月姫転生 【完結】   作:HAJI

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第十三話 『遠野志貴』

ただ、その蒼い瞳に魅入られる。まるで見えない何かを見据えているような眼。同時に得もしれない悪寒が走る。わたしはただ、彼を前にして何もできなかった――――

 

 

 

それはもはや反射だった。わたしが都古ちゃんのことを伝えた瞬間、彼はベッドから跳ね起きた。静から動。スイッチが入ったロボットのように突然動き出す。

 

 

「志貴さんっ!? どうされたんですか!?」

 

 

そんな彼の様子に驚きながら近づこうとするも叶わない。いや、近づくことができない。彼は何も言葉を発していない。なのに、その全てが物語っていた。今、彼にはわたしが見えていない。気づいていない。何か、違うものを見ているのだと。

 

 

「――――」

 

 

無言のまま、それでもどこか鬼気迫る表情で彼は何かを探している。普段、決して晒すことのない眼を晒しながら。そんな彼をただ見ていることしかできない。理解できない奇行。一体何を探しているというのか。それが都古ちゃんのことと何の関係があるというのか。そもそも彼の部屋には探すほど物はない。私物はほとんどない。

 

 

「志貴さん……何を」

 

 

探しているんですか、と口にする間もなく彼は無造作に自らの学生鞄を手に取る。同時にその中をあさり始める。まるで盗みをするかのように。自分の物なのに、全くそこには愛着がない。ただ邪魔な物、いらない物を判別するように中にある物が投げ捨てられていく。

 

筆箱が、ノートが、教科書が。学生である彼が使っていたであろう私物。その全てを破棄していく。それでも彼は止まらない。まだ、見つからないと。彼が探しているものが見つからない、と。

 

だがふと、彼の動きが止まってしまう。今まで機械的に、無造作に動いていた彼の動きが、ぴたりと止まる。同時にわたしもそんな彼につられるように視線を向けてしまう。彼の手の中。そこには

 

 

いつかの、白いリボンがあった――――

 

 

瞬間、思わず息を飲む。言葉が、見つからない。でも、間違いない。忘れるわけが、ない。だってそれはわたしがあの時、彼に渡した約束なのだから。

 

得もしれない感情が全てを支配する。今、自分がどんな顔をしているのか分からない。ただきっと、笑みを浮かべていないことだけは確かだった。本当なら嬉しいはず。彼がそれをまだ持っていてくれたことが。例え覚えていなくても、彼がそれを持っていてくれたことだけなのに、それが例えようもなく嬉しい。なのに、何故こんなにも――――

 

 

思考を止めていたのはどのくらいだったのか。だがふと、気づく。わたしと同様に、いやそれ以上にリボンに見入っている彼の姿。でもそこには何の感情もなかった。瞳は確かにリボンを捉えている。なのに、彼はそれを見ていない。ここではないどこかに、想いを馳せるかのように。

 

 

「――――志貴さん?」

 

 

ようやくできたのは彼の名を呼ぶことだけ。本当の彼の名前ではないであろう記号。それが合図になったのか。

 

 

「――――違う」

 

 

ぽつりと、聞きとれないような声とともに彼は掌からリボンを落とした。

 

 

「……え?」

 

 

そんな声を上げるしかなかった。わたしは、目の前で何が起こっているのか分からない。ただ分かるのはリボンが彼の探していた物ではなかったということだけ。ただそれだけ。なのに、それだけではない意味が、彼の行動にはある気がした。決定的な何かが、壊れようとしている。その淵に、彼がいる。例えようのない不安。

 

 

リボンが鞄の中にあった最後の物だったのか、彼はそのまま動きを止めてしまう。だがそれは一瞬だった。

 

 

「――――そうか。まだ」

 

 

まるで何かを思い出したかのように、彼は立ち上がり部屋を出て行く。散らかった物をそのままに。まるでもうここには用はない告げるかのように。白いリボンも、床に落としたまま。

 

 

「し、志貴さん……どこに行かれるんですか!?」

 

 

一瞬、リボンに視線を向けながらもわたしは彼の後を追う。追うしか、なかった。だが彼は止まらない。どんなに声をかけても。姿を見せても。最初から聞こえていない、見えていないのではないかと思ってしまうほどに。わたしは彼には見えていない。

 

そんなわたしを振り切るように、彼はただ真っ直ぐに歩いて行く。今、彼は目を閉じていない。裸眼を晒している。だからこんなに早く屋敷を移動できるのはおかしくない。でも、それが異常であることに気づく。何故なら

 

 

(ここは……階段? でも、志貴さんはここに来たことは……)

 

 

彼が、行ったことがないはずの階段までたどり着き、そのまま二階へと上がって行ってしまったから。

 

あり得ない。彼の部屋は一階にある。二階に上がる機会など無かった。そもそも目を開けれない彼がそんなことをするわけがない。なのに一部の迷いもなく、導かれるように彼は進んでいく。その先に、自分が探している物があるのだと知っているかのように。

 

息を切らせながら彼の後を追う。それほどに彼の足は速い。一部に無駄もなく、目的地へと向かって行く機械のよう。だがようやく終着へと近づいて行く。進むごとに、わたしもまた気づく。彼がどこに向かおうとしているのか。

 

秋葉様でも、翡翠ちゃんでも、わたしの部屋でもない。彼が進んでいく先には、もう使われている部屋はない。あるのは、ただ一つ。

 

かつてのこの屋敷の主である、遠野槙久の部屋だけだった。

 

だがそんなところに行ってどうしようというのか。彼が何を考えているのか分からない。そもそも部屋には鍵がかかっている。どうやっても彼は部屋に入ることすらできないはずなのに――――

 

 

「え……?」

 

 

それはわたしの声だった。ようやく彼に追いついたと思った瞬間、彼はまるで何事もなかったかのようにそのまま部屋のドアを開け、中に入って行ってしまう。鍵を使った様子もない。ただ手でドアに触れただけ。理解できない光景に呆気にとられるもわたしは彼に続くようにその場所に足を踏み入れる。

 

知らず、息を飲む。ここは、かつての自分にとっての牢獄。今はその主はいないが、それでも事実は変わらない。

 

何よりも、ここは自分にとっては特別な場所。八年前、彼と初めて出会った約束の場所。

 

だが、その相手は共に部屋に入ってきた自分に気づくこともなく、部屋のある一画で足を止める。

 

そこは遠野槙久が使っていた机の前。それには、多くの引き出しがある。彼は目を向けながら、立ち尽くしている。いや、違う。何かを思い出しているように。

 

 

「志貴さん……?」

 

 

何度目か分からない問いかけにも無反応。だが、再び彼が動き出す。一切の無駄のない動きで彼は一つの引き出しに手を伸ばす。本当なら先のドア同様、遠野槙久の引き出しには鍵がかかっている。しかし、彼が蒼の双眼で見ながら手を触れることによって、引き出しの鍵は呆気なく、まるで最初からそうであったかのように壊れてしまった。

 

驚きの声を上げる間もなく、わたしは彼が手にしている物に目を奪われる。

 

小さな木箱。どこか年代を感じさせるもの。だがその中身を知っているからこそ、驚きを隠せない。

 

 

「――――」

 

 

無言のまま、彼は無造作にその封を切る。中には、一本の無骨な鉄の棒のようなものがあるだけ。しかしそれはただの鉄の棒ではない。

 

『七夜』

 

刻まれているその名。かの一族の得物であるナイフこそがその正体。

 

 

「志貴さん、どうして、それを……」

 

 

知っていたのか。探していたのか。わたしはその先を口にできない。

 

七夜の短刀。その存在を知っているのは自分だけのはず。遠野槙久が何故これを処分せずに持っていたのかは分からない。自らの戒めのためか、それともわずかでも罪悪感があったのか。知る術はもうない。

 

同時にそれは彼にとっては無用の物であり、意味がない物。遠野、七夜志貴ではない彼にとってはなおのこと。ただ自分はこれを彼に渡す気だった。ただ単純にこれを彼に見せて、反応を確認するために。彼が、遠野志貴に関する記憶があるのなら何か反応を示してくれるだろうという目論見で。しかしそれは彼が体調を崩したために先送りにしていた。

 

彼はただ目の前にいるあるナイフを見つめたまま微動だにしない。まるで先のリボンを前にした時のように、彼は止まってしまっている。

 

時間が止まる。わたしは何もできない。今の彼には、触れてはいけない、犯してはいけない何かがある。そう思ってしまうほど、その光景が神秘的で、危うかった。

 

だがそれは呆気なく終わりを告げる。何かを終わらせたかのように、彼は手を伸ばし、それを手に取る。しっかりと、まるで初めからそうであったかのように。

 

彼女は知らない。その選択の意味を。そこに、どれだけの想いがあるかを。知ることができない。そんなことは誰にもできない。分かるのはただ彼だけ。

 

 

リボンではなく、ナイフを。日常ではなく、非日常を。幻ではなく、現実を。

 

 

彼女は手を伸ばすも届かない。その手が触れるよりも早く、彼は部屋を後にする。彼女の元から去っていく。一度も振り返ることなく、ただその手にナイフを持ちながら。

 

 

「志貴、さん…………」

 

 

後には琥珀だけが残された。八年前と同じように、籠の中の鳥のように。違うのは、彼がリボンをもう持っていないということ。わずかな、それでも決して変えようのない程の違い。彼女は悟る。もう『彼』は帰ってこないのだと。これが、約束の答えなのだということを――――

 

 

 

 

夜の闇によって、薄暗さに包まれた路地裏を小さな少女が歩いていた。だがその足取りはおぼつかない。まるで迷路に迷い込んでしまったアリスのように、少女は出口を求めてさまよっている。

 

 

(どうしよう……道が分かんない……それに、暗くなっちゃった……)

 

 

唇を噛み、何とか流れそうになる涙をこらえながら少女、有間都古は身体を震わせるしかない。

 

辺りは見覚えのない光のない路地道。人気もまったくない。まるでお化け屋敷に来てしまったように感じるほど。普通なら、こんな時間に外に出るなんてしてはいけないこと。お母さんにも、お父さんにもきっと怒られてしまう。でも、それでもあたしはしなくちゃいけないことがあった。

 

 

「お兄ちゃん……」

 

 

お兄ちゃんを取り戻すこと。それが今のあたしのしなくちゃいけないこと。お兄ちゃんが、いなくなってしまった。遠野家に戻ってしまったことは分かっていた。でも、どうしても悲しかった。

 

お兄ちゃんは意地悪だった。いつもあたしをからかってくる。あたしを子供扱いしてくる。

 

でも、ちゃんとあたしを待っててくれた。いつも、手を引きながら。

 

目が開けれないのに、あたしの勉強も見てくれる。遊んでくれる。それが、当たり前なんだと思ってた。ずっと、それが続くんだと思ってた。でも違った。

 

お兄ちゃんはいなくなってしまった。帰らないって言ってたのに。あたしが、中学生になっても面倒を見てくれるって約束したのに。

 

うそつきだ。もうお兄ちゃんなんて知らない。きっと、わたしがいないから苦労してるにきまってる。そう思って、最初の内は知らないふりをしてた。きっと、すぐに戻ってくる。いつもみたいに、意地悪な声で、あたしを待ってくれてる。

 

でもそうはならなかった。学校の帰りにいつものバス停に行っても。家に帰っても、部屋に遊びに行っても。お兄ちゃんは、どこにもいなかった。

 

ようやくその時、あたしはお兄ちゃんがいなくなってしまったんだと気づいた。涙が流れた。泣きじゃくるしかなかった。でも、どんなに泣いてもお兄ちゃんは来てくれない。あたしが泣いていたら、必ず部屋から出てきてくれるのに。

 

きっと、お兄ちゃんは帰ってこれないんだ。無理やり、遠野の悪い魔女に連れていかれたんだとあたしは気づいた。だってそうだ。お兄ちゃんはあっちに帰りたいなんていってなかったんだから。ならあたしが助けに行かないと。いつもみたいに。お兄ちゃんを助けるのがあたしの仕事なんだから。

 

 

「ぐすっ……お兄、ちゃん……」

 

 

涙を拭きながら前を見る。でも前は知らない暗い道だけ。ここがどこかも分からない。ちゃんと地図も持ってきたのに、暗くなって、世界が変わったみたいに何も見えなくなった。

 

周りには誰もいない。夜が、こんなに怖いなんて知らなかった。夜中二階の階段を登るみたいに、怖くて足がすくんでしまう。手を伸ばしても、お兄ちゃんはいない。どうすればいいのか分からない。

 

でも、あきらめない。きっと頑張ればお兄ちゃんを取り戻せる。家に帰ってきてくれる。だから――――

 

 

瞬間、暗闇から人が現れた。スーツを着た男の人。同時にあたしは喜んだ。一人きりの世界で、ようやく誰かに会えた。恥ずかしいけど、道を教えてもらおう。そうすれば遠野の家にもきっといける。やっと迷路の出口を見つけた。

 

 

「あの……」

 

 

喜んで男の人に近づこうとした時、何故かあたしは固まってしまった。それは気づいたから。この暗闇より、あの男の人の方がずっと、ずっと怖いのだと。

 

何かが変だった。立っているのに、立っていない。あたしを見ているはずなのに、見てない。まるでお人形があたしを見ているみたい。どうしてか分からない。でも怖かった。

 

一歩一歩。男の人があたしに近づいてくる。でも、あたしは動けない。足が震えて動けない。

 

分かるのは、きっとこれがあたしの罰なんだということ。夜の街に、勝手に出てしまったから。きっと、そのお仕置き。あたしが、約束を破ったから。お兄ちゃんは言った。また帰ってくるって。なのにそれまで待てなかったあたしのせい。

 

男の手の人があたしに伸びてくる。きっと、あたしは食べられてしまうんだ。絵本みたいに悪い怪物に。でも、その前にもう一度――――

 

 

 

「――――都古!!」

 

 

そんな、いつものお兄ちゃんの声が聞こえた。

 

 

何が起こったのか分からない。ただ力任せに突き飛ばされたんだと気づいたのは、自分が地面に座り込んでいたから。転んだからなのか身体が痛く、膝は擦り剥いてしまっている。本当なら泣いてしまうほど痛かった。でも、泣かなかった。泣く暇なんてなかった。だって

 

 

「……お兄、ちゃん?」

 

 

目の前には、ずっと探していたお兄ちゃんの姿があったから。

 

でもいつもと何かが違う。いつもしているアイマスクをしていない。あれをしていないといけないはずなのに。どうして。どうしてここにいるのか。来てくれたのか。

 

堪えていた感情が溢れだす。涙があふれる。会いたかったお兄ちゃんが目の前にいる。また迷惑をかけてしまった。怒られてしまうかもしれない。からかわれてしまうかもしれない。でもそんなことはどうでもよかった。ただ嬉しかった。

 

 

「ごめんなさい、お兄ちゃん……あたし……」

 

 

お兄ちゃんに話しかける。でもお兄ちゃんはこっちを振り向いてくれない。背中を見せたまま、さっきの怖い男の人と向かい合っている。

 

そうだ。このままじゃ、お兄ちゃんも危ない。だから

 

 

「…………ここから離れろ、都古」

「…………え?」

 

 

一緒に逃げようと口にしようとした瞬間、お兄ちゃんはそうあたしに告げた。あたしは呆気にとられるしかない。お兄ちゃんが何を言っているのか分からない。だってあの怖い男の人は怪物だから。逃げないと食べられてしまう。きっとお兄ちゃんも。だから逃げないと。

 

なのにお兄ちゃんはそこから動こうとしない。まるであたしを守るように。手にはナイフを持ったまま。それが危ない物だってことは分かる。でも、それ以上に怖かった。このまま離れたら、お兄ちゃんがいなくなってしまう。せっかくまた会えたのに、また――――

 

 

 

「早くしろ、都古――――!!」

 

 

今まで聞いたことのないようなお兄ちゃんの声によって、あたしは言われたとおりにそこから走って離れていく。もう、何も考えている暇はなかった。あんなに怒っているお兄ちゃんを初めて見たから。だから、お兄ちゃんの言うことを聞いて、必死に走った。どこに向かっているかは分からない。でも遠くへ。だってお兄ちゃんは嘘は言わない。からかっても、本当に大事な時は決して嘘はつかない。だからきっと大丈夫。だから――――

 

 

都古はただ走る。振り返らずに。それが正しいと信じて。自らの兄を信じて――――

 

 

 

 

 

「ハアッ……ハアッ……!」

 

 

ただ息をする。身体に酸素を送り込む。身体が熱い。今にも倒れてしまいそうだ。今倒れたら、どんなに楽だろう。でも、できない。今はまだ、できない。

 

ただ身体に鞭打ち、右手にあるナイフに力を込める。汗が滲み、手は震えている。みっともなく、身体が震えている。

 

 

(これが……死者……)

 

 

目の前にいる人間であったモノ。それと相対することで身体が震える。知識で識っていることと、実際に目の当たりにすることは天と地の差がある。瞳に映るのは間違いなく死の塊。人間の形をしている肉の塊。魂は既になく、自らの意志もない。ただ操り主の元に生贄を捧げる愚かな操り人形。

 

 

「ぐっ……うぅ……!」

 

 

その姿と、自分が重なり、頭痛と吐き気によって震えるもその全てを力づくで押し殺す

 

自分が今、何をしているのか分からない。記憶が所々欠けている。遠野の屋敷からここまでどうやってここに来たのか。どうしてここに来たのか。どうして手に、ナイフを持っているのか。

 

まるでいきなり自分がここで目覚めたかのように、何もかもがあやふやだった。高熱に浮かされているように足元もおぼつかない。いつ倒れてもおかしくない。どうして立っていられるのか。この体は疲労困憊。動くことすら本来はできない程に疲労している。機械的に自らの身体の現状を理解する。

 

変わらず頭痛が自分を削って行く。一秒単位で、大切な何かが無くなっていく。

 

その中で、ようやく理解する。自分がここにいる理由。自分の背後で駆けていく、少女。彼女を助けるために、俺は、ここに来た。

 

だって知っていたから。あのままでは■■が死んでしまうことを。今まで、何度もそれを見て来た。自分を探すために、そんなことのために少女が命を落としてしまうところを。

 

一緒には逃げれない。逃げ切れない。共に逃げようとすれば、殺されてしまう。だから、これしかない。このまま自分が囮になって、死ぬしかない。もしかしたら、自分が死んだ後に、■■も死んでしまっているのかもしれない。それでも、やるしかない。自分が死ぬのはいい。でも、■■が死ぬところをこれ以上見るのは耐えられない。

 

 

「――――」

 

 

でも、怖い。どんなに取り繕っても、言い訳しても、死ぬことが、怖い。

 

あれだけ何度も死んだのに、死ぬのが怖い。どうしても、忘れられない。あの感覚を、恐怖を、孤独を。

 

みっとなく身体を震わせて、息を乱して、使えもしないナイフを握りながら死と向き合う。

 

もはや死など視るまでもない。点と線の区別ができない程、死者には死が満ちている。当たり前だ。死者は、死その物なのだから。

 

逃げ出せばいい。どうして自ら死に行く。そんなことをする理由がどこにある。死ぬ理由がどこにある。生きる理由がどこにある。もう自分が死んでいるのか生きているのかすら分からない程繰り返したのに、まだ足りないのか。

 

 

「――――っ!?」

 

 

頭痛と、一瞬の思考の隙を突くように、死者が襲いかかってくる。それはまさに肉食獣だった。とても人間とは思えない速度と迫力。同時に、避けることができない死の具現。

 

 

「あああああ――――!!」

 

 

ただ叫びながら、無造作にナイフを振り下ろす。狙いも何もない、純粋な抵抗。自分は捕食される者。相手は獣。だが自分にはある。相手の死を見る魔眼が。遠野志貴の体が。知識が。武器が。なのに届かない。無数にあるはずの死の線と点に、触れることが、できない。

 

 

「あっ……があっ!!」

 

 

そのまま二本の腕によって首を掴まれ、持ちあげられる。無造作に、まるで物を扱うかのように。その力は万力だった。同じヒトの形をしているのに、あり得ない暴力。もはや現実は通用しない。死者はヒトの形をしているだけ。決して、人間では敵わない。化け物なのだとようやく理解する。思い出す。当たり前だ。もう、同じように何度も死んできたのだから。何度繰り返しても、結果は同じだった。あきらめれば楽になれる。なのに、自分の体からは力が抜けない。必死に、生きようとしている。

 

 

「俺……は…………ま、だ………」

 

 

息を吐くように、言葉が漏れる。もはや呼吸ができない。首には死者の指が食い込み、血が流れる。このまま呼吸ができずに死ぬか、それとも首をへし折られて死ぬか。どちらが早くとも結果は同じ。

 

 

ナイフを持つ手に、力が失われていく。どうしてこんな物を持ってきたのか。分からない。

 

 

視界が暗転していく。死の世界が、暗闇に染まっていく。忘れることのない、死の感覚。一秒先に、自分は死ぬ。死に、そしてまた死に続ける。これまでの幾多の自分がそれを証明している。なら、今の自分も同じ。

 

 

それでも、何故か自らの左手に力を込める。持ち上げることもできず、できるのは拳を作ることだけ。でも、ない。確かにあったはずなのに。なくしてはいけない物が、あったはずなのに。

 

 

あれは、何だったのか――――

 

 

 

 

 

 

記憶と記録が蘇る。今まで繰り返して来た数えきれないほどの自分。摩耗し、擦り切れ、もうあやふやで形のない記憶の中で一つだけ。色褪せることなく、残っているモノがあった。

 

自分が生まれ、同時に殺されてしまった記憶。今まで、思い出すことができなかった原初の記憶が、ようやく始まる。

 

 

「志貴さん! こちらです……急いで!!」

 

 

上映が始まる。場所は遠野の家。主演は自分。観客も自分。道化のように、自分はただそれを見続ける。

 

何も見えない。きっと、自分が目を閉じているからだろう。聞こえてくるのは彼女の声。だがそこには全く余裕がない。鬼気迫った様はまるで今にも死に瀕しているかのよう。

 

そこでようやく思い出す。主演の自分と観客の自分が同期する。今、自分は琥珀に手を引かれながら走っている。ただ逃げるために。息を切らしながら。

 

だが賢明なのは彼女だけ。自分はまるで生気がない人形のように手を引かれているだけ。為すがまま、されるがまま。自分の意志というものが、自分には残ってはいなかった。

 

 

『蛇を殺すこと』

 

 

それが自分の存在意義であり存在理由。永遠の螺旋。死の点ですら、自分が死ぬことができないと知った時、全てがどうでもよくなった。

 

初めはそれに抗おうとした。逃げ出し、生き延びようとあがき続けた。自分がどうやっても死ぬ運命にあると悟ったのは、もう何度繰り返したか数えるのを止めた頃。自分だけではない。世界その物が、蛇によって滅ぼされてしまう。逃げ場など、どこにもなかった。

 

自分以外の誰かを期待した。代行者に事情を明かしたことも、真祖に接触しようとしたこともある。だがその全てが無駄だった。分かったのは、どうやってもこの世界は終焉へと向かうということだけ。すなわち、自分は永遠にこの螺旋を繰り返すことになる。

 

だがその永遠すら仮初だった。気づいたのは何度目だったか。繰り返すごとに、強まっていくものと、伸びていくものがあった。

 

前者は直死の魔眼。死を繰り返すと言うことは死を理解すると言うこと。『 』である自分であることもあってか、その力が増していった。見えないはずの点まで見えてくる。きっといつかは瞼を閉じていても死が見えるようになるのだろう。そうなれば、もうどうしようもない。何かによって殺されるまえに、魔眼によって自分は自我を失い死んでしまう。

 

後者が記憶の引き継ぎ。初めは遠野槙久が死んだ日に記憶が戻っていたはずなのに、だんだんとそれが遅くなって来た。何かの副作用なのか、それとも記憶の量が増えてきたからなのか、自分が繰り返している記憶を思い出すことができなくなってきている。頭痛と吐き気もそれに連動しているらしい。もし、記憶を引き継ぐ前に死んでしまえばもう自分を認識する間もなく消滅する。ただ気づかぬまま、死ぬ続ける無限地獄に落ちることになる。

 

いわば両者とも、螺旋の終着であり、同時に自分の救済。人形である自分が壊れてしまう末路。それを、受け入れるしかなかった。

 

 

 

「ハアッ……ハアッ……!! 志貴さん、ここです!! 先に入ってください……!!」

 

 

ようやく目的地についたのか。琥珀は鍵の音をさせながらドアを開ける。いつもの穏やかさは微塵もない。ただ一刻の猶予も彼女には残されていない。それを示すようにその声が、足音が聞こえてくる。

 

本来この屋敷ではあり得ない者達の足音。死者という、この世の者達にとって死でしかない存在。それが今、自分達の命を奪わんと駆けてくる。

 

だが自分は何もしなかった。何も感じなかった。こうなることを知っていたのに。ただ死を待つだけの人形が、今の自分だった。

 

ただ言われるがままに部屋へと入り、琥珀もその後に続くように入室し、間髪いれずに施錠する。ほぼ同時に凄まじい音がドアに響き渡る。まるで鈍器でドアをたたき壊そうとしているかのように。

 

 

「大丈夫です、志貴さん……ここは槙久様のお部屋で、他の部屋より頑丈に作られているんです」

 

 

自分を安心させようとしているのか、琥珀はそんな良く分からないことを口にしてくる。そんなことをしても意味がないのに。どうせ死ぬことは分からないのに何故そんなことをするのか分からない。

 

だがしばらくしてあきらめたのか、それとも違う獲物を見つけたのか。死者達の音は過ぎ去っていく。後にはここではないどこか、きっと街中からだろうか。この世の終わりを告げる鐘が鳴り続けている。何かが燃えるような、壊れるような地獄絵図。もはや視るまでもない。刻限は来た。後は、また死んで繰り返す時を待つだけ。変わらない、自分の運命。

 

 

「志貴さん、お怪我はありませんか……?」

 

 

なのに、彼女は自分を気に掛けている。何の反応も示さない自分に。意味が分からない。何故この状況でそんな風にいられるのか。そういえば、いつかどこかで同じようなことがあった気がする。あれはどこで、誰だったのか。

 

そのまま、時間だけが流れる。ここには自分と琥珀だけ。この部屋に中で二人だけが取り残されている。ふと、思い出す。そういえば、八年前も同じように二人でここにいたような気がする。

 

互いに囚われ、逃げ場のないこの鳥籠の中に。違うのは、自分が目を閉じていることぐらい。他は何も変わっていない。自分も、彼女も。八年前と何一つ。何もかもが無意味で無価値。

 

自分の手には二つの物があるだけ。白いリボンとナイフ。どちらも自分の物ではない借り物。使うこともなく、返すこともなく、ただ捨てることもできず持ち続けている物。遠野志貴の殻を被っているからこそ手に入れてしまった無駄な物。

 

 

「―――志貴さん、覚えていますか? わたし達、ここで八年前に会ってるんですよ?」

 

 

静かに、まるで噛みしめるように琥珀はそう口にする。いつも通りの、聞く者を癒すような声。なのに、どこか言葉を選んでいるように自分には感じられた。

 

自分は何も答えない。答える意味もない。肯定も否定もせず、ただそこにいるだけ。だが琥珀に戸惑いはない。初めから自分が返事をすると思っていなかったのか、それとも。

 

だがどうでもいい。彼女が何を考えているかも。自分は既に知っている。彼女は自分が遠野志貴ではないということを知っている。いつかの公園で、彼女自身が、この彼女ではない彼女が言っていた。それが今更何になる。自分が偽物だと暴きたいのだろうか。それとも自らの復讐に自分を利用したいのか。好きにすればいい。結果は変わらない。なのに

 

 

「――――わたし、あなたにフクシュウするために八年間、生きてきたんです」

 

 

彼女は独白する。告白する。何の感情も感じられない声色で。彼女は自分への呪いを口にする。

 

まるで犯人が自供するように、聞いてもいないのに、彼女は全てを明かす。

 

 

「わたし、ここであなたに会った時に驚いたんです。だって、志貴様だと思ったのに、全然違う男の子がやってきたんですから」

 

 

自分の反応を見ているのか、それとも何も考えていないのか。琥珀はまるで目の前で当時を思い返すように語り始める。

 

 

「だから聞いてみたんです。あなたが志貴様ですか?って。でもあなたは違うと答えてくれました。今考えるとわたしもおかしいですね。そんな話をすぐに信じてしまったんですから」

 

 

クスクスと笑いながら、彼女は続ける。彼女がどんな顔をしているのかは分からない。でもきっと、笑っているんだろう。目を閉じていても、それは分かる。同時に彼女が何を言おうとしているのかも。

 

 

「――――遠野志貴を殺した、俺への復讐か?」

 

 

今まで決して出すことのなかった言葉で、彼女へと問う。驚きもない。悲しみもない。あるのはただ単純な確認。いつかの公園でもした問い。彼女は言っていた。フクシュウが自分の目的だと。遠野志貴を殺した自分へのフクシュウ。そのために彼女が生きてきたのなら、叶えてやってもいい。どうせ死ぬことは変わらない。誰に殺されようが、関係ない。殺すと言うのなら黙って殺されてやろう。だが

 

 

「……? いいえ、違います。確かにあなたにフクシュウしたいのは本当ですけど、それに志貴様は関係ありません」

 

 

琥珀は本当に自分が何を言っているか分からない、と言った風に答える。だが同時に初めて自分の中に疑問が生まれる。一体彼女が何を考えているのか。それ以外に、自分に復讐理由など彼女にはないはずなのに。

 

 

「……どういうことだ。君は、遠野志貴が好きだったんじゃないのか」

「志貴様を……ですか? どうでしょうか。わたし、好きってことがよくわかりませんから。ただ、窓を見下ろしても、もう志貴様がいないことに気づいた時は、よくワカラナイ気持ちがしましたけど……別にそれであなたを恨んだりはしていません。そんな資格は、わたしにはないですから」

 

 

淡々と、それでも未だに掴めない何かがあるのか彼女は自らの心の内を明かす。言葉にすることで、自分の気持ちを確認するかのように。そうしなければ、自分ですら理解できないかのように。

 

 

「だから、あなたにフクシュウするのはあなたがわたしを壊したからです」

 

 

琥珀は明かす。その理由を。八年前から続く、自分が生きてきた理由を。

 

 

「あなたが志貴様じゃないって分かったのは、あなたがそう言ったからだけじゃないんです。あなたは、わたしと同じだと思ったから」

「…………同じ?」

「はい。あなたは人形でした。この部屋に連れてこられてから、わたしに気づくこともなく、そこにいるだけ。何も見てませんでしたし、何も聞いてない。わたしよりも、ずっと人形らしい人形でした」

 

 

それに返す言葉はない。何故ならそれは事実だったから。あの時の自分は、ただの人形だった。今の自分と同じか、それ以上に。琥珀から見てそうだったのなら、間違いなくそうだったのだろう。でも分からない。それがどうして、彼女を壊すことになるのか。

 

 

「わたしはきっとあの時、嬉しかったんだと思います。わたしと同じ人がいるんだって。だからきっと、わたしのことを分かってくれるだろうって」

 

 

同じだから、と彼女は言った。だから彼女は嬉しかった。自分と同じなら、きっと自分を分かってくれる。理解してくれる。肯定してくれる。そうすれば、ひとりぼっちでなくなる。そんな子供の思考。

 

 

「でも、あなたは急に苦しそうに蹲ってしまった。そこで気づいたんです。あなたはまだ、知らないんだって。人形なのに、自分が人形だって気づいてないんだって。だから、教えてあげないとって思ったんです。自分が人形だと思えば、イタくないって」

 

 

だからこそ、彼女は自分に教えてくれようとした。人形になればイタくないと。まるで自分が知っている知識を見せびらかす子供のように。そうすれば、自分を認めてくれると信じて。だが

 

 

「でも、あなたはそれを聞いてはくれませんでした。それどころか、よく分からないことを言って来たんです」

 

 

そこに、わずかな淀みがある。今まで感情を感じさせない彼女の言葉に初めてノイズが混じる。同時に、自分の脳裏にも蘇る。まるで、長い間思い出すことができなかった。思い出すことを拒んでいた記憶が。言葉が。

 

 

「『そんなことをしても痛みはなくならない。わたしは人間だから、人形にはなれない』それが、あなたの答えでした。おかしいですよね。人形のあなたから、そんなことを言われるなんて。わたしはただ、そうだって言ってほしかったのに……あなたは、真逆のことをわたしに突きつけました」

 

 

明確な拒絶と否定。同時にそれは彼女がようやく見つけた生き方の否定でもあった。

 

 

思い出す。それは、否定ではない。ただの嫉妬であり、事実。

 

 

ただ羨ましかった。妬ましかった。人間の、自分がある彼女が。同時に許せなかった。自分が必死に人間の振りをしてるのに、人間のくせに人形になろうとしている彼女が。

 

 

「それから、あなたは何も言わなくなりました。わたしも、何も言わずにただそこにいるだけ。でも、ずっと分かりませんでした。あなたが何を言っているのか。わたしは人形なのに、どうしてそんなことを言うんだろうって。あなたは人形なのに、どうして人間になりたいのか」

 

 

琥珀は理解できなかった。人形の方がいいのに。イタくないのに、どうして人間になりたがっているのか。そんなこと、できるはずがないのに。でも、もし本当にそんなことができるのなら。もしかしたら――――

 

 

「きっと、八つ当たりだったんだと思います。わたしはあなたを認めなくない一心で、一番のお気に入りのリボンを渡しました。もう、覚えていないかもしれませんけど」

 

 

『もし、あなたが人間になれたら、わたしも――――』

 

 

それが彼女の抵抗であり、願い。もし自分が、人形である自分が人間になれたらリボンを返してほしい。自分ができるなら、彼女も人間に戻るから、と。

 

 

「あなたが有間に預けられてから、わたしはずっと人形として生きてきました。そうすれば、イタくなくなりましたから。でも、違うんです。あなたの言葉を思い出すたびに、イタくなるんです。せっかく人形になれたのに、あなたのせいでわたしは、イタく、なる」

 

 

彼女は告げる。イタいと。せっかく人形になればイタくないと分かったのに、自分のせいでそれがおかしくなると。壊れてしまうと。

 

 

「なのに、八年ぶりに会ったあなたは別人みたいに変わっていました。本当に人間になれたみたいに。わたしはあんなにイタかったのに、あなたは楽しそうにしている」

 

 

八年ぶりの再会。そこで琥珀は目にする。自分を壊した相手が楽しそうにしているのを。そのせいで、自分が壊れてしまったのに。気づくこともなく。気づいて、欲しかったのに。

 

 

「だから思ったんです。あなたにフクシュウしようって。人間の振りをしているあなたを、人形に戻してやろうって。初めは遠野の家にフクシュウするために動いていたはずなのに、いつの間にか、あなたへとフクシュウの方が、わたしの中で大きくなっていたんです」

 

 

それが理由だった。八つ当たりでしかない、馬鹿馬鹿しい理由。それでも彼女にとっては、自らの存在理由に足る答え。初めのフクシュウが、いつの間にか違う物にすり替わってしまう程に。

 

 

「わたしは、本当にあなたのことが憎かったんだと思います。あなたがやってくるのを待っている間、ずっと考えていたんです。どうやってフクシュウするか。同じ目に合わせてやろうかって。八年前の約束を突きつけて、あなたを絶望させてやろうかって」

 

 

琥珀は思い出す。彼が下りてくるバス停の前で待っていた時のことを。ただ待ち続けた。本当なら有間家に直接行きたいのを我慢して。ただ彼を待ち続けた。フクシュウするために。

 

 

「なのに、おかしいですよね。あなたを見た瞬間、全部どうでもよくなっちゃったんです。何でそんなことを考えてたのか。そもそもフクシュウすることも、わたしはずっと忘れていました。何ででしょう。わたし、は、ずっとそうしようと思って、動いてきたのに――――」

 

 

反転する。憎しみが、反転する。いや、そもそも彼女の感情は反転すらしていない。これはただの間違い。彼女は、自らの感情の正体を知らなかっただけ。

 

 

かつて蛇が姫君への感情を堕落だと誤解したように、彼女もまた自らの感情が違うものであることに気づかなかった。もし、それが教えられていれば――――

 

 

「――――」

 

 

言葉も出ない。ただ彼女の独白を聞き続けるしかない。だが知らず身体が震えていた。何故か分からない。だが、自分が動揺していることが分かる。そんな物が、まだ残っていたなんて。同時に恐怖する。自分が、何かとんでもない間違いを犯していたのではないかと。

 

 

「……っ!?」

 

 

瞬間、弾けるようにマスクを取り目を開く。それは臭いだった。嗅ぎ慣れた臭いがしてくる。間違いなく、彼女の方から。その証拠に、一定のリズムで喋っていた彼女の言葉にズレが出ている。目を見開いた先には

 

 

「あ、バレちゃいましたか。本当はもうちょっと隠しておくつもりだったん、ですけど……」

 

 

いつもと変わらない笑みを見せながら、血に染まった着物を身に纏っている彼女の姿があった。

 

 

「お前……これは……!?」

 

 

それ以上言葉はいらなかった。見れば分かる。それは彼女の血だった。腹部から、どうしようもないほど赤い血が流れている。着物が染まっている。見た瞬間に悟った。もう、助からない。死の線が、点が、彼女を蝕んでいる。逃れることができない死がそこまで迫っている。それなのに彼女は笑っている。喋っている。いつもと変わらず、人形のように。まるで本当にイタくたいかのように。

 

 

「どういうつもりだ!? 何で……何でそこまでして俺を助けた!? お前は、俺に復讐したかったんじゃないのかよ!?」

 

 

死の線によって自分は彼女に触れられない。できるのは見ていることだけ。だがそれでも叫んでいた。何故そんなことをしているのか。自分を助けるために、死にそうなくせに。どうして復讐したい相手を助けているのだと。どうして、こんな自分のために――――

 

 

「あはは、そうですね。本当に何してるんでしょうか、わたし。でも、いいんですよ志貴さん。わたし、イタくありませんから。ただ壊れかけの人形が元の姿に戻るだけです」

 

 

死の間際にいるにも関わらず、彼女は笑っている。それ以外に、感情を表現できない。

 

 

ただ、祈るように自分は琥珀の顔を見てやることしかできない。死に染まった目のせいで、彼女の顔が、真っ直ぐ見れない。それでも、視線を逸らさずに。

 

 

瞬間、何か温かい物が頬に触れる。細い、美しい指。同時に次第に熱を失って行く、彼女の手。

 

 

「志貴さん……泣いてるんですか。よかったです……約束、守ってくれたんですね」

 

 

彼女は笑う。彼が人間になれてよかったと。リボンは返してもらえなかったけれど、それだけで十分だと。

 

 

だがそれは、違っていた。彼は、涙を流していない。涙を流しているのは彼女の方。その視界が涙でゆがんでしまっているだけ。手の感触がもう、ないだけ。

 

 

「――――琥、珀」

 

 

彼は彼女の名を口にすることしかできない。それしか、できない。涙を流すことが、できない。

 

 

「あ……初めて、呼び捨てにしてくれましたね……志貴さん」

 

 

そんなどうでもいいことに、彼女は嬉しそうにしている。もう目も見えていないはずなのに、刻一刻と命が失われていく最中で、彼女にとってはそのことの方が嬉しかった。

 

 

「嬉しいです……実は、ちょっと翡翠ちゃんが、羨ましかったんです。だから……」

 

 

彼女はその眼に涙を流しながら笑う。いつもと同じように、それでも救われたと。涙の色は透明ではなく、深紅。人形ではない、人間である証。そんな当たり前のことに気づきながら、それでも彼女は変わらない。いや、違う。変わらないのは――――

 

 

「志……貴…………」

 

 

いつか冗談で言っていたように。二人きりの時なら許されると。彼女は彼の名を呼びながらそのゼンマイを使い切る。人形ではなく、彼女が人間に戻った瞬間だった――――

 

 

 

 

「――――」

 

 

ただその姿を目に焼き付ける。きっと、自分は忘れられない。この死を。あるのは後悔だけ。だがもう、遅い。もう彼女は戻ってはこない。その左手には、白いリボンがある。持っていたのに、返すことができなかった約束。

 

そもそも、最初から自分にはこのリボンを返す資格はなかった。初めから、人形の自分が、人間になれるはずがなかったのに。

 

ふと、手で頬に触れる。そこには人間であればあるはずの涙がない。涙を、自分は流すことができなかった。彼女のために涙を流すことができなかった。自分が、人形である証。

 

あった。全部あった。自分が欲しい物が、すぐ傍に全部あった。自分を知ってくれている人が、自分を思ってくれていた人が、自分が求めていた物があった。

 

なのに、全てを失くしてしまった。自分が壊してしまった。

 

自分は、一度も彼女と向き合えなかった。彼女は自分にずっと言葉をかけていたのに、触れようとしてくれていたのに。

 

 

――――ああ、そうか。

 

 

つまり、全ては遠野志貴のせいではなく、蛇のせいでもなく。遠野志貴の殻を被っていることを理由に、全てから目を逸らしていた自分のせい。

 

 

――――なんて、無様。

 

 

結局、あの時、間違えていたのは自分で、正しかったのは彼女だったのか。

 

 

理解しながらも、何故か悲しかった。彼女の言葉を認めることは、彼女との約束を破ることなのだから。

 

 

瞬間、右手のナイフで左の掌を貫く。物を刺すように一切の躊躇いなく。同時に赤い液体が流れ出す。借り物の体から、命の滴がなくなっていく。

 

でも、イタくない。人形である自分は、イタくない。元々がそうなのだから。人形である自分が何かを感じる道理がない。何かを思う資格もない。

 

認めた瞬間、痛みが無くなって行く。消え去っていく。

 

 

体は脈打つのを止め。

 

血管は一本ずつチューブになって。

 

血液は蒸気のように消え去って。

 

心臓もなにもかも、形だけの細工に、なる。

 

人間の振りをしていた自分が、元に戻って行く。

 

意味を持たない、空の容れ物。

 

 

もう一度だけ、彼女の姿を見る。安らかに眠っている、彼女。その胸には白いリボンがある。生きている間に返すことができなかった、約束。

 

 

壊れかけている人形の、哀れな末路。どっちが人形で、どっちが人間だったのか。そもそも、始まりは何だったのか。

 

 

分かるのはただ一つだけ。自分はきっと、この時の光景を忘れはしない。摩耗し、自分が誰か分からなくなっても。

 

 

地獄に落ちようとも、鮮明に思い出すことができるだろう――――

 

 

 

 

ナイフを握りながらドアへと向かって行く。先には死がある。だが構わない。自分は人形だから、何も怖くはない。

 

手を切られても、足を削られても、身体を穿たれても、頭を砕かれても。きっと耐えられる。今の自分なら、できる。死を受け入れながらもできなかったことを。

 

 

知識はある。身体はある。武器はある。だが経験が、ない。

 

 

ならどうすればいい。決まってる。考えるまでもない。繰り返せばいい。何度でも、殺されながら、戦えばいい。経験を積めばいい。一度で駄目なら二度。二度で駄目なら三度。それでもだめなら何度でも。この身は、ただそれだけのためにある。

 

 

痛みと共に、心を失くしていく、削っていく。きっと、自分が誰かも分からなくなって、自分はいなくなる。

 

 

『蛇を殺す』ためだけの人形になる。

 

 

でも、構わない。彼女を――――できるなら、構わない。

 

 

 

 

 

――――鮮血が宙に舞う。月明かりによって、血飛沫がシャワーとなり降り注ぐ。

 

 

死者はただ何が起こったのか分からず、自らの手があった場所を見つめている。ただの確認作業。彼らに知性はない。それでも、目の前の光景に固まってしまったのは彼らがヒトであったことの証明。

 

 

そこには人形がいた。手に一本のナイフを持った人形。だがおかしい。先程まで死者は人形の首を掴んでいた。にも関わらず。両手がなくなっている。落としてしまっている。まるで最初からなかったかのように手首から解体されている。

 

 

蒼い双眼が死者を射抜く。瞬間、死者は一歩後ずさった。そんなことがるはずもないというのに、もう既に死んでいるというのに。死者は、死を恐れた。

 

 

目の前にいる人形が、自分にとっての死神なのだと。

 

 

「――――!!」

 

 

声にならない声を上げながら死者は駆ける。手はない。ならばその牙で喉元に食らいつき、血を奪う。そうすれば、目の前の人形も同じ物になる。自らの主である、蛇の命となる。

 

 

だが死者は知らない。目の前の人形もまた同じなのだと。操られる物同士。違うのは

 

 

人形が、蛇を殺すためだけに生み出された天敵であるということだけ。

 

 

「―――――?」

 

 

失くなった。視覚が、聴覚が。全てが無に環っていく。牙は届いていない。紙一重のところで、避けられている。まるでそうなるのが分かっていたかのように。寸分の狂いもない正確さと無駄のなさ。身体のこなしですら、機械的。

 

 

これは当然の道理。数えきれない反復の賜物であり、それ以外を全て捧げた代償。

 

 

『未来死』

 

 

それがソレの能力であり起源。自らの死を経験し、他人の死を体験してきたからこそ視えるもの。いつか蛇に死を与えるためだけのもの。

 

 

右手のナイフが寸分狂わず死者の死の点を穿つ。力も必要ない。ボタンを押すかのような自然さで、容赦なく死の塊を殺す。

 

 

何も感情はない。感慨もない。あるのはただ目的のために動くことだけ。それ以外の事は全て必要ない。無駄はもう、いらない。

 

 

消滅していく死者を見届けた後、そのまま月を見上げる。理由は特にない。今夜は、月が綺麗な夜だったから。

 

 

今の自分が死を見ないで済む、唯一の世界。

 

 

月明かりと、二つの蒼色だけが夜の街に消えていく。右手にはナイフがある。左手にはもう、何もない。

 

 

それが『遠野志貴』が目覚めた瞬間。始まりと終わりを意味するものだった――――

 

 

 

 


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