祭りの翌日。なんとなく気怠い朝である。
怠さのあまり、もうこのまま起きたくない―――そう思っていたアーシェがゆっくり瞼を開けると、ニコニコ顔の
素肌が少し寒そうに見えて、アーシェは桜妃を抱いて起き上がると寝呆けた頭のままシーツを彼女に被せた。しかし間に合わなかったようで、桜妃は小さくくしゃみをした。
「起きたならさっさと服を着ればよかったのに」
「服なんかなくても、アーシェにくっついていると温かいんだもの」
「まったく……ほら、この服でいいか?」
「うん!」
箪笥から適当に引っつかんだ服を着せただけで、桜妃はとても嬉しそうである。
一人先に着替え終えた桜妃はお祭りで手に入れたリオレウスのぬいぐるみ(腹の穴はちゃんと修復された)を抱き抱えると、ベッドのすぐ近くにあるゆりかごを覗き込んだ。
「ふふふ、坊やたち。お父さんですよー」
「……お父さんって」
「あっ、見て見て!桜子が笑ったわ!お父さんっ子なのねえ」
アーシェは、袖を通そうとして一瞬止まってしまう。
しかしすぐに袖を通すと、髪を結ばずに桜妃を連れて寝室を出た。
ゆりかごには、三体の人形が横たわっている。
*
二日酔いで苦しむ受付嬢から送り出されたアーシェと桜妃、そして四人のオトモたちは渓流に着くと二手に分かれた。
綺麗な水の湧く穏やかなエリアに桜妃を置いていったアーシェの言いつけにより、せっせと採集していく桜妃とねこ丼と小梅。
クエスト内容は知らない一人と二匹は、のんびりとした時間を過ごしていた。
運がいいのか才能ゆえか、桜妃が見つけたものはどれも値の高いものか大きいものばかりである。「喜んでくれるかなあ」と笑うその手には、謎のお守りが幾つもあった。どうやら後でアーシェにあげるつもりらしい。
「ご主人様、お体が汚れてしまいましたし、そちらで洗われてはいかがでしょうニャ?」
「ああ、そうねえ」
小梅に言われて、桜妃は水辺に近寄る。まったく使うことのない弓を置き、足と手の防具を取ると、少し冷たい水に白い爪先を下ろした。
「あっ、魚」
まるで水から掬うように―――というと可愛らしいが、実際はかなりの速さで水の中から掬い上げられ放り投げられた魚を、ねこ丼は偶然キャッチした。
たった一匹で済むだろうと思っていたが、桜妃は「魚、魚、さかな…」と夢中で素手で魚を捕まえては放り投げていく。ねこ丼は必死にキャッチした。
「さかな……もうこれぐらいにしましょう」
「そうですね」
「ニャー!重…重いニャー…!」
桜妃が放り投げた魚の多くは金色である。大きな黄金の魚は、元気にピチピチと尾を動かす。
そして残りは白い魚で、「アーシェの好物なのよ」と桜妃は満足げに呟いた。
「活きがいいように、このネットに入れてから水の中に置きましょう」
「そうね」
小梅に魚を預けていると、桜妃は無邪気に両足を水に浸してぱしゃぱしゃと波を立てて遊んでいる。なんともお気楽なひとだと見守っていると、向こうのエリアから人がやって来るのが見えた。
一瞬アーシェかと思ったが、近づくにつれてまったくの別人だということに気がついた。
「……あれ、ハンター…さん、です、か……?」
まだ若い彼女は駆け出しなのか、見れば見るほど娘らしい体つきである。
しかしそれ以上に桜妃は女性らしい体つきなので、無骨な装備を身につけている彼女はとてもハンターらしく見えた。
「休憩中ですか?」
「そうニャー」
近づくハンターにねこ丼が返事をすると、彼女は「そうなんだ」と笑った。
「私も、素材採集で……あなたは何を?」
「………」
「あの……?」
不思議そうな顔をする彼女につられて、ねこ丼も背後の桜妃へ振り返った。
桜妃は水の中から動くことなく、ただジッと愛想よく声をかけてきた彼女の―――手の中にある、卵を見ていた。
彼女もそのことに気づいたようで、ぎこちない笑みを浮かべて卵を少し持ち上げた。
「え、えへへ。頑張って取ってきたんです!私、まだ大きいヤツ狩れないから…こうして地道に資金を貯めないと……」
「………」
「……え、へへ…」
「…………して」
掠れた、とても小さな声。それはねこ丼にも彼女にも聞き取れず、口の動きだけでは理解できない。
彼女は一歩近づくと、消えそうな笑みを貼り付けて「どうしました?」と尋ねる。
「どこか具合が―――」
もう一歩近づくと、桜妃がふらりと前へ出た。
美しい水面は大きく揺れて水中の光景を隠す。隠した本人の表情は分からず―――そのまま倒れるんじゃないかと思ったその時、桜妃の姿を見失う。
え、とねこ丼が目を見開く時には自分たちのすぐそばに桜妃が迫っていて、そのほっそりとした手を伸ばした。
「ころしてやる」
卵を強奪された彼女はそのまま背中から倒れる。
すると卵を片手に抱えた桜妃が彼女の腹の上に馬乗りになって、もう片方の手で彼女の首を絞めた。
「ちょっ…!な、なに……はな――――!」
暴れる彼女だが、グッと首に力を入れられてしまい引き離そうとした手が宙を掻く。
じわじわとキツく締め始める桜妃は、ねこ丼が腕を引っ張ったり叩いたりしても止まることはなかった。
「ゆるさない。ぜったいゆるさない。おまえを、ぜったい、わたしが、わたしの、わたしの―――わたしの子を」
「ひゅっ…く、……っほ、……」
「かえせ。かえせかえせかえせかえせかえせかえせかえせかえせかえせかえせかえせ……」
目が死んでる桜妃と、焦点の合わない彼女。ねこ丼はいっそ頭を殴るしかないと、腰を落とした―――その時だった。
「ガアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!」
―――その咆哮を聞き慣れたとはいえ、怯えないでいることはできない。
何より燃え滾る怒りの咆哮は、ねこ丼の心臓を止めるのに十分で、桜妃を殴ろうとしていた構えができずに土の上をごろごろと転がっていく。怒れる火竜から少し離れてやっと、ねこ丼の心臓はバクバクと―――破けそうなほど激しく鼓動を打ち始めた。
「しっかりするニャ!」
駆けつけた小梅によって木の陰に移動させられると、ねこ丼の心臓は少し落ち着いた。
それでも息を荒くしながら火竜たちを見ると、小柄のリオレイアが大地に降り立つところだった。
一瞬桜妃に気づいてびくついたリオレイアだが、すぐさま吼える。吼えるが、その目はただ一点を心配そうに見つめていた。
「―――あ、ご、ごしゅ…ゲホッ……ごしゅじんさま…!」
首を絞めていた桜妃は、ゆらりと立ち上がるとリオレイアへ近づいた。
その際に絞められていた彼女は激しく咳き込んでいたので、ギリギリ助かったようである。
しかし一人と一頭はそんなことを気にもかけず、お互い見つめ合っている。
桜妃はそのままリオレイアの前へと立つと、大事に抱えていた卵を掲げた。
「………。
リオレイアは、掲げられた卵を見て泣きそうな声を出した。
そして一度二度と愛しい子を舐めると、傷つけないように慎重に咥え―――飛び上がる。
三回頭上を大きく回ったリオレイアは、真っ直ぐに巣へと帰っていった。
「……た、助かったニャ……」
ふにゃあ、と草の上に倒れ込んだねこ丼は、またも向こうの林から何かが近づいて来るのに気づく。
今度は誰だと顔を上げると、やって来たのは―――今度こそ、アーシェであった。
「桜妃!!何もなかったか!?」
「何かあった」のがすぐ分かるひとが咳き込んで転がっているが、アーシェの目には入らないようで、駆けつけるとすぐに桜妃の体を調べていく。
そして怪我がないことに安堵していたが―――正直、ねこ丼からしたら血塗れのアーシェの方が心配であった。
「リオレイアが来ていたが、何かあったのか?何か―――……あったな」
そこで、やっとアーシェは桜妃に殺されかかった彼女に気づいたらしい。
「エリエス…だよな?」と控えめに声をかけ、上半身を起こしてやったアーシェの手を振り払い、彼女――エリエスはキッと涙の滲んだ瞳で桜妃を睨んだ。
「こ、この、人殺し!!人殺し!!!」
「………」
「ひと…おい、何があったんだ?」
怒るエリエスから隠すように桜妃の前に立つアーシェ。彼はいつの間にかそばにいた小梅に視線を向けると、彼女はありのままに伝えた。
「ご主人様が休憩中にそちらのハンター様に出会いまして、"卵"を運搬している姿を見たご主人様が……そちらの方から卵を奪った後に首を絞めました。その後リオレイアがやって来て、ご主人様はリオレイアに卵をお返しになられたのです」
「………なるほど」
息を吐いたアーシェは、怒りと恐怖に体を震わすエリエスに深々と頭を下げた。
「俺の連れがすまない。こいつはその……少し病んでいて、……時々とんでもないことをしてしまうんだ。ちゃんとこいつを見ていなかった俺の責任だ。……どうか許して欲しい」
「……っ」
「頼む」
ずっと頭を下げ続けるアーシェに、エリエスは一度桜妃を睨みつけた。そして―――「ひっ」と一歩後ろに下がる。
彼女が睨みつけた
かすれて聞き取れないその呟きだったが、どうしてかこの時だけはその唇の動きで読み取ることができたのである。
「 ま だ し ん で な い 」
それを延々と呟き続ける女に、虚ろだというのにねっとりと絡みつく瞳に、エリエスは罵る言葉も何もかも出なかった。
―――結局エリエスは、アーシェが仕留めたナルガの素材と少なくない金を握らされて、この件について誰にも秘することにしたのである。
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