夜はまだ明けない。月は明るく、しかしながら夜を照らすには些か暗い。
一人の男が夜道を歩いていた。その男に実体は無く、それはつまり霊体。しかしながらそれに宿った命は今まさに尽きようとしていた。
その男はアーチャーである。
霊体化すれば肉体の枷から解かれ、いかな重症でもひとまずは命を繋ぐことが可能だろう。肉体が無ければ血を流すことも無い。気迫さえ十分ならば消えることは無いだろう。
しかしアーチャーが受けた傷は、確実にその命を削り取るものだった。ここまでの負傷を負ってしまえばいくら霊体化していても苦しい。肉体が無いといっても、そもそもあの仮初の肉体は魂を元に構成されており、その肉体が酷く傷つけば霊体とて無事では済まないのは道理だ。心臓を断たれれば消滅せざるを得ないし、重症を負えば霊体であってもまともに行動できなくなってしまう。
零れ流れる命を必至に圧し止め、帰還すべき場所に向けて歩を進める。
英霊であっても絶対安静の傷だ。治癒魔術の恩恵を受けられるサーヴァントであれば霊体となってしまえば問題ないだろうが、マスターであるアリシアに扱える魔術など一切無い。よって自力での治癒にかけるしか無いのだ。
一歩ごとに命が削られていく。それでもなお、アーチャーは歩み続けた。
アリシアの元に帰ろうという意思のみが彼の背中を後押しする。彼女を悲しませる訳にはいかない。
あの白い手の少女を守るために、あのか弱い少女の傍に居てやるために。その強い思いだけが今の彼の原動力である。
アーチャーの傷は、もはや動くことままならないほどのものだ。いや、通常ならば既に息絶えているであろう。それでもなお彼の足が前に進むのは、その意思がかれを突き動かすからに他ならない。
居並ぶビルの群れの奥に帰るべき場所が現れた。冬木病院である。その無機質な佇まいがあまり好きでは無かったが、今ならばそれも好ましく思える。
もうすぐ、アリシアの元へ帰還できる。あの白い手を守ってやれる。
ふと思い返す。ああ、やはりアリシアはイゾルデに似ている。あの無邪気な笑みは、まさしくイゾルデのそれだ。
かつて愛した金の髪のイゾルデ。命を賭して守りたいと思う白い手のアリシア。否、あくまでイゾルデに重ねるのであれば、「白い手のイゾルデ」と呼ぶのが相応しいか。
金の髪のイゾルデと、白い手のイゾルデ。ああ、いかにも吟遊詩人が好みそうな題目ではないか。
ふっと笑みが零れる。後世ではもしかすると、自分の英雄譚にイゾルデが二人登場することになるやも知れぬと思った。
苦痛によって弱気になっているのだろうか、と思い直して病院を見据える。あと少しだ。
そう思った時アーチャーは全身を駆け巡る悪寒に襲われ、何か抗いきれない大きな力の標的にされたことを知った。
◆◇◆◇◆
その病室で、アリシアはただ一人黙々と物語の頁を捲ることに熱中していた。
普段夜更かしばかりしているからだろうか、今日の寝付きは悪かった。一度は寝入ったもののすぐに目が覚めてしまい、しかしながらアーチャーの姿もないので仕方なく読みかけの物語に没頭することにした。
消灯時間は過ぎているため、部屋の照明は消したままだ。サイドスタンドの明かりのみを頼りに本の文字を追う。趣味と言えるものが本しかないとあって、熱中すると周囲のことなど何も見えなくなるほどだった。薄暗いこの部屋にあっては、大抵の少女が暗闇に怯えるだろうが、この部屋の主はそのようなことに構うことはなかった。もとより、幽霊が自分の家族のようなものである。加えるなら、幽霊と見間違うようなものなどその部屋には置いていない。
その部屋は、年頃の少女の部屋としてはあまりにも清潔にすぎた。在るのはいくつかの本と、活けられた花束。さらに申し訳程度に置かれた縫いぐるみ程度である。せいぜい熊の縫いぐるみを見間違う程度だが、定位置に置かれて久しいそれを幽霊と見紛うほうが難しいというものだ。
以前は花すらもなかった。病院の職員は、金の援助だけは潤沢に受けているということもあってそれなりに世話は焼くのだが、頻繁に水を変えなければならない花は敬遠の対象であった。本や縫いぐるみの差し入れはあっても、生命を宿したものを贈るとあっては、部屋から一歩も出れない少女には荷が勝ちすぎるというものだ。花というものはただ置いて枯れるにまかせる分には気楽だが、ちゃんと面倒を見るとなると存外に世話がかかる。職員もそう頻繁に花の世話をするというわけにもいかず、そもそも自分の面倒を増やすような真似を好んでする者は居なかった。
だからこの花は、アーチャーが活けたものなのだ。
あまりにも殺風景なこの部屋を見咎め、どこからか花を見繕ってきたのだ。アーチャーは夜間以外は基本的にこの病室に居るわけだから花の世話には事欠かない。そのおかげか、そろそろ枯れる頃合であろうというのに鮮やかで、かつ艶やかな花弁を未だに誇っているのだった。
その花の香りをそっと嗅ぐのが、アリシアの密やかな日課であり楽しみである。
その花は日光を当てないほうが綺麗に咲くらしい。アーチャーのささやかな気遣いであろう。アリシアは花の名前などには疎いが、白い花を優雅に咲かせるこの花の名前は聞いておきたいと思った。何せ、うっとりするほど瑞々しい香りを漂わせるのだ。
最初は花なんて飾って何になるのだろうか、と少女らしからぬ感想も抱いたものだ。しかし花の咲き具合に一喜一憂し、その香りと瑞々しい様を楽しむというのは病棟生活において欠かせぬものだと思うに至った。変化のない生活において、日に日に変化を見せる植物というものは本当に楽しいものだ。おそらく隠居した老人が盆栽を育てるというのも似た境地だろう。そう思うと、なんだか自分が実年齢よりも十倍ほど老けたように思えるのがアリシアの小さな悩みでもあったが、楽しみは楽しみであって簡単に捨てられるものではない。
小さな手がまた一つ頁を捲る。一文字を追うたびに物語は新たな冒険を綴り、アリシアを異なる世界に連れて行ってくれる。
やがて文字は最後の一文字へ辿り着く。物語の終わりだ。別れを惜しむように、ゆっくりと表紙を閉じる。表紙に描かれたタイトルを眺めた。
アーサー王物語。
聖杯なんてものが本当にこの世にあるのかどうかは分からない。だがそれを持った人の願いを叶えるという偉大な杯に思いを馳せるのは、アリシアほどの年頃ならば許されることであろう。
彼女の願いは、実にささやかである。それは健康な者なら当たり前に享受できる恩恵であり、しかしながら彼女にとっては満願のものである。
外で遊びたい。ピクニックに行ってみたい。
なんてささやかで、ありきたりな願いだろうかと思う。だが、自分の体のことを鑑みればそれは本当に困難なことなのだ。紫外線に一時間も当たれば死に至ることもある病気だ。ピクニックなどもってのほかなのだ。
その風景を強く思い浮かべる。麗らかな春の陽気に包まれ、小高い丘の上を鳥の囀りに耳を傾けながら散策する。昼食にはバケットに入ったサンドイッチを食べ、日が暮れる前には歌を楽しみながら帰宅する。
自分の隣に居るのは……アーチャーだった。
出会って長いというわけではない。数ヶ月前に唐突に現れた彼は、しかしながら彼女にとっては既に紛れもない家族だった。父と母の姿などとうに思い出せない。家族はと問われれば、真っ先に思い浮かぶのがアーチャーの顔だ。
降って湧いた家族。
その言葉に人知れず微笑む。長い物語を読み終えた後は必ず詩的な言葉が浮かぶ。文才があるのかどうかなど知らないけれど、ちょっと筆を取ってみようかなと思った。
だがそれをするにしても明日だ。さすがにもう眠い。
やや厚い本を棚に仕舞い、ベッドに潜り込む。アーチャーに言われたのに夜更かしをしてしまった。夜は静かすぎるから駄目だ。ついつい読書に熱が入ってしまう。
未だ未発達の体では少々遠いサイドスタンドのスイッチを切ろうと、腕を目一杯まで伸ばす。以前ベッドに入る前に電気を消したら、ベッドに強かに足の小指をぶつけた教訓からだ。
手探りでスイッチを苦労しいしい見つけた。
それを切ろうと込めた指先の力は――――ごり、と額に押し付けられた冷たく重いものの感触で霧散した。
「…………え?」
「声を出さないように。騒ぐと命は無い」
手をサイドスタンドに突き出したままの体制で硬直する。頭上から覆いかぶさる知らない声、額から伝わる知らない感触、突き刺さるような知らない感情。
怖い。
それが今彼女を支配する感情の全てだった。
そこに居る筈の人物の姿よりも、突きつけられたものを注視してしまう。額に触れているのは鉄。筒状になっていて、胡桃材の取っ手のようなものが途中から生えている。
理性が暴走し、それを理解するまでに長い時間を要した。しかし眉間にぴたりと照準を合わせているものの正体が銃――それもひどく無骨な――だと分かったとき、暴走していた理性は凍りついた。
突きつけていた銃を引っ込める。代わりに突き出したのは刃物だった。刃渡りが広く、刃と柄が一体となった頑丈な作り。それが果物の皮をむくような用途ではなく、もっと大きなものを切り裂くための武器であることは容易に想像が付いた。
その刃が喉に突きつけられる。そういえば、銃よりも刃物のほうが痛そうだから、人質を脅すのに使えるという記述を本で読んだことがある気がした。たしか酷く怖い本だったとアリシアは現実から目を背けて思い返していた。
「アーチャーのマスターだね?」
やや声色を落としてそれは尋ねた。半ば現実逃避していたアリシアの意識が強制的に引き戻される。それと同時に、その男自身を意識させた。
ひょろりと高い背によれたコート。髪も髭も伸びるに任せた様子で、目からはおよそ力というものを感じさせない。そしてそれらの全てが黒い。コートも髪も髭も目も闇夜に溶け込むように黒い。
幽霊だ。アーチャーよりも分かりやすい、恐るべきお化けがそこに居る。アリシアはそう結論した。それは万人が認める彼の風体であろうから誤りではない。
そう、この風体とこの行動。この場に聖杯戦争をよく知るものが居れば確実にこう結論付けるだろう。この男こそ暗殺者のサーヴァント、アサシンであると。
「……ま、マスターって、何ですか……?」
アリシアの言葉は極度の恐怖と緊張で言葉が上手く発音できない。裏返ろうとする声をどうにか抑えつけないと言葉の体裁すら保てない。
アサシンはその言葉に怪訝な表情で返したが、すぐに彼女の置かれている身を理解したようだ。質問をやや噛み砕いたものに変更する。
「アーチャーのご主人様は君かい?」
アリシアは、アーチャーと出会ったばかりの頃に彼が自分のことをマスターと呼んだことを思い出した。意味を尋ねると、自分の主人のことだと答えた筈だ。その一連のやりとりをアサシンの言葉で思い返したのだが、アリシアはアサシンを怒気すらも孕んだ涙目で見据えた。
「違います。アーチャーは私の家族です」
アリシアにとって、アーチャーが自分のことを主人などと呼んでいたのは遠い昔のことだ。それはアーチャーにとっても同様であると信じている。それはもう、絆とも言えるものだ。
だからこそ、自分とアーチャーの絆を目の前の男に侮辱された気がして、恐怖さえも一瞬忘れて反論した。だがそれは一瞬のことだ。すぐに突きつけられている刃を思い出して、その口を噤んでしまう。
「……そうか、ならそれでいい。お嬢さん、僕と取引をしないかい」
アサシンは懐から一枚の羊皮紙を取り出す。そこにはインクで文字は書かれているが、アリシアには読むことが出来なかった。少なくとも日本語では書かれていない。
魔術など何一つ知らないアリシアには分からないことだが、これは紛れも無く
その中身を要約するとこう書かれていた。
第六次聖杯戦争のアサシンのサーヴァントである衛宮切嗣は、アーチャーを自害させるとこを条件にアーチャーのマスターへ如何なる場合でも危害を加えないことを誓約する。
その言葉にはいかなる裏もない。単独行動スキルを持つアーチャーを確実に排除するには、マスターが令呪によって自害させるのが確実という打算があるだけだ。
「これは契約書だ。君は右手の痣に念じることで、アーチャーにどんな行動でも強いることができる。それで彼を自殺させれば、僕はこのまま帰る。これは絶対に覆せない契約さ」
――ただ、彼が何もせずとも彼女に危害が及ぶ可能性は否定できない。彼はそこを意図して隠す。
そもそも彼がここに居るのは、夜な夜なセンタービル屋上に姿を現すアーチャーを発見したためだ。それを尾行すればこの病室の存在はすぐに割れた。向こうに気づかれなかったのは隠密行動スキルの賜物である。
当然使い間を放ち、アーチャーが留守にする頃合を見計らっている。そしてより確実を期すために、二重三重の知略を巡らしているのは言うまでも無いことである。
アリシアの真上に位置する病室。日当たりの悪い位置ということもあり今は空室となっている。その部屋に、彼はガソリンを撒いた。
ガソリンの恐怖は液体ではなく気体時にある。液体に火をつけても勢いよく燃え上がる程度だが、気体となったそれに火がつけばどうなるか。
凄惨な大爆発である。
あらゆる通気箇所をふさぎ、気密性を増した部屋にガソリンをリットル単位で撒いた。ガソリンは恐ろしく揮発性が高いためにものの数分で部屋は気体化したガソリンで満たされる。頑丈なコンクリート作りとはいえ、周辺の幾つかの部屋を木っ端微塵にしてあまりある威力と化していた。言わば強力な爆弾が居座っているのと変わらない。
アサシンが自身のマスターである景山悠司へ連絡を入れれば、彼はトランシーバーから連絡を返す手はずになっている。通信先のトランシーバーはガソリン部屋の中だ。それが電流を通せば火花が散る、簡易な起爆装置に繋がっている。
アサシンは契約の内容に違えることなく、アリシアを抹殺する手はずを整えていた。銃も爆発物も手に入れることが出来なかったが、日常に有り触れたものを代用すればどうにでもなる。
「アーチャーを……私が、殺す……?」
「そうだ」
うわ言のように呟くアリシア。白い顔はさらに蒼白になり、指先は小さく震えていた。
それは死の恐怖か、それともアーチャーを殺せという命令への恐れか。いずれにしても、その小さな胸が今にも張り裂けんとしていることは容易に見てとれた。
しかしアサシンはそれでもなお自らが出した要求を取り下げることはない。第四次聖杯戦争以降の記憶を悉く奪われている彼にとって、女子供であろうとも情状酌量の対象になろう筈もないのだった。
アリシアは今もなおサバイバルナイフを突きつけるその男を見上げ、震える唇をどうにか総動員する。
「……もしも、嫌だって言ったら、どうなるの?」
「残念だけれど、君を殺すことになるかな」
アサシンは手に持ったナイフの柄を強く握り直した。わざとアリシアにその様を見せ付けたのは、自分の言に偽りが無いことを主張するためだろうか。
だがアリシアは、その様子に怯えることもなく、かえって何か悟ったような表情を浮かべる。
「う、嘘。アーチャーに自殺させたって、私を殺すつもりなんでしょ? ……す、スパイ物の物語って、大抵そうやって裏をかくもの……」
「…………」
振り絞って吐き出したその言葉にアサシンは少なからず驚いた。まさか自分の腹の内をこんなに幼い子供に見透かされるとは。いや、魔術を最上のものと捉えている類の魔術師ではないからこそかも知れない。
そうでなくとも、子供というものは大人の考えていることに敏感なものだ。年を重ねるごとに、直感で相手の心情を探る能力というものは失われてしまう。しかし齢が10にも満たないその少女には存分に備わっているようだった。
「……答えを聞こう。僕の申し出を受けるのかい?」
「…………」
次はアリシアが言いよどむ番だった。
死にたくない。死がいつも身近にあるからといって、死を覚悟しているとは限らない。むしろいつ死んでもおかしくないと思うからこそ、生にかける執着というものは大きい。
もっと生きていたい。たとえ死ぬとしても、どうにもならない天命に最後まで抗いたい。刃物ではなく、病気と最後まで闘った上で死にたい。
がちがちと歯が鳴る。震えを隠そうと歯を食い縛るが、かえって大きく音が鳴る。
一筋の涙が零れる。その意味は涙した本人にすら分からない。
汗が頬を伝う。脱水症状を起こしたかと思うほどに喉が渇く。
突きつけられたナイフが冷たい。放たれる言葉は殺意に満ちているのに、どこか優しい声が恐怖を煽る。小さな心臓は限界まで酷使され、あまりに早い血流は視界と思考を霞で覆う。
もはや視界はモザイクがかかったかのように曖昧で、思考もまた夢の中にあるかのように胡乱だ。
しかし彼女を気絶に追いやらなかったのは偏に、その強い思いの成せる所業である。
「…………い、嫌です……!」
放った拒絶は彼女の全霊をかけたものだ。何の比喩でもなく、体の奥底から絞り出した一声。
あまりにもか細いその声は、しかし明確たる己の意思によって鋼のような強さを孕んだ一声であった。決して揺るがまいと、目を固く閉じてシーツを握り締める。痛みに耐えるかのようなその仕草は、何があっても意思を変えないという彼女なりの示威行為であった。
「私はアーチャーを殺せません……! いいえ、殺しません!」
「それでは君が死ぬとこになるけれど、いいのかい?」
「いいえ、私は死にません。だって――――」
“ね、アーチャー。私がもしも私が、悪いドラゴンに攫われたら――――助けに来てくれる?”
“もちろんさ。君は、私のお姫様だ”
彼女を支えるのは、この短いやり取りのみだ。だかそれは彼女を支える杖であり、この場においては敵を退ける剣にもなる言葉。
その言葉に全幅の信頼を置いて、その手に宿った絆に小さなその身に宿るだけの想いを乗せる。するとそれに答えるように手に宿ったソレは光を発し、彼女の想いを叶えようとその力を発揮せんとする。
「アーチャーは、私の大切な家族は、……私を守ってくれるって言ったんだから……!」
相手を見据えたその瞳から零れたのは、星の輝きのごとく美しい滴。それを溢した瞳から発せられるは絶対の信念と意思。
アサシンは確信した。この子もまた、幼くして魔術師たる血を引き継いだのだと。
令呪はいよいよ輝きを増し、その真価を知らしめんとする。この場で令呪を使うとこあらば、それは強制転移に他ならない。まだ幼い子供ゆえ刃物で脅せば容易に従うだろうと思っていた己をアサシンは恥じた。
とんでもない思い違いだった。魔術を知らないとはいえ、この子もまた歴とした魔術師の血を引いているのだ。
そう判断した瞬間のアサシンの行動は早かった。
「Time(固有時) alter(制御)――double(二倍) accel(速)!」
彼は己の宝具を解放した。それは固有時間を加速させることで敏捷に大きなボーナスを付与することを可能とする。霊体の肉体でも限界は三倍速まで。事実上、彼が戦闘で使用できる最高速度をここで発揮する。
部屋の隅に空間の歪が生まれる。すぐにでもアーチャーがそこから召還されるであろうことは火を見るより明らかだ。
アサシンはその瞬間に、目的を達するための機械と己を変えた。
「――――あっ……?」
アサシンはどんな機械よりも冷酷かつ正確に、その刃を少女の心臓に付き立てた。常軌を逸した速度を以って襲い掛かる凶刃を僅か9歳の少女がどうにも出来るはずもなく、その白人は至極当然のように彼女の心の臓腑に吸い込まれる。
彼女が感じたのは軽い衝撃と、焼けるような熱さ。遅れて感じたのは手のひらに残る、ねっとりと不快な自身の血潮の感触だった。
しかしアサシンは己の成果を確かめることもなく窓を突き破って外へと逃れる。紫外線避けのフィルタは僅かながらもガラス窓の強度を上げていたが、防犯を視野に入れていないために簡単にアサシンの脱出を許した。フィルタに塗布された糊のせいでガラス片が散ることもなく、かえって隣室に異常を伝えないことに役立った。
そしてアーチャーは一瞬ながら、しかし致命的な一瞬を逸してその場に召還された。その部屋の惨状と、逃げようとするアサシンと思わしき後姿を見て即座に状況を把握する。
「き、貴様ァッ!!」
天まで揺るがすほどの咆哮。その怒りに合わせてばっくりと切り裂かれた胸板から血が吹き出る。
驚くべき速度でこの場を離れようとするそれをアーチャーの鷹の目は逃すことは無かった。即座に矢を射掛けようとし、螺旋矢を番える。
憎悪の一切を込めて矢を引き絞る。だがその矢が放たれる前に、アーチャーの体が先に限界を迎えた。再び胸板から夥しい量の血が噴出し、口からも赤黒いそれを喀血する。
つい緩めてしまった指先から矢が離れ、しかし矢はあらん限りの憎悪を込めたにも関わらず明後日の方向へと飛翔して地を抉っただけだった。下手人は口惜しいことに……悠々と逃げ延びてしまった。
風体からしてアサシンで相違ない。となればもはや追うことは不可能。もとよりこの傷では一刻の猶予すらも無い。
あまりの無念からアーチャーは咽び泣いた。よろよろとアリシアが横たわるベッドに歩み寄り、彼女の手を取ってなおも涙を流す。
アーチャーはこの場に呼ばれた瞬間から、どこか冷たい部分でそれを悟った。アリシアはもう助からない。
零れる命を繋ぎとめる方法は無い。それこそ神の奇跡に縋らなければ成しえないことだ。
もとより白くかった手が、どんどん血の気を無くして行く。それに呼応して握った手から熱が奪われていく。
その度にアーチャーの目からは涙が溢れた。自身もまた余命幾許もない傷でありながら、足元を血溜まりで濡らしながら、それを意に介さず強く彼女の手を握り締める。
ああ、神よ。御恨み申し上げるぞ。何ゆえ彼女がかような仕打ちを受けねばならぬのか。何ゆえ彼女にこれ以上過酷な試練を与えようというのか。
このようにいたいけな少女の命を召し上げて、一体どうされようというのか。お望みならばこの命、いつでも献上しよう。
だから、頼む。彼女を殺すな。彼女を死なすな。
願わくば、願わくば、あの無垢な笑みをもう一度。
ああ、ああ、命が零れていく。このトリスタンの両手をすり抜けて、命の熱が逃げていく。
アリシア、アリシアと何度も名を呼ぶ。しかし返事は無い。
心臓から無骨なナイフを生やし、口の端から血を一筋流して横たわる少女。しかしその目が再び開かれる奇跡を請うように何度も名を呼ぶ。
私は、この少女を守りたかったというのに……!
愛のために戦いぬくと誓ったのに! 彼女が唯一自分と手にした……家族愛を守るために……!
「…………アーチャー……? 泣いているの?」
それはどんな奇跡だろう。もはや決して目を開くことは無いと思っていた少女の目が薄く開かれた。それは蝋燭が消える前の一瞬の輝きかもしれない、だがアーチャーはその一瞬を全身全霊で受け止めなければと思った。
「……泣いてなんかいないさ」
アーチャーは涙をぬぐい、精一杯の笑みを浮かべた。既に足元は輝く飛沫となって消えかかっている。傷はもはや致命のものにまで広がり、彼を現世に留めることが出来なくなりつつある。しかし彼はそのような気配を一切漏らさず、あらん限りの平常を装って彼女の手を優しく握った。
「私ね、なんだか、怖い夢を見たの」
「今日は寝苦しいからね、怖い夢も見るさ。私が手を握っているから、ゆっくりと休むといい」
「うん、なんだかとっても眠い……。ね、アーチャー……」
アーチャーはアリシアの命の灯火が今まさに消えようとしていることを察した。だからこそ笑顔を作り、穏やかに彼女を送らんとする。
「怖い夢だったけど……最後にアーチャーが来てくれたから……私、嬉しかった……。えへへ、ありがと……アーチャー……」
不意に……握る手から一切の力が無くなった。
必死にアーチャーは呼びかけたが、もはや彼女からは何も帰ってこない。ただ微笑むように眠るだけである。
アーチャーは彼女が死出の旅に出たことを知り、声を押し殺した呻くような声とともにベッドに顔を埋めた。
慟哭の声は静かに、しかし止め処なく溢れる滴を抑えることは出来ない。彼女の血の上に大粒のそれを溢すことしか出来なかった。
アーチャーは頭上から紅蓮の花が咲いてその身を包むまで、彼女との別れを惜しむようにその場に留まり続けた。
『……旦那、言われた通りにしたけれど』
携帯電話から響く科学的に調整された音声。アサシンことエミヤキリツグは病院から離れた、かつアーチャーからは補足できないであろう雑居ビルの空き部屋の一つに身を隠していた。
アーチャーから逃れた後にこのセーフハウスに駆け込み、すぐさま携帯でマスターである景山悠司に連絡、病院の一室を爆破した次第だ。
「……ああ、マスター。こちらからも首尾よく運んだことを確認したよ」
『そいつは何より。……で、このトランシーバーでどこかに連絡することに、どんな意味があったんだ?』
「知る必要はないよ、マスター。もしかしたら次もあるかも知れないけれど、そのときも宜しく頼む」
『はいはい、この軟禁に近い生活が早く終わるなら吝かじゃないですよって』
「助かる。すぐにそちらに戻るが、何か必要なものはあるかい?」
アサシンは彼の身の回りのもの、切れ掛かっている必需品を聞き出して脳内のリストに書きとめた。帰り際に手早くそれらを買い集める予定を考える。
だがその前に、懐から煙草を取り出して一服することにした。煙草の銘柄はそこらのコンビニで売っている一般的なもの、ライターも100円で買えてしまう安物だ。
漂う紫煙と遠くで立ち上る黒煙を眺めながら考えた。
自分はかつて、あのように敵の目の前に現れて交渉をするようなことをしただろうか。合理性と確実性を取るならば、病院を丸ごと爆破するようなことも行っていたように思える。
現に、危うくアーチャーの反撃を受けるところだった。アーチャーが既に負傷していなければ、アーチャーのマスター共々脱落は免れなかっただろう。
失った記憶の中にその答えがあるように思えたが、それを考えると決まって割れんばかりの頭痛に襲われる。まるでそれを考えることを体が拒否しているかのようだ。
大きくため息をつく。それに合わせて煙草の煙が口からもうもうと上る。騒々しい音につられて下を見れば、消防車が大慌てで走り去っていった。あの量のガソリンだ。火災も並では済まなかっただろう。
長くなり過ぎた灰が床に落ちる。もう吸い尽くした煙草を剥き出しのコンクリートの上に捨て、踵で揉み消した。
……何はともあれ、これで脱落したサーヴァントは二体。残るはセイバー、ランサー、ライダー、バーサーカー、そして自分アサシン。次の標的はまだ定まっていないが、趨勢を見て全力で漁夫の利を得に行く方針は変えるつもりは無かった。
◆◇◆◇◆
本来なら清清しいはずの朝なのだが、私にとってはそうはならなかった。正直に言おう。最悪といっても差し支えない気分である。
昨晩、ライダーとアーチャーを相手にどうにか生還を果たした私達。帰るまでの道のりもかなりきつかったと記憶しているが、正直疲れ果てていたせいかあまり鮮明に思い出せない。士郎さんの投影した宝具の効果でどうにか歩けるまでに回復したセイバーが私を抱えて帰ってきたような気がするが、記憶にいまいち自身がもてなかった。
確かなことは、未だに引きずっている両腿の鈍痛だけである。
これもまた士郎さんの宝具によって治療したものの、一晩未満では満足に治らなかったと見える。どうにか歩けるものの、足をかばいつつ歩くことになり、何か支えが無いと自分でも危なっかしくて仕様が無いという有様だ。
しかしこれでもセイバーが受けた傷よりはマシだ。何せ命の危険は無い。セイバーの傷は下手をすれば死に至るほどだったのだから、士郎さんが真っ先に治療を施したことに異論などあろう筈もない。今後は自分の身体能力も考慮しようと猛省するばかりだ。
そしてある意味で一番軽症なのは遠坂さんだ。あの時は一番死に近かったものの、事が終った今では寝ていればすぐに全快できるという点で傷は浅い。私やセイバーは、ここできちんと治療を受けないと後遺症が残るかも知れないのだ。そうでなくとも足をかばった歩き方が癖にならないように注意するばかりである。
苦労しいしいベッドから起き上がる。いつまでも寝ているわけにはいかないだろう。リハビリも兼ねて、とりあえず居間に向かう。胃袋はくうくうと音を鳴らして空腹を訴えているのだ。朝食の時間帯からは少々外れてしまったが、冷蔵庫を漁れば何か在るだろう。この大所帯、冷蔵庫が全くの空という事態は無いはずだ。
壁に手をついて支えにし、どうにか居間に辿り着く。そこには全員の姿があった。
まだ傷が痛むのか幾分大人しいセイバー。もう魔力切れから立ち直りつつあるのか、ぐったりしていながらもテレビを眺める遠坂さん。まだ本調子ではないだろうに、見て分かるほどの不調の二人に甲斐甲斐しく給仕をする士郎さん。士郎さんがもしサーヴァントになるとしたら
「澪、もう起きて大丈夫なの?」
顔をテーブルに沈めたままの遠坂さんの声には覇気がない。というか元気が無い。やはり多少寝た程度では魔力は十分に戻ってはいないに違いない。今日は一日安静にするべきだろう。
「腿がまだ痛いけれど、じっとしている分には問題ないわ。それよりも遠坂さんとセイバーのほうこそ大丈夫なの?」
「私は大丈夫だ。戦闘は難しいかも知れないが、一日安静にしていれば治る。あのアヴァロンという鞘の力は本当に凄まじい」
「魔力がすっからかんだけど、体を休めておけば大丈夫よ。……全員が揃ったところで会議でもしましょうか。とりあえず差し迫った問題の方から」
遠坂さんは沈めていた顔をテーブルから上げ、服の袖をまくる。そこに在るはずの令呪は既に消え、痣のようなものが残っているだけだ。
「バーサーカーは? ……いえ、別に責めるつもりは無いのよ。最後気絶しちゃったから分からないけれど、あの状況だとバーサーカーを斬り捨てるのが最上でしょうね。だからこれは確認」
若干の食い違い。遠坂さんは最後、魔力を限界以上に搾取された影響で気を失っていた。だからおそらく私達はバーサーカーを切り捨てたと思っているのだろう。それは間違い無いのだけれども正確ではない。その話には続きがある。
よほど言いにくそうな顔をしていたのだろう。台所で何か作業をしていた士郎さんが席について、私の代わりに話を始めた。
「バーサーカーはまだ生きている」
「……はあ? じゃあ何、前回のアンタの
「……そうじゃなくて、……どこから話したらいいのかしら……。
ええと、取り敢えずバーサーカーの真名から。あのバーサーカーの正体はサー・モードレッド。円卓の騎士の一人、って言わなくても分かるわよね」
詳細な説明の必要が無いことは、遠坂さんの表情から理解できた。確かにアーサー王を前回従えていたのであれば、その伝承にも明るいだろう。
反逆の騎士。簒奪の騎士。脱がざる兜の騎士。後世に不名誉ばかり残してしまった騎士、サー・モードレッド。
自分と袂を分かつことになってしまったランスロットの元に遠征に行き、その際にキャメロットを任されたモードレッドは謀反を企てる。王の留守をいいことに王位を簒奪し、帰路についていた王の軍と対立する。最終的にモードレッドはアーサー王の脇腹をその剣で貫くが、自分もまた兜を叩き割られて死に至る。国土全土を揺るがす反逆は、双方共に倒れることで幕を下ろすのだ。
そのモードレッドが今回のバーサーカー。おそらく、遠坂さんにアーサー王との契約の跡のようなものがあったのだろう。あるいは記憶だろうか。それを縁に、『遠坂凛のサーヴァント』という王の地位を『簒奪』するために召還に応じたのだろう。推測だが、既にアーサー王の立場を全て奪うことしか頭に無いのだと思う。
「モードレッド……これはまた、凄いヤツが呼ばれたものね……。ということは、宝具はクラレント?」
「ああ、あれは間違いなく載冠剣クラレントだった」
士郎さんはその剣の力を掻い摘んで説明する。
あの剣は王位を約束したものだ。王は国を統べる存在であり、国が王を支える。その理念を鋳造したような存在が載冠剣クラレントだ。
一度その力を発揮すれば、持ち主に国を味方として与える。地形効果による恩恵を最大限に受けられるだけでなく、魔力供給を土地そのものから賄うことが可能となる。
つまりマスター不要。マスターが死のうが、契約を破棄されようが、殺されるまで現界することが可能となる剣だ。
「ちょっと……それって、バーサーカーが自由に動き回れるってことでしょう……? 理性を完全に無くした狂戦士がどこにでも現れることが出来るって……一般人を襲い始めたりするんじゃ……!」
ニュースからは昨晩起こったらしいガス爆発についての報道が成されている。事件の可能性も踏まえて捜査を続けるとある。死者数名、重軽傷多数という大惨事だ。どうやら9歳の女の子までも亡くなったらしい。
しかしこれはバーサーカーとは関係ないだろう。バーサーカー絡みならば切創だ。とりあえず思考の外に追いやる。
「かも知れないな。だから一刻も早くバーサーカーをどうにかしないと……」
「……たぶん、それは無いわ」
遠坂さんと士郎さん、そしてセイバーの6つの眼球が私を捉える。あまり凝視されるとこちらも不安になるというものだが、この案は正確には私の考えではない。思い切って出してしまうのが良いだろう。意を決して続きを語る。
「まず、クラレントは“国を味方につける剣”。だからそれを持つモードレッドが一般人を襲うことは無い、……らしいわ。
国家の礎は王でもなく、土地でもなく、民よ。土地のあるところに、あるいは王の居るところに国が出来るんじゃないわ。民が居るところに国が出来て、より適した土地を目指し、そこから指導者たる王が生まれる。国の基盤は民であり、王ではないわ。
とすれば、まがりなりにも王になった……それもクラレントに認められたモードレッドが民草を無意味に襲うとは考えにくいわ。国家の礎は民であり、その民を滅ぼせば王ではなくなる。そういうことみたい。
いくら狂化していてもクラレントを握っている限りは一般人に手を出さないだろう、……ということらしいわ」
「……誰かに聞いたかのような物言いだな、ミオ。誰から聞いたのだ?」
「聞いたとうか……アーサー王流の考え方……というべきかしら」
「……そういえば澪、あなたライダーと対峙したときにおかしなことをしていたわね。アレについて、何か説明はあるんでしょ?」
そういえばこれといった説明を何もしていなかった。私自身、全て分かっているとは言いがたいけれども説明はせねばなるまい。
この際、あの過去の記憶のつまった場所のことにも触れざるを得ないのも止む無しだ。こちらからは言うわけにはいかないけれど、聞かれたら答えてしまおう。
この面子の中で最も早く気を失ったために何も知らないセイバーに対してある程度の経緯を説明した後に、なるべく筋道立てて言葉を並べる。
「同一化魔術、と私は名づけることにしたわ」
「……同一化?」
「そう。“いたこ”というものをセイバーは知っているかしら。自分の中に他者の霊魂を憑依させる術を扱う人のことなんだけれど、それと近いことを行っているわ。
例えばアーサー王。アーサー王の全ての記憶、行動理念、思考回路、ありとあらゆる情報を私は受け取る。それを元に、私は自分の中に架空のアーサー王を作り出すの」
「ちょっと待ちなさいよ。それって、自分の精神を作り変えているってこと?」
かぶりを振って否定する。
精神を作り変えるのは危険極まる。魔術師が行って大丈夫なのは精神をばらばらにするところまでだ。ばらばらにしただけならば作り直すことも比較的容易だが。作り変えてしまうとなると精神がそのまま定着する危険が生じる。つまり戻れなくなるのだ。
だが私の魔術はそうではない。私の精神には一切手をつけないのだ。
「私の精神の上に、仮面を被せるようなものよ。えーと……何か達成した目標があるとするでしょう。それを達成するのに、私はAという方法しか持ち得ない。あるいはそれしか考えが及ばない。
だけれども、それに私が精神に作り出した他者というフィルタにかけることで解決案Bというものが生まれるのよ。他人の思考法、知識というものがあるからこそ私には考えもつかないようなことが分かる、という仕組み。
さっきの意見だって私には考えの及ばないものだったわ。昨晩私の中に作り出したアーサー王という人格のフィルタを通すことによって導き出された別解というわけ」
「……よく分からんな」
だろうと思う。私自身完全に理解しているかといえば怪しいものだろう。
仮面という表現が悪かっただろうか。他のたとえで言うと仮想OSというものが近いのだろうか。情報技術に多少精通してないと理解できないだろうから敢えて伏せた例なのだが。
仮想OSとは、コンピュータに搭載されたOS上で、別のOSを仮想的に動かすというものだ。本来OSは同時に機動することができない。しかしAというOSの制御下で別のOSを仮想的に動かすことは可能なのだ。これによってAというOSが実現できないこと、不得意なことをBという仮想OSに実行させることによって可能にするのだ。
Windowsに不可能なこと、不得意なことを仮想のLinuxに実行させるというのは情報系の学生では当たり前のように行われているらしい。Windowsはあまり開発環境に向いていないというのは、情報系の学科に居る友人の弁だ。
つまりこの場合、全体を制御するOSが私。先刻のアーサー王のように作り出した人格が制御される仮想OSということになる。私という制御下で、別の人格を動かすのだ。
しかし人間は機械ではない。制御下にある人格も主人格の影響を多少受ける。
それは何かというと、あらゆる決定権は主人格のほうにあるということだ。つまり主人格――つまり私が絶対に嫌なことは、例えアーサー王でも実行することが出来ない。制御するOSとユーザーが一緒になっているのだ。
「といっても、一番しっくりくる説明は多分セイバーには理解できないだろうし……」
あと遠坂さんにも。睨まれそうなので言わないけどね。
「とりあえず、人格をスイッチみたいに切り替えることが出来るという認識でいいわ。多重人格みたいにね。その人格というのが、過去の人というだけよ」
「情報を受け取るって言っていたけれど、それはどこから?」
やはり来たか。この質問は避けられないだろう。
私自身よく分からないけれど、と前置きして説明する。なるべく理解しやすいように言葉を選びつつ知る限りを語る。
眠っている間に辿り着いた、謎の人物が居る世界。そこにはあらゆる人物の過去が記されていて、私はそれを垣間見ることが出来る。一度そこに辿り着いたからか、魔力という通行料を払えばそこにアクセス出来るようになっていた。今もその気になれば出来るだろう。
そこから情報を必要な分だけ全て受け取り、あとは説明したとおりだ。それを元に人格を構築して制御する。
全部話し終える頃には時計の短針がぐるりと一周していた。
「……なんてデタラメな」
「そう思うわよね」
私もそう思っている。
「そんなのがあれば、魔法だって何だって思いのままじゃない」
「あー……それがそうもいかない事情があって。
イメージして欲しいのは、何億という蔵書がある図書館かな。しかもジャンルも並びもメチャクチャで、そもそも棚に収まっているんじゃなくて山にして積んでいる感じ。しかも本の表紙にはタイトルも著者も無い。……どう、そこから狙った一冊を持ってこれる?」
「……無理だろうなあ」
ぽつりと溢したのはセイバーだ。
タイトルも著者も不明とあれば、本を開いて欲しい記述があるかどうかを調べる他無い。電子ブックなら文字を検索できるだろうが、あいにくこれは手書きだ。人によってはかなりの悪筆の場合もあるだろう。死の直前に自身の記憶が磨耗してしまっている場合だ。桜さんの過去に関わる記憶もこの状態であったことは覚えている。
そんな状態から何億、いや億では収まらないほどの蔵書から目当ての記述を見つけ出すのは至難だ。魔法などの記述となると、それを記されている蔵書そのものが希少だろう。十本の指で数えられるほどしか無いに違いない。
では何故アーサー王はすぐに引っ張り出せたのかというと、手に触媒があったからである。
記憶からも、例の匂いがする。私の魔術的感覚を五感に変換するあれだ。それがどんな人物か、人目見たときに私はそれを在る程度看破する。
これはよほど狂気に染まって、情報を引きおろすだけも危険なウイルスのような記憶を見分けることに役立つ。私も人の子、朱に交われば紅くなる。触れたくない記憶に触れると危険ということもある。今思えば、この能力はこの為に備わっていたものだろう。
しかしこれはもう一つの使い道がある。図書館などにある、蔵書検索サービスの代用だ。手元に触媒となる強い力を持つものがあれば、それを頼りに目当てを引き当てることが可能となる。逆に言えばこれが無いと目当ての蔵書を見つけ出すのは不可能に近い。どれほどの力が触媒に必要かと言うと、宝具ぐらいだ。
つまり事実上、私が持ってこれるのは士郎さんが投影できる物の持ち主だけということになる。時間さえかければ、その人の大事にしていた遺品などでも可能だろうが、そうなるともはや何週間かかるか分かったものではないというレベルだ。運がよければ一瞬だろうが、悪ければ数ヶ月だろう。
以上のことをわかり易く噛み砕いて説明してやる。どこまで分かったのか知らないが、私だって自分が行っているとは思えない所業なのだ。架空とはいえアーサー王がこの身の内に在るなど、未だに信じがたい。
「……まあ、いいわ。じゃあバーサーカーは一般人には手出しをしないだろう、という仮定で。でも油断はしないわよ。暫くはニュースを見張っておかなくちゃね。辻切りなんて現代では物騒すぎるし」
「……リン、いつの時代だってそれは物騒だと思うのだが」
「そうかもね。でも、こっちから居所なんて掴めるはずも無いし。向こうが何かしらアクションを見せるまでこっちは何も出来ないわね。……こういうの、あまり好きじゃないわ。
……ところで、その謎の世界……澪の言うところで言うと、『アカシャの写本世界』というやつ。そこに居た人物というものが気になるわね……」
「遠坂、死んだ後も固有結界だけが残るということはあるか?」
問うたのは士郎さん。固有結界持ちとあっても、人の固有結界のことまでは分からないらしい。それも道理だ。千差万別、人によって全然様相を異にするからこその『固有』だろう。
遠坂さんはその質問に真面目に考える。
「分からないわね。だけど霊魂がこの世に留まり続ければあるんじゃない? 」
「……その人物、澪子って言ったんだよな?」
「ええ。それがどうかしたの?」
「ほら、藤ねえとかと一緒に宴会やったときあるだろ? そのときにさ、会ったんだよ、その澪子という人物に。そのときのそいつ、全部知っている風だったんだ。そいつの情報を持ってくることは出来ないか?
……今思えば、既にあのときから澪の同一化魔術は片鱗を見せていたな」
「……私は全然覚えていないけれど、名案かもしれないわね……。私もあの女性には興味があるし、あそこが彼女の世界なら彼女の情報もある筈……」
「宝具級のものが無いと駄目なんじゃないの?」
「一度持ってきたことがあるなら、多分どうにかなると思うわ。やる価値は在るんじゃないかしら」
同一化魔術の真髄は戦闘ではなく知識にある。手繰り寄せる手段があるなら、時間はかかるかも知れないがあらゆることを知ることが可能なのが強みだ。
現に、アーサー王の記憶は戦闘よりもその思考と記憶のほうが役に立っていると思うほどだ。戦闘を行えば自滅必至だが、弁舌で筋肉が断裂することは無い。
「……過去を全て記録する世界、か……。そういう人物、日本史に一人居た気もするわね」
遠坂さんが漏らす。そういえばそんな人物が居たような気がするが、先入観は余計だ。
目を閉じて集中する。
――――アクセス。
探す。探す。この世界の中心となっているはずの記憶を探す。
一度引き出したことのある記憶ならば、匂いで何となく思い出せるだろうか。これも違う、あれも違うと探し回る。
(――――おやおや、何をそんなに探し回っているのやら。んん? そうか、余のことを知りたいのか。まあ、やや毛色が違うものの口寄せは成し遂げたのじゃ。合格であろ。それ、こっちに来てみるがいい)
「――――見つけた」