【完結】どうしてこうならなかったストラトス 作:家葉 テイク
織斑一夏の朝は早い。
朝、起床した一夏は同居人も起き出さないうちに朝の支度を終え、ランニングに向かう。これは、クラス代表決定戦に向けて箒と特訓をしたときに、自分の体力の低下具合(と、箒との身体能力の差)をまざまざと見せつけられたことからずっと続けている。
IS全盛となり、女子教育の質ばかりが急上昇してより一〇年弱、男は女に勝てなくて当然という風潮が既に世界には浸透しているが、一夏はそうは思わない。やっぱり男児たるものおなごを守る盾となってこそ、である。今の自分はそのおなごになってしまう身の上なのだが、だからこそ男の時くらい男らしい自分でありたいと思う一夏であった。
ランニングが終わり、部屋に戻ると朝の六時過ぎである。この時間には既に箒は目を覚ましており、ベッドの上で制服姿で瞑想をしていることが多い。箒曰く、物質的な鍛練には限界があるが、精神的な鍛練には限界がない。ある程度の領域まで到達してしまうと、瞑想によって心を鎮める修行の方が効率が良いのだそうだ。そんな馬鹿な話があるか――と一夏は思うが、一か月前と比べて確実に強くなっているにも拘わらず箒との剣道での対決は一か月前よりボロ負けしているので、彼女は今このときもめきめきと成長しているのだろう。
「そろそろ朝飯に行くか」
「そうだな」
瞑想を終え、携帯の画面を眺めていた箒は一夏の言葉に頷くと立ち上がり、部屋を出る一夏の後に続いた。
『何見てたんだ?』と食堂に行くまでの時間稼ぎに問いかけてみたところ、箒は『秘密だ』と意味深な笑みを浮かべるにとどまった。
***
IS学園の食堂は大きい。そして品ぞろえが豊富だ。全世界から様々な人種、宗教の生徒がやってくるため、それに対応する必要が生まれるのである。もちろん日本食も完備しており、和風趣味(ジジくさいとよく言われる)の一夏にとってはありがたい限りだった。
「あら、織斑」
「よう、セシリア」
一夏と箒がそれぞれ日替わり定食を手にテーブル席に向かうと、そこには金髪碧眼の令嬢――セシリア=オルコットが優雅に座っていた。セシリアのメニューはオートミールである。イギリスのオートミールは嘔吐ミールと呼ばれるほど悲惨な味わいだといわれているが、セシリアは眉ひとつ動かさずにそれを食べている。IS学園のオートミールは本場のものよりも
「箒さんも、おはようございます」
「ああ、おはようセシリア」
セシリアは箒の姿も認めると、にっこりと花のように微笑んで会釈する。箒も不愛想な彼女にしてはかなり友好的な態度で目礼した。……どうにも最近仲の良い二人である。
一夏は少しだけ置いてけぼりにされたような気分になり、
「なあセシリア、何で俺のこと『織斑』って呼ぶんだ? 女の時は名前で呼ぶのに」
「……何ですの、藪から棒に」
席に着きながらの一夏の言葉に、セシリアは怪訝な表情を浮かべた。先日の『イチカ』に対する態度が嘘のような豹変っぷりである。もっともあのときのような猫かわいがりをされても一夏としてはリアクションに困るのだが、しかしあの一〇〇分の一でも愛想を向けてくれればとは思わずにはいられないほど、セシリアの一夏への態度はそっけないのである。
「良いですか、織斑。『イチカさん』は可愛くてか弱くて初心な女の子。『織斑』はみてくれだけは良いですが脆弱で鈍感な野郎。……なのに同じ『いちか』で呼んだら、『イチカさん』を呼ぶときにあなたの顔がちらついて上手く萌えられないではないですか。そんなことも分からないんですの?」
「お前本当に遠慮とかないのな!」
酷い言われようだった。中身は同じなのにいくらなんでもこの扱いの変わりようは酷すぎると思う一夏だが、セシリアの方は世界常識を語るような顔をしているし、周りで聞き耳を立てている変態淑女たちも様子からして異論はないようだった。この世界はおかしい。一夏は切実にそう思う。
「なあ箒、お前からも何か言ってやってくれないか」
仕方がないので、一夏は幼馴染でありこういったことについては唯一一夏の味方に回ってくれるであろう箒を頼ることにした。が、
「すまん一夏。この件については私も同意だ……」
「箒っ⁉」
一夏の脳内で、『私だけは一夏の味方でいるから――』と決め顔で言い切った箒の姿がリフレインして、それから一夏の見ていないところで小声で『でもいつも味方とは言っていない』と言っている様が付け加えられた。この世界は厳しい。一夏は切実にそう思う。
「俺に安息の地はないのか……」
「女の子になれば、この学園は地上の楽園と化しますわよ?」
「それは俺にとっての安息の地じゃない……」
なんてことを言いながら、朝食を口に運んでいく。セシリアもまたオートミールを口に運びながら、一夏の食べている料理を見遣る。
「それにしても織斑、貴方よく食べますのね」
「食べないと力がつかないからな。それに俺、男だし」
「いえ、そうではなく」
セシリアは箒の方を指差す。一夏もそれに釣られて見てみるが、その量は多くない。一夏の半分程度だ。セシリアの方も、両掌でカップを形作ったのよりも小さな皿しかない。
「織斑もあの程度にしておくべきではなくて?」
「へ? 何でだよ?」
「……IS学園の授業の過酷さを知らないのですか?」
セシリアは呆れたように言う。確かに、ここ最近は訓練やら座学やらで、実技の授業は殆どなかった。あったとしてもISの動かし方だとかそういったもので、大したものではない。
なので一夏は訳も分からず首を傾げるしかなかった。
「一体、何が言いたいんだよ?」
「
セシリアは溜息混じりにそう言った。能天気な一夏もその言葉に思わず目を丸くする。それから、おそるおそるセシリアに尋ねていく。
「は、吐く……? って、別にフルマラソン走らされるわけじゃないだろ?」
「フルマラソンならまだマシですわ。貴方本当に知らないんですの? 履修科目の授業計画とか見ないタイプですの?」
「いや、見てたけど単元とかしか覚えてない……」
「基礎体力育成の授業第一回は全身に五〇キロの重りを身に着けてランニングしながら、ペアと格闘するのですわ。そんなに食べていたら、重りつきランニングで一ゲロ、格闘で二ゲロ、史上初の二ゲロヒロインの名を獲得してしまいます」
「…………、」
「お残しは許されないぞ」
無言で朝食を終了しようとした一夏に、それまで無言で少な目の食事をとっていた箒の待ったがかかる。一夏の瞳が、絶望に彩られた。
「じゃ、じゃあどうすれば良いって言うんだ⁉ もう半分以上食っちまったし、この腹の調子で重りつきランニングと格闘戦をセットとか、どう考えても吐くぞ!」
「一夏、お前には二つの道がある」
箒は、二本指を立ててそれを一夏に突きつける。セシリアの方も、にやにやと瀟洒な、それでいて悪い笑みを浮かべながら狼狽する一夏の様子を眺めていた。
「一つは、根性で頑張る道。全精神を胃袋に注いだうえで、一発も打撃をもらわないで戦う。それが可能になれば、ゲロインの汚名は逃れられるだろう」
「そもそも俺はヒロインじゃないけどな」
一夏は譲れない一線に立つが、箒はそれを素通りしながら指を一本折り曲げる。残った人差し指を一夏に突きつけ、箒はさらに言葉を紡いでいく。
「そして、もう一つは――――」
***
そんな訳で、一夏は校庭にやってきていた。各々ISアーマーを模した重りを装着した上で整列している。
前に立つ千冬が、全員を一瞥して頷く。
「よく来た。この『基礎体力育成』の初回に遅刻してくる不届き者はいないようだな。私は嬉しい。それでこそ私の生徒達だ」
笑み一つ浮かべずに生徒達を褒めた千冬に、褒められたにも拘わらず全員の意識が引き締まって行く。俗な表現だが、コンビニのトイレにある張り紙と同じだ。『トイレは綺麗にご利用ください』よりも『いつもトイレを綺麗にご利用いただきありがとうございます』の方が響きやすい。千冬の場合はそれに数百万倍ものプレッシャーを乗せているのだ。
「ただ――――」
千冬は、そう呟いて一夏の方を見る。
実技の授業ということで、ISに乗る訳ではないが生徒達はISスーツを身に纏っていた。ISアーマーを模した重りだからそちらの方が装着がしやすいというのと、ISスーツ自身にある運動補助性能の恩恵を受ける為だ。
というわけで全員がスク水ニーハイ状態なのだが、一夏だけは格好が違った。流石に男のスク水ニーハイ状態は核兵器級のダメージを生み出すので、一夏だけは特例でツーピース型のISスーツが採用されているのだった。お蔭でおへそがセクシーなことになっており、おそらく正常な趣味を持つお姉さま方なら垂涎モノだったのだろうが、生憎ここには変態淑女しかいない。むしろ『笑止! 生ヘソなど時代遅れ、ぴっちりと身体に纏わりついたボディスーツ越しに見えるシルエットのみのおヘソこそ至高の芸術よ!』と唾棄する猛者が現れる始末である。
「……」
そして千冬もまた、そんな変態淑女の一人――いやむしろ頂点である。一夏が女体化していないことにそこはかとなく残念そうな表情を浮かべ、それから説明に戻った。
「――この授業はハードだ。ISスーツを身に纏っていても重りは負担だろう。しかも、その重りは盾として機能しない。衝撃を一〇〇%伝達する素材で作られているから、生身で殴られたのと同等のダメージを受けることになる」
要するに、当たり判定が広くなっただけ――ということだ。だが、シールドエネルギーは基本的にISアーマーさえも覆うように展開される。防具だからと軽視していると痛い目を見るのがISの戦いなのである。
「学生だから、授業だからとナメてかかるな。お前達は倍率一万倍の中から勝ち抜いて来た選良であり、どのような形であれ国の未来を担うことになる英雄の卵だ。――――私は、それに相応しい成果を期待している」
そう言って締めくくった千冬の言葉の後、数瞬だけ無言が続く。全員が、気圧されていたのだ。変態であると同時に、猛者。一夏はこの数秒で千冬株が乱高下を繰り返していることに戸惑いを隠せずにいた。
しかし、その沈黙はすぐに打ち破られる。千冬が全体を一瞥し終えたと同時に、気圧されていた少女達の精神は再起動を果たした。
自分達の国の、未来の為に。
この人の期待に、応える為に。
そして何より、自分達に相応しい成果を残す為に。
――――全身全霊を尽くす‼
『はいっっっ‼‼‼‼』
千冬の演説の前とはまるで別人のように目の据わった少女達が、臨戦態勢に入る。
そんな中で、一夏はおずおずと手を挙げた。興が削がれたのか、多少不満そうにしながら千冬がそれに応対する。
「――何だ織斑」
「あの……実は」
じろり、と少女達の視線が一夏に集中する。睨んでいるつもりはないのだろうが、全員が全員目を血走らせている為、非常に精神的に重圧がかかる。こんなことなら言いださなければ良かった、と思いつつ、でもそうしたらゲロまっしぐらなのでどうしようもない。
それもこれも、あんな解決法しかないからいけないのだ――と一夏は朝食時の一幕を思い返していた。
『もう一つの道――それはだな』
あれほど嫌がっていたのに、こんなことを言いださなければならないとは――と考え、むしろ『この程度』でその決断に踏み切ることができるようになっていた自分の心境の変化に、一夏は苦笑する。
「えっと、ISの展開を許可してもらいたいんですけど……、あ、勿論武器とかそういうのはナシで、ただ変身するだけで良いんで……」
一夏は、慌てて付け加えつつそう言った。
本来、ISの展開というのはただ武装を呼び出すという意味でしかない。しかし、一夏にとっては『体の変革』を意味する。量子化された時点で『一夏』の身体は記録され、それを元に女体化した『イチカ』に作り替えられるのだ。勿論、だからと言って体の中にある朝食が消えるわけではないし、吐くリスクがなくなったわけではないのだが、ISの武装がなくとも、ISエネルギーは装着者の運動をサポートし、体力も劇的に向上する。気合で吐き気を抑えることもできるようになるし、殴られても吐く心配はないという訳だ。
尤も、そうなれば重りのハンデもかなり意味を減ずるし、何よりセシリアはISを展開していないのに一夏だけがISを展開するというのは多分に不公平である。その為、許可される見込みはないだろうことは一夏でも分かっていた。そこをどうしても頷かせる為、一夏は誠心誠意頭を下げ続けるつもりだったが……、
「許可しよう」
千冬はあっさりとOKを出した。
その言葉を聞いて、目を血走らせた女戦士たちが一気に野獣の風格を身に纏う。一夏はまだ男の状態だというのに背筋に寒気が走った。
「ただしその代わり、重りは一般生徒の倍だ。重さが増える上に当たり判定も広がる。総合的には多少不利になるくらいだが……それでも良いな?」
「も、勿論ですっ!」
一夏としては、ゲロさえ吐かなければ何でもいい。むしろ厚着は視線を避ける為に使えると思ったため、こくこくと頷くばかりだった。
***
「ぶぅ……死ぬぅ……」
そんなこんなで。
何とかゲロインの名を賜ることなく任務をクリアしたイチカは、死にかけと言った風体でグラウンドに転がっていた。既に防具(拘束具とも言う)は取り外しており、あたりには淑女たちがヘバっているイチカの様を鑑賞していた。
「ほらイチカ、ちゃんと立つんだ。千冬さんにどやされるぞ」
「う、うん……」
やっとの思いで起き上がったイチカは、周囲を見渡してみる。
……変態淑女たちは、疲労の色こそ見せているものの、概ね元気そうにしていた。少なくとも、今にも気絶しそうなくらいへばっているのはこの場でイチカだけだ。
(男なのに……情けないな)
そもそも今のイチカは女だし、体質的には女性の方が苦痛に対して耐性があるという研究結果も出ているくらいなのでイチカの思考は時代錯誤もいいところなのだが、それはそれとして、オトコノコとしてはオンナノコよりも体力面で劣っているというのは悔しいものなのだった。
男尊女卑というのは概ね悪徳の塊ではあるが、一方でこうした『強い男だからこそ発生しうる義務』という側面も存在しているのだ。尤も、男尊女卑の悪徳が是正されつつもそうした美徳だけが残ってしまった結果に生まれたのが、現在の女尊男卑の世の中なのだろうが。
ちなみに、この結果はイチカが彼女達変態淑女一同に劣っているという訳でもない。何せ、変態淑女一同は『イチカ』というエネルギー源がすぐ近くにある状態で活動しているのだ。当然、回復ポイントが一切ないイチカとでは余力の差は天と地ほどもある。
身も蓋もない表現をすると、この場でギャグ時空じゃないのはイチカだけ、という話だった。
「みな集まったようだな」
そこに颯爽と現れたのは、教官の千冬だ。
彼女の登場と同時に、試練を乗り越えてどこか緩んでいた場の空気が一気に鋭さを増す。イチカも、それに押されるようにしてすっと背筋を伸ばした。
「はっきり言って――今回の訓練は『まるで駄目』だ。私の求める基準は、私が見極めた貴様らの真価は、こんなものではない。だが……気を落とすことはない。貴様らはまだ卵の殻すら破っていない雛鳥未満であって、まともに動けることなど最初から期待していない。だから――『次』を考えろ。この次、今回の二倍、三倍の成果を出せるようになれ。その為に、今この瞬間から努力に励め。それが祖国から選ばれた選良である貴様らの義務だと考えろ。――以上だ、解散ッ‼」
「ありがとうございましたっっっ‼‼」
千冬の演説めいた言葉に一斉に礼をした一同は、そのまま各々後者へと戻って行く。
「はぁ……」
「どうしたんですか? 元気ないですわね、イチカさん」
改めて自分の現状を再確認したイチカが肩を落としていると、後ろから声がかけられた。
セシリアだ。彼女は遠距離戦専用のISを専門に扱っている為、近距離戦の経験値に関しては不得手のはずだったが――それでも尚、彼女に疲労の色は見られない。もしも彼女が何故かと問われれば、『それはわたくしだからですわ!』と胸を張って応えただろう。意味不明だが、それがセシリア=オルコットという少女の強さでもある。
「いや、地力の差っていうのを思い知らされたっていうかさ……そうだよな、此処にいる人たちって、此処に来る為に血のにじむほどの努力をしてきて、そして今もしてる人達なんだよな……」
変態だけど……という言葉は呑み込み、その事実を再確認する。
イチカはたまたま男だけど適性があったからこの場にいるだけで、それはやはりとても歪なことなのだろう。全く悪くないのだがにも拘わらず、それでもろくに努力をしてこなかった自分がこの場にいるというだけで罪悪感を感じてしまうあたり、イチカは真面目な性格なのだろう。
「そうですわね。――そんな連中の中に突然放り込まれたというのに、イチカさんはよく頑張っていますわ」
セシリアは優しげな笑みを浮かべ、イチカの頭を軽く撫でる。
イチカは少しくすぐったく感じたが、セシリアの心遣いが嬉しくてそのまま撫でられるがままにしていた。
「イチカさんが自分の現状を後ろめたく思う必要はないのです。確かに彼女達はこの場に立つ為に数多の苦痛を噛み締めて来ましたわ。ですが、それはイチカさんも同じこと」
さらりと、イチカの細い髪の間を、セシリアの指が通って行く。髪を梳かれるような感覚が心地よくて、イチカは歩きながら目を瞑った。
「それに、ご理解できていて? 地力の差がある分、貴女は――これからそれに匹敵する苦痛を、『この場に立ち続ける為』に味わわなくてはならないのです」
「それは望むところだ。でも……」
「……ふふっ。それが言えるなら、十分すぎますわよ」
しばっ‼ とイチカの頭上辺りで何かが高速で通過する音が聞こえたが、イチカは気にせずに前を向いて歩く。
セシリアは、疲労で遅いイチカと歩調を合わせるのをやめ、数歩前に出た。
「理不尽に押し込められた現状を嘆く権利と資格だって、貴女は有している」
前に出たセシリアは、こちらに背中を向けたままにそう言った。
彼女の言ったことは、この学園にやってきた当初のイチカそのままの姿だ。ちなみにこの時のイチカ(一夏)をセシリアは戦う気概のない愚図とばっさり切り捨てたが、そこはそれである。
「しかしそれを放棄し、前に進む決断をした。それだけで十二分ですわ。それ以上は貴女を追い詰めるだけ。必要のない自負というものですわ。尤も、このわたくし並に有能であれば、適切な自負といったところでしょうが」
そんな言葉を残して、セシリアは先に歩いて行った。
イチカはそんなセシリアの後ろ姿を、眩しいモノでも見るように目を細めて見送り――それから、グッと目に力を入れ直して、校舎へと走り去って行った。
……途中でイチカの頭に垂れそうになった鼻血を手刀で弾き飛ばしたり、流血を隠す為に横並びで歩くのをやめたりといったことがなければ完璧だったのだが、悲しいかな、この作品は変態ギャグコメディである。
***
「お邪魔いたしますわ、箒さん」
「ああ、上がってくれ」
「あのー……セシリアさん? 一応俺もいるんだけど」
夜。
自室で寛いでいた一夏は、セシリアを自室に迎えていた。というよりは、箒がセシリアを迎えていた、といった方が正しいが。
この一か月弱で親交を深めた二人の変態淑女は、こんな感じで互いの自室に一方を呼び合ったりしているのであった。一夏としては自分という男がいるのだから素直にセシリアの部屋に行ってほしいと思わなくもない。
ちなみに、箒の部屋にセシリアが向かうのには理由がある。単純な話で、何度も通い詰めているうちに一夏が居づらい空気を打開する為に自分から女にならないかと期待しているのだ。その為に、色々と向かうたびに一夏を口説く為の文句を並べ立てていたりする。
「セシリアはほんと、俺に対して冷たいよな……」
「織斑が男だからいけないのですわ」
はぁ、と溜息を吐く一夏を、セシリアはばっさりと切り捨てる。同一人物でも性別によって扱いが変わると言うのは、ある意味女尊男卑の極地でもある。
「なあ一夏、セシリアも言ってるが、女として生活してみる気はないのか? 案外慣れれば楽かもしれないぞ。ISの補助とかも得られるし」
「いやだよ‼ 何が楽しくて男なのに女として生活しないといけないんだ‼」
「だが、女装癖の人とかもいるし、女として生活することを望む人が全くいないわけではないとも……」
「少なくとも俺はないわ‼」
生憎、一夏はノーマルなのでそういうのはごめんなさいなタイプなのであった。
「そういえば、この間言っていましたが織斑は温泉が好きなのですよね?」
箒のベッドに寝転んだ状態のセシリアは、そう言って隣のベッドで肩を落としている一夏を見る。パジャマ姿なのも相まってそこはかとなく艶めかしい絵面だったが、常日頃からセクハラ被害を受けている一夏としてはブービートラップにしか見えない。まかり間違って何か問題でも起こそうものなら、それと交換条件に女としての生活を余儀なくされかねない。ラッキースケベなどもってのほかであった。
「温泉っていうか、風呂全般だな。此処の大浴場も入ってみたかったんだがなぁ……」
「入れる方法、ありますけど」
「なんだとっ⁉」
さらりと言ってのけたセシリアに、一夏の目の色が変わる。一夏は無類の風呂好きで、卒業したら全国温泉巡りでもしたいと思うくらいの勢いなのであった。じじくさい。
セシリアは一夏が食いついて来たのを見て、笑みを浮かべて身体を起こし、ベッドの上に座り直す。備え付けの机に座ってカメラの手入れをしていた箒の口元にも、笑みが浮かんだ。
「簡単なことですわ――――女になればよいのです」
「ぬむぅっっっ⁉⁉⁉」
想定外の方向からのアプローチに、一夏は思わず武将みたいな呻き声を上げる。
「現状、男の貴方の為だけに浴場の使用時間を整備することは不可能ですわ。ですが、貴方が女として浴場を利用するのであれば、何の問題もなくなりますわ」
「いやいや待て待て、問題ならありまくりだろ。ガワが女でも中身は男なんだから……」
「そう言うと思って、全校生徒及び教職員の意識調査アンケートを
「用意が良いなお前‼」
どこから取り出したのか、ニュース番組なんかで使用されるようなフリップを引っ張り出したセシリアは、そのままそれを膝の上に乗せる。
フリップには何やら票差が圧倒的なグラフと共に、こんなことが書かれていた。
『イチカさんの浴場利用についてどう思われますか』
お金を払ってもいいから実現してほしい 70%。
大賛成 25%。
賛成 5%。
「え⁉ いや、ちょっと待って⁉」
「何ですか織斑。そんな驚く結果でもないでしょう」
「いや驚くわ‼ 賛成100%どころかなんかそれ以上の結果を叩きだしてるじゃねえか‼」
「支持率100%ですわよ。このまま生徒会長になれるレベルですわ。喜びなさい」
「ひとっつも喜べる要素がねえっつってんだよ‼」
「ちなみにミス千冬はお金を払ってくれるそうです」
「千冬姉ェェェええええええええええええええええええええええええええええ‼‼‼‼」
一気にツッコミどころをぶっこまれた一夏は、絶叫したのちに叩き込まれた情報の整理に追われた。
「はぁ、はぁ……周りが良くても、俺が困るんだよ……周りに裸の女の子がいるとか、目の毒すぎる」
「あら、意外とウブなんですのね……モテそうなのに」
「モテねえよ。むしろ昔から女には嫌われやすくて……何故かよく怒られてビンタされるんだ」
「女の敵ですわね」
バッサリと切り捨てられた朴念仁はさておき、セシリアはずいと身を乗り出した。
ちょうどパジャマの開いた胸元が一夏の目を惹き、慌てて視線を逸らす。
「なんでしたら……
「なっ⁉」
「勘違いしないでくださいまし。貴方が変身して自分の全裸を鏡で見るということですわ」
「……良いけど、お前らはその間どうしてるわけ?」
「…………」
「…………」
「黙るなよ‼ そして鼻を押さえるな! カメラを構えるな!」
なんか変態性が固定されつつあるんじゃないか? という疑念を抱きつつも、一夏は貞操と男としての尊厳を守るために徹底抗戦する。
「大体だな、ちゃんと部屋に風呂があるんだから浴場に入れないのは勿体なくはあるが別に我慢できないわけではねえよ。女になるくらいなら我慢する」
「ところがですね、実はそうはいかないのですよ、織斑。理由を此処にどん」
セシリアがそう言うと、傍らに待機していた箒が箱をぽんと取り出して置く。どすん、と重い音が聞こえて来る。さっきもそうだが何もない所からものを取り出すのは世界の法則が乱れるからやめてほしいと切に願う一夏なのであった。
「で、これは?」
「募金箱ですわ」
「……は?」
「ですから、募金箱ですわ」
唐突な慈善事業に、一夏は事態の把握が一気に困難になる。
「先程のアンケート結果で、『お金を払うからイチカさんの浴場利用を実現してほしい』という結果が圧倒的だったので、試しに『実現してみせるから募金をお願いします』と言ったら、箱いっぱいに」
「一体いくら入れてるんだよ……。こんなに小銭が入ってたら、ちょっとした凶器になるんじゃあ……?」
「いえ」
そう言って、セシリアは指を鳴らす。既にアシスタントと化した箒が阿吽の呼吸で箱の蓋を開くと、
「小銭ではありません。札束ですわ」
「どういう世界観だコレ‼」
「これはほんの一部です。既にちょっとした国家予算レベルの募金が集まってしまっているのですわ。わたくしとしても、織斑が嫌だと言ったからって諦めるわけにはいかないのです」
「テメェの問題だろそれ‼ 全部持ち主に返して謝って来い‼ 俺は知らねえぞ‼」
一夏は立ち上がって精一杯に訴えるが、とうの箒とセシリアは二人して『何言ってんのこの人……』みたいな顔をしているのであった。あまりにも酷すぎる。
「そんな金があるんなら、普通に新しく俺用の浴場を作ってくれたって良いだろ! 募金を有効利用してるじゃないかそっちの方が!」
「自分の為にお金を使わせるとか、貴方はなんて恥知らずですの……?」
「そのために集めた募金だろうが‼‼」
そもそもセシリアもイチカの裸見たさにやっているので自分の為にお金を使おうとしていることに何も変わりはないのであった。
「とにかく‼ 絶対に嫌だからな俺は! もう知らん!」
「ところで、先程小銭がたくさん入っていたら凶器になると言っていましたが、紙でもこれだけ大量に詰まっていれば十分凶器になったりするのですが……」
「募金の有効利用(物理)⁉」
……。
…………。
…………分かった……変身するから……。
……………………。
…………………………いやぁー……助けてぇー……。
こうして、織斑一夏の夜は更けていくのだった――。