戦姫絶唱シンフォギア feat.ワイルドアームズ 作:ルシエド
そんなこんなで調編。しかし導入編と切歌編が混ざってしまってせいで妙に長くて書き溜め見直すと中盤ダレてる感も
悪夢は傷跡だ。
悪夢を見なくなった日とは、その人にとって悪夢を見る原因になった過去が、どうでもよくなったということが証明された日でもある。
それは本当に人それぞれだ。
あっさりと見なくなる者も居れば、一生見続ける者も居るだろう。
鬱陶しさしか感じない人間も居れば、見る度に心折れかける人間も居る。
その少年にとって悪夢とは、気付けば側に這い寄ってくる混沌のようなものだった。
いつの日か見なくなるのかどうかは、それこそ神のみぞ知るといった所だろう。
『さあ、どうする?』
死骸と死臭と死者の怨念にまみれた空間。
けれどもそこはこれまでのような泥の中ではなく、闇の中だった。
自分の手足すら見えない暗黒には違いない。先の見えない状況に変わりはない。
それでも息苦しくはなかったし、生き苦しくはなくなっていた。
『
闇の中一人佇むゼファーに語りかけてくるのは彼と同じ声。
しかしそれは人型の形を取らず、周囲を包む闇の姿のままで語りかけてくる。
それがもう一人の自分という形を取っていないことに今更驚く理由もない。
闇だろうが、泥だろうが、もう一人の自分だろうが、あるいはそのどれでもない何かだろうが、悪夢の中で彼を責め立てる存在が彼自身以外の誰かであるなど、本質的にはありえない。
自分を許せている人間は、大抵悪夢なんて見ないものだ。
己を責め立てる己自身からの問いかけに、彼は彼自身の本音で応える。
「守るんだ、今度こそ」
『何からだ』
悪夢を決意で塗り潰す。
「敵の詳細なんて知った事か」
敵が神だろうと、魔王だろうと、社会だろうと、現実だろうと、彼は膝を折らないだろう。
『どうせまた死ぬさ』
「もう誰も死なせない」
諦観と絶望を語る闇もまた、彼の心の一部。
決意と希望を語る彼もまた、彼の心の一部。
しかし悪夢が夢の中のゼファーに膝すら付かせられない時点で、今の彼の心中でどちらの方が強く在るかなど、誰の目から見ても明らかだった。
第六話:Moon/Prince/Princess
ゼファーが牢のような部屋から踏み出して一週間が経った。
彼の生活は変わらない……と思いきや、激変した。
こまめな情報収集の結果、この地下施設は三層に分かれているのだとゼファーは知った。
まずは最下層の居住区画。
最下層だけで六階層の大きさがあり、今現在ゼファーが提供されている寝泊まりする場所だ。
ここには広場や食堂、個室などが用意されていて、個室の内の一つを彼は与えられている。
セレナ達『レセプターチルドレン』と呼ばれるこの施設の子供達は、ここで日々の衣食住を与えられ、実験がある度に中層に呼び出されているらしい。
最下層の居住区画の上の中層には研究区画。
子供達を使う実験、使わない実験問わず、全ての研究はここで行われるらしい。
ゼファーがこの研究所の研究内容について知っていることは、聖遺物に関わるものであること、そしてかの大災厄についても調べているのだということのみだ。
実際研究や実験というのも又聞きであり、目にはしていない。
こちらは全体で十階ほどの大きさがあり、ゼファーが最初に居た部屋もここにある。
それ以上上層のことはゼファーも知らない。
と、言うより、ここの子供達は研究区画よりも上の区画に行くことを許されていないため、何も知らず何も聞けなかったというのが正しい。
子供達が知らないことはゼファーも知らないし、子供達が言わなかったこともまた然りだ。
ゼファーの情報源はほぼ子供達のみであり、話し相手もほぼ子供達のみだった。
そう、子供達である。
子供達……レセプターチルドレンは、この施設だけでも驚くべきことに数百人は居る。
小中学校の全校生徒並みの人数だ。
人種国籍性別問わず多種多様、共通点は子供であるという一点のみ。
どう見ても世界中から合法とは程遠い方法でかき集められた子供達は、見る者が見れば目眩がするほどの非道さと、それを可能とする組織力を類推させる。
居住区画が六階構造というのも納得だ。
巨大な円を重ねて円柱のようにして、地下に作り上げているのだと推測できるこの研究所は、一階ごとの大きさにも制限がある。地下施設とはそういうものだ。
それでも一階ごとの大きさは相当なものなのだが、流石に数百人の収容ともなると数階分のスペースが必要となる。
ゼファーはここで、世の中の人間の大半が経験済みであろう、『子供達のコミュニティ』の中で生きていくという環境に置かれていた。
「ふぅん」
「正直、時々上手くやれてるか不安になる」
「やれてるんじゃない? 知らないけど」
そんな彼と向き合っているのは、綺麗な黒髪と陶器のような白い肌の幼い美少女……月読調。
ゼファーは少々の迷いの色を浮かべながら不安を口にし、調はそれをすげなくあしらい、互いに言葉を交わしながらもペンを走らせる。
どうやら勉強中のようだ。
ゼファーも調も、レセプターチルドレンのコミュニティに立ち位置を確立していない。
そういう意味では似た者同士だ。
けれどゼファーが馴染みきれていないのは新参だからだというのが大きく、調が馴染めていないのは彼女が社交的でないというのが大きい。
そういう意味では全く似た者同士ではない。
現に彼の不安は杞憂であると、調は知っている。
彼女からすれば「上手くやれるのかどうか」という彼の不安は、上手くやれない可能性が全くないのに不安がっている、そんな滑稽なものにすら見える。
この一週間、調から見たゼファーはそれなりに上手くやれているように見えていた。
「……」
「……」
会話が止まると、カリカリカリとペンの走る音のみが二人の間を回り始める。
彼らが今こなしているのはナスターシャから出された課題だ。
補習扱いも終わり、今ではゼファーもレセプターチルドレンの授業に混ざっている。
静かにしてられない生物の代表格とも言える子供達の授業は相当にうるさい時もしょっちゅうだが、ナスターシャが教える時だけは例外だ。
そして、この二人だけの勉強会は、その授業風景より数段上に静かである。
ある意味、塾の自習室と同じだ。友達と集まる勉強会は、ほぼ確実に休憩時間オンリーの遊ぶ時間と化してしまうが、塾の自習室のように真面目に勉強する人間だけの空間はそうはならない。
相当に真面目な二人が揃って勉強をしていると、近くにいる人間が真面目にしている様子が生む独特の緊張感、それが集中力を増してくれる不思議効果が発生する。
大問を一つ終わらせた区切りに一息ついて、調はチラッと対面に視線を向ける。
ゼファー・ウィンチェスター。
彼女にとっては不思議な参入の仕方をした新入り。
彼女の親友、暁切歌にとっては仲良くなりたい相手。
彼女の友、セレナ・カデンツァヴナ・イヴと常にと言っていいほど一緒にいる少年。
初対面は鎖に繋がれ、頬はこけ、目の下のクマと死んだ目と陰鬱な声色しか印象に残らなかったという、調は顔に出しこそしなかったがインパクトしかない出会い。
加えてレセプターチルドレンに課せられた実験参加の義務もない。
ナスターシャもなんとなく特別扱いしているようで、調の知る内気なセレナが見たこともないくらいに積極的になる相手で、よく分からない異質な雰囲気を纏っている子供。
月読調にとっては何もかもが特異で、どこかが普通でない少年。
その視線には期待と、羨望と、同情と、共感と……それらが変化しつつある諦観があった。
その視線の意味は、未だ彼女以外には知る由もない。
「……そろそろご飯の時間」
「ん、もうそんな時間か。セレナもそろそろ来るかな」
今はここを離れていただけで、セレナも先程までここに居たようだ。
筆記用具をしまいつつ、二人はノートをまとめて席を立つ。
本に囲まれた机……学校の図書室のような、そんな印象を受ける場所から出ていこうとする。
「あ、調にゼファー、今日はもういいんデスか?」
「キリカ?」
「ごめんねきりちゃん、待たせちゃった?」
「いえいえー、あたし遊んでた帰りデスし。それよりこの前薦めた本はどうでしたか?」
「面白かった」
「それはなにより! それじゃみんなでゴハン食べに行きましょうかっ!」
するとそこに颯爽登場、暁切歌。
どうやら調とゼファーの勉強が一区切り付くのを待ってくれていたようだ。
ゼファーも最初は意外にも思えたが、切歌が調に本のオススメを教えているこの光景も、中々この二人らしいと思えるようになってきた。
切歌は勉強は嫌いだが娯楽になる本は好きで、調は勉強が好きだが娯楽本を探すのがあまり好きではない。娯楽を得るために何故労力を費やさないといけないのか、と考えるタイプだ。
ここで本が手に入るのか、という疑問が浮かぶかもしれないが、今さっきまでゼファー達が勉強していた場所が、図書室兼資料室兼自習室のようなものであったりする。
申請すれば割と自由に借りることが出来るのだ。
なので切歌が調に面白かった本を薦め、調が切歌に勉強を教えたりするという支え合いが成立していたりする。微笑ましい友情だ。
が、言い換えるなら、現代日本で宿題すっぽかして毎日漫画ばっかり読んでいるアホの子と、そんなアホの子と何故か仲の良い優等生のような構図である。
クールで無表情な優等生の調と、元気いっぱい笑顔いっぱいの切歌は、一見あまり噛み合わないようにも思える。……実際見てみると、全くそんなことはないのだが。
授業であれ、実験であれ、自習であれ、他の何かの用事であれ、切歌は調をこうして待っていてくれていることがよくある。そして調も切歌に対してそうなのだ。
互いが互いをないがしろにしていない、それがよく分かる。
他の子供達と遊んでいたり、ナスターシャが荷物を運んでいる時に手伝っていたりと、切歌は本当に社交的かつ活動的で常に一箇所に留まっていない。
対する調はあまり動き回らず、交友関係も狭く、目を離すとすぐに本を読んでいる。
どこまでも対極的で、趣味や好きな遊びもそこまでマッチしていないだろう。
けれど、それでいて、この二人は自分の中の一番に、一人の親友を揺らがず据えている。
切歌のボール遊びに調が混ざる時もあれば、調が読んでいる本を切歌が一緒に読んでいる時もある。親友と一緒に居られる一分一秒を、とても大切にしているように見えるのだ。
少女の恋心のような脆いものとは程遠い。
友情と信頼と家族愛を混ぜ合わせ、昇華させた一つの人間関係の完成形だ。
この二人はきっと、互いに刃を向け合って争うことになったとしても、伴侶を見つけて家族をそれぞれが作ったとしても、互いに向ける感情と絆は微塵も揺らぎはしないだろう。
付き合いがそこまで長くないゼファーでも読み取れるほどに、二人の絆は強かった。
性格が似ているからではない。性格が似ていない、対極であるからこそ互いに憧れ、羨望し、足りない部分を補い合い、支え合える理想的な関係。
それが暁切歌と月読調の友情だった。
「ちょっと待っててくれないか? 今セレナが来るからさ」
「そういえばゼファーが居るのにセレナが居ないって変でしたね」
「そこまでいつも一緒に居るわけじゃ……いや、居るな」
「うん」
「デスね」
うんうんと頷く切歌と調に微妙な顔をするゼファーであったが、その視線が空中で止まる。
「ひゃいッ!?」
「なぶっ」
少年のその視線の先、切歌の耳元で小さな虫が飛んでいた。
少女らしく可愛らしい悲鳴を上げて、虫から離れようと跳び退く切歌と、その切歌に巻き込まれて切歌の背中に顔を埋める形でぶつかられた調。
友人を驚かせたそんな小さな敵を、ゼファーが見逃す理由は一つもなかった。
廊下の壁際、アクリルのフィルタ越しに廊下を照らすライトに小さな虫が引き寄せられる。
ゼファーは切歌が悲鳴を上げるとほぼ同時、筆箱からボールペンを引き抜いた。
そして思考しながらコンマ一秒待つ過程を二回、外から見れば待ったことすら分からないほどのその一瞬にタイミングを調整し、ペンを一閃。
動転した切歌が謝りながら調から離れ、ぶつけられたことに不満気な調の視界が開け、二人が今の虫がどこに行ったか判断しようとした視界の中。
音もなく静かに、ペン先と壁で虫を潰す少年の姿があった。
「……」
「……」
「ん? どうした二人共」
「ごめんね待たせちゃ……あれ、なんだろうこの空気」
「お、セレナ、お帰り。これから皆で昼御飯に行こうって話になっててさ」
「いやそういうことじゃなくてね……いつものあれなのかな? これ」
呆気に取られる二人をよそに、合流したセレナに手を振るゼファー。
セレナはもう見慣れたような様子で流しているが、調と切歌の表情はこれ以上なく吃驚仰天だ。
スペクトラ、という種類の防虫装置がある。
内蔵灯で虫を引き寄せ、徹底して研究された飛行パターンから虫の飛ぶ軌道を読み罠を設置、内蔵灯に誘導された虫を捕らえるという防虫装置だ。
小さな虫は命の危機・餌の発見・光の認識・生殖行為・通常行動の五パターンを大雑把に分析すれば、かなり単純な行動原理で動いていることが分かる。
外敵と危機を認識させないことで、どう飛ぶかの先読みは理論的にそう難しいものではないのである。電灯の光を併用すれば尚更に。
虫の姿を高い視力と鍛え上げた動体視力で捉える眼、小さな虫が多く時折病気の媒介にまでなっていたため、こまめに潰しながら中南米で生きてきた経験、それらを補助する感性。
ゼファーが虫を潰した方法は、本人に聞けば「勘」の一言で終わるだろうが、実際はかなり地に足の付いた情報処理に基づいている。
彼のそれは細かい所まで見ていけばそうそう突き抜けたことはしていない。
しかし調や切歌の視点では、とんでもないことをあっさりとやってのける奴にしか見えないだろう。ペン先で小さな虫を狙い打った妙技は事実なのだ。
修練で身に付けることは可能だが、こんな技術誰も身につけようとは思わないに違いない。
実際、びっくりしている二人よりも流せているセレナが変なのだ。そのくらい出来て当然と、失敗を疑いもしていない彼女の信頼が異様なのだ。
セレナのゼファーに対する信頼、理解、態度の全てがよくよく考えなくてもおかしい。
彼と彼女の付き合いは二ヶ月と少ししかない。
けれども彼女は不動の信頼、ほぼ完璧に彼の内心を捉えている理解、ほぼ毎日一緒に居るという十年来の友人に対するような好感をゼファーに対し見せている。
ゼファーは本人の性格もあって全く気にしていないが、普通の人間であれば気持ち悪いとすら思うだろう。健全な青少年なら恋愛面にアホな勘違いをしてしまうかもしれない。
現に彼と彼女の関係と付き合いの長さを比較して見れば、大抵の人間が「一目惚れじゃね?」の一言で片付けると思われる。
しかし、何となくそうは見えない。
実際に見ないと実感しにくいが、そういう甘酸っぱさが微塵も見られないのである。
小学校から大学まで一緒だった同性の幼馴染、恋なんてはるか彼方の熟年夫婦、十年来の友。
強いて言うならそういう関係性が近い。
無論例えだ。しかしセレナがゼファーに向ける信頼と友情と等量、あるいはそれ以上に、彼も彼女に信頼と友情と感謝を返しているのでまたややこしい。
切歌と調の絆は、共に居た時間と互いの性格の相性の良さから生まれたものだが、セレナとゼファーのそれは決定的に違う。
稀ではあるが、短期間で得られた絆が、時間をかけて育まれた絆に勝ることは確かにある。
ゼファーもセレナも、初めて会ったその瞬間にその血で、その心で、その魂で感じ取ったのだ。
己の命をここまで運んできた大きな流れ、『運命』とでも呼ぶべきものを。
「お昼ごはん? じゃあ、もう一人いいかな」
「今更一人増えたって……あ」
「セレナ」
ただ、急激にセレナとゼファーが仲良くなれたことを喜ぶ者ばかりではない。
家族として至極妥当な反応をする少女が、一人の姉がセレナには居た。
頬をかくセレナの後ろから現れるのは、桜色の髪のセレナによく似た少女。
ただしそれはパーツ的な意味で、雰囲気はセレナのそれとはまるで違う。
レセプターチルドレンの中でも最年長の一人、セレナのたった一人の血の繋がった家族であり、大人びた雰囲気と整った顔立ちは、大人になれば誰よりも美人になると十人中十人に思わせる。
そんな端正な顔立ちが、目付きと雰囲気と的で台無しになっている。
有り体に言えば、マリア・カデンツァヴナ・イヴは、ゼファーを思いっきり睨んでいた。
台無しになってもなお美人という印象が消えないあたり、絵に描いたような美少女であるセレナと血の繋がりを感じさせたりもするのだが、どうでもいい話である。
「ど、どうも。マリアさん」
「どうも」
「……」
「……」
「(ちょっとこの空気どうにかして欲しいんデスけど)」
「(無理)」
「(即答調!)」
「(無理かなぁ)」
「(即答セレナ! というか実質原因のセレナがなげやりになっちゃ駄目でしょーが!)」
「(えええ、でも、だって……)」
少し歩み寄るような口調で話しかけるゼファー。
すげなく一言で切り捨て、冷たい目線で雄弁に気持ちを語るマリア。
恐ろしいことにこの数秒でこの二人の距離感が理解できてしまう。無常かつ無情に。
またかよ! とばかりに調とセレナと引っ張り寄せて、切歌による作戦会議。
しかし双方向からの即答であえなく撃沈。
彼女ら三人からすればこの一週間で何度も見た光景であり、そして解決しようとするもあの手この手が通じない現状であり、非常に頭を悩ませる問題であった。
ゼファー・ウィンチェスターとマリア・カデンツァヴナ・イヴは、微妙に仲が良くなかった。
微妙。微妙にである。微妙に仲良くなれていない。
ゼファー自身マリアに何か悪いことをした覚えはないのだが、微妙に距離を取られている。
警戒されているというか、敵意を向けられているというか、仲良くなりたくないというか。
そういった気持ちがマリアから伝わってくるのだから、彼も迂闊に距離を詰めていけない。
セレナとゼファーの関係を見ていた切歌と調は、なんとなくその理由に察しが付いていた。
自分にとって一番大切な人が、どんな理由であれ会って間もない誰かにお熱になっていたら、自分はどんな気持ちになるだろうか。一番の親友が居る二人は、その気持ちがリアルに想像できる。
しかしながら、二人の仲は微妙に良くないだけだ。悪いわけではないのである。
マリア視点でゼファーがどう映っているのか、それをゼファーが知ることはできないが、ゼファー視点では嫌いになる理由はあまりなかった。
なんと言うべきか、敵意はあれど、敵意に嫌悪や拒絶が含まれていないのだ。
人に慣れていない野生動物が人間を「警戒すべきものだ」と威嚇するような、爆弾の起爆を恐れて触れないようにしているかのような、そんな距離の取り方だと彼は感じている。
嫌いな人間に対する悪意混じりの拒絶とは、また種類が違うように感じた。
敵意、悪意、害意。
そういったものにゼファーは人一倍敏感だ。
彼のかつての悪友が、彼の側であらゆる人間に対しそれらを向けていたからである。
つまりゼファーからすれば、彼女は理不尽に自分を追いたてる番犬のような存在だが、特に悪感情は抱く理由がない。
むしろセレナ、調、切歌の三人に対してほどではないが、好感を抱いているほどだ。
「あら、セレナ。髪にゴミが付いてるわよ」
「え、本当?」
「少し動かないで……ほら、取れたわ」
「ありがとう。マリア姉さん」
基本的にゼファーに対してでなければ、彼女の情は深い。
言い換えれば、対人経験の少ないゼファーでも分かるほどに――それを向けられた経験のないゼファーでも分かるほどに――彼女は優しかった。
好きになれない人間に対し敵意を向けられても悪意は向けられない、完全に無視することで傷付けようともしない、それが彼女の優しさの証明でもあるのだと、彼は何となくに思っていた。
彼女に嫌われているという認識が、大前提にあるために。
セレナ、切歌、調の三人がマリアに向ける好感も、ナスターシャがマリアに向ける信頼も、ゼファーに向けられるそれを大きく上回っている。
それは積み上げた信頼、かけた時間の差というより、人柄の差であるとゼファーは感じていた。
セレナは普段は内気な人間であるという。マリアは誰にでも優しい少女であるという。
周囲が語る姉妹の普段の姿と、ゼファーに対して向けられる姉妹の姿はどこまでも食い違い、彼の心中に戸惑いを生む。
セレナだけならともかく、マリアもとなると戸惑いは倍加する。
外に出て一週間。
そこそこコミュニケーション能力に長けるゼファーであれば、色んなものが見えてくる。
例えばこの施設がどういうことをしているか、どういう人間が集まっているか、そしてその中で誰がどんな役割を果たしているか……など。
マリアはこの施設に集められた子供達──レセプターチルドレン──の中で最年長にあたる。
セレナによれば歳も14で、そろそろチルドレン? という年齢間近だ。
その年齢と彼女の「誰も見捨てられない」という優しさが相まって、最年長としての責任感を産み出している。
それは同時に、この施設の数百人の子供達ほぼ全員から慕われているということも意味する。
彼女は力でもなく権力でもなく、優しさによって子供達をまとめ上げていた。
マリア自身はナスターシャを母と仰いでいるフシがあるが、セレナ・調・切歌にとってマリアは姉であり、小さな子供達からすれば母のようなものなのだと、ゼファーは認識していた。
レセプターチルドレンという孤児の子供達は、厳しい実験とむごい現実を乗り越えるため、心の支えとなる共同体を求めた。
それが、『家族』。
彼らは、彼女らは、子供達はいつからか自然と家族のように繋がり始めた。
呼称の変化はなく、ただ互いを名前で呼び合うことで「自分はここにいる」と認識し、家族ではない家族のように繋がる仲間と共に、現実が叩き付けてくる痛みを乗り越えてきた。
マリアは実質、この家族のようで家族でない家族の家長であった。
喧嘩をしていれば仲裁する。傷付いた子が居れば優しくしてあげる。居場所がない子が居れば受け入れてあげる。
もしもこの施設の子供達の中で「好きな人を一位から三位まで名前書いて」とアンケートを取れば、マリアはダブルスコアどころか十倍以上の差を付けてのぶっちぎり一位も夢ではない。
そんなマリアが優しく接することができないゼファーは、ある種とても特別な存在だった。
「マリアとのご飯もお久しぶりデスねぇ」
「そうだったかしら?」
「最近、マリア忙しそうだった」
マリアとの会話にゼファーが混じると変な空気になりやすい。
友人達の楽しそうな空気と団欒を壊したくないゼファーは、自然と黙る。
会話に加われないゼファー。先程まで話していたからか、話したいことが積み重なっていたからか、一時的にかつ自主的にとはいえ、彼は会話の輪から弾かれる。
そこに、僅かな疎外感を感じた。
「私も姉さんと一緒にご飯食べられる機会が減ってて、少し寂しかったかな」
「あら……ごめんなさい、セレナ。これからは気を付けるわ」
マリアの中の一番はセレナで、セレナの中の一番はマリアだ。
二人ぼっちの家族、セレナが生まれた時からずっと一緒に居る姉妹。
その関係性の強さは揺るぎない。
切歌の一番は調で、調の一番は切歌だ。
互いに唯一無二の親友、月と太陽のように対になるかけがえのない友達。
その関係性の強さは揺るぎない。
そして二番目以降もこの四人、あるいはナスターシャを加えた人間関係の中で埋められている。
どこにもゼファーが割って入る余地などない。
彼は彼女らにとって友人であっても、いつか大切な人になったとしても、一番にはなれない。
分かっている。彼はちゃんと分かっている。
自分が後から来た新参であり、この人間関係における後付けの異物であることくらい。
ただそこに、寂寥感と、疎外感と、喪失感を覚えただけだ。
(分かってる……そんなのは、望むだけ、贅沢だ)
そうしているとふと、何故か突然ゼファーは死にたくなった。
何か形のない寂しさと虚無感が胸中に広がっていく。
一番大切な人が双方向に向き合っている、友達・恋愛・貸借が全く関係のない半身とでも言うべき関係。背中も命も心も預けられる至上の信頼。
一番大切な人に向けられる、唯一無二の気持ちだ。
―――約束しろ、隣(ここ)に帰ってくるって
(―――ッ)
それを見ている内にとある大切だった少女の笑顔を思い出し、瞬時に「思い出してすらいない」という速度で忘却、一瞬で精神が壊れないようにと防御反応を発生させる。
しかし微妙に感情の破片が残り、どうにか耐えられる大きさの死にたい気持ちだけが残る。
苦痛に顔が歪み、しかしすぐさまその消し去れない苦痛を心の奥に押し込み、感情ごと記憶に蓋をする。『熱のない顔をする』というのは、そういうことだ。
そうやって心中に生まれた暗い気持ちを、手にした決意で踏み潰す。
恐ろしく力技なやせ我慢と逃避の合わせ技で、記憶が産んだ絶望を踏破した。
絶望に呑まれないその様は彼の成長と、正常でない部分を同時に見せる。
そんな彼の様子と表情にマリアを見ていた切歌と調は気付かず、セレナを見ていたマリアも気付かず、ゼファーを見ていたセレナだけが気付いていた。
「おや、これからお昼ですか」
ゼファーの心中の葛藤なんか知るかとばかりに、そこに横合いからかけられる声。
うげ、と露骨な顔をする切歌。
一見無表情無感情無反応、しかし嫌そうに目が細められる調。
誰に対しても大天使な反応しかしないセレナが困ったように苦笑するのを、ゼファーはそこで初めて目にした。
溜め息を吐くマリアの反応が一番まともにすら見える。
「ご相伴に預かっても?」
レセプターチルドレンの大半から嫌われるこの研究者。
名を、ジョン・ウェイン・ウェルキンゲトリクス。通称ウェル博士。
今浮かべている人の良さそうな笑顔は、ただ処世術として貼り付けただけの仮面であると、周囲の反応が如実に示す男がそこに立っていた。
Gだと親しくもなさそうなのにやたらボディタッチ多かったですけどあれで年頃の娘さんに嫌われないってのは無理ですよ博士