【完結】どうしてこうならなかったストラトス   作:家葉 テイク

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第一六話「本編(後編)」

「違う、違うから待つんだ蘭! お前は何か決定的な勘違いをしている!」

 

 光速で部屋を出た弾は、そのまま階段を降りようとする蘭の手を掴んで引き止める。此処で彼女を下におろしてしまえば、まず十中八九今の情報は弾の母に伝わるだろう。『お兄が部屋に女の子連れこんで一発ヤろうとした』、と。そして、その情報は一気に一家に拡散する。最終的に、『コイツは女になったイチカだから』なんて言いづらい空気になってしまう。

 が、対する妹のリアクションは非常に冷え切っていた。というか、深刻だった。

 

「いや、お兄ごめん。ノックもしなかったのはホントに悪かったと思ってるから、私が悪かったからごめんホントに……」

「違うの‼ 確かにそうだけど違う‼‼ 俺は別にアイツとしっぽりやろうとしてたわけじゃないからいやコレホント‼‼」

 

 もう謝罪体勢に入ってしまっていた蘭に、弾は必死の形相で言う。それに対し、蘭は眉をひそめて、

 

「じゃあ、あの人に何しようとしてたの?」

「そりゃ胸を揉もうと」

「やっぱりそうじゃん‼ ごめんねお兄‼‼」

「違う‼ 胸を揉もうとしたがアイツとはそういう関係ではない‼‼」

「え、じゃあセ●レ……?」

「違う‼ もっと違う‼‼」

 

 頭を振って否定する弾。このままでは埒が明かない――が、弾には簡単に誤解をとく方法が一つある。

 

「大体、アイツは――――」

「弾‼ 待て‼」

 

『アイツはイチカだ』、そう続けようとした弾は、突如後ろから襟首を掴まれて引っ張られる。

 当然、引っ張ったのはイチカだ。

 

「うげぇ、げふ、げふ!」

 

 むせ倒した弾は、イチカに掴みかかる勢いで噛みつき、

 

「(……お前何しやがる⁉)」

「(悪い、でも待ってくれ! 此処で弾が俺の胸を揉もうとしてたってことになったら、ひょっとして蘭にドン引きされるんじゃないか⁉)」

 

 二人の小声による作戦会議が始まる。

 確かに、そういう可能性は大いにあった。

 外見はともかくとして、中身は男と男なのだ。厳密にいうとTS少女は男ではない(重要)が、しかし弾が『男友達の胸を揉むだけだからセーフ』なんて言った日には、それはそれでダメージがデカくなることは間違いなかった。そして、イチカの方にも色々と無視できない被害がやって来そうな雰囲気だった。

 

「(じゃ、じゃあどうするんだよ⁉ このままだとお前が恋人ってことになるぞ⁉)」

「(そ……それで良い!)」

「(はぁ⁉ 血迷ったかイチカ‼)」

「(とりあえず此処はそういうことにして、今日を乗り切ったら適当に『別れました』ってことにすれば良い! 幸い、蘭は俺に気付いていないっぽいし、この場を一番軽傷で済ませるにはこれしかない!)」

「(それ、俺は彼女と速攻で別れたってダメージが出来てるんだけど……)」

「(中身男の胸を揉もうとしたって言われるよりはずっとマシだろ! ほら行け!)」

 

 作戦会議終了。

 イチカに突き飛ばされた弾は、そのまま蘭の方へたたらを踏みつつ移動した。

 蘭は律儀に二人の作戦会議を待っていてくれたようで、胡乱げな眼差しで弾の方を見ながら、

 

「で? お兄、ちゃんとした言い訳は考えてきたの?」

「……いや。言い訳はやめるよ。兄ちゃんはアイツと付き合ってる」

 

 でも‼ と、弾はさらに蘭に何も言わせないように前置きして、

 

「あれはちょっと話の流れで胸を揉むか揉まないかで論争になってただけで、それ以上でもそれ以下でもない! 信じてくれ……頼む!」

「お、あ、わ、私からも……信じてください」

 

 ひょっこりと顔を出したイチカも、一緒になって言う。その様子をたっぷり五秒は眺めていた蘭だったが、やがて溜息を吐いて肩を竦めた。

 

「まあそんなことだろうと思ってたけど……お兄に女の人を自分の家に連れ込んでどうこうなんて甲斐性ないのは知ってるし」

「はは……我が妹ながらこの辛辣さよ……」

 

 命拾いしたはずなのに半死半生の弾は、半泣きになりつつ肩の力を抜いた。

 そんな弾に蘭は呆れたような表情を浮かべていたが、

 

「あ、すみません」

 

 ふと真顔に戻って、イチカの方に頭を下げる。当然、頭を下げられる覚えなどないイチカは疑問符を浮かべた。

 そんなイチカに、蘭は続けて言う。

 

「あたし、そこの馬鹿の妹で五反田蘭って言います。よろしくお願いします」

 

 礼儀正しかった。

 あくまで蘭が傍若無人なのは弾に対してのみで、他の人に対しては如才ない――というか色々と要領が良いタイプだったのは、イチカも薄々知ってはいたが、こうまでしっかりとした一面を見せられるのは意外だった。

 

「え、あ、ええと、」

 

 思わず、イチカは口ごもってしまう。

 名乗られたのだから名乗り返さないといけないわけだが、ここで織斑イチカですなんて言ったら即バレである。彼女を名乗ってしまった以上、もう後には引けない。

 

「お、」

 

 ぽつりと呟いたイチカに、弾は思わず戦慄する。

『お』ってお前完璧に『織斑イチカ』って続く感じじゃねえか! という弾の視線に気づかず、イチカは緊張で完全に空転を始めた頭脳で必死に『即興の偽名』を考え、

 

「お、小村チカです!」

 

 …………()()()()()()()である。

 即興にしては良い方だろう――と、弾は胸をなでおろしつつイチカの肩に手を置いて、

 

「コイツ、いつもはこんな感じじゃないけど、緊張してるっぽいから何か変な事言い出しても許してやってくれよ」

「可愛くて初々しくて純粋とか、お兄には勿体ない物件だなあ……」

 

 あんまりな言いぐさに再度兄が涙している横で、蘭はすっとイチカの方を見る。

 今まで一夏として接してきていた時は一度も見たことのない、そんな表情だった。

 

「チカさん、兄をよろしく願いします。お兄、こんなだけど根は良いタイプだから、気長に付き合ってあげてください」

 

 と、蘭はそう言って頭を下げる。

 どこまでも出来た妹だった。

 

 さりげなくディスられていた兄は、相変わらず半泣きだったが。

 

***

 

 そんなこんなで、イチカ達は食堂にやって来ていた。

 理由は勿論昼食を取る為、だったのだが――――、

 

「あらぁ弾ってば女の子を連れ込むなんて。手が早いわねえ」

「まだ出してねえってんだよ‼」

「弾に彼女か……そうかそうか……」

「んでじーちゃんは何で感慨深そうに泣いてんだ‼ 俺は――、」

 

 家族にいきなり持ち上げられた弾がそう口走った瞬間、イチカの目の色が変わる。

 

「……弾!」

 

 あのままいったら、弾が『俺はコイツと付き合ってなんかいねえ』などと照れ隠し(事実だが)に口走ってしまうのは想像に難くなかった。イチカのファインプレーである。

 弾はハッとして、それから今の言葉の続きを誤魔化す方法を考え、

 

「……お、俺は、もうちょい清いおつきあいをだな……」

「お兄、もう尻に敷かれてるんだね……」

 

 もごもごと口をすぼめて言う弾に、イチカははぁ、と溜息を吐いてうなだれた。なお、最初に話を振った弾の母――(れん)は絶賛大爆笑中である。弾はからかわれただけにすぎなかった。

 

「はい、できたわよ。お食べ」

 

 と、そうやっているうちに蓮がイチカ達が座るテーブルに料理を置いて行く。両手で大きな皿を三つも抱えていく様は、流石に五反田食堂の(自称)看板娘(28+α)なだけはある。

 

「あっ、ありがとうございます」

 

 慣れた場所のはずなのに妙な居心地の悪さを感じていた為、思わず礼を言って応じたイチカに蓮はにこにこと笑いながら、

 

「そう緊張しなくていいのよ~。貴女にとっては、すぐに()()()になるんだし~」

「そうだぞ、今日はめでたい。楽にしてて良いからな!」

 

 何故か涙声の厳――弾の祖父――の方へ、蓮はそう言いながら引っ込んで行く。すっかり歓迎ムードの五反田一家に、イチカはたじたじだった。

 そんなイチカをニコニコと眺めていた蘭が、やがて口を開く。

 

「――義姉さんは」

「ねっ⁉」

「お兄の彼女なんだから、義姉さんでおかしくないでしょう?」

「そ、それは……、い、いや! いくらなんでも飛躍しすぎだって! 義姉だなんてそんな……お、私まだ……」

「あたし、実はお姉さんが出来るのが夢だったんです。でも、いるのはガサツなお兄だけだし……。小さい頃は、お姉ちゃんが欲しいなんて言ってお母さんを困らせたりしちゃって」

 

 えへへ、と照れくさそうに笑う蘭。もはや弾をナチュラルにディスるのは基本だ。

 だがそれはイチカの初めて見る蘭の顔だった。出会った当初は違ったような気がするが、蘭はイチカの前ではいつも緊張しているというか、肩肘張っている感じがあった。それが今は、こうやって警戒心を解いて話しかけてくれている。

 

(やっぱり、女の身体はこういうところが得だよな)

 

 鈴音の時も思ったが、全体的に一夏の時よりも『ありのまま』の姿を見せてくれることが多い、とイチカは思う。別に女だから『ありのまま』の姿を見せているわけではないのだが……朴念仁のイチカにそこに気づけというのも酷な話である。

 それにイチカの方も姉と言われて満更でもない気分になっていた。末っ子だったので、性別はともかくそういう風に言ってもらえるのは新鮮で、面映ゆい気分になるのだ。

 

「お義姉さんは、どこに住んでるんですか?」

「ぇあっ⁉」

 

 ……なんてことをぼうっと考えていたからだろうか。イチカは不意の問いかけに、思わずびくんと跳ねてしまっていた。

 横で弾が焦っているが、イチカはそれどころではない。

 

「あ、えーと……IS学園……」

「ええ⁉ IS学園⁉ それ本当ですか⁉」

「……の、近く……です……あはは……」

 

 思わず、イチカはそんなしどろもどろな回答をするしかなかった。当然、そんな回答では蘭のことを納得させられるはずもない。

 

「…………」

「……うぅ」

「……まあいいです。お義姉さんが言いたくないなら」

「うぐう……」

 

 言葉にどこか棘のある蘭に、イチカはたまらずうつむいた。

 弾はそれを見て『こいつほんとに男だったのか?』と疑問を抱いたが、よく考えたらこの煮え切らなさは一夏にも共通する部分であった。性別が違うだけでこれほど魅力的になる要素を兼ね備えているから、たぶんイチカはこれほどの人気を獲得したのであろう――。人知れずイチカ人気隆盛の理由を垣間見た弾である。

 

「その代わり、もっともっと仲良くなったらその時は教えてくださいね。……せっかくの『お姉ちゃん』なんだし」

「…………蘭、ちゃん」

 

 少しだけ恥ずかしそうに口調を崩す蘭に、イチカは思わずぽうっと感動したような視線を向ける。イチカはずっと弟(妹)として過ごしていたため、こうして『姉』として慕われることなど一度もなかった。だから思わず感激してしまったのだが――。

 

(…………チョロいなぁ、お姉)

 

 当の蘭はといえば、コロっと態度を軟化させつつあるイチカに対して、そんなことを思っていた。つまり、ここまで徹頭徹尾演出である。

 内心ではすでに『お姉』呼びなあたり、最終的に蘭がどこまで距離を縮めるつもりなのかが伺える。

 

「それはそうと、IS学園の近くに住んでいるなら、この近所ですよね。二人は頻繁に会ってるんですか? お兄を見る限りそんな風には見えませんけど」

「あ、いや、私の学校は全寮制で、だから弾とは普段はメールのやりとりしか……」

「……IS学園の近くで、全寮制」

「…………う、ううううう」

 

 住んでる場所についてはもうほとんど語るに落ちていた。

 弾は、疲れたようにしながら、イチカにこう言った。

 

「もう良いから、お前喋るな」

 

 イチカは、力なく頷いた。

 

***

 

 食事を終えた三人は、弾の自室に戻っていた。

 ゲームは食事に行く前に片付けられていたので、『えー家デートするのにゲームやってるの……?』みたいな疑いと呆れの視線を浴びることは回避できたが、しかし弾とイチカの表情は曇っている。

 理由は言うまでもない。二人の間に何故か蘭も座っているからだ。当然、それだけボロが出るリスクがあるということであり二人としては気が気じゃない。

 

「……おい蘭。兄ちゃんはこれからチカと二人でイチャイチャしたいんだ。だからお前邪魔」

「イチャっ……⁉」

「おやおやーお兄ってば強がっちゃって。そこでお義姉さんが顔を真っ赤にしてる時点で、まともなイチャイチャなんてできないくせにぃ。それなら私っていう不純物がある方がイレギュラーもあってより刺激的なデートになるんじゃないの?」

「くっ……!」

 

 蘭の減らず口に歯を食いしばる弾だが、家族内ヒエラルキーにおいて弾は蘭よりもはるかに格下。しかも(バレてはいないが)相手方に嘘を吐いているということもあり、あまり強くは出れないのであった。

 

「まあまあ、本当に良い雰囲気になったらさっさと退散するから。ね?」

「この妹は……」

「ま、まあまあ弾。蘭……ちゃんだって色々話したいこともあるだろうし……」

 

 しかもいっちょまえに気遣いしてる風なのでさらに忸怩たる思いを抱える弾だったが、イチカの苦笑しながらのフォローにより何とか苦情を呑みこんだようだった。何かが致命的に間違ってる気もするが、気にしてはいけない。

 しかしそんな弾はさておいて、蘭はイチカにべたべたしまくりなのだった。

 

「お義姉さんはやさしーなー。肌もすべすべだし、おっぱいも小さくてかわいいし、お姉ちゃんっていうか妹みたいだなー」

「もう……やめてって蘭、ちゃん」

 

 抱き付きはじめた蘭をやんわりと押しのけるイチカだが、当然ながらそのくらいで蘭が離してくれるわけはない。かといって蘭の行動に従来の変態のような邪さは感じられないので、無碍に扱う訳にもいかない。

 そんなイチカを見て、蘭はあることに気付いた。

 

「……お義姉さん」

「な、なに、かな?」

「お義姉さん、私の名前呼びづらそうにしてますよね」

 

 ドキッ‼ と一気に心臓が跳ねた。確かに、イチカは普段蘭のことを呼び捨てで呼んでいる為ちゃん付けで呼ぶことに抵抗があった。そうでなくとも元々女の子のことをちゃん付けで呼ぶのが恥ずかしいと思う程度には純情なのだ。自分を姉と慕う相手への対処法など分からないのは頷けてしまう。

 蘭はそんなイチカの内心を見透かすように笑い、

 

「だったら、別にちゃん付けじゃなくても良いですよ。義姉なんだから、呼び捨てで」

「え……」

「その代わり、私もタメ口で話しかけても良いよねっ!」

「あ、う、うん……?」

 

 流れでタメ口で話しかけられたイチカは、そのまま勢いに押されて頷いてしまう。元々蘭のことは呼び捨てで呼んでいたのでそこは何も問題ないのだが……蘭の圧倒的コミュ力に押し切られた形だ。

 

「いやぁー、なんか敬語って堅苦しいと思ってたんだよね。壁があるって感じっていうか!」

 

 そう言うなり蘭はイチカに抱き付く力をさらに強めて、そのままベッドに押し倒してしまう。押し倒す……と言ってもその後するのは抱き付いたまま頬ずりするくらいで、変態のようなアレなスキンシップはない、のだが……おそらくこの場に変態達がいれば、血だまりの中に崩れ落ちていたであろうことは間違いない展開だった。

 

「わ、わ、わ⁉ あう、蘭、ちょっとくっつかないで……」

 

 ところで、イチカはこんなナリをしているが内面は相変わらず男である。つまり、人並みに女の子に対して興奮したりする感性を持っている。いかに絵面が可愛い女の子のくんずほぐれつとはいえ、イチカからすれば可愛い女の子に無防備に抱き付かれて頬ずりされているという形になる訳で……。

 

「こ、これはやばいから! まずいって! 絵面的に……」

「絵面的には姉妹のスキンシップだし問題ないって! お姉は恥ずかしがりやだなあ~」

「う、ううう~~~~っ‼」

 

「おい蘭、嫌がってんだろ、離れろって」

 

 いよいよイチカの頭がパンクしそうになったとき、弾が間に入った。片腕でイチカの肩を抱き、そしてもう片腕で蘭を押しのける。

 

「ええー。ちょっとくらい良いじゃん。どうせお兄はいつもベタベタしてるんでしょ?」

「駄目だ。コイツは『俺の』なんだよ。たとえお前でも嫌だ」

 

 そう言って、弾はイチカの肩を抱く力をさらに強める。

 もちろん、これはパフォーマンスである。蘭の狙いは弾には大体分かっていた。要するに、兄の前でイチカに色々とちょっかいを出して嫉妬を煽り、良い感じに本音を引き出して良い雰囲気にしようという魂胆である。聡明な蘭らしからぬ妙に厚かましい態度や、『良い雰囲気になれば退散する』という言動からもそれは間違いないだろう。ひょっとすると、先程(わざとでないとはいえ)二人の逢瀬を邪魔したことを気にしていたのかもしれない。

 偽装カップルである二人にとっては全く以て余計なお世話極まりない言動だったがこれが本当に『お互い素直になりきれないカップル』だったらファインプレーになってしまうので責めるに責められない。よって、弾は仕方がなく蘭の口車に乗ることにしたわけである。

 蘭はそんな兄の言葉を聞いて、にまーりと笑みを浮かべる。

 

「……ありゃー、どうやらお邪魔虫だったみたいで。ごめんね! じゃあ私は退散しますか! じゃあねお姉! またあとで!」

 

 そう言って、蘭はそそくさとイチカから離れて部屋から出ていく。

 残されたイチカは、顔を真っ赤にしたままぼうっと弾のことを見ていた。

 

「……おい、どうした。やっと二人になれたんだぞ?」

「へっ……あっ、ひゃっ、お、おまえ、ちかいっっっ‼」

 

 そう言って、イチカは弾を押しのけようとする。

 此処で二人の体勢について解説しておくと、ありていに言って、弾がイチカをベッドに押し倒すみたいな形になっていた。

 まず蘭がイチカをベッドに押し倒し、その状態のイチカと蘭を遠ざけようと間に入ったのだから、弾がベッドに体重をかける姿勢になるのは当然の帰結である。その上で、弾はイチカの肩を抱いて自分の側に引き寄せていたのだから……全体的に顔が近い体勢になるのも仕方ない話だった。

 ただ、イチカにとっては仕方なくなんかない状況である。

 

「あ……悪りい悪りい」

 

 幸いにも(?)弾はそのことにすぐ気付いて、身体を起こしてイチカと距離を取る……が、イチカはそれでもしばらく、ベッドに横たわった体勢のまま顔を真っ赤にして起き上がることもできなかった。

 

「…………イチカ?」

「な、何でもっ、何でもないっ……」

 

 そう言って、イチカは身体を起こした。何故だか顔が熱くて仕方がないが……イチカは頭を振って気を紛らわせることにした。

 そうでもしないと、自分が自分でなくなってしまうような気がした。

 

 心臓の音が妙にうるさい。

 この部屋に来てから……いや、もっと前、弾と一緒に五反田家に来ている時から、妙ではあったのだ。

 弾と会って、白く小さく柔らかくなった自分の手よりもずっと大きく、節くれだった手で撫でられた時に感じた、あの感覚。

 ゲームに負けてからかわれて、拗ねてベッドに突っ伏して布団を被り弾のベッドの匂いを嗅いだ時に感じた、あの感覚。

 そしてたった今、弾と急接近した拍子に嗅いだ匂い、触れた体温、聞こえた息遣いによって起きた、自分の変化。

『俺の』と言われた時に感じた、不思議な胸の高鳴り。

 それが何故かとても『恥ずかしい』もののように思えて、『いけない』ことのように思えて、イチカは何が何だか分からなくなっていた。

 

「…………、」

 

 そんな姿を弾は間近で見た。

 そして弾は、イチカと違い鈍感でもなければ唐変木でも朴念仁でもない。

 

「……あのさ、お前さ……少しは自分の今の姿とか考えてみようぜ」

 

 弾は、気持ち前かがみになりながらそう言う。

 その目は、どこかぎらついた光があるようにイチカには見えた。

 

「……俺だって健康な男子高校生だぜ? 目の前にガワだけでも可愛い女の子がいてよ、ずっと我慢して、それでそんな顔真っ赤にされて……色々と、こらえるのがキツイって、分かるだろ?」

 

 そう言って、弾はイチカに向けて手を伸ばす。

 イチカは自分の胸の前で手を組むようにして心臓の動きを落ち着かせながら、何も答えずに俯いた。ただ、拒絶もしなかった。

 やはり、心臓の音はうるさい。

 イチカも、女体化した自分の見目麗しさについては自覚している。なまじ『変身』というファクターが挟まっているから、『自分の容姿』……ひいては『自分の身体』という認識を持ちづらくなっているのも事実だ。そのことについては、先程弾に指摘されてイチカの意識の中でも明確になっている。

 

「……だから、……あー……」

 

 そこまで言いかけて、弾は伸ばしかけていた手を止めた。

 

「いや、駄目だな。この流れは胸を揉む揉まないの流れと一緒だ」

 

 そう言って、弾は手を降ろそうとする。驚くべき自制心だった。変態達が見れば拍手喝采を送るか中指を立てるかのどちらかだろう。

 

「……俺は、別に良いけど」

 

 そんな弾の手を、イチカは両手でつかんで止めた。

 

「……は?」

「蘭だって、わざわざ二人きりにしてくれたんだから外で様子を伺うようなことしてないだろ。冷静に考えてみれば、『俺自身』に劣情を抱いてるんじゃなければ、別に身体を少し触られるくらい、ちょっとくすぐったいだけだし。減るもんじゃないし」

 

 イチカは息を吸って、改めて言い直す。

 

「だからその、……俺は別に、お前にならそういうことされても気にしないけど?」

 

 そう言い切った後で、イチカは途轍もなく恥ずかしいことを言ったのではないかという衝動に駆られた。顔から火が出たみたいな熱さを感じる。心臓は相変わらず早鐘のごとくうるさく鼓動しているし、何だか全身がふわふわしたみたいに現実感がない。弾の顔を直視することすらできなくて、イチカは俯いて顔を覆った。

 ぼすん、とそんなイチカの頭の上に、逞しい手が置かれた。

 

「そんなトマトみたいな顔するくらい恥ずかしいんだったら、最初から言うなよ。馬鹿」

 

 ぐりぐりと髪を搔き乱すように乱暴に撫でながら、弾は言う。

 

「少し落ち着け。そういうのは、まだちょっと早い」

 

 ……後半は殆ど自分に言い聞かせるようだったのは、ご愛嬌か。

 

***

 

(…………っべー。やっべー、なんかよくは聞こえないけど、凄いエロイっぽい。大人だ。っべー……)

 

 なお、会話の一部始終は断片的に『よくできた妹』に聞かれていたのだが、あくまで『断片的』なので問題はないのであった。

 

***

 

「えー、もう行っちゃうの?」

「バカ、長居しすぎたくらいだっつの。こいつの休みは少ないんだ。ちょっとくらい恋人同士の時間を作らせてくれよ」

 

 結局、帰りの時間近くになるまでイチカは弾の家で過ごしていた。

 見送りの段になって、蘭は多少の不満さを隠そうともせずにそう言った。それが憎らしさではなく可愛げに変換されるあたり、彼女の要領の良さを改めて感じざるを得ない。

 イチカは申し訳なさそうな表情を浮かべて、ぶっきらぼうな弾に付け加える。

 

「ごめんね、蘭。……私、二一時のモノレールに乗って帰らないといけないから……」

「えー。……まあ、お姉にも色々と事情はあるだろうし、本気で駄々をこねたいわけじゃないけどね。でも、今度会った時はもっと色々話を聞かせてほしいな」

「……、うん。もちろん良いよ。じゃあ、()()()、蘭。おばさんたちによろしく」

 

 少しだけ言葉を詰まらせたが、イチカはにこやかな笑顔を浮かべてそう言った。

 小村チカは、この場を乗り切る為だけの嘘。

 此処から立ち去れば、あとはもう嘘を吐く必要などない。弾は彼女にあっさりフラれ、そしてこの話は終わる。

 だが、一方でイチカは思っていた。

 多分、その話を聞けば五反田家は悲しむだろうな、と。

 そして、こんなにも無邪気に自分の嘘を信じてくれるような人達を欺くようなことをして、本当に良いだろうか、と。

 

「おい、妙なこと考えるなよ、イチカ」

 

 隣を歩く弾が、イチカの考えていることを敏感に感じ取ったのか、すぐさま釘を刺して来た。

 

「アイツら、別に本気で新しく家族が増えたって歓迎してるわけじゃねえよ。からかい半分なところもあるし、それ以上にああいうテンションがいつも通りなんだ。いちいち真に受けてたら始まらねえ。お前も知ってるだろ」

「…………ああ」

 

 そうなのかもしれない。

 イチカが考え過ぎているだけで、実際にはそんなに深刻な問題ではないのかもしれない。言われてみれば、ちょっと会って話しただけなのだ。弾が『ああアイツ、フラれたよ』って言えば、弾の家族は表面上爆笑して弾のことをイジりつつも、適切なフォローを入れてくれることだろう。それ以上に特に話は膨らまず、大きな問題にもならないはずだ。

 だが……かといって、あの時交わされた言葉の全てが嘘偽りだったとも、イチカには思えない。

 姉が欲しかったのだと無邪気に笑う蘭の姿が、妹が欲しかったと笑う千冬の姿と、どうしようもなくダブった。

 そんな彼女に対して嘘を吐いて平気な顔をして笑いかけて、その尻拭いをせずに逃げ切るなんて、そんなことをしてイチカは自分を許せるのか? 大きな問題にならないにしても、小さな棘のような痛みは与えているはずなのに、それを相手にだけ押し付けるなんてことが許されていいのか?

 イチカに一方的に非があるわけではない。冷静になった後ならともかく、ヒートアップした五反田家に真実を告げれば、蜂の巣をつついたような騒ぎになることは目に見えている。その結果生まれるであろう弾や蘭へのダメージを考えれば、あの嘘は長期的に見れば蘭の為の嘘であるとも言える。

 だが。

 たとえそうだとしても、くだらない嘘だったとしても、『妹』に本当のことを隠して、何でもかんでも持ち去ってしまう『姉』というのは……千冬や生徒会長と同じなのではないか? その苦しみを一番知っているのは、イチカのはずではないか?

 

「――――分かってねえじゃねえか、この馬鹿」

 

 べしっ、とそんなことを考えていたイチカの額を弾が指でつつく。

 

「別にさ。そんな深刻な話じゃねえんだよ、これは。蘭のことを考えてるなら気にするな。元はと言えばアイツが勘違いしたのが原因なんだしよ。なんならいずれネタ晴らしって形で女の姿で『自分はイチカです』って自己紹介してみろよ。今はアレだけど、ほとぼりが冷めた後なら笑い話で片付く。これはそういう話なんだって。むしろ重く考えられる方が俺は困るね」

 

 そう言って、弾は肩を竦めた。

 

「そう、なのかな」

「ああ、そうだ」

 

 ぽつりと呟くイチカに、弾は自信を持って答える。

 と、そんな感じでしんみりしかけた二人の間に、イチカが爆弾を投下した。

 

「…………どうでも良いけどさ。そもそもの原因はお前が俺のことをからかって遊んでたことじゃないのか?」

「そっ、それはだな……」

「……中身は男だって分かってたのに。変態。スケベ野郎」

「ぬぐううううフォローしてやったのにこの言われよう‼‼‼」

 

 あんまりな言いぐさに弾は目から血の涙を流す勢いで打ちのめされる。

 そうは言いつつも、この悪友に改めて頼もしさを感じるイチカだった。

 

***

 

 で、もう帰るということで街中に出た二人だったが、この形が外部から見ればいわゆるデートになるのだと気付くのにそう時間はかからなかった。

 というのも、周囲の視線が彼らに否応なしにその客観的事実を突きつけて来るのだ。

 

「……見られてる……」

「そりゃ、一応美少女だしなあ」

 

 ちなみに、イチカを見ている観衆は別にイチカであることに気付いているわけではない。

 普段とは服装の系統が違う……というのも理由の一つかもしれないが、これを用意したのが『何でもあり』を地で行く千冬であるという事実を考えれば、深く考えずとも深く考えることの無意味さに気付けるはずだ。

 そして、観衆がイチカの正体に気付けないとすれば。

 

「あの子、可愛くね?」

「ああ……でも彼氏持ちかぁ……」

「略奪愛ってアリだと思うかね?」

「やめとけ、お前それ完璧に当て馬になるパターンだぞ」

 

 イチカは見事に注目を集めていた。何人か不穏な事を口走っている連中もいた気がしたが……流石に創作の中のように彼氏連れの女に『そんなヤツ放っておいて俺達と遊ばない~?』みたいなことを言う不逞の輩はいないらしい。

 ただ、だからといってイチカ達が平気という訳ではなかった。

 

「弾、今すぐどこか人のいないところに……」

「くそ、視線が痛い……何で俺がこんな目に……? 『なにー相手の人釣り合ってないー』的な視線を浴びてコンプレックス刺激されるのは少女漫画の世界の話であって、男主人公のラブコメにあって良い展開じゃねーぞ……」

「弾、何言ってんだ? 早く!」

 

 むしろ、此処で不良の一人でも湧いてくれた方が気がまぎれる、という有様だった。

 肝心の弾が聴衆の心ないつぶやきで精神にダメージを負ってしまっているので、服の裾をつまんで引っ張ったりしているのだが、それが逆に萌えポイントになるということにイチカは気付いていないらしい。

 

「……此処まで来れば、まあ大丈夫だろ」

 

 イチカにせかされて人通りの少ない通りから少し外れた、裏道のような通りにやって来た弾は、せかすイチカを宥めるようにそう言った。

 

「そうかな? 大丈夫かほんとに……」

「何焦ってんだよ。いまどき不良が襲ってくるなんてパターンねえだろ。っつか、襲われたってISを展開してるお前だったら簡単に返り討ちできるだろうし」

「そっちじゃないって」

 

 イチカはそう言って、弾と歩調を合わせ、隣に立つ。

 それで、弾からもイチカの表情が見えた。

 イチカは困ったように眉を八の字にして、

 

「だって、ああいう風に言われるのって恥ずかしいだろ」

 

 そして、少しだけ頬を紅潮させていた。

 

「えっ……」

 

 思わず、弾は素っ頓狂な声を上げる。

 それで頬を赤く染めるということはつまり、『そういう』意識があるということではないか?

 弾の声を聞いてはっとしたイチカは、朴念仁としては奇跡に近い精度で弾の想像を察し、超速で否定する。

 

「いやいやいや! 違う、そうじゃなくて! ほらなんかこう、俺が女だと思われてるっていう状況がなんかこう、恥ずかしいっていうかさ…………この感覚はお前には分からないか」

「いや、まあ、何となく、そういうことじゃないってんならそれで良いけど」

「うん……」

 

 二人の間に、巨大な沈黙が横たわる。

 まるで気まずいカップルのような雰囲気だったが、それを一番自覚してどうにかしたいと思っているのは他でもない二人自身だった。

 

「ええい! だから人混みは嫌いなんだよ! もう!」

 

 そんな空気を打破するように、イチカはずんずん弾よりも前に進んで行く。そんな様子が少しかわいく思えて、弾は苦笑しながらそれについて行った。

 

「……ありがとな」

 

 弾を先導するような形で歩きながら、イチカはそんなことを言う。

 

「何がだ?」

「今日一日だよ。色々助けてもらったし」

「やめろよ気持ち悪りい。親友同士なんだから当然だろ」

「……へっ」

 

 照れ隠しの色が滲み出ている弾の言葉に、イチカも照れくさそうに笑った。

 そうは言いつつ、何だかんだ言って弾がイチカの身体に『女の子としての魅力』を感じていたことを、イチカは知っている。面と向かってそう言われたし、胸を揉むとかそういう話もあったが弾がそういうことを求めてもおかしくなかったし、責められない状況だったはずだ。だが、弾は最後の最後まで『親友』としてイチカに接してくれた。

 

 そこまで考えて、イチカは気付いた。

 本当のことを言わないのは蘭や五反田家の人達に悪い――確かに、それもある。だが、イチカが五反田家を離れる際、後ろ髪をひかれる思いがしたのは……多分、もっと別の理由だ。今日一日の中で、『小村チカ』という一人の少女として、弾と一緒に過ごした時間が、蘭と一緒に過ごした時間が……『このままなかったことになってしまうのは惜しい』と、そう思えるくらい、魅力的だったから。

 だから、イチカは何だかんだと理由を付けて――もちろんそれも、イチカの本心ではあるけれど――帰りたくなかった。

 

「ありがとね、弾」

 

 だから、イチカは意識して声色を変えて、そう言った。

 織斑イチカではなく、今日一日弾と一緒にいた、弾の彼女である『小村チカ』として。

 

「……やめろよ、気持ち悪りい」

 

 弾は、ただそう返すだけだった。

 そっか、とイチカは気にした風もなく笑い、そして前に進む。

 気付けば既にモノレールの駅は目の前にあって、改札には見慣れたパンツスーツの女性が佇んでいた。

 

 それを認めたイチカは、今度こそ『織斑イチカ』としてあっけらかんと声をかける。

 

「じゃあな、弾。今度は鈴と、三人でどっか行こうぜ」

「おう。その時はちゃんと男の姿で来いよ。もうこんなのは懲り懲りだ」

「いやごめん……それは保証しかねる……」

「…………お前はどういう環境で生活してるんだ……」

 

 なんてことを言い合いつつ。

 イチカの一時帰宅は、大体つつがなく終了したのであった。

 

***

 

 ――現在、世界のあらゆる政府も確認できていない『どこか』。

 そこに、『彼ら』の根城はあった。

 人類が経験した最も大きな世界大戦。その最中から、実に五〇年以上にわたって世界の闇の奥の奥で暗躍し続けていた組織……『亡国機業(ファントムタスク)』。

 彼らの組織構造は、大きく分けて二つからなっている。

 一つは、実働部隊。一人一人がISの国家代表操縦者顔負けの操縦技術を誇り、独力で国家の中枢にあるISを簒奪する単体潜入能力すら有する『本物の戦闘者』の集団。

 一つは、幹部会。総勢三〇〇人程度の『幹部』と呼ばれる参謀達からなり、戦中からあらゆる国のあらゆる干渉から亡国機業(ファントムタスク)を逃れさせてきた『本物の策略家』の集団。

 これに、外部協力者を合わせた組織構造すべてを合わせて、亡国機業(ファントムタスク)

 

「連中は消されたか」

 

『幹部会』の中の一人が、徐に口を開く。

 彼らの間に優劣はなく、それぞれが対等な立場だった。通常であればそんな組織構造では立ち行かなくなるのが目に見えているが、しかし彼らがそんな愚を犯すことはない。

 打てば響くように、誰かがその言葉に答える。

 

「『ブリュンヒルデ』が出たのだ。むしろよくもった方だろう」

「それに、役割は果たしてくれた」

「彼らは潰されたが、デコイとしての役割を全うしてくれたおかげで、こちらはかなり動きやすくなった」

 

 一つの事柄について、複数の人間が矢継早に情報を補足していく姿は、もはや『集団』というより人間という『細胞』によって構成された一つの生命体のような不気味さを持っていた。

 

「『対象』は?」

「ガードが堅い。だが、経過は順調のようだ」

「『周囲』の反応に我々と同じ『因子』を確認している。おそらく『ブリュンヒルデ』も当人に『その因子』が芽生えないようにしているだろうが――アレの魅力には抗いがたい。遅かれ早かれ、『対象』自身もまた同じ『因子』に目覚めるだろう」

 

 それは、おそらく部外者には全く分からない言葉の応酬だっただろう。

 だが、他の誰にも分からない中でも、彼らの悪意は――狂信のもとに進行していく。

 

「五〇年待った」

 

 不意に、闇の中で、しわがれた声が響く。『幹部』の中の一人だった。彼らの中には、このように今にも生命の灯が消えうせそうになっている老人もいれば、まだ学校に通っていてもおかしくない年齢の子供まで、平等に集っていた。

 

「大戦の最中、芽生えた意志に従って我々は集った。そこから、五〇年待った」

「そして今、『対象』がいる。篠ノ之束は自らの欲望に従った結果生まれたイレギュラーだと思っているようだが、それは違う。この世は、そういうものなのだ。それほどまでに、『それ』は強大なのだ」

 

 あるいは、自分達を鼓舞するように。

『幹部』達は言葉を紡いでいく。

 

 これほどの人数が一堂に会し、しかも平等な立場でいられるなんて、そんなことは通常であればあり得ない。

 考えられるとすれば――――それは、此処にいる万人が平等にひれ伏し、そして忠誠を誓う『絶対的な何か』の存在による強固な統治。

 だが、『絶対的な何か』とは、必ずしも物質的なものである必要はない。

 古今東西、あらゆるものの中で最も人を強固に支配した概念といえば――――『思想』を置いて、他にはあるまい。

 

「『TS娘』を、完成させる。他の誰でもない、我々の手で」

 

 少年の声が。

 未来に溢れた少年の、活力ある声が、そう断言した。

 

 千冬は言った。

 TSは正義だ。だから正義そのものであるイチカが迫害されることはあり得ない。

 その事実は確かに疑いようのない真理かもしれない。

 だがそれとは別にして、正義とは時に盲信されるものでもある。だから同じように『TS』を盲信する者がいる可能性まで否定することはできない。

 

 たとえば。

 

 大戦の最中から、『TS少女をちやほやしたい』という欲望に従って五〇年にわたって暗躍を続けて来た、とある変態の集まりとか。

 

 彼らは、『TS少女』を愛している。

 だが、その愛は実に歪だ。

 TS少女の、その『TS後』のみを肯定し、『TS前』の男である存在は認めないとする考え。

 セシリアや鈴音のそれは単なる照れ隠しのようなものでありそこまで深刻なものではない。だが、世の中にはそれを本気で求める者だって確かに存在する。

 つまり、織斑イチカのみを認め、織斑一夏を否定する集団。

 

「我々は『可逆TS』を認めない」

 

 誰かが、そんなことを言った。

 そしてそれは、すぐさま集団の全体に波及していく。

 まるで、血液が全身の細胞に巡って行くように。

 

「TS娘に、『男だった過去』は必要ない‼‼」

 

 インフィニット・ストラトス――Infinite_Storatos。

 世界最高の兵器にして、登場と共にあらゆる兵器を時代遅れの玩具に変え、そして世界の在り方すら捻じ曲げた化け物。

 永遠、無限……途方もない数値、終わりのない時を表す『Infinite』に、生物は存在しえずかといって宇宙でもない成層圏……あるいは転じて地球の頂点つまり最高段階を表す『Storatsphere』を名に冠する存在。

 その名称の意味には諸説ある。

『無限の成層圏』を意味し、揚力すら確保が難しい成層圏にて恒久的な飛行活動を可能にしていることをさしている、といった説。

『永久の最高段階』を意味し、いくら技術革新が起ころうと常に頂点に立つ兵器であるという束の自信を表している、といった説。

 さまざまにあり、意味一つとってみてもISを軸にする組織にとってはその存在意義の根幹に関わる問題で、それこそその言葉の意味一つとって多種多様な団体が喧々囂々の論戦を交わしているような『人類の命題』でもある。

 そして亡国機業(ファントムタスク)では後者の説を、()()()()()()()()()採用していた。

 

 つまり、『最高段階』の意味の曲解。

 

 ――三〇〇人いる『幹部』達の声が、まるで一つの生命体のようにひと揃えになる。

 それこそ、彼らの存在意義であり、悲願でもあった。

 

 それは――――、

 

 

「『永久の女体変化(インフィニット・ストラトス)』を、イチカちゃんに‼」

 

 

 亡国機業(ファントムタスク)――――

 

 

 ――――目的:イチカの性別固定化。


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