ここはとある屋敷。
その屋敷の主はいつもの様に仕事をこなしていた。
「ふぅ……今日もこんなに……はぁ…」
その屋敷の主・孫権は朝早くから仕事内容の書かれている巻物の山を見て溜息を洩らす。
しかも、それは全て民の声であった。
孫家の領地を掠め取った袁術が行っている政治の批判が主だったのだが…
その量はまさに、どれだけ袁術が愚かであるかを物語っていた。
「よくもまぁ…どうやったらこれだけ不満を言われるのか…」
そして、そんな愚凡に飼われている自分達の境遇にも溜息をもらしてしまうのであった。
更に、彼女の受難は終わらない。
今、目の前にある内容はあくまで政治だけであり……
「蓮華様。新しい書簡です」
軍関係の書類は信用に足る近衛が持ってきてくれた。
「はぁ……」
「心中お察しします」
「ありがと…思春…」
甘寧が大量の書簡を積み上げると、タワーが出来上がった。
そんな仕事のフルコースに孫権は参ってしまうが、そうも言っていられない。
今の民の不満はやがて袁術を滅ぼす刃となる。
ならば、その刃を孫呉の武器とすれば、いくら袁術といえどひとたまりもない筈。
こうして、孫権が問題を解決していけば支持する声も大きくなっていき、打倒袁術、及びその後の治世に役立つ。
これが建前であり、孫権自身の理由としては純粋に民を助けたかったこともあり、毎日の激務を見事に乗り気っていた。
しかし、その仕事にもある変化が現れていた。
「やっぱり……軍関係の書簡が減ってるな」
「はい。近頃では陳留の曹操が黄巾党討伐に力をいれているようで」
「そうか…」
孫権は背伸びしながら返事すると、一つの書簡が落ちる。
落ちた拍子に広がった書簡は孫権の目に止まり、くぎづけにした。
その中身は…
「『火拳』…か…」
「蓮華様…やはりあの男が…」
「思春…お前もそう思うか…」
二人が思い出すのは数ヶ月前に出会った一人の男。
よく覚えているその名はエース。
呉を誇る猛将を丸腰で打ち負かした謎の人物。
そして、印象的だったのが背中の入刺。
その入刺が世間を賑わす『天の御遣い』の証だと知った時は二人は驚愕した。
「思春は…エースをどんな人柄だと思う?」
「あ奴の…ですか?」
そう言って甘寧はしばらく思い出してみる。
「…詳しくは知り得ませんが、少なくともそこまで悪人とは…」
考えながら言う甘寧に孫権は意外そうな顔をする。
甘寧は役割と性格上、付き合いの浅い人間は信用せず、警戒する。
しかし、今の甘寧はたった一回しか会っていない人間に好評価を下していたのだから。
「意外だな…お前がよくそこまで評価したな」
「人の本質は極限の闘いの中で無意識に表れるものです」
「なるほど、武で語り合ったという訳か……お前がそう言うならそうなのだろう」
「あくまで私個人の意見ですが…」
そう言う甘寧に笑いかけ、窓からまだ淡く照らされる空を見上げる。
(灼熱の御遣い…か…)
孫権は以前に出会った男を思っていた。
その頃、凪と別れたエース達はというと、ただ今渓谷を抜けようとしていたのだった。
「今まで山だった所がもう崖に来たか」
「ですね、それも都に近付いてきたという証拠ですね~」
険しい山道から歩き通しにも関わらず、エースと鈴仙の顔には疲労の色が見えない。
「ア…アニキ……姐さん……はやすぎ…」
「ちょ……休憩……ほしい…」
それと違って部下達の息は絶え絶えとなっており、とてもじゃないが、今日中に渓谷を抜けられるとは思えなかった。
「あ…ごめんなさい。大丈夫ですか?」
「も……もう…限界っす……」
鈴仙はアチャーといった表情で部下に労いの言葉をかける。
それに対してエースは溜息を吐いて呆れる。
「男ならこんな山くらい登ってみせろよ」
「無茶言わんでくださいよ……さっきまであんたが作った火の輪くぐりをずっとやらされたんですから…」
「やっぱりこの人達に『火の輪くぐり』という大道芸は無茶だったのでは?」
「そうか? 火なんて慣れれば怖くねえだろ?」
『『『怖いわ!!』』』
部下全員でビシッと突っ込む姿に鈴仙と風は溜息を吐く。
ちなみに、部下に仕込んでいた芸は全てバギー海賊団がやっていたものをパクったものである。
しかし、その大道芸で金を集める計画も頓挫してしまった。
「そんなことより、やっぱり休もう? 風ちゃんも疲れてそうだし、ね?」
「はい~。お兄さんが遠慮無しに風を置いて先に進んでましたから、追いつくのに体力使ったのです」
それを聞かされたエースは頭を掻いてどうするか考えてみたが、やっぱり置いて行く訳にもいかず、ここでキャンプすることにした。
「よし、じゃあ広い場所を見つけたらそこで休むぞ!! 気合い入れて登れよ!!」
『『『ウス!!』』』
休みという単語を聞いた部下達は疲れが消えた様に立ち直って気持ちのいい返事を返す。
「現金な奴等だな」
そう呟いて再び歩こうとしていたその時。
「いた…!」
「ん?」
後ろで鈴仙が小さい呻きが聞こえ、振り向くと鈴仙が足を抑えてうずくまっていた。
それに気付いたエースや風、部下達も鈴仙の容体に気付いて周りを囲む様に覗きこむ。
「どうした?」
「う…うん……ちょっと……足首が急に…」
そう言ってエースが鈴仙の足を見てみると、足首が若干青くなっており、痙攣していた。
「ちょっとすみません……」
そこに一人の部下がマジマジと足首を見て触ったりする。
エースはその部下が元は衛生兵だと言うことを知っていたため何も言わなかった。
しばらく触診を続けていた部下は頷いてエースに向き直る。
「大丈夫です。ものすごく軽い打撲です。恐らくエースさんとの鍛錬が原因でしょう」
「そっか。ありがとな」
「鈴仙ちゃん、大丈夫ですか?」
「う…うん。ありがとう」
エースは部下に、鈴仙が風に礼を言っている間も周りの部下が心配してソワソワしていた。
「ですが、これ以上歩かせると悪化する可能性があります。安静にすれば今日中には治りますが、できれば寝台に乗せた方が…」
「そうか……」
「エ…エースさん。わたしは大丈夫だから心配しないで? 皆も…ね?」
鈴仙は微笑みかけながら立とうとするが、痙攣する足ではバランスが取れずにすぐ転んでしまう。
そんな鈴仙を見てエースは今後の方針を変える。
「お前等! 悪いけど今日中に街に行って宿を探したい!! 休憩は消えるけどいいか!?」
『『『応!』』』
エース達の計画変更に鈴仙は驚く。
「い、いいよそんな…わたしは大丈夫だし、皆も疲れてるんだから…」
「んなこと言ってもよ、おれが怪我させちまったからな。早く治してやりてえからよ」
「おれ等なら大丈夫ですよ!! 程普さんや程イクさん、兄さんのためなら体の一つや二つくらいお安い御用ですよ!」
一人の部下の言葉に同僚も皆で同意するのを見て鈴仙はアタフタする。
そんな鈴仙に風は優しく笑って諭す。
「ここは皆さんの好意に甘えましょう。鈴仙ちゃんは女の子なんですから」
「そ…そう…?」
鈴仙は皆の顔を見てから少し考える。
そして……
「うん。分かった……ちょっとだけ……甘える…」
「はい、よく言えました~」
風は鈴仙の頭を撫でると、鈴仙は照れて顔を赤くさせる。
そうしている間にエースは部下達を先に送って、この先に街が無いかを調べに行かせた。
そんな中、鈴仙は片足だけで立とうとする。
しかし、若干辛そうな鈴仙を見てエースは鈴仙に近付く。
「エースさん?」
それに気付いた鈴仙は不思議そうな顔をするが、エースはすぐ傍まで近寄る。
「どうした…きゃっ!」
どうしたのか聞こうとすると、急に鈴仙を抱き上げる。
突然の行動に鈴仙と風はしばらくは何が何だか分からなかった様だが、抱きあげられている鈴仙だけがその事実に気付いて顔を急に紅潮させた。
「エ、エ、エ、エースさん!? な…何して……!!」
「おいおい、んな暴れんなって」
「だから離して…ひゃん!」
自分が俗に言うお姫様抱っこをされていることに気付き、暴れようとするが、それによってエースに強引に抑えつけられる。
それによってエースの体に益々密着し、暖かい体温が自分の体に伝わってくる。
「ったく……怪我人が変な意地張ってんじゃねーよ…このままいくぞ」
「ちょ…ちょっと待って! なんでこんな格好なの! もっと別もあるんじゃ…!」
「お前なら背中出しても遠慮して背中に乗っからねえだろ? だからこうやっとけば不意もつけるからな」
「……それだけ?」
「ああ」
「………ばか…」
「?」
こんな恥ずかしいことを天然でやりきるエースに鈴仙はなぜかガックシきた。
自分が勝手に勘違いしていたのだが、この時、鈴仙は小さい声で呟きながら胸を拳で軽く叩く。
その行動にエースは不思議に思うが、途端に大人しくなったから深く突っ込まない様にした。
それを隣で見ていた風もそんな姿を見た後、トテトテと近くまで寄って来てまたいつぞやの様に背中にしがみつく。
それに気付いたエースは何も言わずに背中の風を見る。
「鈴仙ちゃんだけというのは納得いかないので風も楽させていただきますね?」
「あ~……仕方ねえな」
流石に、非戦闘員且つ、身長も小さい風だけを歩かせる訳にもいかず、エースは嫌な顔をせずに風を受け入れる。
なんとも奇妙で本っっ当~~に羨ましい状況である。
しかし、エース自身は邪な感情は全く無く、単に仲間を助けるとしか思っていない。
それがエースという人間であり、良い所とは分かっているのだが。
「………」
「………」
鈴仙も風も分かっているのだが、そんな彼に納得できないのも事実。
ここまで密着しているのにエースが何の反応もないことに不満を抱いていた。
だけど、この感触も気持ちいいと思える。
二人はそんなことを思いながら顔をエースの体にうずめた。
バキッ!
「ちょっ! 凪!? どないしたん!?」
「凪ちゃん!! 筆! 筆を強く握り過ぎなの!!」
何故だろう……なんだかイラつく……
「何やら……風が激しくなってきたな…」
「激しくなったのその殺気!!」
「周りの備品にもヒビが入ってるの! これ以上壊しちゃまずいのー!」
とある乙女の勘は無敵だった……
「あと少しか……」
「へい。山から見えた時は少し辟易としましたが、案外近くてよかったですね」
「ああ、そしてやっと着いた……」
時間は経ち、エースはとある門の前に立っていた。
長い渓谷を抜け、やっと川のほとりを見つけた。
そして、その川に沿って歩くこと数時間経っていた。
未だに鈴仙と風を背負っていたのだが、その必要も無くなってきた。
なぜなら、その眼前には目的地…洛陽への検問所が顔を覗かせていたからだ。
「長かったな~」
「長かったね~」
エースと鈴仙は今までの旅を振りかえって懐かしむ。
「懐かしむのはいいですが、早く入って宿を探した方がいいのでは?」
風がおれの耳元で呟く。
それもそうか。
「じゃ、早速行くか」
「ですね~」
そう言ってエースは検問を抜けようとする。
しかし、そこでエースは何かに気付いた。
「?…」
エースも自分の感じた違和感に気付いて脇道の林の中を覗きこむ。
「エースさん?」
「お兄さん?」
その行動を不思議に思った二人は呼びかけるが、エースには聞こえていないのか構わずに林を見渡す。
すると……
「お前等!! 鈴仙と風と一緒に先に行っててくれ!」
前方の部下達に叫ぶと鈴仙をゆっくりと降ろしてやる。
「え?…え?」
「お兄さん?」
「アニキ?」
急に立ち止まって先に行かせるエースの行動に全員が首を傾げる。
それでも、エースの視線は林から動かない。
その先に何かあるのかと全員がエースの視線を辿ってみるが、そこには緑豊かな木々しかない。
それに一層、不思議に思っていると、エースは全員に先に行くように再度促す。
「おれは…野暮用ができた。だから先に行ってくれ」
「野暮用……ですか?」
「だったら私も一緒に…」
エースの真剣な表情に鈴仙は只ならぬ予感を感じたが、エースは眉ひとつ動かさずにそれを諭す。
「駄目だ。大人数じゃ“奴”に悟られる。ここはおれ一人でいい」
「でも……」
エースの強さを知っている鈴仙でも、ここまで張りつめているエースは見た事が無い。
そこまでエースが警戒する“奴”の言葉もあって心配するが、風がそれを諭す。
「鈴仙ちゃん。行きましょう」
「風ちゃん…でも…」
「大丈夫なのです。怪我している鈴仙ちゃんや疲労している皆さんが一緒にいるよりも、お兄さんの言う通りにした方がいいのです」
「……」
風の言う通り、今の自分達がいても戦力としては期待できそうにない。
それどころか足手まといになる。
それは分かっている。
分かっているけど、肝心な時に力になれない自分が嫌になってくる。
悔しさで拳を震わせるが、エースはそんな鈴仙の頭を少し強めに撫でる。
「そんな顔しなくても、おれはお前等を置いてどこにも行かねえよ。すぐに追いつくから心配するな」
それを聞いた鈴仙は撫でるエースの手を取って自身の手で包みこむ。
「うん……信じるから…早く帰って来て…」
「ああ」
鈴仙の手を解き、風も背中から下ろしてすぐに林に向かおうとする。
その時、風がエースを呼びとめた。
「お兄さん」
「どうした?」
「宿はとっておきますから、早く帰って来てくださいね」
その言葉にエースは親指を立てて無言で返事をして再び林の中へと駆ける。
あっという間に見えなくなったエースを部下達も心配する。
しかし、風も鈴仙もエースが無事に帰ってくることを信じ、部下達に指示を出して洛陽へと向かったのだった。
まさか……“奴”がここにいるとはな……
だが、ここで見つかったのが運の尽きだったな。
お前だけは逃がさない。
“奴”を見つけてからおれは本能ともいえる“何か”の警報が鳴った。
それは『“奴”を逃がすな』という警告。
そいつを見つけてからおれは必死に追いかけた。
森は“奴”のテリトリー。
少し苦労もしたが、ようやくおれはそいつを追い詰めた。
「もう逃げられねえぞ」
おれの前で堂々たる風格を漂わせるその姿。
何者も屈服させる強靭な角
黒く光る強靭で美しいボディ
「お前を捕まえる」
おれは“奴”に近付く。
地上の王者………ヘラクレスオオカブト!!
「よ~し、動くなよ~」
エースは樹液を吸っているヘラクレスオオカブトにそろりそろりと近寄る。
しかし、流石はカブトムシの王者。
危険を察知して木から飛び去った。
「あ、待て!」
エースは飛び去ったヘラクレスを全力で追い掛けた。
小さい体で木々や枝葉をすり抜けるヘラクレスに対してエースは邪魔な枝葉を腕で払いのけ、場合によっては絶妙な火加減で邪魔な枝葉をカットしていく。
「逃がすかぁぁぁぁ!!」
エースはヘラクレスにまである程度近付いてきたところでダイビングキャッチを試みる。
「うおおおおぉぉぉぉぉ!!」
そして、やっとヘラクレスを両手で包みこんだ。
「やった!!」
エースは花が咲いた様な笑顔に変わる。
勢い余って崖に飛び出していたのに気付くまでは……
「……あ……おわぁ!!」
今頃思い出した。
ここは渓谷の近くだったということに……
もちろん、崖の下を見ると水の濁流が見えた。
エースはその濁流に落ちていく。
「やべ!」
咄嗟に崖に生えていた木の枝に捕まってぶら下がる。
「ふぅ……」
エースの気が抜けて安心していると……
ブチブチ…
一難去ってまた一難。
エースの体重に堪えられなくなった枝が折れていく。
「何だ?」
その音が気になって掴んでいた枝を見てみる。
ボキッ
エースが最後に見た光景は、晴れ渡る太陽と青い空が遠ざかっていく奇妙な光景だった。
折れた枝を手に持ちながら、エースは濁流の中に飲みこまれていった。
「~~♪」
所変わって川のほとりでは一人の可憐な少女が鼻歌を歌っていた。
そこは誰も知らない自分と親友だけの秘境。
嫌なこと、悲しいことも包みこんでくれる場所。
花や草の穏やかな香り、川のせせらぎが彼女は好きだった。
色鮮やかな花、華麗に飛びまわる蝶。
透き通る水、泳ぎ回る魚、川上から流れてきた人。
様々な命が様々な形で……
形で……
「え?」
少女は川から流れてきた“何か”凝視する。
「……」
しばらく凝視してから目をこすって再度見てみる。
しかし、その人は消えずに川に沈んでいた。
そして、少女は確信した。
(……もしかして、溺れているんじゃ…)
そう理解した瞬間、少女は慌てて沈んでいる“何か”に駆け寄る。
「あ、あの! 大丈夫ですか!?」
少女は自分の服が濡れるのも構わずに水に飛び込んで白目向いている男に走り寄る。
とりあえず、男の顔だけでも水面上に出し、そのまま陸に上げようとする。
水の中では浮力が加わって比較的簡単に運び出せたが、陸に上げると男の体重がズッシリと戻る。
「う~…重いぃ…」
少女は全身の力を使って男を引っ張り上げる。
少女の忍耐もあって何とか男を芝の上まで運びこんだ。
「へぅ~…と…とにかく助けないと…」
少女は男が息をしていないことに気付き、以前に教わった民間療法で男の介抱に尽力を尽くすのだった。
「大丈夫ですか!? 息をしてください~!」
何気ないこの出会いもまた運命による巡り合わせ。
そのことに気付くのはまだまだ先のことである。