言ってやがる」と非難の鳴き声を上げるが、表情を見る限り響も未来と同意見のようだ。
大真面目に水の上を走る修行なんてしていたら、誰だってこう言われるに決まってる。
「いやー、流石に漫画大好きな私でもその修業はないかなーって」
「ゼっくん、また誰かに騙されてるんじゃないの?」
「何言ってんだお前ら、川で溺れた時に水の上走る人に会っただろ」
「「……あ」」
ゼファー何言ってんだ、がそのまま未来と響何言ってんだ、に反転するブーメラン。
ただの一度、一度だけ、二人は川での事件の時にファンタジーな存在を見た。
響は未来から後に聞いて記憶したのだが、意識が朦朧としていた時にも見てはいる。
すなわち、忍者である。
「ゼっくん、忍者になりたいの?」
「いや、せめて今より少しは人の役に立てる人になりたいと思ってる」
(海で人を拾うライフセーバーにでもなるつもりなのかな……
いや、ない。ゼっくんのことだからそこまで考えてやってないねこれ)
何も考えずに問うている響とは対照的に、未来は考えることでゼファーの現状をかなり正確に見抜いていた。
ゼファーの今の修行の目標は、弱点の穴埋めである。
弱点とはすなわち、先日発覚した海上でノイズと上手く戦えないという点である。
海戦型ノイズの行動パターンの研究。
及び海上でも役立たずにならないよう、選べる選択肢の増強。
そこでゼファーが教えを請うたのが水上を軽快に走るNINJA、緒川慎次だ。
ゼファーと同じように、翼もまた緒川に教えを請うていた。
彼女はゼファーとは違い"守るための選択肢"として緒川の『影縫い』に着目しており、対人において有用、ノイズに対しても時に効果を見込めるこの技を習わんとしていた。
ここで断ったり二人を試したりせず、快く二人に秘伝の技を伝授してくれるのが、緒川慎次の他人とは違うところである。
ゼファーは水上走行。翼は影縫い。
共に緒川に指導を受けていたが、これが中々上手く行かなかった。
ゼファーも翼も、緒川曰く「スジはいいですがモノになるのは数年後でしょうね」とのこと。
緒川は口にはしなかったが、二人とも忍術と微妙に相性の悪い、全く忍ぶ気がない人間だったことが悪い方向に作用してしまっていた。
なお、奏は他人から戦いを教わろうという気が全くなく、かつ教わらなくとも強く、おまけに必要な分は見れば盗める天才であるために不参加。
「ダメだ、これじゃダメだ……どうやったら水の上を走れるんだ……!」
「なんか、かめはめ波の練習してた同級生を見ちゃった気分……」
「やめなよ響」
本人は至極大真面目に挑んでいるのだろうが、今のゼファーはあまりにシュール過ぎる。
現実に他人がやっていることを真似ているだけなのだが、それでもシュール過ぎる。
少女二人のツッコミ及びフォローでオチまで付いてしまっていた。
一旦意識を切り替えるためか、ゼファーは自分のバッグを漁って水筒を取り出す。
すると、水筒と一緒に何か紙が落ちてきた。
「何これ?」
「あ、それのことすっかり忘れてた」
響がそれを拾い上げると、ゼファーが手の平に拳の腹をポンと打ち付ける。
それは映画の券だった。指定された期間、指定された劇場でならどんな映画でも一回限り無料で見ていいという、結構便利な映画の券。
それも三枚。
ゼファーが友里あおいから「忙しくて見に行けない……! 私の代わりに、私の分まで楽しんできて、お願い……! 期限切れなんて虚しい終わりはもったいな過ぎる……!」という台詞とセットで貰った映画券であった。
そして、ちょうどよくこの場には三人揃っている。
貰った時は翼と奏でも誘おうかと思っていたゼファーであったが、まあいいやと思って目の前の二人を誘う。どの道映画なんて行ったことのないゼファーは、誰かを頼るしかない。
「三人で映画でも見に行かないか? 明日だけど」
思い出すタイミングが少し違えば、土場と緒川と男三人で行っていたかもしれない。
その場合と、響と未来と行く場合では、選ばれた映画もまた違っただろう。
そうしてゼファーは、映画のチョイスを少女二人に託すのだった。
風鳴弦十郎曰く、「映画には人生の全てがある」とのこと。
多くの人が感銘を受けた映画には、ごく一般的な人の感性を揺らすものが詰め込まれている。
つまり、人が変わるきっかけになるもの、人に必要なものが沢山詰まっているのだ。
そんな映画を沢山見れば、見ているだけで一人前の人間の骨格ができる、というのが彼の主張。
「心奮わせる映画に出会うのは運命だ。
そいつがお前の魂を揺らし、固めて強くしてくれる。
なりたい自分の理想像を、映画の中に求めるのもいい。
ヒーローには一生追い付けない分、一生ものの夢になってくれる」
弦十郎は、自分の中で映画をそう定義付けていた。
人生に必要なことを他人から学ぶゼファーのように、人生に必要なことをアニメから学ぶオタクが居るように、彼は人生に必要なことを映画から学んできた。
だからか、弦十郎は気に入った子供にはしきりに映画を見ることを勧めるタイプだった。
ゼファーも映画を見るよう何度も勧められていて、これはいい機会だと思いあおいの映画券を使いに行った、というわけだ。
何しろ飯食って映画見て寝てれば強くなれる、と常々冗談めかして言っている弦十郎だ。
彼を追いかけるゼファーとしては、映画を見ないという選択肢は存在しない。
どの映画を見るのかという点については、響と未来に丸投げだったがまあそれは仕方ない。
「うん、うん……いい映画だった」
「ゼっくんずっとそればっかりじゃない」
「いやー、実はずっと見たかったんだよねー、あれ」
ゼファーは映画のチョイスを二人に丸投げ。
未来は評判の高い小説原作の恋愛もの映画を見たいと主張。
響は有名なお伽噺原作のハリウッドアクション映画を見たいと主張。
最終的に響に甘い未来が折れて、三人揃ってハリウッドにゴーという流れになった。
ゼファーが三人分のポップコーンとコーラを買って、一番前の席に行こうとするゼファーの襟を同時に二人が引っ掴み、適当な位置の席に三人並んで仲良く座る。
そこからの物語は、ゼファーも一瞬足りとも目を離せない、大迫力のアクションの応酬だった。
映画のタイトルは『エレシウス』。
どこにあったのか、実在したのかすら定かでない、人から人へと語り継がれてきた大昔の王国の伝説にハリウッドが独自アレンジを加えた、王道ヒーローもの映画だった。
ゼファーが以前弦十郎と見に行った作品とは別の国、別の製作、別の俳優、別の興行、別の配給と、何もかもが違うために同じ作品には見えない映画。
だが、王国を脅かすタラスクというドラゴンに対し、銀の腕の青年、銃の赤い王女様、剣の青い王女様が立ち向かうというストーリーは変わらない。
以前ゼファーが見た映画より全体的に登場人物の年齢が高めに設定されているが、作中に生身でのアクションや三角関係ラブストーリーがある以上、仕方がなかったのだろう。
それでいて元ネタのお伽話へのリスペクトも随所に見受けられ、ゼファー達三人だけでなく他の客にも概ね好評だった様子だ。
"誰もが
どんな絵を書いてもいい。どんな絵を掛けてもいい。誰だって、何にだってなれるように"
作中で主人公が言っていた台詞を、余韻に浸るゼファーが何度も頭の中で反芻していると、周囲の他の客の会話が同じ部分に感銘を受けたと語っていて、更に気分が良くなっていく。
弦十郎がゼファーに期待していた、映画を好きになる素質は十分のようだ。
純粋にヒーローものやアクションが好きな響のみならず、未来もそこそこ満足した様子を見せていることから、この映画のクオリティの高さが伺える。
「映画館に来たなら、ちょっとゲームセンターに行かない? ささ、レッツゴーっ」
「え? 映画視聴とゲームセンターはセットなのか……日本文化は奥が深いな」
「響が間違ってるわけじゃないんだけど、これを日本文化っていうのはちょっと違うかな……」
結局その日は、お茶を飲みつつ映画の感想を語り合った後、ゲームセンターでやたら飴をたくさん取ろうとする響に協力してのチーム結成、帰りにショッピングモールをぶらぶらしてから、三人は帰路につくのだった。
さて、この三人が映画に行くきっかけとなった、友里あおいの話をしよう。
あおいは典型的、と言って良いのか分からないが、絵に描いたようなキャリアウーマンだった。
学生時代は友達に話しかけに行かないが友達が話しかけてきてくれる結果、ぼっちにはならなかったものの男子受けの悪い委員長タイプ。
大学生にもなれば、先輩から過去問を貰いつついいゼミを選び、資格取得に情熱を燃やしまくった結果やたらと多芸に。
有名企業に入社して以後、営業と財務の二方面にてバリバリ無双という、同性に理想の姿として憧れられる女傑であった。
「友里さんすげー、また業績トップかよ」
「負けてらんねーな」
「おいおい、お前じゃかないっこないって」
ゼファーが嘘偽りない本音で他人を動かすタイプの交友スキル持ちであるとするならば、彼女は技術で他人と交渉するタイプの交友スキル持ちである。
社会に出て営業の仕事で結果を出す能力と、コミュニティの中で人気者になる能力、及び友人として他人と親しくなる能力は似て非なる。
前者は礼儀作法や筋道を立て道理を立て話すことが肝要であるが、後者は気安さや距離感を計ることが肝要であり、似ているようで似ていない。
一芸に突き抜けた櫻井了子とも違い、飛び抜けた天賦の才を持つ風鳴弦十郎とも違い、多芸な資格と交渉を初めとする対人業務に優れているのが友里あおいという女傑であった。
容姿端麗な美人がキッチリとした服装で礼儀正しく接し、謙虚な姿勢・丁寧な言葉遣い・柔らかい微笑みを心がければ、それだけで交渉は相当に有利に進む。
ことお偉いさん相手への交渉では、服装や礼儀作法がややだらしなくなりがちな弦十郎にとっては欠かせない人材と言えるだろう。
戦闘力はかなり低いが、銃を扱うことに関する資格も持っており、ストレス解消に射撃を嗜んでいることもあって、決して無力な存在ではない。
二課においても指折りに多芸な人材の一人だった。
そんな彼女が二課に来たのは、何かしらのドラマや事件があったわけではなく、強いて言えばコネだった。
彼女は有名な大学を出て、就職後もバリバリと結果を出し続け、順風満帆な人生を送っていた。
しかし、大企業の一部署を担いながらも、彼女の行き先に暗雲が立ち込める。
これもまた典型的な話で、彼女の周囲や上司が「女の癖に」とやっかみを始めたのだ。
無能どものやっかみ、出世の先を越された嫉妬と言い換えてもいい。
「あの女、最近調子に乗りすぎだ」
それだけでなく、彼女の優れた容姿が原因でセクハラも増えてくるという始末。
やりがいのある仕事をこなして給料さえ貰えていれば満足だった彼女も、流石に回される仕事の数まで減らされればモチベーションが保てない。
もう辞めてやるか、と居酒屋で高校時代の旧友に愚痴った、そんなある夜のこと。
「ね、やりがいのある仕事、紹介してあげよっか?」
その旧友が長い付き合いであおいの能力を把握していたこと、その旧友が二課の事務員の一人であったこと、その旧友が産休で抜けるタイミングだったこと、その旧友が機密だらけの二課に補充できる信用のおける即戦力になる新人を探していたということ。
全てが綺麗に噛み合った。
翌月には、二課の中核にてバリバリ働くあおいの姿があったという。
彼女は高い能力と信用のおける人格を兼ね備え、経歴にも怪しいところはなく、組織の人材が諜報防諜戦闘に向いた人間にやや偏っていた二課が求めていた人材だ。
加え、彼女は結果を出すことで周囲の信頼を勝ち取っていく。
あっという間に二課の中核に組み込まれたとしても何らおかしくはなかった。
そんな彼女にの欠点をあえて挙げるとすれば、常識外れな人間には絶対になれないということ、そして男があまり寄ってこないということである。
彼女は所謂高嶺の花だ。
余りにも完璧過ぎる女性には、意外と異性は寄って来ないものである。
男の大半は見栄っ張りとプライドという悲しいサガを持ち合わせており、側に居るだけで劣等感を刺激してくる異性とはくっつきにくく、かつ付き合ったとしても長続きしない。
学生時代から周囲の男性と彼女がめったに関係を持たなかったのも、その辺りに理由がある。
異性に興味が無いわけではない、という所に見えざる危うさが存在した。
産休と育児で離脱した、あおいを二課に誘った彼女の友人曰く、
「飢えてがっついてはいけない。婚活パーティーなど問題外」
「私達は食われる側、肥えて価値を上げ、隙を見せ、わざと食われるべし」
「虎ではない。豚だ、豚だ、お前は豚になるのだ。食われぬ家畜に価値なし」
とのこと。ある意味あおいより数段恐ろしい人物であったのかもしれない。
「まあ、なんとなるでしょ。婚期なんて余裕余裕。今は仕事が恋人よ」
こんな余裕ぶっている彼女が数年後、アラサーになっても恋人の一人もできないなどと、誰が予想できただろうか。
友里あおいは子供達のこともよく見ている。
例えばあおいからは、風鳴翼は非常に安定しているように見えた。
周囲からは流されやすく揺らぎやすいように見られがちだが、芯がある。
つまり本質的に、意見を曲げることはあっても自分を曲げない少女だった。
揺らぐこともあるだろう。迷うこともあるだろう。悩むこともあるだろう。
しかし、芯にある『自分』が曲がらない。
どんな逆境に晒されようと、どんな苦境に置かれようと、彼女は最後に自分らしい答えと意志をもって戦いに挑むだろう。
そんな翼と比較すると、あおい視点ゼファーや奏はどうにも危なっかしい二人だった。
翼に危なっかしい所がないわけではない。
人によっては翼が一番危なっかしいとも思うだろう。
が、あおいの認識では翼が一番安定している子であり、その次がゼファー、ドベが奏という認識だった。
そんな彼女が、外国でゼファーと奏の二人の面倒を見ないといけなくなったのは、まさしく運命の皮肉とでも言うべきものか。
「そろそろかしら」
あおいは今回、隠密行動を取っていた。
緒川の手が空いていれば彼がこの役目を果たしていただろう。けれど緒川の手が空いていなかったため、残りのメンバーの中から彼女が選出されていた。
彼女がこの国に来た理由は一つ。
完全聖遺物『デュランダル』を、EU連合の理事会代表より貰い受けるためだ。
ギリシャ問題をきっかけとして、EU連合はどうしようもないレベルで財政破綻した。
ユーロの価値は暴落し、これが世界恐慌に発展しなかったのはIMF、及び世界銀行の尽力があってこそだったと、後の時代に歴史家は評価するだろう。
さて、ここで比較的余裕があったのがドイツとフランスだ。
両国は真っ先にEUの不良債権をどうにかすることを迫られる。
そこで世界大戦時に日本の風鳴機関とコネがあったドイツを通し、フランスが保有する聖遺物の管理権を日本に譲渡する代わりに、不良債権の一部を日本に肩代わりしてもらおうという案が提示され、双方合意の上で実行に移された。
日本は比較的安価に聖遺物が手に入る。EUは不良債権の処理ができる。
互いにWin-Winの取り引きであったと言える。
あくまで『管理権の譲渡』であったこと、秘密裏の取引であったことも旨味だらけだった。
日本は表向き「不良債権の肩代わりは人道的支援」と世間の評判を上げることもでき、仮に全てがバレたとしても、EU側はあくまでポーズだけの返還要求をして味方の糾弾をかわすことができる。
そうしてEUの経済破綻にかこつけて、二課は新たな聖遺物を手に入れた。
空港に佇むあおいが手にしているケースの中には、第7号聖遺物とナンバリングされた破損のない完全聖遺物、『デュランダル』が収められている。
これを秘密裏に受け取り、持ち帰るまでが彼女の任務だった。
時計を見て時間を確認するあおいの視界の先で、曲がり角を曲がって此方に歩み寄ってくるゼファーと奏の二人を見て、あおいは微笑む。
「あら、おかえりなさい。楽しかった?」
何故二人がここに居るのか? 一言で言えば、偽装だ。
つまり二課の力を駆使してあおい達三人の個人情報を偽造し、「子供二人、大人一人の一家の観光」に偽装、二課内部の人間でもなければ気付けない擬態を作り上げたのだ。
二課が今日ここにデュランダルを受け取りに来たことなど、下手すればEU側の諜報機関ですら気付いていないという可能性さえある。
女性の一人旅と比べれば、子供連れの一家という設定の方が、"諜報機関のエージェントっぽさ""は遥かに薄い。
ゼファーと奏は偽装用のおまけ、ということだ。
まあ、裏には幾人かの思惑も多々ある。
このお使いは安全が保証されているようなものではあるが、それでも万が一を考え「ゼファーなら護衛としても使える。直感もある」という意見が出されたことだとか。
完全聖遺物という、対ノイズに使える可能性のある便利アイテムに目を付け、「もしもの時はかっぱらって逃げてやろう」と目論む奏による、口八丁手八丁で説得しての参戦だとか。
その結果が、この三人のチーム、というわけだ。
ならば何故あおいと子供二人が別行動していたかというと、暇潰しだ。
あおいが行う取り引きの時間、二課と今後とも友好的な関係を維持してもらえるよう軽いロビー活動をする時間。その間ずっと一室に待機させてるのは流石に……と思ったあおいが、飛行機が出るまでの時間の間なら、空港回りを観光してもいいと許可したのだ。
100%の善意。しかしあおいの善意に嬉々として乗って飛び出して行った奏、後に続いたゼファーは、微妙な顔をして戻ってきていた。
「そこそこ」
「あー、はい、まあ」
「……? どうしたの? 楽しくなかったのかしら」
返事までしょぼくれている二人に疑問を持ち、あおいは問いかける。
「いや、あたしらフランス語とか分かんねーって問題が、ね。
なんで行く前に気づかなかったんだ、あたしのバカヤロウ……」
「……あら? ゼファー君ができるんじゃなかったかしら」
「俺が使えるのはスペイン語、英語、日本語だけです。
誰かから間違った情報を聞いていたか、聞き間違えたんじゃないでしょうか」
「うそ、それホントなの? ごめんなさい、これは私のミスね」
あおいはどうやらゼファーが使える言語の種類を勘違いしていたようだ。
彼女の想定では、退屈な時間を過ごさせてしまった詫びに、ゼファーのエスコートによる外国デートをさせてあげよう……と考えていたようだが、てんで話にならなかった様子。
頭を抱えるあおいだが、そこでゼファーの手元に免税店の買い物袋が一つ吊り下がっているのが見えた。
「なので、収穫は俺が土産屋でフランスのドッグフードを買えたくらいです」
「何故ドッグフード……」
「絵柄でギリギリ判断できたのがこれだけだったんです。
最近、ハンペンがよく食べさせてるご飯をあんまり食べてくれないんですよ」
「なんでフランスくんだりまで来て愛犬の心配してんだよ、お前」
呆れたように言う奏だが、そこに悪意や侮蔑はない。
むしろペットを大事にする人間への好感すらあるかもしれない。
素直に感情を表さない彼女の好感は、とてつもなく分かりづらい。
「そろそろ時間よ。帰りましょう、日本へ」
一仕事終えた充実感を胸に秘めるあおい。
実はゼファーと人助けのために地元の不良チームを一つ潰してきた、疲労感に包まれている奏。
言葉が分からなくてもありがとうって気持ちは伝わるんだな、と満足感を感じているゼファー。
日本でもフランスでも、彼女と彼はカツアゲetcの騒動に巻き込まれ、片っ端からぶっ飛ばすことを宿命付けられた人間であることに変わりはなかった様子。
「な、な、友里さん、あたしにデュランダル触らせてくれね?」
「ダメよ、あなた盗って逃げそうだもの」
「……」
奏を適当にあしらいつつ、"もしかしたら二課に来てから一番楽な仕事だったかもしれない"と思いながら、あおいはポケットの中のパスポートの存在を手探りで確認し、ゲートに向かった。
もしかしたらこの仕事、二課に来てから一番ヤバい仕事だったかもしれない。
現実逃避気味に、あおいはそう思った。
「ゼファー! やっこさんどうだ!」
「再接近中だカナデさん! 1分30秒には食いつかれるぞ!」
何しろ、あおいが乗っている航空機は全速力で飛んでいて。
その航空機に食らいつかんと、いくつもの大型ノイズが迫ってきているのだから。
「ひゃぁっ!?」
思わず悲鳴を上げてしまった彼女を誰が責められよう。
コクピットには奏、ゼファー、あおいの素人三人しか居ない。
飛行機のプロが誰も居ないその空間で、奏が叩きつけるように計器を力任せに弄った。
飛行機の右翼が下がり左翼が上がったかと思えば、次の瞬間には右翼が上がり左翼が下がる。
そのタイミングで翼の上下をノイズが通り過ぎて行ったりするので、その度にあおいは奏の『戦闘』というもの全てに関する飛び抜けたセンスを実感せずには居られない。
「ひゃっはぁッ! 舐めてるからこうなんだよクソノイズども!」
何故こうなったのか。
友里あおいは、一時間ほど前のことを思い返す。
3万フィートを遥か超え、上空一万メートルの空を一直線に飛んでいた航空機。
そこでゼファーが「ノイズが来る」と叫んだことが、全ての始まりだった。
本日の彼らはお忍びである。二課の権力は使えない。警告しても信用されない。
ノイズが襲撃してくる、と航空会社が認識したのはゼファーが探知してから数分の後、ノイズのファーストアタックにより機体が揺らされ、機長と副操縦士が同時に頭を打って気絶させられてからだった。
「……やべえな」
「ああ、ヤバい」
そこから立て直せたのは、ゼファーと奏が異様な速度で最適解を選べたからだろう。
勘でマニュアルを見つけ出してきたゼファーが凄いのか。
ゼファーの直感のサポートが各所で光っていたとはいえ、パラパラとマニュアルをめくるだけであっさりと飛行機をオートパイロットに切り替え、残りのマニュアル操作も覚えていく奏が凄いのか。いや、両方か。
二人の手は見ているあおいがハラハラしてしまうほどに手早く、迷いがない。
失敗したら墜落するかも、という考えから生まれる行動の躊躇いが微塵もないのだ。
若さゆえの無謀……いや、『勇気』。
このまま何もしなければ死ぬと分かっているのなら、一秒前にできなかったことにも挑戦していくという、少年と少女から沸き立つ勇気だ。
「ゼファー君、奏ちゃん、逃げるのよね?」
「そりゃ逃げますよ。俺達には有効打がない。
……が、容易く逃してくれる相手じゃなさそうです」
ノイズはこの航空機に後方から追いつき、食らいついてきた。
つまり確実にこの機体よりも速いということだ。
この便は珍しく客が少ないスッカスカの状態で、相応に総重量も軽く速度が出る状態であるというのに、この体たらく。
よってこの航空機の現在の速度から逆算すれば、ノイズはまず確実に時速1000km前後の速度を出していると見て間違いない。
ゼファー達の航空機を狙う、遷音速の世界の大型ノイズ。
対ノイズ戦闘のベテランであるはずの彼すら初めて見る希少型。
希少であるはずなのに数体同時に現れたそれは、後に『翼獣型』とカテゴライズされる上位ノイズの一角であった。
「確かに、今のあたしにはノイズどもをぶっ殺せる力はねえ」
奏が笑う。
獰猛な獣のように笑う。
牙を剥き出しにして、笑顔とは本来攻撃的なものなのだと知らしめるように笑う。
殺意、敵意、悪意のありったけをノイズに向けて、復讐者・天羽奏は凶暴に笑う。
「ならせめて、ド肝を抜いてやろうぜ」
その笑顔の野性とは対照的に、彼女の手の動きは理性的だ。
飛行機のマニュアルを読んだだけで動かし方をあらかた学んだ理性。
それは学者一家の遺伝、両親から受け継いだ地頭の良さ。
ノイズに一泡吹かせてやるためなら一緒に乗っている乗客の命など構わないという憎悪。
それは両親を目の前で殺されたことで生み出された復讐心。
知性ある狂犬、とでも言うべきか。
翼との大喧嘩の時は一側面しか現れていなかったそれが、今完全な形で外に向けられる。
「……奏ちゃん、何してるの?」
「知ってるかい、友里さん。
旅客機でも、操作を間違えなければバレルロールだってできるんだぜ?」
「えっ」
「ゼファー! 隣に座って手ぇ貸せ! ノイズの位置を詳しく教えろ!」
「ああ!」
奏の心境を推察し、真っ向から否定するでもなく、手を貸しつつ誘導しようとするゼファー。
ノイズに一泡吹かせられればそれでいい奏の手綱を握り、数は少なくとも乗員と乗客全ての生存を目指し、自身も全力を尽くそうとする。
そうなると、腹を括っていないのはあおい一人になってしまった。
「ええええええええええええええええ!? やるの!? 本気でやるの!?」
「アオイさん、気絶してる機長達を別の椅子に固定してください!
CAさん達に頼んで乗客の体固定の徹底を! ここから荒れますよ!」
「ちょ、ま、これは流石に危険すぎ……!」
「……どの道、このままじゃ飛行機ごとノイズに叩き落とされて全員死にます。
覚悟を決めて、可能性が低くても全員が生き残れる可能性に賭けましょう!」
「っ、ああもう、分かったわよ!」
しかし子供達が腹を決めているのに、いつまでもビビっている彼女ではない。
確かにこの状況は常識外れだ。
取れる手段も常識外れにもほどがある。
相手はノイズ、操縦士はマニュアルをさらっと一回読んだだけ、航空機の翼をちょっと破損すればそれだけで海にぶつかり爆発四散。
まだ実弾のロシアンルーレットの方が、生き残る確率は高いだろう。
だが、彼女は割り切った。
割り切って覚悟を決めた。
彼女の名は友里あおい。男社会で胸を張り声を張り上げる、そんな女傑である。
「やっちゃいなさい、二人共!」
「任せて下さい!」
「来いや腐れノイズども。さんざんコケにしてから振り切ってやるッ!」
かくして、雲の上のデッドヒートが始まった。
また後日。
夜の街に灯る一つの灯から、食欲をそそる香りとラジオの音が聞こえてくる。
それは屋台であった。夜闇の中で静かに明かりで闇を払い、「自衛隊、スクランブル発進で―――」と喋り続けるラジオが静寂を払う。
右端にゼファー。真ん中に奏。左端に翼。
三人はそれぞれ思い思いにおでんを頼み、口に運んでいく。
「お前さん、ここをお前さんに教えたあのボンクラどもより見込みがあるのう」
「いきなり何言うんですかオヤジさん。比較対象がゲンさん達って普通にないですよ」
「いや、あやつら一度も女を連れて来んかったからな」
「あ、あはは……」
おでん屋台の主との会話もそこそこに、ゼファーもはふはふとおでんを食べる。
ゼファーが好むおでんの具材は卵、大根、こんにゃくのトライエース。
味音痴にも程がある舌で舌鼓を打ちつつ、少年は隣の友人二人との会話に耳を傾ける。
「私一人だけ置いてきぼりって……ちょっと疎外感」
「おう翼、飛行機でドッグファイトしつつ日本近海まで何時間もかけて逃げて。
最終的に出て来た自衛隊の戦闘機との乱戦抜けてぶっつけ本番の着陸したかったのか?
次に機会があったら代わってやんぞ? ん?」
「……遠慮しとく」
仲間外れ感から拗ね気味の発言をする翼であったが、奏はそんな翼に微塵も気を遣うことなくバッサリと切り捨てる。
実際、翼も仲間外れが嫌というのも嘘ではないのだろうが、その場に居たかったのかと聞けば即座にノーと返すだろう。
空飛ぶ棺桶の中に入ろうと思う人間はいない。
航空機を駆るゼファー&奏コンビは、途中からあおいがルートを指示してくれるようになったこともあり、数時間の空中戦を何とか凌ぎ切っていた。
しかしながら全ての攻撃をかわし切ることはできず、日本領空の境界線辺りで速度が落ちてきたところをついにノイズに捉えられてしまう。
だがそこで、なんと予想だにしていなかった援軍がやってくる。
なんと、航空自衛隊の基地よりスクランブル発進した戦闘機が助けてくれたのだ。
戦闘機がノイズを引き付けてくれている間に、奏達は飛行機を空港の管制塔ナビゲートに従いなんとか着陸させる。
そうして、彼ら彼女らは生き延びたのだった。
「そういや自衛隊の戦闘機が来た時は思わずガッツポーズしちまうほど心強かったな。
すぐに落とされそうになってて何しに来たんだ、とあたしは思ったけど。
自衛隊ってチキンなイメージだったんだが、あんなに腰軽かったっけか」
「ここ数年の法改正の賜物ってやつだよ。
ノイズ相手にも空自のスクランブルが許可されるようになったんだってさ」
日々法は変わる。日々人が変わるように。
人と環境が変わるなら、法もそれに合わせて変わっていかなければならない。
でなければ、どんな法でもいつかは悪法になってしまう。
昨今は日本政府に、ノイズという存在を前提とした法の再構築が求められていた。
「あるなら使えばいいんだよ。
あたしは常々飾りにしとくべきじゃねえと思ってんだ、自衛隊の兵器はよ」
「奏。今回戦闘機が一機落ちて一機破損してしまったけど、ちゃんと分かってる?
あの戦闘機一機で100億円はするのよ? 今回だけでそのくらい被害が出ているのよ?」
「……マジか」
「マジだよ。俺は人命よりかは安いからマシだとは思ってるけど、それでもバカ高いな」
いつの時代も金の問題は深刻である。
ノイズは戦車だって戦闘機だってポンポン落とすが、それら一つ一つが数十億数百億というバカげた値段。なのに勝っても何も手に入らない。しかし放置すると国民が死ぬ。
国政という観点から見れば、ノイズは心底絶滅して欲しい相手だろう。
特異指定災害ノイズには、そういった面の脅威もあった。
「まあ、俺達が弁償しなくちゃならないものでもないから別にいいだろう」
「おう、そうだな。あたしもそう思う」
「いいのかしら……」
おでんの大根をもぐもぐとよく噛んでから飲み込み、ゼファーは話を仕切り直す。
ぷかぷかと浮かんでいるはんぺんを見つけ、最近食事量と運動量が目に見えて減り始めたぐーたらな彼のペットを思い出し、少し頬を緩める。
だが、すぐに引き締めた。
「俺がここに二人を呼んだのは他でもない。話があったからなんだ」
割り箸を皿の上に置き、ゼファーは少し真面目な顔をする。
「始めよう。二週間後の町内野球大会に向けての作戦会議だ」
町内野球大会。
それは日々家庭で軽んじられているお父さん方の復権のための舞台であり、仕事でろくに体を動かしていない中年達のためのステージであり、ママさん達が手加減されてへっぴり腰バッティングを披露する場であり、子供達がハッスルする試合である。
そんな町内野球大会だが、井戸端会議にて今年は荒れに荒れることが予想されていた。
町内でも有名なグレートストロンガー・風鳴弦十郎。
いつもは加減しつつ姪と共に楽しみながら参加していた彼が、姪と袂を分かち別々のチームに分かれて参加する、という噂が流れたからだ。
最強のベースボーラー風鳴弦十郎に立ち向かうは、ゲーム的に言えばステータスオールAに近い若き俊英・風鳴翼。
そんな彼女に付いていく、弦十郎の弟子とも噂されるゼファー・ウィンチェスター。日課のマラソンや人助けにより町内ではちょっとした有名人の少年。
そしてミスダークホース・天羽奏。詳細は不明だが、突如現れた謎の女野球戦士の存在に町内はあることないこと噂をばらまきまくっていた。
「翼」
「叔父様」
開会式が終わるやいなや、叔父と姪は向かい合う。
互いを倒すべき仇敵と見定め、この大会の間だけは、敵同士として全力を尽くす。
「決勝で待っているぞ」
「はい!」
プレイボール! 町内野球大会の開幕であった。
翼は叔父超えという目標に向かって燃えている。
野球で超えても意味薄いんじゃないのか、なんてことは彼女が一番よく分かっているだろう。
だが、それは違う。
大切なのはそれを目標にした時、どれだけ燃えるかだ。
ゼファーも翼とほぼ同じような気持ちであり、球技であっても弦十郎に対し全力で挑みたいという気持ちからこうしているのだろう。
奏はここらで弦十郎に自分を認めさせておくのも悪くない、くらいの考え。そこに暇だから気まぐれに手え貸してやっか、くらいの気持ちが加わる。
奇しくも一人では敵わない最強という壁を前にして、三人が力を合わせるという構図になった。
「私がピッチャー」
「俺がキャッチャー」
「あたしがセンター……あれ、いいのかこれで」
この三人がチームを組んで、そんじょそこらの凡百に負けるわけがない。
町内野球大会ということで流石に素人に全力を出して完封、とまではやらないが、直感でバッターの意識の流れを感知しピッチャーの翼に指示を出すゼファーは、過去に例がないほどに最凶最悪のキャッチャーであったと言っても過言ではない。
ストレートしか投げれない代わりに、球速とスタミナが飛び抜けている翼のピッチャー特性もすさまじい。
本気を出せばライトやレフトのフライさえ取りに行ける奏も加わり、扇の中心線に強力な守備が据え付けられる。そこに3番ゼファー4番奏5番翼のクリーンナップの強力大砲。
彼らが決勝まで駒を進めたのは、まさに必然だった。
「ふはははは、よくぞ
「くそっ、このノリに違和感を覚えないあたしが一番嫌だ……!」
「この試合に勝った方のチームが、名実共に町内最強……」
「行くわよ、皆!」
町内大会の行く末と運命を決める最終戦、その幕が上がった。
「……? なんだ、あのスタイルは」
しかしゼファー達は、すぐに自分達の思い上がりを思い知らされる。
他のバッターの時は普通に座っていたキャッチャーが、ゼファーの打順になった途端、立ち上がって横に退いたのだ。
(敬遠……?)
初回から敬遠? と思うゼファーだが、そんな甘えはピッチャー・風鳴弦十郎が放った第一球により、粉々に撃ち抜かれることになった。
弦十郎はキャッチャーに向けて、ではなくストライクゾーンに向けてボールを放る。
その一球は規格外のスピードを持ちつつ、無回転。
ゆえにゆらゆらと揺れて不規則に変化し、曲がり、ストライクゾーンを突き抜けていった。
「!?」
ゼファーの目でようやく見える、そういう次元の魔球。
「これが
ナックルボール。
現代最後の魔球と言われる、無回転のまま飛んで行き不規則に曲がる変化球だ。
しかしながら、弦十郎ほどの男が放てば、それはストレートとしての属性を帯びる。
揺れ幅、変化幅、ボールの重さに純粋な球速、全てが規格外のナックルボール。
これぞまさしく、風鳴弦十郎の
「さあ、かかって来い! これはお前達三人にしか投げんぞ!」
「くっ、なんて人だ……!」
その回のゼファー、次回以降の翼と奏もあえなく三振。
風鳴弦十郎、野球の
「どうする、翼」
「今は見に徹しましょう。失点しなければ必ずチャンスは回ってくるわ」
「遊びの世界でも弦十郎の旦那は弦十郎の旦那だな。たまげるわ」
ゼファー、翼、奏は失点を防ぐ方向性に作戦を決定。
しかしながら超成人級のスラッガーである弦十郎にホームランを打たれてはどうしようもない。
二点ビハインドで最終回を迎えるという、最悪の状況に陥ってしまっていた。
「こりゃ決まったか」
「流石弦十郎さんだ。あの子達もよくやったよ」
「というかこの試合四人くらいスイング見えない奴居るんだけどどうなってんの」
一番からの好打順。
にも関わらず、ツーアウトで三番のゼファーに回ってしまう。
キャッチャーがボールの射線上から消えたのが分かる。
振り逃げの可能性を産んでなおバッターに出塁を許さないスタイル。
最終回に至ってもまだ、ゼファー達は弦十郎の拳ボールの攻略の糸口を見つけられずに居た。
バッターボックスに立つゼファーが、ピッチャーマウンドに立つ弦十郎と向かい合う。
(どうする、どうする……)
「どうしたゼファー、もう降参か?」
「ご冗談を。ここで降参なんてしたら、一生あなたに追いつけない」
意を決し、バットを構えるゼファー。
もはや運否天賦に身を任せるしかない、と直感だけでバットを振ろうと決めたその瞬間。
顔が見えないくらい遠くに、応援に来てくれた響と未来の二人の少女の姿が見えた。
かろうじて顔が見えるくらいの遠くに、何人かの大人が見えた。
それらの誰もが、ゼファーが知っている誰かだった。
彼らはゼファーが愛用している特徴的なジャージを見つけ、ゼファーに対し応援と声援を送る。
「頑張れー!」
野球大会という球が飛んで行く危険性のある大会の特性上、関係者以外の観客は一定以上選手達には近づけない。
プロ野球選手と、スタンドのファンのように。
だが、声は届く。声なら届く。思いは届く。
ふと、何思ったのか、ゼファーはその場で振り返る。
そこには奏と翼が居た。二人揃って、ゼファーが打つことを疑ってもいない顔だった。
確かな期待と信頼があった。
「ゲンさん」
「なんだ?」
「今この一瞬だけ、この打席だけ、俺、ゲンさんより野球強いかもしれませんよ」
「……ほう」
弦十郎が振りかぶる。ゼファーがバットを構える。
弦十郎が投げる。ゼファーが振る。
そのスペックを上昇させた直感が、全ての能力を総動員して弾道を見切り、バットの軌道をそこに重ねる。
ボールが当たる。バットが当たる。
そして爽快な音と共に、打球は外野と外野の間に落ちていった。
「ツーベースヒット! おお!」
「嘘だろ!? あのミスターが打たれたぞ!」
「この勝負、女房を質に入れてでも見なあかん勝負のようでんな」
たった一瞬、たった一打席、ひょっとしたらたった一球の間だけだったかもしれない。
少ない力を短い時間に全力で注ぎ込み、ゼファーは野球において一瞬のみ弦十郎の上を行った。
続くは四番、天羽奏。
「やれやれ、まさか打たれちまうとはな」
「付き合いの浅いあたしにも、分かってきたことがある」
先駆けのゼファーに続こうとしているかのように、彼女もまた弦十郎と相対する。
野獣のように、ではなく。少女らしく奏は笑った。
「あいつは、期待と信頼をすれば応えてくれる男だ」
「……ほう」
「なら、次はあたしの番だろ」
ゼファーは多くの人間を見、そしてかなり的確な評を下してきた。
そしてその中で風鳴弦十郎と同類と評されたのは、天羽奏ただ一人である。
弦十郎と奏、二人の間でもそれは共通の見解だったのだろう。
奏に対しゼファーの時以上に警戒している様子が、弦十郎から伺える。
相対する奏の方はといえば、偶然にもその思考はゼファーのそれと似通っていた。
ただし、それは一瞬に自分の全てを凝縮させてぶつけるといったものではなく、明確な計算と野獣のような本能により導き出された必勝の策である。
打たれた直後の第一球という狙い目。
自身の奥の手に感付かれぬよう、感付かれる間も与えない速攻を選択。
ゼファーが賭けの一手なら、これは奇襲に近い最善手だった。
「―――!?」
弦十郎の160km/hナックルボールが、綺麗にスタンドに叩き込まれる。
文句なしの同点ホームランだった。
「「「おおおおおおおーーーーッ!!」」」
歓声が上がる。
観客も皆大興奮だ。最終回裏ツーアウトからの四番同点ホームランなど、現実でもめったに見られるものではない。
が、弦十郎、翼、ゼファーの三人は別の意味でも驚かされていた。
「すげえカナデさん、何も教わらないままに堂々と『早撃ち』パクりやがった……!」
「……見て盗まれた? もうここまでされると私も尊敬の念しか出ないわね……
零時間抜刀と瞬間剣閃の二特性を捨てて、パワーを上げるアレンジまでしてるじゃない」
「成程な。武器の振るい方をきっちり覚えてきたか。
……打たれてから気付くというのも、後悔先立たずだが」
奏は特に何か言うでもなく、得意気に笑う。
いつ盗んだのか、どう盗んだのかも分からないが、奏は見よう見真似で風鳴の奥義を覚え、それどころか自分流にアレンジするくらいには習熟しているようだ。
ベースを一周し、戻って来たゼファーが翼の左肩に手を乗せる。同じく奏が右肩に手を乗せる。
「行って来い」
「さあ、勝ちに行こうぜ?」
九回裏ツーアウト、同点。ここで一点取れば逆転勝利という場面。
ピッチャーは弦十郎のまま、バッター五番風鳴翼。
「うん、行ってくる」
結論だけ言ってしまえば、彼らは勝つことができなかった。
けれど負けることもなかった。
「行きます、叔父様!」
「来い、翼ぁ!」
結局この後、町内野球大会の終了時刻が来るまでずっと、弦十郎と翼の一歩も譲らないファール合戦が何百球も続いたからである。
主審の裁定は「引き分けでいいでしょう」だった。
弦十郎の一番得意な分野を避けても、勝利は遠い。
彼らが弦十郎を越えていくのはまだまだ先のことになりそうだ。
奏の高校編入と同時に、ゼファーには新たな仕事が言いつけられた。
少し前に奏が二課に侵入した時のようなことがないよう、警備する役目。
最近一部の国に感付かれてきた、適合者選定技術の隠蔽と護衛。
奏が暴走しないように、彼女を見張るお目付け役の再度就任。
それら全ての仕事をこなしつつ、表向きは『私立リディアン音楽院』の用務員として働くこと。それがゼファーに新たに与えられた役目だった。
ノイズ出現率の増加傾向は、二課の予算と人員をかなり増加させた。
が、それが逆に多方面に細かい手伝いをしていたゼファーの存在意義を奪ってしまったのだ。
正社員の増員のせいでアルバイトが要らなくなってしまった状態、とでも言うべきか。
二課本部のセキュリティも近日再構築されるとのことであり、二課本部の警備の要としての役目など、ゼファーの役目の多くが無くなってしまっていた。
しかしながら、ゼファーの能力を遊ばせておくのはもったいない、と考える人間。ゼファーがここに来て間もない頃に学校に通わせたいと主張していた人間。奏の手綱を握れるのは弦十郎か了子かゼファーしか居ないと考えている人間。etc…
二課の色々な人間の思惑が重なり合い、そこに最後の一押しとして櫻井了子が『ある主張』をする。その結果、私立リディアン音楽院用務員ゼファーが誕生した。
女子校の男性用務員という微妙に居心地の悪い職場にて、今日も彼は頑張っている。
なお、名前も容姿も分かりやすく外国人であったため「グローバル感あるよな」と地味に広報効果を発揮していたりする。この手の音楽学校では「世界に羽ばたける人材」というフレーズは、ただ掲げるだけで売りの一つになる。
予備校の外国人講師という単語だけで、そこで英語を習う効率が上がっているように感じる錯覚と同じだ。
「よう、ゼファー」
「おつかれ、カナデさん。授業はもう終わったのか?」
「まーね。で、お前は花壇で土いじりか」
「女の子しか居ない音楽学校で、ここが殺風景なのはどうかと思ってさ」
制服を着崩したラフな格好で帰ろうした奏が、花壇に向かって泥だらけになりつつ真面目な顔で作業していたゼファーを見つける。
ゼファーは二課のガーデニングが趣味の人間に教わり、専門の指南書を読みふけり、素人なりに考えつつリディアンのいくつもある花壇に手を入れていた。
学外からは目につきにくい、けれど登校途中や授業中の生徒がほぼ確実に目にする場所であり、創立六年が経つ今もなんやかんやで放置されていた場所だった。
最初に業者に依頼を忘れた結果、なあなあで放置されていた場所ともいう。
とはいえそう難しいことはしていない。
丈夫で美しく世話のしやすい花、つまり一般的に人気な花を色合いを考えて買う。
そして土を買い、花壇に敷き、手で穴を掘ってそこに花を色合いを考えつつ植えていく。
世話に失敗し枯らせてしまえば無価値となる景色だが、それでも素人にしては十分過ぎるほどの出来具合だった。
「ゼファー、お前花好きなのか?」
「え?」
唐突に奏にそう問われ、思わずゼファーは返答以外の声を上げてしまう。
ゼファーは、小さい頃から花が好きではない。綺麗過ぎるからだ。
バル・ベルデでは花なんて一つもない場所で一日の大半を過ごし、街で小奇麗に着飾った富裕層が花の香りを纏いながら侮蔑の視線を向けてきた記憶もある。
花にも、その香りにも、彼はいい思い出がない。
彼は花の香りを嗅ぐと顔をしかめ、硝煙の香りで落ち着く人間だった。
その自覚もある。
ゼファーは、自分が花を嫌うのは当然の成り行きで、これまでもこれからもずっと好きなることはないと思っていた。バル・ベルデに、居た時は。
「……」
だが、何故だろうか。
今はそうではない、自分が居る。
「嫌いじゃない、と……思う……」
「ふーん」
奏がゼファーの煮え切らない反応に、意味深な返答を返す。
そんな彼女をよそに、ゼファーは自問と自答を始めた。
「んじゃ、あたし先に本部に帰るわ。
その花、いっぱい育っていっぱい増えたらひとつくらいくれな」
「あ、うん。分かった」
「それと。女の勘だが、お前は結構花が好きだと思うぜ?」
「……」
「んじゃな」
奏が去った後、ゼファーは植える前の花を一つ手に取って見る。
言われて初めて気付いたことに思いを馳せた。
すなわち、自分にとって『花』とはなんなのか。
幼少期のゼファーが花に価値を見出だせなかった理由はそう難しいものではない。
戦いの役にも立たないし、腹の足しにもならない。つまり、人が生きるために何の役にも立たないものだったからだ。
生への執着が人一倍強いゼファーは、殊更強くそれを実感してしまったに違いない。
なのに今は、花を嫌いと言い切れないでいる。
それはつまり、生きるために役に立たなくとも、それ以外の何かの価値を、花の中に見出だせるようになったということだ。
「……」
ゼファーは数多くの他者との触れ合いを経て、ほぼ完全に修復された己の記憶の中から、思い出の断片を取り出していく。
バル・ベルデで、数少ない平和な地域で男が女に花を贈っていた光景。
F.I.S.で、部屋を飾り付けるためだけに据えられていた花。
その両方よりも遥かに多くの場所で、比較にならないほど大量に、花というものを求める人が存在する、この平和な日本という国。
「ああ、そうか」
花を買うのは、金に余裕があるから。
無駄に金を使ったらすぐに飢え死ぬという、極限の状況が存在しないから。
花を楽しめるのは、心に余裕があるから。
明日死ぬかもしれないという不安が存在しないから。
それは悪いことでもなんでもなく、むしろ尊ばれてしかるべきもの。
ゼファーは、一つの真実に気付いた。
花は、平和な場所でこそ価値を認められる。
平和こそが花の価値を保証する。
ここ数年でゼファーの中の花に対する価値観が変化したのではない。
ここ数年でゼファーの中の『平和』に対する価値観が変化したのだ。
数え切れない喪失と、日本で享受していた平和が、ゼファーを変えたのだ。
「だから
"この平和を守らなければ"という決意を、強く志させたのだ。
人が戦おうする時ではなく、分かり合おうとする時に花を贈るその意味を、誰からも教わらずに自分一人で気付けるほどに、彼を成長させたのだ。
「……ああ、そうだよな。よし、頑張ろう」
ゼファーは自分を一喝し、花を植える作業を再開する。
花壇を花で埋めていく。手の届く範囲だけでも、可愛らしい花で埋めていく。
その行動に、先程までとは別の意思が垣間見えた。
小さな日向の中に立つ花を見て、今の彼は何を思っているのだろう。
ゼファーはその日、初めてそれを見た。
彼にとって火薬とは"人を殺すために使う道具"だ。
なんとなくではあったが、それが彼の中に固定された価値観となっていた。
だから衝撃を受けたのだ。
『花火』。
人を殺すために使われる火薬を使い、人を笑顔にすることができる魔法。
銃弾を作るための道具で、花を作り上げる奇跡。
その存在を初めて知り、初めて目にしたゼファーの感動は、他の誰にも理解できないだろう。
「すっ、げえ……」
空には輝く満天の星。
街に住む人々が灯す明かりは、地上の星空。
そこに光の花が咲き、色とりどりの新たな星が増えていく。
ものも力も使いよう。
火薬一つとっても、こうして人々を笑顔にできる花火にもなれば、人々の笑顔を奪う銃弾にもなる。ゼファーは花火に目を奪われながらも、それを実感していた。
敵を倒す銃弾より、人を笑顔にする花の方がずっと価値があるじゃないかと、そう思いながら。
「じゃ、ハンペン。俺はヒビキとミクと待ち合わせしてるから留守番頼む。
夏祭りなんだってさ。あの花火をもっと間近で見……ハンペン?
おい、どうした? ハンペン?」
外に駆け出す前に、愛するペットに振り向いて話しかけるゼファー。
……だが、様子が変だ。
いつもの賢い子犬の返事がない。可愛らしい吠えが聞こえない。
それどころか主人の呼びかけに顔を上げることすらしていない。
ゼファーが何度呼びかけようが、ハンペンはピクリとも動かなかった。
まるで、死体のように。
「ハンペン!」
一秒たりとも無駄にせず動物病院に運び込むゼファー。
だが、既に手遅れだった。
街を一望できる小高い丘の上に、墓は立てられた。
ゼファーの手により掘られた穴に遺体は埋められ、素朴な石がその上に立てられている。
それが、ハンペンのために立てられた墓標だった。
「長生きできないとは、言われてたんだ」
ゼファーは墓を見つめながら、未来に背を向けながら、一人言のように語る。
誰かに聞いて欲しい気持ちが、もう抑えきれないのだろう。
服の胸元をギュッと握って、悔しそうにうつむく少年。
「事故の時、内臓もやられてて……定期的に獣医さんに見てもらってはいたんだ。
獣医さんも了子さんも、一年近く保ったのは奇跡だって言ってた。
主人を想う子犬が起こした奇跡、だってさ。……中途半端な奇跡もあったもんだよな」
「ゼっくん……」
「いや、驚いた。自分で一番驚いたよ。
俺、人間じゃなくても……飼ってた犬が死んだだけでも……
こんなに辛いと思うような奴だったんだな、って」
ゼファーはいつかどこかで誰かがそうしていたのを思い出して、見よう見真似で手を合わせる。
そうして、ハンペンの冥福を祈った。
未来はそうするゼファーを見て、彼の中に危うさを見付ける。
危うさが生まれたから見えたのか、その危うさが消えて行くのが見えたのか、ゼファーが一瞬見せた危うさがどちらだったのか、未来には確信が持てなかった。
「大丈夫?」
「大丈夫じゃないかもしれない。でも、大丈夫だ」
ゼファーにまたしても死が突き付けられる。
けれど、悪い言い方をすれば犬でしかない。
良い言い方をすれば、人ではなく犬であった分ハードルが低かった。
ゼファー・ウィンチェスターは背を向けず、その死と向き合う。
「俺、生まれて初めて、『誰かの死』に向き合ったような気がする……」
それが一つ。
彼の中に、最後の成長に必要な心の種をもたらした。
「あ、居た居た」
「ヒビキ? その花は……」
「えへへ、お母さんに今日のこと話したら、持って行きなさいって」
「……ありがとうな、ヒビキ」
送れてやってきた響の手には、盆に墓に添えられるような花がたくさん抱えられていた。
地面に少し穴を掘り、そこに水を溜める用のカップを埋め込み、水を注いで花を活ける。
立花響の埋葬の花。
花の名を持つ少女の手向けは、子犬一匹にはむしろ大仰なくらいだった。
だが、彼と彼女らにとっては大仰でもなんでもない。
彼にとっては言うまでもない、一年近く苦楽を共にした愛犬。
彼女らにとっても、触れ合ったのは数えるほどだが可愛がっていた愛らしい子犬。
その死は、子供達の心に大なり小なり悲しみをもたらしていた。
「行こう、二人共」
ゼファーが促すと、黙祷を捧げていた二人が振り向く。
「それで、また来よう」
二人が強く頷く。
「あの子のことを、ここに来る度思い出そう」
一つの約束を交わして、一匹に別れを告げて、三人はその場を後にした。
『情けは人のためならず』。
日本でも指折りにその意味を勘違いされている言葉だ。
その本来の意味は「情けは人のためではなく、いずれは巡って自分に返ってくるのであるから、誰にでも親切にしておいた方が良い」という意味。
昔の人は、誰にも優しくしない、誰の手伝いもしない人間が誰にも助けてもらえないということを知っていた。
誰にでも親切にできる人間は、窮地で助けてもらえるのだということを知っていた。
だから、それはゼファーが普通の人間よりも魅力のある人間だったからではない。
普通の人間よりも少しだけ、周りの人間に親切にする少年だったからだ。
弦十郎がドライブに連れて行く。緒川が食事に連れて行く。
土場がお古のトースターを譲る。天戸がおでんの屋台に誘う。
了子が新しい携帯端末を作って渡す。あおいがオススメの本を何冊か買って渡す。
甲斐名がゼファーを呼び出し、互いに"死なせてしまったペット"の思い出話を語り合い、割り切れるよう心に区切りを付けさせる。
ある者は器用に、ある者は不器用に、ゼファーを励ました。
ペットの死一つでこれだけ大騒ぎできるくらいに、ゼファーの周りにはいい人が多かった。
「ありがとうございます」
もう、ゼファーは何度その言葉を言っただろうか。何度その気持ちを抱いただろうか。
向けられる皆の気遣いに、少年の中の感謝の気持ちが絶えそうにない。
実際、ゼファーは心にダメージを食らってはいたがへし折れてはいなかったので、皆の気遣いに純粋な嬉しさと感謝の気持ちだけを感じていた。
そして大人達が気を遣うのと同じように、友達も彼に気を遣う。
大人は施すように気を遣った。だが友達は、一緒に居ようとする方向性で気を遣う。
響と未来が、一緒に墓参りに行ってあげたように。
今、翼が計画し奏が巻き込まれた形の『肝試し』が行われているように。
「……」
「おいコラ翼、なんで言い出しっぺが一番ビビってるのさ」
「か、奏は何を言ってるのかしら?」
「声が上ずってんぞ」
「お化けだろうと百鬼夜行だろうと、精神修練が完璧なら恐るるに足らず……
恐るるならばそれ即ち己が未熟の水鏡……未熟者……私未熟者……?」
「あっちゃあ、自分の世界に入っちまった。
おいゼファー、このまま行くぞ。準備出来てるか?」
「肝試しに必要な準備って何?」
「心の準備だ。よし、行くぞ!」
「ちょ、ちょっと待って奏!」
(じゃあツバサは準備出来てないんじゃ……)
企画者の翼は今頃内心で後悔していることだろう。
提案した段階では夏の夜の墓場、というシチュエーションの怖さを想像できていなかったに違いない。友人達に頼られる想像すらしていたはずだ。
だが、今回子供達三人がやって来た肝試し会場、郊外の墓場という絶好の肝試しスポットは、成人した大人であっても怖がるほどの雰囲気をかもし出していた。
そんな恐怖の状況で、三者は三様の反応を見せる。
(へへっ、なんかワクワクしてきたな)
奏は純粋にスリルを楽しんでいた。
(ななななんか今木の影に居た!? 居たよね!?
あっ、何も居なかった……あれ、居なかったよね……?)
翼はある意味一番健全に肝試しを楽しんでいた。
(……俺は死人に化けて出て欲しいのか、それとも出て欲しくないのか……)
そしてゼファーは、フィフス・ヴァンガードの人達を思い出し、F.I.S.の人達を思い出し、ハンペンを思い出し、憂いの混ざった溜め息を吐く。
恐れを知らぬヒーロー気質、百鬼夜行を恐れる精神的に未熟な少女、なんかやたら重いことを考えている少年。
三者三様。それぞれの性格が分かりやすく表出していた。
肝試しも道半ば、というところで三人の側の草の茂みがガサガサっと動く。
「きゃあああああああっ!?」
「ぐえあああああああッ!?」
びっくりした翼がゼファーに抱きつきラブコメの流れか……と思いきや、翼はラブコメではなく力を込めた。
抱きつきを通り過ぎ、締め上げを通り過ぎ、圧殺の域に突入する。
何故彼女はこうもどう転がろうと色気のある話に転がっていかないのだろうか。
苦悶の声を上げるゼファー、笑いをこらえている奏の姿も、今の翼の目には入っていまい。
「あたしら三人にびっくりした小動物あたりが動いただけだろ……
とは思うが翼にそういう指摘をしない方が見てて楽しいからあたしは何もしねーの体勢」
「カナデさぁんッ!?」
なんだかんだで、楽しい日々。
いろいろあっても、笑える日々。
ゼファーは周囲に恵まれた。
この人達が一緒にいてくれるなら、どんなに辛いことでも乗り越えていけると、そう思えるくらいには、幸せがあった。
子供達が子供達で肩を貸し合い、前に進もうとしている中、二課本部の会議室。
別の言い方をするのなら、当人達が肝試しで居なくなったタイミングを狙って、シンフォギア装者達に関する最重要議題を話し合う会議が執り行われていた。
「いや、うーん……他称天才科学者の私としては認めたくないんだけどね。
この状態でこれをロールアウトしちゃうのは。まあ、しゃあないんだけど」
気難しそうというか、怒りをにじませているというか、イライラしているというか、ナーバスというか。とにかく機嫌の悪そうな了子が皆に資料を配る。
「仕方がないだろう、了子君。忌々しいが、上の決めたことだ」
「……そうね。皆に当たり散らしても意味なかったわね。それに私らしくもなかったわ」
ふざけるように笑って、了子は雰囲気をガラリと変える。
そしてモニターに各種データと画像を映し、会議の始まりを告げる声を張り上げた。
「FG式回天特機装束『シンフォギア』、完成しましたー!
と、いうわけで、装者がノイズと戦う初陣の日取りを決めましょうか」
ゼファーがこの国に来てから約一年半。
奏が二課に来てから約一年。
ノイズ殺しの勇者の剣は、ようやく一つの完成を迎えようとしていた。
ペットの死は子供を大人に一歩近づける