小悪魔日記 ~悪魔に『小』がつく幾つかの事情~   作:puripoti

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第12話 空飛ぶ赤い吸血少女

 空に向かって落ちていく───

 

 ……とでも云えばいいものか。底の抜けた泥沼にはまりこんだかのような気分で浮遊するのは血潮よりも赤く夜闇よりもなお昏い《霧》の中。

 上を向いても赤ならば下を向いてもやっぱり赤で、“ぐるり”視線を巡らせたとてどこもかしこも真っ赤っ赤。こころと目ン玉に優しくない色彩の中、右も左もわからぬどころか上と下さえ見当つかぬその中を、私は得体のしれない夢うつつの気分で流されていく。

 

 それはまるで夕映えを泳ぐ雲のごとく……などとといえば少しは叙情的にもなろうものですが、実際には赤潮のど真ん中に“ぶかぶか”漂うクラゲよろしく私は泥のように絡みつく《霧》に身を任せるのでした。救いがあるといえば、この状況になんの不快感も感じないということでしょうか。だからといっても爽快感があるわけでもないのですけど。

 

 この有り様では他にやることもできることもなく、せめてもの暇潰しとして私は自分が置かれた状況についての分析をすることにしました。その分析が正しかろうが間違っていようが、何ひとつの足しにもならんのでしょうけども。

 

 確証はありませんがどうやらこの《霧》というやつ、現実の世界で起こった現象でも何でもなく私の精神面への干渉が意識下において具現化(精神世界における視覚化が正しい?)しているだけなのではないかと思われます。陳腐な言い方をするなら精神攻撃ですか。発生元は言わずもがな、あの蝙蝠。現実の私が今どうしているのかは判りませんが、できれば無事なことを祈りたい。端くれとはいえ仮にも悪魔がどなたに向けて祈りを捧げりゃいいのかはさておいて。

 

 しかしよく考えなくともかなりまずい状況に置かれているにもかかわらず、私の胸中には何ひとつの不安もありはしませんでした。とはいっても別に、いざとなったらパチュリー様が助けに来てくれるだろうなどというサッカリンをふりかけたゼリービーンズみたく甘ったるい期待をしているわけではありません。あの方にそんな温情を期待するのは子供向けカートゥーンによく出てくる悪い宇宙人に愛と平和の尊さを説くのと同じくらいの不毛さなので。あくまでも今更“じたばた”しても仕方がないのと、それ以上にこの境遇への危機感、なかんずくその対処への意欲が急速に私の中から薄れているのがその理由です。

 

 ……といいますのも、この攻撃の厄介かつタチの悪いところは、実は目に見えている《霧》そのものには何の害もないということに尽きます。人の心(私ゃ悪魔ですが)というものは本人も自覚しえない幾重の防御システムが組まれており、外からの攻撃や悪意に関してはかなりの防御力と臨機応変な対応力(ただし、それが正しい対処かどうかまでは話が別。己の首を自ら進んで絞めたがる、これもいきもののサガ)を持つのですが、この《霧》は逆に対象の精神を一切、傷つけることをせず防御ごと取り込み、外界を頑なに拒む心の殻を解きほぐしていくという、およそ攻撃とは程遠い真逆のアプローチを以って心を侵していくものなのです。

 

 …………なぜそんなもんが精神攻撃たりうるか。それは永遠に続く心の安定、あるいは安寧。それは心を持つもの総ての欲するところでもあるからに他ならぬ。

 この世は苦界、生きていくそのかぎり生きの悩みは尽きぬもの。人にかぎらず生けるものは少しでも楽な方へ傾きたがる(デストルドー、タナトスと軸を同じくする涅槃原則とはまた違った意味)。努力や忍耐だのといった自ら進んで苦労を背負い込む行為にしたところで、厭な言い方をするのならそれをしなかったがゆえの苦痛から逃れるための逃避にすぎず、結局のところ苦しいことや辛いことから逃げ出したがる奴は多くとも、安らぎや安寧から逃れたいと思う物好きはいないという結論に落ち着くのです。この《霧》はそういった、人が深層心理の奥底で渇望してやまない欲求を満たすことによって取り込んだ対象の精神を弛緩・安定に導き、そののちに捕縛したものを自縄自縛に追い込む《檻》を自らの精神内に構築するという悪辣(あくらつ)極まる精神攻撃となるのです。

 

 ………………強固な殻の内側に誰しもが抱える精神の脆弱さから心を切り崩し、捉えた対象を繋ぎ止める檻を補足した対象自身の精神によって形成。そして一度それにとっ捕まってしまったが最期、肉体はそのまま精神のみが千年万年を閲したところで飽きることもなく辛いとも感じず《霧》の中を漂い続ける羽目になる。なにせ檻と格子の役割を果たしているのは自分自身の、ここに留まりたいという、自覚しえぬ消極的願望なのですから逃げようがない。ましてや、私ごときの軟弱な精神ではどうしようもないのは当たり前なわけで───うーん……もうだめです、面倒くさくなってきた。

 

 酸欠を患ったかのように霞んでいく“おつむ”を必死に回転させてなんとか意識を途切れさせまいと粘る私でしたが、既に表層意識からはこの《霧》から逃れようという気力が失われつつありました。これはまずいかなとも思うのですが、正直それさえも“どうでもいい”と感じてしまうのが困ったことです(その“困る”ということさえ、すでにどうでもいい)。

 

 あーあ、これはもうダメかな。こんなことならあのケーキ、パチュリー様にあげたりなんかしないで食べちゃうんだった……。

 

 頭に『小』がつくけちな悪魔の身の丈に相応しい、実にしょうもない考えを最期に意識の紐をあっさりと手放した私は《霧》の奥深くへと沈みゆく。もはや二度と、浮かび上がることは叶うまい。

 

 ……はずでした。

 

   *

 

 ───ちょっと、しっかりなさい。まだ元が取れていないのだから、こんなところで“おしゃか”にならないで

 

 兎に騙されて泥船に乗った魔奴化な狸よろしく、意識の沼に溺れる小悪魔を掬い上げたのは日毎夜毎に聞いてきた《魔法使い》の声。おや、まさか助けに来ていただけるとは思ってもいませんでしたよ。

 

 私だってやらずに済むんだったら、やりたかなかったわい───

 

 微量の苦々しさがこもったその“声”に、私の意識は一本釣りのお魚よろしく急速に精神の水面から引っ張りあげられたのでした。

 

   *

 

 気が付けば、先程まで世界の隅々を染め上げていた《霧》も晴れ、私はキッチンのど真ん中でカカシかさもなきゃ人間灯台よろしく立ちん坊する自分を発見しました。

 

「お目覚めの気分はいかがかしら」

 

 顔をしかめ、こめかみを軽く押さえる私の目の前ではさも呆れたような面持ちをなすったパチュリー様がいらっしゃいます。どうも、お手数をおかけいたしまして。私はしおらしく頭を“ぺこり”と下げました。頭蓋(ずがい)と眼球の裏側には“もや”がこびりついたような感じですが、これならあと数分もすれば完全に快復することでしょう。

 

 実り多き稲穂よろしく頭を垂れた私は、そこでパチュリー様の右手に何かが握られているのに気付きました。はて、一体何でしょうか。気になったので覗きこむと、そこには例の真っ赤な蝙蝠が。それを目にした途端、私の視界が再び紅色に染まり……。

 

「しっかりと《抵抗》をなさい。さもないとまた、あっという間に喰われるわよ」

 

 ふぎゃあ。

 

 静かな叱責の声が響くや脳天から背筋を通って足の爪先までをまるで高圧電流でも流し込まれたかのような衝撃が突っ走り、私は水をぶっかけられた野良猫よろしく情けない悲鳴を上げて今度こそ“しゃっきり”と覚醒したのでした。もっとソフトな起こし方もあったでしょうにあえてこのように乱暴な方法を採ったのは、不肖の《お使い》へのお仕置きも兼ねているからに違いない。

 

「情けなや」

 

 安楽にぶっ倒れることさえ許されず、爪先立ちになって悶絶する私へ浴びせかけられるのは心底から呆れ返ったようなため息でした。

 

「相手が悪いとはいえたかがこのくらいで“もっていかれる”とは、『小』が付くとはいえ仮にも悪魔、それも《魔法使いの弟子》がそんな体たらくでなんとする」

 

 静やかながら有無を言わせぬ叱責に、私は身を縮こまらせるしかありませんでした。おっしゃるとおり、返す言葉もないのなら面目次第もございません。

 

「これに懲りたら、少しは心を入れ替えて修練に励むことよ」

 

 いっそのこと私が自ら鍛え直してくれようか。口調こそ冗談めかしているものの、パチュリー様は割と本気のようです。なにせ目がこれっぽっちも笑っていない。

 自業自得とはいえお世辞にも薔薇色とはいえなさそうな未来図にしょげかえっていると、パチュリー様のお手元から“きぃきぃ”という耳障りな音が聞こえてきました。例の蝙蝠です。そこに聴き間違えではない嘲弄(ちょうろう)の響きを受け取った私はあるったけの恨めしさを込めて“そいつ”を睨みつけました。もちろん今度こそ“へま”をしないため《目》と意識に魔力のコーティングをして。

 

 私の視線を真っ向から受け止めた蝙蝠は、一瞬だけ小首を傾げるような仕草をしたあと、微かに身体を震わせました。

 

「笑ってる」

 

 でしょうね。どこまで人を(悪魔ですけど)コケにすれば気が済むのやら。私が眉といわず顔を全体を岩塩でも口に含んだような形にしかめると蝙蝠が身体の震えを増しました。これが人間なら含み笑いを噛み殺しているといったところですか。なんて憎ったらしいんでしょう。

 

「少しだけ感心もしてるみたいだけどね。“こいつ”と真っ向から目を合わせる奴も、最近じゃおらなんだし」

 

 その言い様に引っかかりを覚えた私はこころもち眉根を寄せた視線をパチュリー様へ移しました。もしかするとその蝙蝠殿のことをご存知なのですか。

 

「まあね」

 

 短く応えたパチュリー様は蝙蝠を“そっ”と、胸のあたりで抱くようにして持ち上げ、その頭や喉元を優しく撫で付けました。

 

「“こいつ”は私の古くからの友達でな」

 

 より正確にゃその“かけら”だけど。囁くようにして語るパチュリー様の細くしなやかな手指が触れる度、蝙蝠はむずがるように身を捩らせるのですが、手の主は気にもせずまるで大事にしている人形とのごっこ遊びに興じる少女のような手つきでそれを撫でさするのでした。もっともこの方の場合、たとえ幼少期においてでさえそんな愛らしい行為とは無縁だったことでしょうが。

 

「いずれ折をみて紹介するつもりだったのだけれど、こんな形になるとはね」

 

 パチュリー様が言うには、ここに引っ越しをする前の“ねぐら”のときから招待をしてあったとのことです。招かれないかぎりは向こうからやってくることはないのだとも。おかしなことをおっしゃる。そんな律儀さ奥ゆかしさをお持ちの方が、初めて会う相手に向けて“のっけ”の挨拶で精神攻撃なんぞかましますかね。皮肉混じりの疑問のどこがツボにはまったのか、パチュリー様は“くすり”と、不意をつかれたような笑みをこぼされました。

 

「ああ、それには同意するわよ。面の皮の厚さと“ふてぶてしさ”に関しちゃ右に出るものがいないやつだから」

 

 パチュリー様に太鼓判を押されるとは相当なものですね。

 

「“ついで”でよければ、あなたにも押してやろうか」

 

 付け加えるところによれば、招かれねば来ないのではなく《来られないという決まり事》なのだとかで、それがゆえに自ら破ることは出来ないのだそうです。ああ、そういうことですか。知らぬものが聞けば奇妙なこととしか思えない一言に思い当たるところがあった私はそれ以上は何も言わずうなずきだけを返しました。

 

 しかし、まさかにパチュリー様のお口から御友人などという言葉が飛び出してこようとは思いませなんだ。私が正直なところを口にすると、パチュリー様は器用に片眉を上げてみせました。

 

「あら、そんなにおかしな話?」

 

 おかしいとまでは言いませんが意外ではありますね。“なんだかんだ”で世紀をまたいでのお付き合いをさせていただいておりますが、これまで我が雇い主、孤高の魔女たるパチュリー・ノーレッジにおかれましてはお仕事上での付き合いを除けば他人の影なぞ見当たらず、それどころか“ここ最近”にいたってはその付き合いさえも《お使い》に放り投げている始末。それがなんということか、古くからのご友誼を結ばれたお方がおられようとは。いやはや、世の中はまだまだ未知と意外と喫驚とにあふれているらしい。

 

「回りくどい形で馬鹿にされているように聞こえるのだけれど、気のせいかしらね」

 

 気のせいですね。そうでないなら感覚機構(器官ではない)の故障ではないかと。折を見てのオーバーホールを強くお勧めいたします。常人ならば背筋も凍る流し目(比喩表現ではなく、魔力で《抵抗》していなければ実際にそうなっていた)を送られた私はしかつめらしい態度で首を横に振りました。

 

 それでなくとも私のごとき木っ端な悪魔風情が、偉大なる《魔法使い》パチュリー・ノーレッジを嘲弄の的にするなどという身の程知らずな所業なぞ、畏れ多くてとてもとても。私がそう言うや、パチュリー様の手の内で為すがままにされていた蝙蝠が“きぃきぃ”と甲高い声で鳴く。さながら悪童が囃し立てるようなその鳴き声にパチュリー様は舌打ちをしたそうな顔をなさりました。

 

「やっぱり馬鹿にしてるじゃない。後で憶えてらっしゃい」

 

 気を悪くした様子も束の間のこと。脅すような台詞を投げかけながらも、パチュリー様は薄い唇を自虐と皮肉をブレンドしたような形に吊り上げられていました。

 

「……しかしまあ、(しゃく)ではあるが間違ってはいないのか。なにせ《魔女》だ《悪魔》だなんて気取ってみたところで、所詮、《ファンタジー》に足突っ込んでいるような輩は“どいつもこいつ”も、根性曲がりという名の骨格に偏屈の血肉をまとわりつかせた連中ときたものだ」

 

 私の目の前にいる奴やあなたの目の前にいる奴、それと私の手の内にいる奴がそうであるようにね。ご自分のことさえ例外としないのがこの方の数少ないよいところ、あるいは数多くある救われないところなのかもしれません。それでその根性曲がり様の御友人が一体全体、私なんぞにどのようなご用があったというのでしょうね。こんな“ちんけ”な小悪魔風情に、興味を惹かれる何物もないと思いますが。

 

「用はあくまでも私によ。あなたに“ちょっかい”をかけたのは、行きがけの駄賃みたいなもんだとさ」

 

 そんな理由であんな目に遭わされちゃ、こちとら堪ったもんではありませんよ。どっと疲れたような気分で“ぼやき”を吐き出さずにはいられませんでしたが情けないとは思うなかれ。わけもわからず不気味空間に拘束されるわ叱責は喰らうわ折檻はされるわ、まさしく踏んだり蹴ったりという言葉の総天然色見本になっちまいましたもの。

 

「それはあなたの油断と精進不足が招いた、云わば自業自得でしょうに」

 

 ご主人様には鼻で笑われることさえなく一蹴されてしまいましたが。まったくもって、おっしゃるとおりで。もはや“ぐう”の音も出ません。殊勝な態度で肩をすくめる私をそれ以上は追求せず、パチュリー様は手にした御友人(“人”の形さえしてないですが)へと視線を移されました。

 

「さて、前置きはここまでにして……そろそろ本題に入ろうかしらね」

 

 ───とても友達に向けるものとは思えない目を。

 そこに込められたものがはたして何であったか。我知らず後退る私のことになぞもはや構うことなく、パチュリー様は手にした蝙蝠をご自分の鼻先にまで近付け、言い聞かせるようにつぶやかれました。

 

「さっきも言ったとおり以前から再三再四、招いてはいたの。でもね……」

 

 だというのにあなたときたら“なしのつぶて”、顔を見せるどころか便りの一つも寄越しゃせんときた。先ほどまでの親しみを込めた雰囲気はどこへやら。息を呑む私の目の前で、声と視線の温度がみるみるうちに下がっていかれる。

 

「ようやっと足を運んできたと思えば、やって来たのは欠片のみ。しかも真っ先に会うべき私を無視とはどういう了見かしら」

 

 人の《お使い》にいたずらをしかけるのもいただけない。いまだ未熟とはいえ、相応に手間暇と元手がかかっているのよ、この子には。室内に小さく、それでも不思議に朗々と響く《声》。気が付けば吐く息を白く染めるほど冷え込んだ室内の温度よりも、耳孔から脳髄の隅までを侵すようなその声にこそ私は総身を震わせました。

 

「挙句、久方ぶりに会う友人へ土産もよこさず、持ち込んできたのは無茶な頼みときたものだ」

 

 ───そりゃあ、私でなくとも腹は立つわな。

 

 脳天めがけて氷の杭を打つような一声とともに、パチュリー様の華奢な掌に眩い光が灯されました。うわ、今度はなんですか。とっさに私は半眼に閉じた目の前へ手をかざし、光を遮りました。ちょっとやそっとで壊れてしまう人のそれとは違い、私の目ン玉というのはサーチライトの直撃をくらったところで“びく”ともしないのですが、この光は普通のものとは違うらしい。人の手になる無機質な輝きと一線を画す、優しく柔らかで暖かな、故に夜闇の住人にとってはひどく居心地の悪いその光、これは……。訝しむ小悪魔の耳に、魔女の静かな声が届きました。

 

「ずいぶんと前に採集しておいた陽光よ。まだ《幻想》が世に幅を利かせていた頃の年代物だけど、家具でもワインでも時代を経たものの方が価値が付くそうな」

 

 効果のほどは今から“こいつ”が保証してくれる。“こいつ”というのが何であるかは言うまでもありません。魔力を遮光フィルター代わりにした眼でパチュリー様のお手元を探ると、なんとあの蝙蝠が強酸でもぶっかけられたかのように白煙をあげて溶けていくのが視えました。

 

 うへぇ、視るんじゃなかった。小心者の小悪魔の口が小さく、お世辞にも品があるとはいえない声を漏らしてしまったのもしかたなし。全身を焼け爛らせ煙さえあげながら“ぐずぐず”と溶け崩れていくのそのさまは、真っ当な人間が目にすれば1週間くらいはご飯が不味くなりそうな光景です。

 

 これだけでも大概、気色の悪い絵面ではありますが、なによりもおぞましいのはそんな目に遭わされて尚、かの蝙蝠は苦しがる様子を見せるどころか、身動ぎさえせずに“ぎちぎち”と、実に愉快そうな響きの鳴き声を立てているということでしょう。痛いとか苦しいとか思わないんでしょうか。それともこの程度では音を上げるどころか屁でもないということなのか。蝙蝠氏(蝙蝠嬢かもしれませんが)の出自を考えれば、総身を苛む痛苦がどれほどのものとなるかは推して知るべし、だのにそれを受けてなお笑っていられる精神性とはいかなるものか。あらためて怖気をふるう私とは正反対に、パチュリー様はいつもどおりの静謐な表情のままでつぶやかれました。

 

「さすがにしぶとい」

 

 しかしそうでなくてはね、これくらいで音を上げるような奴が友達だなんて願い下げだもの。言葉と態度こそ酷薄としかいえないものの、そのお声とお顔にぬくもりが戻っているのを私は見て取りました。具体的な温度で云うなら液体水素がドライアイスのそれにまで温もったくらいでしょうか。私としましてはそろそろ体と保護の魔力が限界に近いので、お部屋の温度も多少なりとも“ぬくい”ものに戻してほしいところなのですけど。

 冷気に耐えかね両の腕で体を抱きしめながら震える私の胸中も知らず、口元をこころもち、それこそこの方をよく知らない人が見ればルーペでも使わないことには判らない程度に緩ませたパチュリー様が、口調を優しいものに変えて囁くように言われました。

 

「最後に、今日は来てくれてありがとう。ささやかなお礼として今度は私が訪ねに行く。あなたの目論見通りに、ね」

 

 ───首を洗って、待っててらっしゃい。小さく告げるや白く華奢な両手に力が込められ、かの蝙蝠は“くしゃり”と、読み終えた手紙が処分されるように捻じり潰されてしまいました。身体強化と自己改造の果てに外見はさておいて中身はもはや生物としての名残さえ留めぬパチュリー様の《お身体》は、その気になれば建設用重機とおしくらまんじゅうができるほどの身体能力を誇っているのです。もっとも、ご本人は“その気”になることがありえない上に筋金入りの出不精ものぐさ引き篭もりときたものですので、いまのところは宝の持ち腐れという言葉のいい見本でしかありません。

 

 ささやかな抵抗もせずにひしゃげた蝙蝠は、それを見て思わず“うげ”と呻く私とは対照的に、無様な悲鳴をあげることも汚らしく臓物を撒き散らすこともせず瞬く間に灰と化し光と空気に溶けこむように消えてしまいました。

 

 安っぽい俗悪スプラッタ映画さながらの光景を予想していただけに拍子抜けしていると、蝙蝠の最期を見届けたパチュリー様が軽く手をはたかれました。両手に残る“なごり”を打ち消すようなその所作を合図に、室内を満たしていた光と冷気も消え失せます。そのおまけとして魔力の余波と急激な温度変化とについていけなくなったらしい台所の器具や調度品の数々が、破裂したり砕けてしまったのはまあご愛嬌といったところですか。魔力で身体を保護していなければ、私もそれと運命を共にする羽目になっていたことでしょうけれど。

 

 ですが根本的な理由はさておいて、ひとまずはこれで一件落着というところでしょうか。目眩を起こしそうなほどの状況の変化から解放され、安堵した私は疲労感を多く含んだ息を吐きだしました。まったく、なんという急展開に次ぐ急展開。最近流行りの大きな鉄砲と大柄なマッチョと大げさな暴力シーンと大爆発が内容の9割方を占める脳天底抜け超大作アクション映画(これはこれで嫌いではない)も目じゃないですね。

 

 しかしこれで大団円を迎えるのにはまだ早かった。一連のはた迷惑なスラップスティックはまだ序盤でしかなかく、その終わりの一幕がどさくさ紛れに開けたことに私はこの時気付いてもいなかったのです。

 文字通りの意味で一息つく私の前で、何事か考え事をしていたパチュリー様は静やかな声でおっしゃいました。

 

「少し、《外》に出かけてくるわ。長くかかるだろうから、帰ってくるまで留守をお願いね」

 

 心ここにあらずとつぶやかれたそれは、私への言付けと云うよりもここにはいないどこかのだれかに告げるようにも聞こえました。突然のことに眉を訝しさの形にひそめたのも一瞬のこと。私は二、三度ほどの瞬きをして気を取り直しました。しがない雇われ人ならぬ雇われ小悪魔としましては、主が遠く彼方のバクテリアンに声なきコンタクトをかけようが空の向こうのベルサー人に脳内電波を飛ばそうが知ったことではなく、言われたことのみを粛々とこなすのみです。

 

 左様で、それでは今から支度に取り掛かりますね。なにかお入用なものはございますか。しかし出立の手はずを整えるために私が携帯端末を取り出すのを、パチュリー様は“しずしず”と首を横に振って止められました。おや、なんでしょうか。

 

「要らないわ。着の身着のままで行くだけだし、帰ってこれぬ時のことを考えれば身も軽くしておきたい」

 

 なので見送りも結構よ。いつも通りの“さらり”とした口調に風情。変わった様子はなにもなし。ですがよく考えてみれば、この骨の髄まで出不精が染み付いた方が自ら進んで外に出るなど天変地異にも等しい一大事であったというのに(大袈裟ではない。私の目の前にいる《魔法使い》はこの閉じた世界と半ば一蓮托生なのであって、そこから出るというのは世界を捨てるのと同義である)、それこそちょいとそこまで散歩に行ってくるかのようなつぶやきであったがゆえ、その意味するところを不肖の弟子に気づかせることがなかったのです。もちろん、理解できたところで引き止める理由もなければ心配をするだけ意味もなし、ついでに義理もなしなので結果は変わらなかったことでしょうが。

 

 さいですか。では、いってらっしゃいませ。義務的に頭を下げる小悪魔を無視して、パチュリー様は床へと顎をしゃくられました。

 

「ところでそこに落ちてる鉄砲、それあなたのでしょう。拾わないの」

 

 キングリボルバーとかいったかしら。身を屈めて拾った鉄砲に傷や支障がないのを確認し、それを懐に仕舞った私は訂正しました。違います、そんな宇宙海賊の親玉が駆る秘密兵器じみた名前じゃありません。


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