―――やあお嬢さん、どうして泣いているんだい? 雪のように輝く蝶が尋ねました。
「わたしの*を、とられてしまったの」
―――それは可哀想に。でも大丈夫、すぐ元通りになるさ。 蝶は元気づけます。
「でも、いたいの。すごくいたいのよ」
―――そうかい、痛いのかい。でも大丈夫、君の大好きな彼がもうすぐ来るよ。
「そうよ。だからいまのうちに、ないておくの」
―――なぜ?
「あーしぇのまえでは、えがおでいるって、きめてるの」
―――そうかい。
―――でも今の君なんかが笑顔を貼り付けて迎えても、彼は怯えるんじゃないかなあ。
―――今の君、すごく気持ち悪いもの。
「―――…あ、起きたか」
「…………」
目が覚める。
すぐそばにいたひとは、紅い―――ああ、夕日か。
アーシェからすれば宙をぼんやりと見つめているだけのようにしか見えないだろうが、桜妃は今、彼の顔を見たくなかった。―――疲れた。
「……具合は?」
無言の桜妃の頬を撫でる手は温かい。
昔はこんなふうに力の加減ができるひとではなかった。だから抱きしめられたりすると苦しくて、思わず彼の顎を額で殴ったこともあった。
…………。
…………そんなこと、あったっけ。
―――桜妃は考えるのをやめた。
「……」
「どうした、桜妃」
「……しぇ。」
「ん?」
「…お、こって、る?」
「怒ってないよ」
アーシェの撫でる手が気持ち良い。
桜妃はすり、と自分から擦り寄ると、布団から手を出して彼の指を握った。
「眠いのか、桜妃」
「ううん、ねたくない」
「寝たくない?」
「だってね、ねむるとクッキーとちょうちょがわたしをいじめるの」
「…………」
「きっと、またいじめられる」
「……なら、そのぶん
「ほんと?」
「ああ」
たとえ嘘でも、アーシェが言えば本当のことになるような気がして、桜妃は久しぶりに微笑んだ。
その微笑みに安堵したアーシェだったが、すぐに気まずそうな顔になる。何度か躊躇っていたが、桜妃が不思議そうに見つめてくる視線に負けるように切り出した。
「―――桜妃」
「なあに?」
「……引越ししようと、思うんだ」
「………。…わたしのせい?」
「ちがう」
思わず即答するもそれが余計に不自然で、桜妃はじーっとアーシェを見つめた。
あまり人付き合いが得意でないアーシェは、こういった視線による無言の圧力に弱かった。
「……その…良い情報を貰ってな。それを確かめに行きたい」
「いい、じょーほー…?」
「ああ。…俺たちの仲間と、やっと出会えるかもしれない。もしかしたお前のその眠くなる症状も改善できるかもしれない―――だから、この街から出て、俺と不思議な海に行こう」
「うみ? わたし、うみすき。いきたい」
「ほんとか?」
「うん。……でも、ここも、すき」
「………」
「………わがままいって、ごめんなさい」
「いや…俺もこの街が――案外好きだったから。気持ちは分かるよ」
「あ、そうだね…アーシェ、ここではまえよりたのしそう」
「ん?」
「うっちゃんさんとでかけるひは、なんだかたのしそう」
「………そんなことないよ」
むに、と桜妃の頬をつまむ。
昔と変わらず柔らかい弾力に、無意識のうちにアーシェは微笑んだ。
「まあ、でも……どういう結果であれ、向こうでしばらく静養したら一度ここに戻ってこようか。できるだけ身軽で行きたいし…」
「じゃあ、ひっこしじゃなくて、りょこう?」
「そうだな」
そう言って、アーシェは立ち上がった。
名残惜しげな桜妃の額を撫でると、「ちょっと待っててな」とあやした。
「飲み物と、お粥を持ってくるよ。保食から習ったから、きっと美味く出来るよ」
「しんじてる」
「………いや…やっぱそんな…期待しないでくれ」
「しんじてる」
「………うん…」
結局出てきたのは、近くの飯屋で頼んだお粥セットだった。
*
「みてみてリーヴェ!どやっ!どやっ!」
「………」
「どやっ」
「………」
「ど、どや……」
「………」
「………どや……」
一目惚れして買った薄紅色の洋服。ふわっとスカートを広げるのが楽しくて、…綺麗に見せたくて、エリエスは何度もリヴェルの前で回った。
しかしリヴェルは古くて難しそうな本を読むばかりで、チラとも見てくれない。最初ははしゃいでいたエリエスも流石に自信がなくなってきた。
そこでやっとリヴェルは溜息と共に本から顔を上げて、ちらっとだけエリエスを見た。
「君みたいな童顔にその色は似合わないよ」
「えっ」
「それに、街娘ならまだしも君じゃあそういう服は合わない。可憐に見せたければ露出しないことだね」
「えっ…」
「あとそれ水商売の女に見える。帰り道に絡まれたくなかったら着替えることだね」
「………」
素っ気ない言葉たちに、エリエスは頭を殴られたような気がした。
久しぶりに惚れ込んだ服なのに、あんまりだ―――思わずじわりと涙が浮かぶ。
それに気づいたリヴェルは「えっ」と慌て始めた。
「ちょ、ちょっと!何で泣いてるの!?」
「だっで……リーヴェが……空気読めないから…馬鹿だから…クズだから…」
「はあ?」
「これっ、気に入ってたのにぃぃ…そんな貶さなくてもいいじゃん…ちょっとは褒めてくれても…いい……うっう、うえええああああああああああ」
「ちょ、ちょ、泣かないでよ!君の声、無駄によく通るんだからっ!」
「だからあんた友だちができないのよー!ばーか!ばーか!ハゲっ…っだだだだだだ痛い痛い痛いいいい――!!」
「僕が酷い男なら君もなかなかだよ。……ほら、泣き止まないと鼻摘み続けるよ」
「うあー」
じたばたともがきながら頷くと、リヴェルは「まったく…」と呆れた顔で手を離した。
「というかね、君、普通はその上に何か羽織るものだろう」
「気に入ったのがなかった!」
「ほんとに馬鹿だな君は」
「オシャレは馬鹿になんないとやっていけないんだよ!」
「そうかい馬鹿め」
「うあー!」
「こら髪を引っ張るな!」
そう二人して騒いでいると、本が散乱している部屋はすぐに埃が立つ。
それに気づいたリヴェルは嫌そうな顔をすると、じゃれてくるエリエスの腰を掴んで椅子の上に座らせた。
「汚れたら売れなくなるよ」
「売らないもん!」
「ふうん…無駄に食費のかかるくせに節約下手な君は、いつも金がないって言っては泣く泣く服を売ってた気がするけど。断食でも始める気?」
「しないよ。だって……―――あー、…臨時収入があるから。しばらく平気」
「臨時収入?そんなのあるのに君、最近クエストの受注量増やしてるの?」
「……ょう院行かないといけないから…」
「え?」
「…び…美容院にハマってて!えへへ、最近ね、隣街にすっごい良い美容院が出来たんだよ!」
「……君ねえ。散財ばかりしてないで貯蓄したら?」
ふと靴に埃が乗っているのに気づいたリヴェルが、呆れた声とは裏腹にそっと埃を払った。
その手は、切り傷の他にもひどい火傷の痕が目立つ。
エリエスは彼の素直じゃない優しさに気づいてこっそり笑うと、「だってね」と口を開く。
「着飾れるうちに、たくさん着て、たくさんリーヴェに見せたいから……」
その声は、雫を受ける花のように、ゆらりと揺れていた。
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