Fate/Next   作:真澄 十

31 / 56
Act.29 銃弾

 サーシャスフィールとアサシンの戦いが騎馬と機械ならば、ライダーとバーサーカーの戦いは騎馬と徒歩(かち)だ。

 その脚力は歴然としている。人間の足が馬に勝てる道理がない。

 だが、それを覆すからこそ英霊。

 身体能力で劣ろうとも、それを宝具や技能によって穴埋めし、敵に迫る。バーサーカーとてそれは変わらない。

 ライダーにとってこの戦闘は必ずしも首級を上げるべきものではない。ここでバーサーカーに時間を掛ければサーシャスフィールはその分孤立していることになる。

よってここはすぐさまバーサーカーをサーシャスフィールの戦闘圏から離し、その後振り切ってサーシャスフィールのもとに参じるという、とんぼ返りを要求される戦いなのだ。首級が上がるならばそれで良いが、最も優先すべきは一刻も早くサーシャスフィールの元へ向かうことである。

 サーシャスフィールからバーサーカーを引き離すようにライダーは駆け、バーサーカーはそれを追う。速度はライダーが上回るが、背後からの妨害により引き離せないでいた。何事も、逃げる側よりも追う側が有利なのである。

 

 バーサーカーの持つ下克上の宝具。名を『命を賭して革命を(フォー・レボリューション)』。

その効果は、敵が自身よりもステータスで上回っていた場合、魔力消費を増すことで自身のステータスをそれと同等まで引き上げることである。魔力消費量は増加したステータスに応じて増大するが、それは『王位を約束した剣(クラレント)』の力により無視できる。魔力消費の問題さえ解消できるのであれば、どのサーヴァントと戦っても互角以上の戦力を約束する宝具だ。しかも、負傷を含めるいかなる場合にも、死に絶えるその瞬間まで戦闘能力が低下することはない。まさにライダーにとっては天敵ともいえる相手である。

 

 だが魔力消費よりも大きな問題が存在する。

 瞬間的ならば自分のステータスよりも高い能力を発揮することが可能なサーヴァントは多く居る。C+などがそれに当たる。C+ならば一つ上位のBクラスほどの能力を発揮することも可能ということだ。

 だが長期に渡ってそれを行うことは出来ない。何故なら、それはまさしく自分の能力の限界を超えているからだ。

 ライダーと刃を交えた八海山澪のように、限界を超えた行動は身体を傷つける。

 今まさにライダーを追うバーサーカー。彼が今発揮している身体能力は、身体の限界をとうに超えているのだ。

 

 駆け抜けた場所に血を滴らせ、それでもなおライダーを追う。

 黒兎が抉ったアスファルトの礫を浴び、甲冑を纏わない顔面から血を噴き出しつつ、しかしそれでも意に介せず猛進する。

 流す血は外傷によるものだけではない。限界を超えた身体の酷使で、甲冑の隙間から尋常ならざる量の出血が見られる。

 しかしそれでもなお、何かに突き動かされるように、赤い獣は夜を駆け抜けた。

 

 その顔は丹精だったのだろう。だが今は見る影もない。

 肌は血に塗れ、目は憎悪で染まり、髪を振り乱し、咆哮は涸れ果て、血管は浮き出ている。剣を握り、街路を駆け抜けるその様はさながら悪鬼である。

 

「こやつ、粘りおる……!」

「■■■ァァ■■ァッ!」

 

 次第にライダーは焦りを覚え始めていた。バーサーカーとまともに戦闘を行えば長引くだろうことを培った経験から悟った。バーサーカーは戦った相手と同程度の戦闘能力を発揮できるよう、宝具によって補正を受けているのだから、短期で決着をつけるのは難しい。

 いや、あえて言おう。まともに戦って勝てるという保障はない。返り討ちも覚悟せねばならない。

 だからこそ可及的速やかにバーサーカーを撒こうとしているというのに、かえって時間が掛かってしまっているようにも考えられる。

 いっそ今から刃を交えて討ち取るか。

 そう考えたが、すぐにその考えを捨てた。それは悪手だ。それも最もやってはならない事である。

 それを選択するのであれば、最初からそれを選択していなければならない。ここで戦闘を行うのであれば最初からするべきだ。今から戦闘を行ったとすれば、今まで逃走に時間をかけた分が完全に無駄である。初めに逃走が良いと考えたのであれば、機が転じない限りそれを改めるのは愚策だ。

 機が訪れた訳でもなく、怒りや焦りで進軍するものはこれを挫かれる。孫子に曰く、将の五危の一つである。ここで焦って戦闘を行い、逆に討ち取られる可能性だって十分にあるのだ。

 故にライダーは裂帛の意思を以って駆け抜けた。この逃走ことが彼にとっては戦闘である。

 

 張遼は間違いなく優秀なサーヴァントだが、大きな弱点が存在する。

 彼には真名開放をし、必殺の一撃を放つという宝具を持ちえていないことだ。持つのは通常の戦闘を有利に運ぶ類のものばかりである。

 それは即ち、ステータスを低下させられてなお自分に迫るものと戦闘した場合、それを確実に討ち取れるという確証を得られないということなのだ。

 必殺の宝具を持たないということは、ステータスで自分に完全に勝る相手と戦闘した場合に勝率が著しく落ちるということを意味する。

 実力通り、順当に勝つ。順当に負ける。地力で劣るものと戦えば勝利し、勝るものには負ける。大番狂わせなど無い。それがライダーなのだ。

 つまり今の状況で言えば、脚力で自分に迫るものが存在する場合、それを振り切る術を持たないのだ。

 

 ゆえにライダーは祈るしかなかった。サーシャスフィールの無事を。

バーサーカーは走れば走るほど負傷しているため、時間さえ掛ければすぐに行動不能に陥るだろう。だが時間はおそらく掛かってしまう。それが数秒後なのか、それとも数十分後なのか、バーサーカーの様子からは判断できない。

 沙沙、どうか深追いはするな。無事でいてくれ。

 この一念をひたすら祈った。

 張遼が生きた世では、妻や子は遠征に向かった先で新たに作れば良いという考えがある。それはいつ死ぬか分らない身には家族は重く、身動きが取れなくなるという考えも少なからず含まれる。

 とかく三国志の将は家族を顧みなかった。それは張遼とて変わらない。

張遼はともかく己の武を極めればそれでよかったのだ。

 そしてそんな彼が、生まれて初めて命を賭して守りたいと思った女がサーシャスフィールなのである。

 それを遂行せんがため、ライダーは黒兎を急き立てた。

 一秒でも早く主の下へ馳せ参じるべく、ライダーは吼えた。

 

「遼来々!」

 

 だが、距離は開かない。加えるなら、ライダーはバーサーカーをサーシャスフィールから遠ざけるべく、彼女らとは反対の方向に疾走しているのだ。

 つまりバーサーカーを振り切るのに時間をかければ、その分帰路も伸びる。ゆえにライダーは焦るのだ。

 ここで踵を返したとしても、サーシャスフィールのもとにバーサーカーを引き連れる結果になりかねない。かといって今更刃を交わす時間も無い。

 ――もし、サーシャスフィールに危機が迫っていても、馳せ参じることも出来ない。

 

「――――遼来々ッ!」

 

 

 ◇◆◇◆◇

 

 

 サーシャスフィールは勝利を確信した。

 アサシンの銃弾は、針金を編んで作り上げた大盾を貫通することは出来ない。それどころか傷さえ与えることが出来なかったのだ。銃弾は火薬の爆発の反作用で発射されるのだから、使用者の都合で威力を加減することなど出来ない。先ほどの一射で成せなかったことは、次の一射でも成せないのだ。

 故にサーシャスフィールは確信したのだ。次の瞬間にアサシンは銃弾を放ち、それを大盾は難なく弾き、しかる後に自分がハルバードでアサシンを貫く。

 アインツベルンの錬金術によって生み出された金属は容易に破壊出来ず、それは即ち盾とハルバードの強靭さを同時に約束する。

 白兎が跳びかかり、一気に距離を詰め、大盾に隠した身の後ろでハルバードを限界まで引き絞る。

 ――――全力の一撃を以って敵を刺し貫こう。

 

 アサシンは勝利を確信した。

 銃弾はあの盾を貫通することが出来ないが、そんなことは問題ではなかった。アサシンの起源弾は、それに魔術によって干渉した術者の魔術回路を破壊し、魔力を暴走させることによって術者を抹殺するという代物だ。つまり、障壁などに触れさえしてしまえば良いのである。まさしく魔術師殺しに相応しい弾頭であった。

 だが弱点もまた存在する。この宝具は、弾丸をアサシンの生前の体の骨から削りだして製造したという経緯があるため発動回数に制約がある。また、弾丸に魔術によって干渉しようとも、それが術者と独立した礼装などであれば術者は無傷であるということだ。例えば魔力の満ちた礼装に命中したとしても、その礼装は魔力の暴走によって破壊されるだろうが、それが術者と魔力供給の関係になければダメージは通らない。令呪などもそうだ。令呪の込められた魔力を何かに転用し、その転用先がこの弾丸に触れたとしても破壊されるのは令呪のみである。

 全てに共通して言えるのは、この弱点は確実に命中させ、かつ術者が直接扱っている魔術によって干渉させれば事足りるということだ。つまり勇み急いで撃たず、冷静に相手の戦力を分析した上で使えば確実にこの弾丸は魔術師を殺す。

今までに何度もこの弾丸を使用し、その数だけの魔術師を抹殺してきた。

――――今回もまた例外でない。

 

 両者ともに必殺を確信する。

 サーシャスフィールはハルバードを引き絞り、アサシンは照準を的確に合わる。

 彼我の距離はもはや一呼吸。サーシャスフィールは相手が発砲しないのであればこのまま轢殺する算段である。射線に体を晒したりはしない。大盾に身を隠したままだ。

 それゆえに、アサシンに不自然なほど感情の揺れが見られないことを察知できない。

 アサシンが引き鉄を絞る。狙いは恐ろしいほどに正確。

 

 そして轟音が夜を支配した。

 

 一瞬遅れて何かが倒れこむ音。アスファルトにハルバードが叩きつけられて乾いた音がした。まだ辛うじて息があるのだろうか、空気が抜けるような息遣いが聞こえる。身体が著しく破壊されたのか、白い体は鮮血で染まりつつある。

 

「ああ、白兎! 気を強く持ちなさい!」

 

 銃弾を受けたのは、白兎であった。

 時に動物は人間の理解の及ばぬ感性を発揮する。それが放たれる寸前、白兎は動物的な本能で銃弾の危険性を察知した。

 そして白兎は己の主を守らんがため、主を渾身の力で振り落とし、自ら銃弾をその身に受けた。

 被弾した胸元は歪に抉られている。ライフル弾を至近で受けたのだ、これでも比較的傷の浅い部類である。

 それは偏に、白兎の持つ守りの力、一種の障壁の為せる技であった。その力はライフルの威力を殺ぎ、ゆえに即死を免れるに至った。外面的な負傷のみを考慮すれば、適切な処理をすればよもや助かるかも知れない。

 しかし、白兎の命をまさに奪おうとしている要因もまた、その障壁にあるとは何という皮肉か。

 起源弾は、それに魔術によって干渉した対象を破壊するに足る力を持っている。それは白兎の障壁も例外ではない。

 魔術回路こそ持たないが、擬似的なものをその身に宿し、一個の礼装とした存在である。起源弾は白兎の擬似魔術回路を悉く破壊し、そこに流れていた魔力は奔流し白兎の身体を著しく傷つけた。

 

 もはや身体の内外を問わず、まともに機能している部位のほうが少ない。何故なら白兎は渾身かつ裂帛の意思を以って主を守らんとし、それゆえ障壁を自身が持つ最大規模まで展開していたからだ。起源弾の効力は被弾する側が運用していた魔力量に対応する。

 

 アサシンは臍を噛んだ。

 確かに引き金を絞るその瞬間まで、弾丸はライダーのマスターを屠るはずだったのだ。

 だがすぐにその考えを改める。これで問題は無い。

 

 車のドアを開け、静かに彼女に歩み寄る。確実に弾丸を命中させることが出来る距離まで。ライフル弾は反動が大きく、確実に命中させるにはある程度近付いておきたかった。今の距離でも彼ならば十分に命中を得られるのだが、万全を期す。

 

「白兎、いけません……! しばし耐えなさいッ」

 

 サーシャスフィールはアサシンがその場に居ることを忘れ、白兎に治癒魔術をかけようとする。――仮に完治したとしても、白兎がもう二度と走れないだろうことは分っていた。

 だがそれでも、そうせざるを得なかった。白兎は半年に渡って信を置いてきた、自らの片割れである。莫逆の友である。刎頚の契りを交わすに足る兄弟である。

 それが今、死に絶えようとしているのだ。無駄だと分っていても、何もしなければ後悔が残る。

 もはや僅かたりとも動かない白兎に向かって、必至に治癒を行う。

 

 コンテンダーの銃口は、サーシャスフィールの心臓を狙っていた。

 引き金には指がかけられ、今まさにそれを絞らんとする。

 

 しかしその時、わずかに白兎の瞳が開き、アサシンを捉えた。

 肺はすでに破裂しているというのに、白兎は一度だけ嘶く。

 ――捨て置けと。

 主が生き延びねば、自らが死ぬ意味がないのだと。

 

 どこまで行っても人と馬、言葉など分るはずもない。

 しかしサーシャスフィールはそれを理解した。彼女もまた人馬一体である。

 それを理解した瞬間、サーシャスフィールはハルバードを握り、それと同時に戦意をアサシンに叩きつけた。

 

shape(形骸よ) ist(生命を) Leben(宿せ)!」

 

 懐から先ほどの針金を取り出し、迷うことなくそれを唱えた。

 針金は瞬く間に編みこまれ、一つの形を成す。

 それは見事な針金細工の鷹であった。

 

「KYEEEEEEEE!」

 

 甲高い、もはや人類には発生できないような声を上げる。

 針金細工の鷹は飛び立ち、アサシンに鋭い爪を向けた。

 眼球を狙った爪は回避されたが、アサシンは発砲の瞬間に視界を奪われた。ライフル弾はサーシャスフィールの足元を抉る。

 銃弾が外れたのであればこちらのものだった。あの銃が連射できないことは確認済みである。

 

 転がっていたハルバードを拾い上げ、身体のバネを利かせて距離を一息で詰め、全身を使ってハルバードを薙ぐ。

 袈裟に振り下ろされた一撃をアサシンは回避し、宙を斬ったハルバードはアスファルトの路面を盛大に砕いた。

 

 不思議なことに、サーシャスフィールの中に怒りは無かった。

 それがホムンクルスゆえの感情の欠落か、それとも魔術師として死を当然のものとして捉えているからか、彼女は分らなかった。

 憎しみも無い。悲しみも無い。

 ただあるのは、ここでアサシンを誅殺すべしという、感情を越えた一念であった。

 

 いや、もしかすると、それこそが怒りなのかも知れない。憎悪かも知れない。

 何故なら彼女は、今までこのような激情に囚われたことは無かった。感情こそ備わっているが、それに翻弄させることは無かった。

 だから今、彼女は自身の胸の内に在る熱いものを理解できないでいるのだ。

 彼女は今、怒りと憎悪を知ったのだ。

 

「はァッ!」

 

 気合一閃。畳み掛けるような刺突から、熾烈な薙ぎ払いへの連携。

 だが固有時を加速させたアサシンを捉えきれない。確実に討ち取ったと思える一撃も、物理法則を無視しているかの如き加速で回避されてしまう。

 しかし、サーシャスフィールはこのとき、自身の持つ全てでアサシンを討ち取らんとしていた。

 

Faust()!」

 

 アサシンの頭上辺りで旋回飛行していた鷹が、その身を解き、新たな形を成す。それは先ほどの巨人の鉄拳であった。

 それがアサシンを殴殺せんと、唸りを上げて垂直落下する。それを転がるように避けた。

 アサシンはコンテンダーに起源弾を込めて鉄拳に向かって発砲するが、あまり密に編まれていないそれに命中を得ることは出来なかった。単なる偶然ではない。その腕は、確かに銃弾を避けるように網目を微妙に動かし、射線を空けたのだ。

 

 サーシャスフィールは憤怒の中でも十全の理性を保っていた。その理性で導き出した、一つの答えがある。

 あの銃弾、おそらく受ければ死に至る。

 だからこそ白兎は彼女の大盾から身を投げ出したのだ。あの銃弾そのものは盾で防げることは確かであるというのに、自ら身を晒した理由を考えればそれに至る。

 白兎の全身に見られる肉体の損壊の理由も、それである程度は説明がついた。あの弾丸は魔術的な何かだ。

 しかし全ての銃弾がそうではない。

 サーシャスフィールは一度、あの銃弾を受けているのだ。肩口の擦過傷はまだ痛みを引きずっている。

 しかし、白兎のような事態には至っていない。あくまで軽傷に留まっている。

 一般的な弾頭と、魔術的な弾頭を使い分けているのは明白だった。

 

 しかしその見分けなど不可能。込められる弾丸の違いなど、サーシャスフィールには分らない。

 ならばそれら全てを回避する。盾で受けることもしない。

 白兎に振り落とされた次の刹那、つまり白兎が銃弾を受けた瞬間、白兎が持つ魔力が暴走するのを感じた。それが白兎の身体を破壊しつくすのも、よく分った。

 魔術回路を破壊して魔力の暴走を招く代物であるのは明白であり、それを魔術的に防ぐのは危険だ。

 

 ゆえに弾丸を撃たせず、あるいは装填させる隙を与えぬように攻め続ける。それらを許したとしても、決して防ごうとは考えず回避に専念する。

 

 ゆえに魔力は針金のみに注ぎ、自身へは身体能力の強化に留める。針金を狙われても構わないように密に編まず、発砲される際には銃弾が通ると思われる部分を空ける。

 

 アサシンがサーシャスフィールに向かって発砲するが、銃口が向けられた瞬間に彼女はその射線から外れる。決して狙いを定めさせないように不規則に動き続ける。

 サーシャスフィールの身体能力は並みの人間をとうに凌駕していた。

 もとより、代行者などに遅れを取らないようにと身体能力にも大幅な改良を施された素体である。彼女は、かつての言峰綺礼と同等かそれ以上の身体能力を発揮せしめた。

 要するに、サーヴァントの足元に触れる程度には、彼女は強いのだ。

 

 並外れた反射神経と反応速度で銃弾を回避し続ける。いや、それでは語弊があるだろう。放たれた銃弾を見てから回避することは彼女でも不可能であるから、放たれる瞬間に射線から離脱しているのである。

 その様はまさに白兎であった。それもそのはずで、白兎の動きをサーシャスフィールは模倣しているに過ぎない。

 跳ねるような左右の動き。不規則な軌道に、アサシンは碌に照準を定めることが出来ずにいた。

 

 サーシャスフィールは確実にアサシンを追い詰める。

 ハルバードから繰り出される剣戟はそのどれもがアサシンにとって致命のものである。アサシン――つまり衛宮切嗣は、サーヴァントはおろか通常の魔術師の攻撃でも十分に死に至る脆弱な存在である。そもそも、本来ならばサーヴァントになれるような存在ですらないのだ。直接的な戦闘力はどのサーヴァントにも、ひいては直接戦闘を専門とする魔術師にも劣る。

 

 だがそんな彼をここまで生き残らしめたのは、偏にその手段を選ばない冷酷さと冷静さにある。

 追い詰められながらも、そこから活路を見出すべく思考を巡らせた。

 現在携行している武器の確認。弾薬の残量の確認。相手の戦力及び戦法の把握。

 暗殺を主にする彼にとって、このような直接的な戦闘は決して経験豊富とは言えない。だがそれでも、いくつもの修羅場を潜った戦略眼は確実に培われているのだ。

 

 現在携行しているのは、コンテンダーとその周辺部品、サバイバルナイフが三丁とささやかな爆発物、それにマスターとの連絡手段としての携帯電話とトランシーバーである。

 弾薬の残量はあまりない。無駄な発砲は控える必要がある。

 相手の戦力は、おそらく魔術的な攻撃はあまり得意ではない。錬金術を応用した攻撃は物理的なものである。得物はおそらくあのハルバードのみ。

 相手の戦法は明らかである。こちらに銃弾を撃たせまいと息を吐かせぬコンビネーションで封殺するのが狙いだ。熟練したハルバードの連続攻撃と、攻撃の合間の僅かな隙に放たれる鋼鉄の巨拳はこちらの反撃を許さない。

 もしも反撃を許した場合には、こちらの銃弾を防ごうとせず回避に専念する。

 

 これは――意外に厄介な相手だった。

 

 これまで、確かに彼は何人もの魔術師を地獄に叩き落した。

 だがそのいずれもが、戦闘には魔術的なものを用いていたのだ。ここまで物理的な相手は殆ど見たことがない。

 しかも銃弾を受けずに避けようとするのだ。物理的な方法で戦う者であっても、魔術師であれば受けようとするものである。第四次聖杯戦争のマスターの一人、ケイネスを見てもそれは明らかだろう。だから回避という選択は、まさしく一般的な人間と変わらない発想である。

 だが一般人であれば銃弾など避けられない。しかし、彼女はそれが可能なのだ。

 

 固有時を加速すれば相手を容易に捉えられるだろうと考えるかも知れない。相手が不規則に動こうとも、加速した時間の中であれば相手の動きは鈍く知覚される。

 それは間違いないが、戦術としては間違いなのだ。

 例えば通常の三倍で固有時を加速したとしよう。通常の十秒は彼にとって三十秒に感じる。このとき留意しなければならないのが、十秒間に目に入るはずであった光は、彼にとって三十秒にまで希釈されていることである。

 一秒間に十の光が目に入ると過程すると、彼は十の光を三秒間に渡ってでしか受けられない。一秒当たり、三分の一にまで明度が落ちる。

 つまり、固有時を加速すれば、視界は暗くなるのである。逆に遅延させれば視界は眩しく白むのである。

 

 実は、これにより固有時の操作は直接戦闘ではあまり使用できない。せいぜいが、とっさの回避や動かない目標を射撃する程度だ。とっさの回避であれば周囲が必ずしも見えている必要もない。その場から離れればいいのだ。

 固有時加速を攻撃に転用するならば、明度が半分や三分の一にまで落ちても十分である光源が周囲にあること――例えば火災のような――が条件となる。

 今回の場合、それは確保されていない。しかも今は夜間である。光源は周囲の民家から漏れる生活光や街灯程度。全く足りていない。

 この状況で固有時を加速することは自ら目を閉ざすことに他ならない。回避には十分使えるが、攻撃など望むべくもなく、かえって自らを危険に晒しかねないのは明白であった。

 

 だから固有時加速は用いられず、しかし彼女に銃弾が命中する望みも薄い。

 彼の勝機は、殆ど無いにも等しいのだ。

 

 勝機があるとすれば、おそらくただ一つ。

 それを実行するには、彼女が現代兵器に疎いことに賭けるしかない。

 アインツベルンは現世との交わりを絶った深い森の中に居を構える一族だ。おそらくある程度話は聞いていても、現代兵器の知識はほとんど無いに違いない。

 少なくとも、ある程度場数を踏んだ一般的な兵士であれば、このような小細工にかかることは無いだろう。

 だからこれは賭けである。彼女が無知であることに、加えるならば魔術師的であることに賭けるしかないのだ。

 

 だがこれを行うには距離が必要である。肉薄された状態では難しい。

 

 大地を割るが如く振り下ろされたハルバード。凶悪としか言いようのない風切り音が唸る。それを紙一重で回避すると、虚を斬ったハルバードは叩きつけられ、礫を撒き散らす。その礫が頬を切った。血が滴るが軽く拭うに留める。

 

 サーシャスフィールがハルバードを引き抜く一瞬の隙をつき、装填し発砲。

 だがまたしても命中せず。

 その強かさは、アサシンの中で一つの像を結びつつあった。

 もはや名は思い出せないが、僧衣を着た男。投擲用の剣を持った男。この強かさは、きっと彼と同等かそれ以上。

 異様な既視感。何か忘れ物をしているような気がするのに、それが何であるか分らないときの不気味さ。

 それに伴う頭痛。頭蓋の中で警鐘が打ち鳴らされる。

 

「が―――!?」

 

 突然の衝撃。身体が軋む音と、骨が砕ける音。

 彼女の鋼鉄の巨拳を正面から受けてしまったのだと気がついたときには、既にアスファルトに叩きつけられていた。受身を取る余裕もなかった。

 その一撃の重さは、ダンプカーに轢かれたのかと思うほどの重さであった。針金を疎に編んでいるだけであるのに、その見た目に反した質量を持っている。

 アサシンは地に伏せたまま、動けなかった。内臓も少しやられたのだろうか、口内は血と砂の味がした。

 

「立ちなさい。白兎を手にかけた罪、その程度で償えるとでも?」

 

 サーシャスフィールはその場から動こうとしなかった。自ら止めを刺しにいくことも自重している。

 彼女なりに、アサシンのことを最大限に警戒しているのである。これが演技であることも考慮していた。彼女の相手は紛う事無くサーヴァントである。こんな一撃で下せる相手ではないと思っていた。

 よって距離を保っている。

 だが現実はそうではない。通常のサーヴァントならともかく、彼にとっては十分過ぎるダメージである。

 しかし致命ではない。致命でないのであれば――活路はある。

 不幸中の幸いか、距離を取ることには成功したのだ。

 九死に一生を得るべく、彼は一瞬の躊躇もなくそれを実行する。

 

 誰にも聞こえない程度の声量で、口を開かず発音。

 Time Alter,triple accele.

 そして彼の世界は暗転し、それと同時に懐の中へ手を滑り込ませた。幸いにして、暴発はしていない。

 それは、自作したフラッシュバンである。

 フラッシュバンとは、殺傷を目的としない手榴弾の一種である。爆発と同時に閃光と爆音を発し、対象を一時的に行動不能にすることを目的としている。軍用のものであれば、六百万から八百万カンデラの閃光――日本最大の灯台が二百万カンデラである――を放ち、百六十から百八十デシベルの轟音――ジェット機のエンジン付近が百二十デシベルである――を発する。

 だがこれは、発煙筒の中にマグネシウムの粉末とキャンプ用品の発火装置を組み合わせただけの手製のもの。轟音も放たず、六百万カンデラになど遠く及ばないが、暗闇に慣れた目にとっては――

 

「なッ―――!?」

 

 熟練した兵士であれば、投げられたものを凝視せずすぐさま背を向けて伏せたであろう。だが彼女は魔術師である。本能ではなく理性で戦う魔術師としての反射行動は、投げ込まれたそれが何であるか理解しようとし、それを凝視してしまった。

 サーシャスフィールに知覚できたのは、ただただ白い閃光である。

 フラッシュバンには及ばないと言及したが、その光量は実に瞼の上からでも目を刺激するレベルである。それは一瞬で目を眩ませ、視覚を奪うのに十分であった。

 そしてそれは、サーシャスフィールの視界を奪うと同時にもう一つの意味を為す。

 本来ならば、背を向けるか目を覆わない限り、アサシンもその光で目を眩ますはずである。だが、そのいずれもしていないにも関わらず、彼の視界は明瞭であった。

 三倍速の時間の中で、光量も三倍に希釈しているためである。

 三分の一でも眩しいには違いないが、目が眩んで視界が奪われるには及ばない。アサシンにはサーシャスフィールの姿がしっかりと見えていた。

 

 既に弾丸は装填されている。あとは引き金を絞るだけである。

 装填されているのは起源弾。

 彼女が肉体を強化しているのは明白である。必殺とはいかずとも、確実に魔術回路を破壊するだろう。通常の弾頭では、魔術師が相手とするとストッピングパワーに欠くかも知れないが、これならば確実だ。命中すれば行動不能に陥らすことが可能である。

 

 標的は強い閃光に眩んで前後不覚に陥っている。すぐに持ち直すだろうが、それを待つ道理などない。

 そして再び必殺を確信し、それを放った。

 

 短い悲鳴。

 倒れこむ音。

 ハルバードがアスファルトを打つ。

 起源弾は、確実に彼女の肉体を抉った。そしてその効果を発揮せしめた。

 

「ぐ……ああぁッ!」

 

 だが彼女はまだ息がある。しかも、意識も保っていれば、魔術回路もほぼ無傷なのだ。

 ただ、右足にまるで壊死したような傷跡を残すのみである。

 信じられるだろうか。彼女は被弾する刹那の前、自らの身体強化を全て解いたのだ。それはまさしく、銃弾に対して防弾衣を脱ぎ捨てるに他ならない。それが自分の首を絞めると分っていても、それを咄嗟に判断できる人間などそうは居ない。それが例え魔術師であっても。溺れるものは藁にもすがるのである。

 

 身体強化を解いたならば銃弾を避けきれないであろうことは分っているはずなのに、あえてそれを選択したのだ。

 生き延びるために。

 白兎の死に報いるために。

 

 起源弾はその効果は発揮したが、真価はその限りではない。魔術によって介入されなかったため魔術回路を破壊することなく、ただ肉体を『切って』『嗣いだ』。

 切嗣の起源は『切断』と『結合』。それは不可逆の破壊である。

 サーシャスフィールの右足は一度切断され、すぐさま結合されている。表面上は、ただ古傷――というのよりも壊死したような痕が残るだけである。だがその内面は、筋繊維や毛細血管、神経が出鱈目に結合されている。細胞もかなり出鱈目に結合されているため、結果として壊死したような傷が残るのだ。

 言うまでもなく、サーシャスフィールの右足は二度と使い物にならないであろうことは明白である。

 

 ズタズタにされた神経は脳に激しい痛みを訴える。いっそ本当に切り落とそうかと思うほどの激痛だ。

 その痛みに呻くサーシャスフィールに、アサシンは新たな弾丸を薬室に込めつつ、ゆっくりと歩み寄った。もはや相手は無力である。

 落ちたハルバードを蹴ってサーシャスフィールから引き離し、針金も奪った。得物も失い、サーシャスフィールに抵抗する術はない。

 

「聖杯の器は?」

 

 アサシンは油断なく銃口を付きつけながら、サーシャスフィールに問うた。

 記憶を無くしてはいるが、聖杯の器をアインツベルンが用意することは調査すれば分ることである。

 聖杯を手中に収めることの優位性を理解するからこそ、アインツベルンにはそれを問わなければならなかった。

 だがサーシャスフィールは、屈強な戦士であろうとも泣き叫ぶような痛みを飲み込み、不敵に笑うのだった。

 

「……あれはアインツベルンのものです。あなたに教える謂れはありません」

「そうか。では後でゆっくり捜索させてもらおう」

 

 アインツベルンが持っているのであれば、それは森の城にあるに違いないのだ。時間をかければ発見できるだろう。無理に彼女から聞き出す必要は無い。いや、そもそも聖杯が顕現する段階になれば、隠しようもないのだ。

 これで終いであるとでも言うように、アサシンはグリップを握りなおす。引き金を絞る指に力を込めた。

 狙いは心臓。外しはしない。相手はもはや動けない、俎上の鯉である。

 サーシャスフィールは、まるで観念したかのように、抵抗しようともしなかった。ただ、その顔からは無表情が消え、まるで憑き物が落ちたかのような微笑みを浮かべるのであった。

 

「ああ。彼の豪胆さは実に心地良かった。私はきっと――彼を愛したのでしょう」

「――――ッ」

 

 アサシンは、これまで泣いて命乞いをする相手を殺したことがある。愛する二人を悪逆非道な方法で蜂の巣にしたこともある。まだ幼い子供を刺し殺したことがある。腹に子を宿す女を見殺したことがある。

 彼は、そんな言葉で引き金を絞る指を緩めたことはない。これからもない。

 だから彼を戸惑わせたのは、その微笑みである。それは、まるで無邪気な微笑みだった。

 

 ――――――……アイリ、――――――

 

 脳裏に浮かんだのは、今となっては何を指すのかも分らない言葉。

 その言葉は、追従して襲い来る頭痛にかき消される。

 だが彼は、無意識にその言葉を手放すまいと、頭痛に抗った。

 それが一瞬の隙を生んだ。その一瞬は、サーシャスフィールが闘志を取り戻し、唯一の活路を見出すのに十分であった。

 

「『来なさい、ライダーッ!』」

 

 令呪。すでに一画を消費していたため二画となったそれを、今一度消費する。

 今まで自分は常に有利に戦況を運んでいたため、それを使う機会は無かった。だが、今こそ使い時である。

 ライダーがバーサーカーをどれほど遠くまで引き離しているのかが懸念事項だが、それは彼を信じるしかない。

 アサシンは慌てて引き金を引いたが、それを見越していたサーシャスフィールは腕で地を蹴り、転がるように射線から外れた。回避しきれず上腕を掠めるが、右足の激痛でもはや痛みと認識しなかった。

 刹那のみ遅れて現れたのは圧倒的な光。空間を捻じ曲げ、そこから躍り出るように、張遼は現れた。

 

「遼来々!」

 

 アサシンにとって、これはもはや詰みである。

 起源弾は、使用者もサーヴァントとなったことにより英霊が相手でも使用できる。しかし、それが有効に働くのはせいぜいキャスター程度だ。その存在が魔力によって維持されているからといって、起源弾を受けたとてそれは魔力によって介入したことにはならない。人間と同様の効果しか発揮せしめないだろう。

 そして、直接戦闘においてアサシンに勝ち目は全くないのだ。

 アサシンの戦闘能力は通常の人間の域を出ない。人間とサーヴァントの戦闘は、赤子と熊が戦うようなものである。勝とうなどと考えるほうが愚かなのだ。

 ゆえに選択肢は逃亡しかない。

 

 アサシンは再び懐から自製フラッシュバンを投擲する。加えて、改造を施した発煙筒も投擲した。

 サーヴァントにとっても、この光は耐え難いものだったようだ。目を眩ますまいと咄嗟に目を庇ったため、視界が奪われることはなかったが、続けて投擲された発煙筒はもはやスモークと変わりない発煙量を誇っていた。

 路地はまるで濃霧に覆われたかのようになり、その場にいる全員の視界を奪う。それは無論アサシンとて同じなのであるが、彼は既に逃亡を開始している。白兵戦を仕掛けるわけでもないのだ、前が碌に見えなくても問題は無かった。

 

 ライダーの視界が奪われてから回復するまで数秒程度だが、アサシンが姿を隠し、気配を絶つには十分であった。

 ライダーにとっては、強制召喚されて状況を把握する前に閃光と煙幕を浴びせられた形になっている。アサシンに一太刀浴びせたいところであったが、それはとても無理な話であった。

 

「……逃がしたか。よく呼んでくれた、沙沙。あのままバーサーカーと夜明けまでじゃれあうことになるかと――ッ!?」

 

 礼を言いながら振り返ったとき、ライダーは自らのマスターの様子が尋常ならぬことに気がついた。

 汗は噴出し、顔色は蒼白。破けた装束の右足部分の下には、足が腐ったかのような傷がある。

 

「どうした、沙沙ッ! あやつにやられおったか!?」

「……何でもありません。……それより、白兎が」

 

 言われてその姿を探したが、確かに常にサーシャスフィールに寄り添っているはずの白兎の姿は見えなかった。ややあって、暗がりにその姿を見つけたとき、ライダーは奥歯を噛んだ。歯が砕けるほどの力で。あの姿を見れば、その運命の行く末は明白だ。助かっているはずがない。

 それを悲しむと同時に、サーシャスフィールが同じ運命を辿らずに済んだことに安堵した。

 

「白兎は……もう良い。それよりもお前だ、足を見せてみろ!」

 

 ライダーは右足の局部を押さえ続けるその手を掴み、その傷跡を一瞬で、しかしつぶさに観察した。指で触れて、その状態を確かめた。

 結論として、もはやこの右足は動かないであろうことを悟った。

 だが、脂汗を流して痛みに耐える彼女にその事実を告げることは酷に思えた。だから彼は偽りを述べる。

 

「……安心しろ。この程度であればすぐに治る。しばし耐えよ」

「嘘が下手ですね、ライダー。……二度と動かないことぐらい、分ります」

「…………そうか」

 

 彼女もまた魔術師なのである。自らの身体が今どういう状態にあるのかぐらいはすぐに分る。そもそも、既に痛み以外の感覚が無いのだ。ライダーに右足を触られたときだって、その感触を一切感じなかったのだ。触れられて痛みが増すでもなく、その温度を感じるわけでもなく。神経がやられていることを悟るには十分であった。

 しかし、ここで介抱をする時間はなかった。

 ある程度引き離しているが、バーサーカーがまだ付近にいることは明白なのだ。急いでここを立ち去る必要がある。

 その旨を告げるとサーシャスフィールは頷き、短く治癒の呪文を唱えた。もはや治癒に意味はないが、滅茶苦茶に繋ぎ合わされた細胞は酸素が行き届かず、まさしく壊死を起こしている。これを放置すれば足が腐り落ちてしまうことは明白だ。それを食い止めるべく、手短に治癒をかけた。

 だが神経までは治せない。これは治癒呪文の域をとうに超えている。これは治癒でなく、もはや再生させるしか手はない。そしてその設備は、アインツベルンの本城にしかない。

 幾分血色が良くなった足に力をこめるが、やはり動かない。自力で立ち上がることも困難だ。

 

「肩を貸す。沙沙は黒兎に乗るが良い。……丁寧に歩けよ、黒兎」

 

 ライダーは馬上を譲った。片足が不能に陥ったため、普通に跨ることが出来ず、下半身を馬の片側に投げ出す姿勢で乗馬する。所謂、お嬢様乗りやお嬢様乗りといわれる姿勢である。

 ライダーはと言うと、白兎の死体に歩み寄り、あろうことかそれを担ぎ上げた。

 あえて言及すると、白兎の体重は四百八十キログラムほどある。それをライダーは、軽々とまでは言わずとも持ち上げたのだ。ウェイトリフティングで百五キログラム超級の世界記録が四百七十二キログラムである。

 

「行くぞ。……今宵は帰らねばならん。凱旋とは程遠いな」

 

 ここからアインツベルンの森まで相当な距離がある。

 彼女らが無事に帰還する頃には、空は白み始める頃合だった。

 サーシャスフィールは右足を失い、白兎までも失い、ライダーの言うとおり、凱旋には程遠い帰還であった。


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。