月姫転生 【完結】   作:HAJI

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第六話 「選択」

「――――おはようございます、志貴様」

 

 

朝の通勤、通学ラッシュ。誰もかれもが早足に、どこか急かされるように歩いている。それは自分にとっても例外ではない。ただ違うのは自分は彼らのように急いで歩くことはできないということだけ。一定の速度を超えた速さで歩けば、それだけで危険が跳ね上がる。自分だけならいいが、他の人を巻き込んでしまうかもしれないのが一番あってはならないこと。

 

 

「……志貴様? 聞こえてらっしゃいますか?」

 

 

そんな一日の中で一番神経を使うであろう登校中に、いつもなら聞くことのないはずの声が耳に入る。雑然としている歩道の中であることもあって聞き取りにくいこともあり、一度足を止めるもそのまますぐに歩き始める。何しろ今は登校中。自分の後ろからも多くの人々が続いている。ここで立ち止まってしまえば邪魔になってしまう。加えて始業まで時間もあまりない。そのまま無駄のない、スムーズな動きで障害をすり抜けんとするも

 

 

「ま、待って下さい志貴様! どうして無視なされるんですか!?」

 

 

それは慌てた女性の声とともに防がれてしまう。正確には声ではなく、進行方向に先回りされることで。目が見えない自分にとっては最も効果的な、同時にどうすることもできない状況。妹である都古がよく使ってくる手であり、いつも前に出てくるなと注意するのだが全く聞き入れてくれないという切実な問題があるのだがそこは割愛。どうやらそのまま流そうとしたが、流石に許してはもらえないらしい。

 

 

「……いきなり前に出てくると危ないですよ。ぶつかったらどうするんですか」

「それはこっちの台詞です! 話しかけているのにそのまま行かれようとされるなんて……もしかして、耳も悪いんですか?」

「いや、全然。ただ幻聴かと思って……」

「……要するに無視されていたわけですね。ひどいです。色々と台無しになっちゃった気分です」

 

 

寸分たがわずこちらの意図を察してくれたのか、それとも本気で呆れているのか、恐らくはその両方。声色からは明らかに不機嫌さが伺える。もっとも本気ではなく、少し拗ねていると言った方が近いだろうか。直接会話をするのは八年前のあの時以来。その時とは比べ物にならない程、人間味にあふれた所作。

 

 

「……とりあえず、おはようでいいのかな。琥珀さん」

「はい、おはようございます志貴様。わたしの名前、覚えてくださったんですね」

 

 

先程までの拗ねっぷりはどこへいったのか。琥珀は花が咲いたように声を弾ませている。変わらず、自分の進行方向に陣取ったままで。どうやら自分をここで行かせてくれる気は毛頭ないらしい。強行突破することもできなくはないが、すぐに追いつかれてしまうだろう。そのまま校内にまで着いてこられれば違う意味でも厄介になる。アイマスクを外して逃げる手もあるが体の負担を考えれば避けるべき。そもそも目が見えないということになっている自分が盲学校で全力疾走など笑い話にもならない。先の琥珀の言葉ではないが、色々と台無しになりかねない。要するに自分は目の前で微笑んでいるであろう女性からは逃げることはできないということ。十七に分割したはずの白い吸血姫が通学路で待ち伏せしているのに比べれば、まだマシなのかもしれないが。

 

 

「三日前に会ったばかりですから。それに、俺のことを様付けで呼ぶのは君だけだし」

「そうでしたね。でも覚えてくださっていたのは嬉しいです。あの時は秋葉様とおしゃべりになっていましたから、てっきりわたしのことは気にされていないのかと」

 

 

本当に嬉しいのだろうか、表情を伺えない自分には分からないが少なくとも機嫌がいいのは間違いないだろう。ただ本当のところは彼女が思っているのとは違う。自分はただあの時、あえて琥珀を無視していたのだから。気にしている、と言う点ではその通りだが、向かっているベクトルは真逆の物。

 

 

「それで……今度は一体何の用ですか? 遠野秋葉は一緒じゃないみたいですけど」

「はい、秋葉様は今は学校に登校されているはずです。でもわたしが今日志貴様にお会いしに行くことは御存知ですよ」

「遠野秋葉も知ってるってことですか……?」

「はい! でも提案したのはわたしなんですけどね。内緒で志貴様にお会いした、なんて言ったら秋葉様にどんなお仕置きをされるか分かりませんから」

 

 

クスクスと楽しそうに笑いながら、琥珀は種明かしをする。その意味が計り切れず、自分はただその場に立ち尽くすしかない。きっと周りから見れば奇妙な光景だったのだろう。アイマスクをし、手に杖を持った学生服の自分と着物姿の琥珀が歩道のど真ん中で向かい合っているのだから。今更そんなことに気づき、どうしたものかと思案するのを待っていたかのように

 

 

「――――志貴様。ちょっとわたしとお茶しませんか?」

 

 

そんな男なら断ることなどないはずの誘いを口にする。もし、自分が何も知らなければきっと喜んで返事をしただろう。だが、そんな甘い話にはならない。そう、自分は知っている。識ってしまっている。目の前の女性が『琥珀』という人間であることを――――

 

 

 

 

「――――ふぅ」

 

 

溜息を吐きながら、手にある受話器を公衆電話に戻す。同時にお釣りの硬貨を手にしながらも憂鬱さは変わらない。今、自分は学校から少し離れた公園にいる。言うまでもなく、琥珀からのお茶のお誘いを受けたため。正確には受けざるを得なかったと言った方が正しいかもしれない。あのまま往来の中で立ち往生していては学校どころではない。もし有間の家であれば居留守や面会を断ることもできたかもしれないが登校中、しかも学校のすぐそばではそれも叶わない。きっとそれも計算に入れたうえで自分をあそこで待ち伏せしていたのだろう。

 

とにもかくにも今はこれからのことを考えるしかない。学校には欠席することを伝え終えた。元々目に加え、貧血や眩暈もあり学校を休むこと自体は珍しいことではないので問題ない。まさか学校に行きたい、と思うことがあるなど想像したこともなかったのだが。そんな中

 

 

「……大丈夫ですか、志貴さん? 顔色が優れないようですけど」

「っ!? 琥珀さん……気配を消して後ろに立たないでくれ」

「いえ、中々戻ってこられないものですから。もしかして道に迷われたのかと」

「……大丈夫だ。この辺はよく来るから迷うこともない。誰かさんのせいで、今日は朝から来る羽目になったけど」

「そうなんですか? その割には電話するのは手慣れていたように見えましたけど……志貴さんひょっとしてよく学校をサボられてるんじゃありません?」

「…………」

 

 

一本取ったと言わんばかりに微笑んでいるであろう琥珀の言葉に返す言葉もない。確かに学校をサボること自体は珍しいことではないのだから。だが気配を消して背後に立つのだけは勘弁してほしい。三日前もそうだが、琥珀の気配は感じ取りにくい。無意識なのか、意識的なのかは分からないが目が見えない分、そういった気配に敏感な自分ですらきづけないのだから相当なものだろう。

 

 

「そもそも何で着いてきてるんだ? ベンチで待っててくれって言ったはずだろ」

「はい。でも少し心配になりまして。もしかしたら志貴さんがそのまま帰ってしまわれるんじゃないかと」

「…………」

「あ、やっぱりそうだったんですね。ダメですよ、志貴さん。女性の誘いを受けておいて帰っちゃうなんて」

「待ち伏せして、今も見張ってる人が言えることじゃないと思うんだが……」

「志貴さんをお誘いしたのはわたしですから。ちゃんとエスコートしないといけないじゃないですか。これでもわたし、志貴さんより一つ年上なんですよ?」

 

 

お姉さんですね、と付け加えながら自然に琥珀は自分の手を取り、ベンチまで誘導してくれる。勝手知ったる場所ではあっても、やはり誰かに誘導してもらえるのは助かること。だが今の自分はそのことよりも手から伝わってくる温かさと感触に気を取られていた。思えば自分と同じ年頃の女性に触れたのはいつ以来だろうか。そんな浮ついた思考が自分でもできることに内心驚いたのも一瞬。すぐに気づく。琥珀の誘導の仕方が普通ではないことに。手を繋いで引っ張るのではなく、自らの肘を持ってもらう形で誘導する、という視覚に障害を持つ人を誘導する基本。未だ都古ですらできない(正確には都古は背が低いため)方法で琥珀は危なげなく、自分をベンチまで誘ってくれる。

 

 

「そういえば……はい、どうぞ志貴さん。お茶でよかったんですよね?」

「……ああ、ありがとう。悪いな、どこか喫茶店でも案内できればよかったんだが」

「いえいえ、わたしが無理やりお誘いしたんですからお気になさらずに。それにこの時間から学生服の志貴さんがお店に入るのはちょっと問題がありますし」

「それもそうか……ところで、そのさん付けはどうにかならないのか? 年上なら呼び捨てでいいのに」

「流石に志貴さんを呼び捨てになんてしたらわたし、秋葉様に殺されちゃいます。もし志貴さんがわたしのことを呼び捨てにしてくれるなら、二人きりの時ならお呼びしてもいいですよ?」

 

 

きゃー、というどこかわざとらしい恥じらいを見せながら琥珀はゆっくりと自分の隣に腰掛ける。あえてそこに突っ込みを入れることもせず、渡されたペットボトルのお茶を口にする。知らず、喉が渇いていたことを認識する。どうやら思った以上に自分は緊張していたらしい。それほどに意識していたということだろうか。対照的に彼女は出会ってから全く変わっていない。きっと柔らかい笑みを浮かべているのだろう。これまでのやり取りと敬語をやめることで幾分か慣れたが、それでも根本は変わらない。八年前と同じように、もしかしたらそれ以上に自分は彼女に対して、言いようのない感情を抱いている。できるのはできるだけそれを表に出さないこと、そしてこの時間を早く終わらせることだけ。

 

 

「それで……何の用で俺に会いに来たんだ? 本当にお茶をしにきたってわけじゃないんだろ」

 

 

お茶を飲み下し、一度目を閉じた後、まるで独り言をつぶやくように口にする。事実、それは独り言のように見えるだろう。自分の視線はベンチに座って正面を向いたまま、琥珀には向いていない。目が見えない自分にとって、向いたとしても意味がない。ただそれ以上にこれから先の話に対して否定的であることを示すだけの意味を込めた行為。

 

 

「志貴さんとお茶がしたかったのは本当なんですけど……でもそうですね。じゃあ単刀直入にお話させてもらいます」

 

 

そんな自分を無視するかのような態度を見せているにも関わらず、全く気にした素振りを見せることなく琥珀は自分へと向き直る。視線を感じるという経験をここまではっきりと経験したことは生まれて初めてだった。

 

 

「志貴さん、どうしても遠野の家に戻っていただくことはできませんか?」

 

 

それまでと変わらない、にもかかわらずどこか違う空気を感じさせながら琥珀は問う。三日前、遠野秋葉が自分に問うてきたもの。だが驚きはない。彼女と出会ってから分かり切っていたものだから。違うのは、彼女が求めているものが遠野秋葉とは違うであろうということ。その本当の理由を、目的を自分は識っている。

 

 

「あれから秋葉様も落ち込まれています。本当なら御自分で来られたいのに、わたしに任されたのもそうです。それに翡翠ちゃん……わたしの妹も志貴さんが戻ってこられるのをずっと楽しみにしてるんですよ?」

 

 

そんな自分の胸中を知る由もなく、琥珀は告げる。遠野秋葉と翡翠。二人の女性が遠野志貴の帰りを待ち望んでいると。八年間、叶えられなかった再会と再開を望んでいると。知らず、手に力が入る。もう分かり切っていること。それが叶わないことを自分は知っている。彼らが待っているのは遠野志貴であって自分ではない。なら、その願いに答えるべきではない。

 

 

「――――その話ならもう、三日前にしただろう。俺は、遠野の家には戻れない。目が見えない俺じゃあ遠野の屋敷では生活できないって」

 

 

それを口にできない代わりに、三日前と同じようにもっともな理由を口にする。全ての理由を度外視しても、覆すことができない根本的な問題。目が見えない、目を開けることができない自分の限界。遠野秋葉ですら反論できなかった理論武装。だが

 

 

「ふふっ、甘いですね志貴さん。わたしが何の用意もなくここまでやってきたと思ってますね。でも残念、ちゃーんと解決策を用意しているんですよ」

 

 

琥珀は全くひるむことなく、どころかむしろ待ってましたとばかりに応える。そんな予想外の反応に思わず自分も顔を向けてしまう。姿は見えないが、きっと得意げに指でも立てている琥珀の姿が容易に想像できる。まるで子供に誕生日プレゼントを渡す前の親のように

 

 

 

「――――簡単です。わたしが、志貴さんの付き人になればいいんです」

 

 

 

心底楽しげに、割烹着の悪魔はそんなヨクワカラナイことを口にした。

 

 

「――――は?」

 

 

ようやく口にできたのは、そんな言葉だけだった。時間が止まる、という言葉はこういう時に使うのだろう。間違いなく数秒、自分の思考は止まっていたのだから。それほどに虚を突かれた、予想すらしていなかった回答。

 

 

「ですから、わたしが志貴さんの付き人になればいいんです。そうすれば、志貴さんも遠野のお屋敷でも生活できます」

「そ、それは……でも、確か君は遠野秋葉の付き人だったはずだろう? なら……」

「はい。本当ならそうなんですが、秋葉様には納得していただきました。代わりに翡翠ちゃんが秋葉様の付き人になります。もっとも、どうしても翡翠ちゃんでも難しい場合にはわたしが仕事をする場合もあるかもしれませんが、安心してください。その時には翡翠ちゃんが付いてくれますから」

 

 

まるで悪戯が成功した子供のように、琥珀は既に準備している答えを提示する。その内容に呆然とするしかない。確かに可能性としてはあり得たもの。しかしまさかそんな手を打ってくるとは想像していなかった自分の浅はかさ。知識として識っていた情報から、翡翠では自分の面倒は見れないと踏んでいたものの、琥珀が代わりに付き人になるなど考えてもいなかった。そもそもそんなことをあの遠野秋葉が許すなど。琥珀の真意を何となくでは察している彼女であれば避けたい選択肢。だがそれを取らざるを得ない程自分が彼女を追い詰めてしまった、ということだろう。

 

 

「でも……そんなことになったら琥珀さんも困るんじゃないか? いきなり目が見えない人の世話なんて……」

「心配ありませんよ? わたし、何年か前に目が見えない人の介助の方法を勉強したことがあるんです。ですから歩行から食事、お風呂まで大丈夫。あ、でも付き人だからってえっちなことはしたらいけませんよ?」

 

 

めっ、と指を自分の顔に向かって突きつけながら楽しそうに琥珀は口にする。そんな冗談か本気かも分からない言葉を聞きながらもそれに反応する余裕も何もあったものではない。ただ分かるのはここに至るまでの全てが彼女の掌の上だったということ。

 

先のベンチまでの誘導もその一つ。実際のその手際を見せられた今、それに反論する余地はない。さらに加えるなら何年か前に介助の方法を勉強したことがある、という告白。だがそれも正しくは違うのだろう。

 

何年か前に、ではなく。何年も前から、が正しい。いつからなのか、どこから知ったのかは分からないが、自分が目が見えなくなっていることを彼女は知っていたのだろう。だからこそこの時のために準備をしていた。さらにそれをあえて遠野秋葉には伝えていなかったという事実。考えすぎかもしれないが、彼女であればと思ってしまう。

 

 

「それとわたし、薬剤師の資格も持ってるんです。本物のお医者さんとまでは行きませんけど、志貴さんの体を看ることもできますから、心配いりません」

 

 

知らず、背筋が寒くなる。逃げ道がなくなって行く感覚。姦計に引っかかってしまったかのような悪寒。

 

 

「……確かに、それなら生活できるかもしれない。それでも、やっぱり戻れない。俺は―――」

「記憶喪失、だからですか? 確かに辛いことですけど、でも志貴さんが戻ってきてくださることには変わりません。思い出すことができなくても、また新しい関係を作って行く、と思っていただければいいと思います。秋葉様も、翡翠ちゃんもちゃんと分かってくれますから」

 

 

まるでこちらの反論を先読みしたように、淀みなく琥珀は続ける。目が見えない、という理由ともう一つの記憶喪失という理由すら問題ではないと。彼女が今、何を考えてどんな表情をしているのか。声色は全く変わらない。聞く者を癒してくれるような、優しい音色。そのまま身を委ねたくなるような魅力がある。

 

 

「――――」

 

 

だがからこそ、恐ろしいと自分は感じた。いや、違う。その在り方に激しく嫌悪した。

 

 

光がない世界。目が見えない、ということは視界から得ることができる多くの情報が手に入らないことと同義。曰く『人は見た目が九割』という言葉があるように視覚は人間の感覚の大部分を占める。だからこそ、それがない自分はそれ以外の部分で人と接し、人を理解するしかなかった。

 

 

その最たるものが声。音、という視界と対極に位置する情報。同時に視界からでは得られない情報を得ることができる手段。

 

 

声のトーン、高さ、大きさ。間の置き方、呼吸のタイミング。気配。それが話し手の感情や心理を示してくれる。

 

 

もちろん声だけでその全てが分かる程うぬぼれてはいない。だがそれを差し引いても、目の前にいる彼女の感情も心理も伺うことができない。全く淀みなく、一定のリズムで、声の質や大きさを変えながらも、致命的に何かが欠けている。そう感じてしまうのは自分が彼女のことを『識っている』からなのだろうか。それとも――――

 

 

「ずっと遠野の家に戻っていただく、というのも大変でしょうから。試しに宿泊していただくというのはどうでしょう? ちょうど志貴さんももうすぐ一カ月ほど旅行の予定がおありのようですから、その代わりとまではいきませんけど」

 

 

瞬間、心臓が飛び跳ねた。何気ない琥珀の言葉の中に、明らかに異質な物が、あり得ない物が混ざっていたから。すぐ平静を装うも、彼女相手に誤魔化せたかどうかは怪しい。だが仕方ない。

 

 

「何で、旅行のことを……?」

「はい。先日有間の家にお邪魔した時に偶然耳にしたものですから。随分長い間旅行されるんですね。どなたか付添いの方も一緒なんですか?」

「……ああ。そんなところだ」

 

 

そう返すのが精一杯だった。旅行。言うまでもなくそれは、自分がこの街から一時的に離れるための口実。そのためにこれまでずっと準備を重ねてきた。もうすぐこの街ではじまるであろう蛇を巡った戦い。それから逃れるために。そのタイミングをずっと自分は伺って来た。正確な時期までは分からないものの、大きな目安があったからこそ。

 

遠野槙久の死。

 

それが蛇の戦いの狼煙。それが起こり、遠野志貴が屋敷に戻ることから始まる一連の事件。だからこそ、そのタイミングで街を離れることが重要だった。もし早すぎれば、槙久によって捕えられてしまうかもしれない。目が見えないと言っても自分が七夜であることは変わらないのだから。もし遅すぎても間に合わない。故に数日後に出発する予定だった。無論一人で。魔眼を晒すことになっても、離れた街のホテルに行きつくまでなら問題ない。後は閉じこもり、できるだけ目を開けない生活をすればいい。一カ月もあれば、蛇を巡る騒動も集結するはずなのだから。

 

だが恐るべきは琥珀の発した言葉。旅行のことを知っているのはあり得る。実際有間の家族には伝えているのだから。しかしその先があり得ない。

 

一カ月、という言葉。その期間を自分は誰にも告げていない。家族には三日ほど知り合いの付き添いで旅行に行くとしか伝えていない。考えられるのは一つ。自分の対して送られる遠野家からの養育費。その中から気づかれないように少しずつ三年以上をかけて自分はこの時のために貯蓄をしてきた。ホテルで一カ月生活するのを想定した上で。有間の家族ですら気づいていないだろう。にも関わらず彼女はそれを言い当てた。甘く見ていたのだろう。今の彼女は遠野家の財産管理も任されている。自分の考えなど、全て見透かされてしまっているような感覚。

 

 

「すいません、出過ぎた話でしたね。でも志貴さんにはぜひ考え直して欲しかったんです。遠野の家に戻ることに不安があるみたいですけど、大丈夫ですよ。秋葉様や翡翠ちゃんもいますから。きっと八年前みたいな事故は起こりません」

 

 

黙りこんでしまっている自分に向かって、琥珀は慈しむような声で告げる。全ての心配はいらないと。この時程、自分がアイマスクをしていることに感謝することはなかっただろう。知らず、こちらの表情を誤魔化すことができるのだから。彼女はこんな物がなくとも、表情を変える必要すらないのだろう。八年の間にそれができなくなった自分が異常なのか、それができる彼女が異常なのか。それを知ることもなく

 

 

「それに有間の家にいれば安全、とは限りませんから――――」

 

 

そんな無意識にこぼれたような琥珀の言葉によって、自分は崩壊した――――

 

 

 

 

雑音が聞こえる。暴風の中に、自分がいる。数えきれない、自分が、ここにはいる。

 

 

あんなにも求めた自分が、みっともなく、だらしなく、ただ踊っている。

 

 

いつか見た、夢のように、記録が流される。いつ始まったのか。いつ終わるのか分からない無限地獄。

 

 

――――ただ涙を流す。

 

 

この時の自分はまだ、そんな物を流すことができたらしい。そんなことができるほど、まだ―――だったのか。

 

 

『オニイ――――チャン』

 

 

そんな妹であった物の声。もう声なんて、あげることができない有様なのに。

 

 

それが悲しかった。憎かった。ただ怒りが全てを支配する。この頃はまだ、そんな熱が自分には残っていた。

 

 

 

 

『――――なるほど、さしずめお前はワタシの息子と言ったところか』

 

 

蛇が嗤う。永遠を求めた偽物がセセラワラウ。

 

 

巫山戯てる。このセカイも。自分の正体も。イミも。

 

 

こんなモノのために、―――は生きていたのか。――――のために。

 

なんて、無様――――

 

 

 

 

 

刹那、赤いセカイが見える。もう誰もいない。場所で。ソレは。立って。いる。

 

 

イタイ、と。

 

 

人形のような顔に。赤い鮮血を浴びたまま――――

 

 

 

 

 

 

「―――貴さん? 大丈夫ですか志貴さん?」

「――――っ!?」

 

 

瞬間、世界に戻ってくる。ただ急いで息をする。体面も何も関係ない。ただ今は酸素が欲しかった。みっともなく肩で息をしながら体の中の空気を入れ替える。

 

 

(今、のは――――夢? いつの?いや、あれは――――)

 

 

顔を手で覆いながら、ただ頭痛に耐える。いつもの、頭が割れるような痛みと吐き気。だがそれが今は愛おしい。間違いなく、自分が生きているという証。例え借り物の、偽物の体であっても構わない。ただここに在るだけで。そう思えるほどに先程見た幻は鮮烈だった。

 

 

否、本当に幻だったのかすら分からない。まるでそう、本当に何度もソレを体験してきたのような――――

 

 

まるで許容できない膨大な情報を受け取ってしまったかのよう。まだ自分はそれを受け入れることができない。それが何なのか。分からない。ただ分かること。それは自分が先程、選びかけた選択肢の先にある物だという直感だけ。

 

 

「本当に大丈夫ですか、志貴さん!? 顔色も、それに汗が……ベンチですけど一度横になった方が……」

「いや、いい……それよりも一つ、聞かせてほしいんだ……」

「え? 聞きたいこと、ですか……?」

 

 

何とか頭痛と吐き気も収まり、改めて琥珀に向き合う。初めのように無視する形ではなく、ただ正面から。頭には何もない。先程の夢も、頭痛も、これからのことも。考え出せばきりがないほどに自分は全てに縛られている。

 

 

「どうして君は……そんなに遠野志貴に戻ってきてほしいんだ……?」

 

 

ただ純粋な疑問。同時に自分にとっては一生付きまとって来るであろう呪い。彼女がその本当の理由を答えることがなくとも、それだけは聞いておきたかった問い。

 

 

「――――決まってます。わたしもあなたに帰ってきてほしいからです」

 

 

一片の迷いもなく、琥珀は告げる。八年前から変わらない答え。向日葵のような笑みと共に。

 

 

どんなに取りつくろっても、偽っても、残るであろうもの。それを前にしてもはや言葉は必要なかった。

 

 

言い訳はいくらでもできる。きっと遠野志貴の殻を被っている限り、自分は遠野志貴以上には動けない。世界は変わらない。

 

 

それが自分の生まれて初めての選択。

 

 

選ばないという選択肢を選んできた自分達が初めて選んだ選択肢。それが正しいのか、間違っているのかは分からない。

 

 

ただ、決して後悔はしないだろうと。

 

 

それが彼と彼女の再会。そして彼がようやく舞台に上がった瞬間だった――――

 

 

 


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