アイルーは今、ちょっとしたことで心臓がパンと破裂しそうな緊張感を味わっていた。
……いや、実を言うと苦味のある味も舌先でじわじわと味わっているのだが。
「―――ね、これきっと美味しいと思うの。ほら、綺麗な桜色だし…この前ね、この色のお饅頭を見たのよ」
だから食べて、とキノコを押し付ける目の前のハンターは、とても可憐な容姿をしている。
それに合わせた綺麗な防具からして、強いハンターという訳でもなさそうだった。
だからこそ、まだまだ子供のアイルーは目をつけたわけで、「わあ、綺麗な蝶々!」と狩りもせずに追いかけている彼女にこっそりと近づいていたのである。
彼女はまったく盗人の気配に気づかず蝶々を追いかけていたが、フラッと現れたジャギィが迫るのを見て、避けることも武器を構えることもせず―――スっとジャギィの尻尾を掴むやいなや、ぐるんぐるんと振り回してぶん投げたのである。
投げられたジャギィは打ち所が悪かったのかピクン…ピクン…と弱々しく痙攣を起こしており、素手で半殺しにした彼女は危なっかしい手つきで剥ぎ取りナイフを取り出した。
アイルーは狩人のその姿に、「えっ、まだそいつ死んでないですやん!生きたまま剥ぎ取らんでもええやないですか!」と震えてしまったためか、恐怖から持っていた得物を落としてしまった。すると彼女の足は止まり、幼いアイルーに気づくと微笑みを浮かべて抱き上げたのである。
「まあ可愛らしい」
ニコニコしながら言うものだから、アイルーは必死に笑顔を浮かべ、可愛らしい仕草をして媚びた。媚びればジャギィの二の舞にはなるまいと考えたのだ。
その考えは正しかったようで、彼女はジャギィを放り出し、アイルーに夢中になった――挙句に、謎のキノコを押し付けてきたのである。
「いい匂いがするのよ」「お花みたいな色をしてるでしょう」と言う彼女の顔に悪意はない。悪意はないがそれだけに質が悪い。無邪気に毒見をさせようとするなんて怖すぎる。人間ってなんて恐ろしいんだ…! と震えていたのが冒頭である。
アイルーの口に、桜色のキノコからニキビのように吹き出す赤いものがねちゃりと付き、猫なのに鳥肌が立った。そんな時だった。
「桜妃《さき》。何をしているんだ」
可愛さ重視の装備を身に纏う彼女に対し、声をかけてきた青年の装備はちゃんとしたものだった。
どことなく禍々しさを感じるものの、その表情は静かで瞳を見ればわずかに呆れているのが分かる。どうやらふわっふわしている危ない彼女と違って真っ当な性格をしているようだ。
「子猫いじめなんて、誰かに見られたら面倒なことになる。殺るならさっさと殺れ」
「ふびぃぃぃぃぃぃ!?」
キノコを押し付けられ、喋れないアイルーは悲鳴を上げた。
この拷問めいたことを「いじめ」と言うのか。そして殺す気マンマンなのか…―――震えるアイルーを見つめたまま、青年は毒の滴る剣を抜いた。
その毒に強いモンスターの血の匂いも嗅ぎ取って、アイルーは二人が採集ツアーを申し込んだわけではないことに気づく。…ということは、目の前の彼女は狩りをサボっていたのか。
「ちがうの、この子ね、お腹が空いてそうな顔をしてたから、食料を分けてあげようと思ったの」
「そうか、でもそれ食料じゃなくて毒茸だぞ」
「そうなの?」
「そう」
青年は脱力すると、抜いたばかりの剣を綺麗な所作で鞘に戻す。彼女もアイルーをそっと地面に下ろし、キノコを鞄に入れた。
「……どうするんだ、その茸。ギルドは買ってくれないし調合にも使えないぞ」
「あのね、裏通りのおばあさんが『採ってきてくれたら一本500Zで買い取る』って言ってたの!」
「そうか、戻しておいで」
「えっ、やだよ…これ、見つけるの大変だったのに……これね、すっごく美味しくて天国が見えちゃうキノコらしいの」
「うん、違うから戻しておいで」
「でも……採ってくるって、約束…」
「大丈夫、あとで俺が通報しておくから大丈夫」
「つーほー?つーほーしたらおばあさん怒らないでくれる?」
「ああ、それどころじゃないからな」
「うーん…」
なかなか常識を知らないお嬢さんである。
人間の世界のことなど深く知らない、幼いアイルーですらそう思うのだが、青年はそこを特に指摘せず、「狩り終わったから剥ぎ取ろう」と手を差し出した。
「私も剥ぎ取るの?」
「ああ、せっかくだからな」
「でも、私何もしてないよ。美味しいキノコしか見てなかったもの」
「それでいいんだよ」
青年は彼女の肩に触れ、ゆっくりと死骸の元へ連れて行く。
彼女は「キノコ、本当に捨てちゃうのー?」とキノコに対し未練タラタラで、ついには青年が無理矢理にキノコを奪って捨てた―――瞬間、どういうわけか火がついて消し炭に変わる。
そして青年は、キノコを詰めていた鞄の中にアイルーを代わりのように入れたのであった。
*
「ねえ、名前は桜餅にしない?美味しそうでしょ?」
「……どうでもいいが、いい加減食い物の名前を付けようとするのはやめてやれ」
「ていうかッ元の棲家に帰してニャー!もう解放してニャー!!」
アイルーは叫んだ。……しかし彼の声に二人はまったく反応しない。
あの毒殺未遂事件から一週間経つが、アイルーはどういうわけかあの場所から拉致され、ハンターの家で軟禁されている。
どうやら青年―――「アーシェ」というハンターはふわっふわに危ない彼女、桜妃《さき》の暇潰しの玩具として連れ去っただけのようであり、アイルーに特に仕事を命じることはない。
桜妃は気まますぎて分からないが、今のところアイルーに可愛いオトモ装備を付けさせたり食事を作るたびに試食をさせるくらいしか強要してこない。
一日中されるがまま、それか寝ているだけでも暖かい寝床と三食与えられてるのだから、案外悪くないかもしれない……と最初思っていたが、だんだん虚しさを覚えて自分から家事手伝いをするようになってしまった。
いつの間にかそれが当然のような流れになってしまい、「帰りたい」と訴えながらもアイルーはもう帰れないだろうなあと諦めてもいたのだった。
「じゃあ、アーシェはどんな名前がいいと思う?」
「……カツ丼…」
「ニャー!僕は猫であって豚じゃないニャー!」
「じゃあ、ねこ丼ね!ねこ丼…うん、ねこ丼にしましょう」
「いやニャ―――!!」
しかし、本人の訴えも虚しく、この日から彼の名前は「ねこ丼」になってしまったのである。
なお、その日の晩御飯はカツ丼であった。ねこ丼は泣きながら食って皿を洗って寝た。
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