私は、昔のことをあまり思い出せない。
どの記憶も、ぼんやりと滲んだ絵のように霞んでいる。音も声も思い出せない。
けれどふとした時にはっきりと思い出せたり、そのまま消えてしまうこともある。―――そんな中、アーシェのことだけはしっかりと思い出せる。
彼の名前、彼の瞳、彼の髪、彼の声。彼の好きなもの、嫌いなもの、頑張っている姿、傷ついている姿………。
私自身のこと、私の家族すらも思い出せないのに、彼のことだけは色褪せずに覚えている。だから「分からない」ものに対する恐怖は湧かなかった。
たぶん、いつか死んでしまうその時までも思い出すことが出来なかったとして、そのことに嘆くことも苦しむこともないだろう。
………ううん、ちがう。
私は、本当は、思い出したくないのだ。
断片的に覚えている忌まわしい記憶でさえ、私を死に追いやることは容易い。
記憶の中の私は「死にたい」とずっと思っていたけれど、"今"の私は生きていたい。だって"今"はとても幸せなのだもの。
アーシェが作ってくれた家具、綺麗なお花たちに囲まれ、白いカーテンから透けて差し込む陽の光は私と私の子たちを照らす。
可愛らしい家の中で、彼が帰ってくるときを穏やかな気持ちで待ち続け、彼のために食事を作る。そんな優しい時間。
帰ってきた彼と一緒にご飯を食べて、ふかふかのベッドで眠る、眠っても夢の中で会える。そんな温かい時間―――。
……だから正直、夢と現実の境がよく分からなくなるときがあるのだけど、特に気にしていない。どちらであっても幸せだから。
ときどきアーシェは辛そうな顔をするけれど、私はまだ、夢から覚めたくない……。
*
「ねえアーシェ。青いキノコを採ってきてくれたらね、お金くれるって」
「青いキノコ…ああ、あれな」
「今度、採りに行こうかなあ。一本300Zで買い取ってくれるのよ」
「………アオキノコを?」
「うん。でもね、暗いところだと真っ赤に光るんだって」
「…………
「八百屋さんの隣りにある、暗い道」
「………また通報か…」
「えー?」
今日はアーシェの休日である。
ぽかぽかする陽気の中、アーシェは新たに本棚を作るために木を切り、桜妃は(アーシェ作の)ベンチに座り、人形の服を縫っている。
そのそばには人形たちも座らされていて、ねこ丼はちょっぴり不気味な人形たちと目を合わせないよう、冷えたお茶をアーシェに届けた。
「…桜妃、お前はどうしていつもそんな話を聞きに行くんだ。危ないところには行くなと言ってあるだろう?小梅は止めなかったのか?」
「危なくないわ。だって私よりも小さな子が出入りしているもの。それに、綺麗なひとが暗い道に座り込んでいるひとに差し入れをしていたわ。きっと知り合いなのね」
「いや、それ恵んでるだけだ」
「それにね、あそこの人たちは可愛らしい子豚さんを飼っているのよ。芸もできるの。それが見たいって言ったらね、小梅が見るだけですよって」
「……申し訳ございません、旦那様……そうしないと、ご主人様が動いてくれないので」
「…はあ…いや、小梅は悪くない」
鋸を置いたアーシェは一息にお茶を飲み干すと、ねこ丼に礼を言ってグラスを返した。
「……いいか、桜妃。面白い子豚がいようが身形の良い人間が何かくれていようが、ああいう路地に住んでいる人間にまともなのはいない」
「まともなの?」
「そう。……いいか、これは偏見でも何でもなく、俺の経験から言っているんだ」
「へんけんって、なあに?」
「えっ、そこから……―――ごほん。…とにかく、ああいう薄暗いとこに住んでいる人間には近づくな。あいつらはお前を食いものにしようとしてるんだ」
「……私、食べられちゃうの?」
「ああ。…お前は一応ハンターだし、もし危険なキノコなんかを裏で流したってギルドにバレたら酷い目に遭わされるぞ。もう俺に会えなくなるかもしれない…」
「え―――」
ねこ丼は、うっすらと血の匂いがしたのに気づいた。
それと同時にアーシェも異変に気づいたようで、慌てて桜妃の元へ駆け寄ると彼女の手を掴んだ。
「何をしているんだ!」
掴まれた手には、針が深々と刺さっている。
白い指先からどくどくと流れ落ちる血にねこ丼がパニックに陥っていると、奥から小梅が救急箱を手に走る。
「馬鹿なことを………桜妃?」
「……だわ」
かすれた声に、ねこ丼含めて一人と二匹が桜妃を見る。
桜妃は目の前で顔を青くするアーシェでもなく、駆けつけた小梅を見るでもなく、誰もいない何もない空間を虚ろな瞳で見つめたまま、独り言のように呟いた。
「ひとりはいや…ひとりはいや………あそこに行きたくない…痛い……こんなの夢だわ―――覚めないと…さめないと…さめないと…さめないと…さめないと…さめないと……」
延々と呟き続ける桜妃。その姿は、不気味に映った。
ねこ丼だけでなくアーシェも小梅もその豹変ぶりに固まっていると、ネジが切れたように桜妃は倒れる―――のを、アーシェが抱きとめた。
「…………」
ゆっくり瞼が落ちる桜妃に、溜息を吐いたアーシェは優しくその背をさすった。
「……そうだな。夢だな……ごめんな…」
痛まないよう、一息に針を引き抜くと、血を拭って消毒した。
手早く止血したアーシェは慣れたように桜妃を抱き上げ、家に戻ろうと―――
「……大変そうですね」
庭に面した細い道。そこに一人の青年が立っている。
いつの頃から見ていたのだろうとねこ丼が驚いていると、アーシェは「…何か用か」と低い声で尋ねた。
「……先日の件で……ご迷惑をおかけしたので。そのお詫びに」
青年――リヴェルは大きな包みをねこ丼に手渡すと、一度頭を下げた。
アーシェはただそれを見ていただけだったが、リヴェルは特に気にせず顔を上げると一歩下がった。
そしてアーシェの腕の中にいる桜妃を見て、
「……噂通りの美人ですね。………綺麗な桜色だ」
「…それはどうも」
と言いつつ桜妃を隠すように背を向けると、リヴェルは「…あの」と控えめな声でアーシェの歩みを止めた。
「あなたは、蒼いリオレウスを見たんですよね?」
その問いに、アーシェは何も言わない。
例えこの場でどう言おうと、ギルドで少し調べれば真実が分かるからだ。
「希に見るほど大きなリオレイアと、通常より小さなリオレイア。その二頭の縄張り争いに、唐突に蒼いリオレウスが出てきたとか。そして自分に攻撃しようとしたリオレイアを痛めつけるでもなく、上手く追いやったそうですね」
「……ああ」
「それで―――小さなリオレイアを、どこかへ連れて行ったとか」
「………」
「珍しいですよね。亜種が普通のリオレイアに興味を持つなんて」
黙るアーシェに、ねこ丼はおろおろしながらリヴェルを見上げた。
「…そういえば……あの時クルペッコの呼び声に釣られてやって来たのも、リオレイアでしたね」
「……」
「あれもなかなか小さかった。……だけど、人懐っこかったですね」
「………何が言いたい」
「そう身構えないでください。……僕はハンターの知り合いが少ないので、これを機にあなたと友好を深めたかったんです。でも……お喋りの内容が良くなかったようですね」
言い終わると、リヴェルは一礼をして去っていく。
最後に一瞥したその瞳は冷えた氷のような、刃のように研ぎ澄まされたものであった。
「……へ、変なひとだったニャ……友達が少ないのも分かるってもんだニャー」
思わず呟くと、小さなうめき声が聞こえた。
振り返ればアーシェに抱き抱えられていた桜妃が目をこすっていて、呑気に欠伸までしている。
「ふあ……おはようアーシェ。朝ご飯食べる?」
「……もう食べたよ。美味しかった」
「よかった!」
アーシェの胸にすりすりと頬ずりする桜妃。
陽気な声で、「あのね」とアーシェの顔を見上げた。
「青いキノコをね、採ってきてくれたらお金くれるんだって」
「…………。…暗いところで赤く光る?」
「そう!一本300Zだって!」
「………」
「ねえ、今度採りに行ってもいい?」
「……桜妃は、そういう依頼ばかり探してくるな」
静かな声で言うアーシェに、桜妃は無邪気な笑みを見せた。
「だって、アーシェにもっと休んでほしいんだもの!」
「……え?」
ニコニコしている桜妃を見つめると、桜妃は「だってね」と口を開く。
「アーシェは、私のせいで狩りに出てばかりいるでしょう?私もたくさん狩りにでて一緒にお金を稼ぎたいけど、私、弱いから……」
「…桜妃…それは―――」
「大きなモンスターは狩れないけど、採取は得意だから。だから出来るだけいっぱいお金を貰える採集クエストを探してるの」
「……――――」
言葉を無くすアーシェに対し、桜妃はてれてれしている。
やがてアーシェ彼女の頭に額を乗せると、掠れた声で言った。
「……お前はもう、何も頑張らなくていいんだよ……」
「ごめんな」と囁いて、アーシェは辛そうな顔を隠した。
そんな二人を見て、ねこ丼は思わず「リオレイアを蹴りで撤退させたのに…弱い…?」と呟き、小梅に腹パンされた。
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