―――お前なんか畳間にやっつけられてしまえばいいのだ!!
言い放ち、アカリは四肢を放り出して、湿った地面の上に寝転んだ。
たとえこの場で命を落とすことになろうとも、悔いはなかった。
戦闘では敗れたが、舌戦では勝ちを拾った。うちはアカリという忍を侮辱した仇敵を、それ以上に侮辱し、虚仮にしてやれた。圧倒的な強さと暴力に屈さず、正しい道を進む決断を下すことができたのだから―――。
「ふははははははは!!」
アカリは高らかに笑う。己の忍道を貫けたことへの喜びが、死への恐怖を払しょくした。
「―――うっ、まぶしい」
反射的に、アカリはぎゅっと目を瞑った。生い茂る木の葉によって光が遮られ薄暗かった世界に、突如として光が溢れたのである。広がり切っていた瞳孔が、光を拒絶する。瞼を閉じただけでは足りず、顔に腕を覆いかぶせた。
「お帰りなさい、アカリ」
「えっ」
アカリは間の抜けた声をこぼした。今まさに一つの命が奪われようとしている戦場において、場違いなほど穏やかな声音が、アカリの鼓膜を揺らした。
聞きなれたその声が、山中イナのものだということは、アカリにはすぐにわかった。
「イナ、逃げろ!」
すぐに分かったからこそ、アカリは声を荒らげた。近くにはうちはイズナがいるはずで、だとすればイナもまた口封じに殺されてしまうかもしれない。なぜ、どうやってイナがここに現れたのか、などと考える余裕もなく、ただただ友を死なせたくない一心で、アカリは光に怯む瞳を、意思の力でこじ開けた。
「はっ……」
―――光差す世界の中に浮かぶイナの優しい微笑みが、アカリの瞳に入り込む。
仰向けに倒れるアカリのすぐ隣で、しゃがむイナが微笑みを浮かべている。
それはとても幻想的な光景で、張り詰めていたアカリの心を温めた。間の抜けた吐息が零れ落ち、知らず強張っていたアカリの体から、ゆっくりと力が抜けていく。
「まさか、もどった……のか」
「お疲れさま。安心していいのよ。もう、終わったから」
試験時間が過ぎ去って、木ノ葉隠れの里に帰還したということをアカリが理解するのに、少しだけ時間がかかった。零れ落ちたアカリの声は気が抜けたもの
イナはアカリの間の抜けた様子に小さく笑い声を零しながら、アカリの傷ついた体へ手のひらを向ける。イナの手のひらが優しい光を発し―――しばらくして、アカリの体へ吸い込まれるように消えていく。
「ぁ……」
アカリは震える唇を、ぎゅっと噛みしめた。
そうしなければ、涙が溢れてしまいそうだったから。
―――死が恐ろしくないなど、大嘘だった。本当は死にたくなどなかったし、一人で残るなんてことはしたくなかった。
自分が誰かに愛されていることを知って、アカリの孤独はなくなった。だからこそアカリは強くなることを誓い―――心のどこかが弱くなった。
だがアカリは、己が折れることを決して認めなかった。女の意地も確かにあった。年長者としての見栄もそこにはあった。だが、アカリを最後の最後まで突き動かしたものは―――。
「ずいぶん、苦労したみたいね」
「―――そんなことは、いいんだ。それよりも、聞いてほしいことがある」
イナの労りの言葉を、アカリは受け流した。安心したなんて、気を抜いてはいられない。未だあの森には、逃げ続けている者がいる。アカリという足止めがいなくなった今、うちはイズナは逃げた子供たちを殺そうとするだろう。それだけは決して許さない。
「ぐ、うぅ」
アカリは痛む体に鞭を打つ。イナの手首を強く握り、それを手綱に体を引き起こした。
「ちょ、ちょっと……!! あんまり無茶しちゃ……!」
「聞いてくれ!!」
困惑するイナに強く言葉を叩きつけ、言葉を遮った。
アカリは、直後に奥歯をかみしめた。ほんの少し視線を泳がせて、本当に悔しそうに、掠れた声を絞り出す。
「……三代目火影と、畳間へ伝えてほしい。試験場の森に、恐ろしく強い敵が紛れ込んでいる。私も……くやしいが、歯が立たなかった。名はうちはイズナ、千手一族の命を―――」
「ああ、そのことね。それ、変化した畳間だから大丈夫よ」
「いいから聞け、イナ。うちはイズナは千手一族の畳間で……えっ?」
イナの言葉に、アカリの思考が停止する。
うちはイズナは千手一族の畳間の命を狙っているのであって、千手一族の畳間であるはずがない。そもそもうちはイズナはうちは一族であるからうちはイズナであって、千手一族であるなら千手畳間になってしまう―――?
アカリの脳裏を支離滅裂な言葉の群が過ぎ去っていく。
「アカリさん、酷い怪我を……!!」
「お前たちは……」
アカリの思考が纏まりかけたとき、室内に声が重なって響いた。
アカリのもとに血相を変えて駆け付けたのは、加藤ダンを筆頭とする下忍たちである。アカリは3人の下忍たちの顔を凝視する。
「なぜここに? 森にいるはずでは……」
すぐにでも助けに行こうと思っていた者たちがそこにいる。
いったいなにがどうなっているのか、次から次へと押し付けられる情報。アカリの困惑は頂点を極め、素面で動揺を現した。切れ長の瞳は可愛らしく真ん丸と開き、いつも固く閉ざされている唇は力なく開いている。
「アカリさん……」
「お互い、手ひどくやられましたね……」
「綱手、大蛇丸……?」
綱手と、綱手の肩を借りた大蛇丸が疲れ切った表情を浮かべて、近づいてくる。
正真正銘、戦いが終わったことを、綱手と大蛇丸の雰囲気から感じ取ったアカリは、安心したように、深いため息を吐いた。
「アカリさん、ありがとうございました。俺たちのために、こんなにまでなって……。俺、このことは一生忘れません」
加藤ダンが、深く頭を下げる。すると次々に、下忍たちがアカリの周りで、感謝の言葉を口にする。それは疲れ果てていたアカリの心に、不思議なほどに真っ直ぐに入り込んできた。
湧き上がる奇妙な高揚感。続いて感じたのは、染み入るように切ない感情の奔流。己の決断と選択が決して間違いではなかったことを、他ならぬ彼らこそが証明してくれた。一年前、アカリは親友であるはたけサクモや山中イナのように、誰かのために生きていきたいと願った。だがこれまでの人生を自己満足に生きてきたアカリには、その方法が分からなかった。だから友に恥ずかしくない自分になろうと、中忍試験を本格的に目指した。
誰かのために生きたいと願っても、その答えが分からない。己の命を賭けた今回の戦いも、結局は自己満足に過ぎないのではないか。答えの出ない問答は、終わらない苦味となってアカリの心を逸らせていた。
だが、簡単な話だったのだ。己で出すことのできない答えは、他者の姿が、鏡となって教えてくれる。今―――アカリの心は他者の姿を鏡として、光となってアカリの下へ戻った。
「……」
アカリは首をたらし俯いて、彼らの視線から自分の顔を隠した。続いてなにがしかの憎まれ口を叩こうと口を開き―――止めた。
アカリの心は、そんな心にもないことを口にしたいわけではない。真っ直ぐに言葉を紡いだ彼らの心を、不用意に傷つけたくはなかった。
力なく首を垂らし、表情を隠したまま、少しだけ彼らから顔を背ける。そして数瞬の迷いの後、アカリの口が紡いだ、たった一言だけの言葉。
―――無事でよかった。
俯いたままのアカリの、表情は誰にも知ることはできない。けれどもほんのりと赤く染まった耳は、雄弁にそれを語る。
下忍たちの表情が明るくなる。噂は噂でしかなかったことを、下忍たちは知った。破顔した子供たちは子供らしい明るさで―――強面なだけのシャイなお姉さんに、心からのお礼を、口にした。
★
「盛り上がってるところ水差しちゃって悪いんだけど、時間も押してるし、話をさせてもらってもいいかしら?」
ずっと黙っていたイナが口を開いた。
黙って俯いたままのアカリの周囲でわいわいと盛り上がる下忍一同の輪へ、ひょいと入り込むのは少々気まずいが、ずっと放置しているわけにもいかない。アカリも耳が爆発しそうなほどに真っ赤に染まっているし、そろそろ助けてやるかという気持ちもあった。
「そうだ、そうだぞ、イナ。そなた、先ほどは何と言った? 畳間がどうとか、言ってたろう」
真っ先に反応したのはアカリであった。やいのやいのと持ち上げられている状況に耐え忍んでいたところに垂らされた蜘蛛の糸に、反応しないわけもない。
想像通りの反応を示したアカリに、やはりとイナは小さく笑った。
「アカリに言ったそれも含めて、今から話すことがあるの。―――まず最初に伝えます。この場にいる下忍6名のうち、大蛇丸を除く5名に、第2試験へ進む権利を与えます」
「―――なるほど……そういうことか。えげつのない人だ」
大蛇丸が呟く。綱手の肩から力なくずり落ちて、尻餅を付いた。
この場で最も頭が切れる大蛇丸は、イナの言葉だけで真実にたどり着いてしまった。おおよその背景を理解し、今までの緊張が無意味なものだと知って、疲れ果てたのである。
その泥だらけの恰好からして奮戦したのだろうと察するイナからすれば、少々気の毒にも思った。
―――そして数瞬遅れて、下忍たちの驚嘆が木霊する。
「第一試験はすでに始まっていて、今、終わりました。そのことについて、説明するわね」
―――試験官総括となった千手畳間が考案した、第一試験。
その内容の一つは、受験登録のために意気揚々と受付に現れた下忍たちを、これでもかというほどに脅かして、震え上がらせること。
もう一つが、任務遂行中、圧倒的な格上に遭遇したケースを想定し―――受験生をやはり、震え上がらせること。千手畳間だけでなく、はたけサクモやうちはカガミといった里が誇る猛者たちが各々、これと思う敵の姿に変化した状態で、森を巡回し、脅しまわっていたとのことである。
忍として無様な姿を晒した者は、気絶させられる。気絶した状態で里へ帰還した者は、失格の烙印を現場の試験官に押されたとみなし、里で待機している試験官から、その旨を伝えられるということである。
なんだそれはと、綱手が唸った。下忍たちも困惑を隠せず、少なからず不満げな表情を浮かべている。
その中で平静を保っていたのは2人。
最初こそ驚愕に停止していたアカリと、失格となった大蛇丸であった。
「この試験で求められた資質は、たった一つ。忍としての覚悟そのもの」
―――任務に失敗することは、命を落とすことと同義である。それを知ってなお忍の道を進むことが出来る「強い意志」。
―――そして、いついかなるときでも冷静な思考を保てる「強靭な胆力」。
これらが備わった「忍としての覚悟」を、この試験では見極めた。
「一年前、二代目火影・千手扉間様は、初代・柱間様からの悲願であった他里との和平条約が結ばれるはずの記念すべき日に、命を落とされた」
中忍とは、ただ才能ある者に贈られる称号ではない。守られる側の子供から、守る側の大人になったという証明として贈られるもの。
ゆえに子供たちは知らなければならない。中忍になる前に、大人になる前に、忍びという世界の、本当の厳しさを。
「里一番の実力者である火影様であっても、戦いの中で命を落とすことがある……。あなたたちはこれまで、それぞれの担当上忍に守られてきた。でも中忍になるということは、上忍の庇護下から抜けて、自分が仲間を守る立場になるということ。一年前、里の未来を守るために戦死された二代目火影様のように、誰かのために命を捨て去る側へ、あなたたちが進むということです」
少しの間。しんと張り詰めた空気の中で、イナが最後の言葉を告げる。
「私は先ほど、第二試験へ進む権利を与えると言いました。今、改めて問いましょう。―――あなたたちは、第二試験へ進みますか? 進みませんか? それを選ぶ権利を、あなたたちに与えます」
さてどうなるか―――絶句する下忍たちを、イナもまた真剣な表情で見守った。
★
「進みます。みんなを守る存在―――火影が俺の、夢だから」
胸を張った、加藤ダンの言葉。
「ふふ」
アカリが、少し笑った。ダンが少し不安そうに、アカリを振り返る。
「いや、馬鹿にしたわけではない。良い夢だ。胸を張れば良い」
アカリは、誰かを思い出すようにして、また小さく笑った。そんなアカリの言葉に頬を染め、ダンがしどろもどろに礼を述べる。
火影という夢。その言葉を聞いたのは、確か初めての中忍試験だった。いがみ合っていた―――というよりは片方が勝手にいがんでいた―――2人がはらわたを見せ合い、友となったアカリの運命の日。あの日から、随分と遠くへ来たものだと、アカリは複雑な色を乗せて笑う。
「だが、その夢は果てしなく大きいぞ。とっても意地悪な先輩が、前を突っ走っているからな」
「えっ」
子供のころは、確かに競い合う仲だったはずなのに―――彼はいつのまにか遥か高みへと、昇って行ってしまった。
二代目火影が戦死した雲隠れ撤退戦。畳間が変わるきっかけとなったあの事件で、畳間が何を得たのか、アカリには知りようがない。だがきっと、彼も苦悩の果てに今に至ったのだろう。今のアカリは、そう思えるようになった。
ずっと昔、「だいたいのことを千手が悪い」としたあの日から、アカリは強く、大きくなれた。それはきっと、自分だけの力で成し遂げたことではないだろう。
サクモとイナは友として、”気づき”のきっかけを作ってくれた。孤独を癒してくれた2人の姿に、人として歩むべき道を見た。関係が近すぎるがゆえにうちはカガミには出来なかったことを、二人は成し遂げたのである。
一方で畳間は”超えるべき壁”として、偶然にもそこにいた。そして今は畳間自身の意思で、そうなることを選んだのだろうと、アカリは勝手に思っている。
アカリが前に進むことを本心から望み、そのために必死で足掻いていることに気づいたからこそ、畳間は
その結果、アカリに嫌われることになったとしても、畳間は後悔しないだろう。
―――
だから―――アカリは胸に誓った。いつか必ず、畳間に報復すると。
ああ、そうだ。アカリは、悔しさを感じながらも、今回の試験に感謝した。だからこそ、それだけでは終わらせない。ライバルならば、やられっぱなしは似合わない。
だから―――そう、嫌いになんて、なってやるものか。やり返して、それでおしまい。悪い感情なんてものは、二人の間にはきっと必要がない。
「私は……」
絞り出すように言ったのは、綱手。アカリは腕を組んだ。育った胸部が自然と強調される。
「……降りよう、かな。もう一度、猿飛先生に修行をつけて貰ってからにする」
少し寂しげに言った綱手は、イナの言葉と今回の試験を経て、中忍になるにはあまりにお粗末な己自身に気づいた。
森での戦いにおいて、アカリと大蛇丸を残して去った選択に、正否はないだろう。残っても犬死というならば、少しでも生存者を増やす選択は、間違っていると断じることはできない。綱手の兄である畳間が見ていたのは、強大な敵に立ち向かえる度胸ではないことは、イナの言葉から察することはできる。
逃げるにしろ、戦うにしろ、その選択を己の意思で迅速に決断し、実行できるという点を、畳間は見ていた。
綱手にはあの選択を、自分の意思で決断できる強い意思がない。迷って迷って、時間を無駄にするだけ。決断力が欠けている。
だがそれは、綱手が悪いわけではない。そうなってしまう状況があった。綱手には、幼いころから常日頃、ずっと綱手を見守ってきた兄がいた。それは”妹”である綱手の、超えるべき壁。綱手はそれに気づくきっかけを得ることができたことを感謝している。必ず次は兄を驚かすほどの成長を見せてくれようと、拳を強く握った。
「―――そういえば」
綱手が、座り込んでいる大蛇丸に視線を向ける。
「イナさんの話だと、大蛇丸は合格条件満たしてそうよね」
「ふむ、それは私も思ったことだ。私とともに戦地に残り、意識を失うまで仲間のために戦い抜いた大蛇丸が失格というのは腑に落ちんな」
綱手の言葉に、アカリが頷いた。アカリは共に戦った大蛇丸を認めている。それが失格というのは、いささか気に入らないことだった。
―――そういわれてもと、イナが困ったように頬に手のひらをあてる。
「あたしは状況を知らないし……原則として、気を失って戻ってきた子は失格なのよ。あたしはあんたたちとは既知の仲だからなんとかしてあげたいけど、それこそ職権乱用だし」
「うーん、お兄さまの視点から、何か不合格の要素があったのかな?」
「どうかなぁ。あいつ、大蛇丸みたいな子は好きだと思うんだけど」
「えっ」
綱手とイナが小首をかしげ、疑問を口にする。そんな二人を呆れたように見て、ふんと、アカリが鼻を鳴らす。
「あいつのことだ。どうせ、大した理由ではない。調子に乗って加減を間違えてやり過ぎたとか、そのあたりだろうよ」
「やだ、ありえそうで怖いわね」
笑いあうアカリとイナを交互に見て、ふと思い出したように、綱手が疑問を口にする。それは受付のとき、担架で運ばれていった血濡れの受験生たちのこと。
心配そうな綱手に、イナは何でもないように答える。
「ああ、あの人たちは、変化の術でそんな感じに化けた中忍たちよ」
「やっぱりそうなんですね。はぁ、なんかどっと疲れた感じだよ……」
綱手が言葉通り疲れ果てたといった仕草で、大蛇丸の隣に腰を下ろす。大蛇丸は肩を落としていたが、無理もないだろう。兄の性格上、本当に手違いで大蛇丸を気絶させた可能性は高い。綱手はあえて大蛇丸には触れず、そっと視線を逸らした。
「”―――何があっても、畳間は私が止める”。アカリ、すごくかっこよかったなぁ。ちょっとドキッとしちゃった」
「お、おぁ……。そ、それは忘れろ!! ず、ずるいぞ!! ずるいずるい!!」
にやっと笑ったイナから投げつけられた爆弾によって、アカリの両頬が瞬時に赤く染めあげられる。
図らずも弱みを握られた形になったアカリは、瞳を恥ずかしさに潤ませて、イナに詰め寄った。真っ赤な顔をイナの顔に近づけて、忘れろと吠えるアカリは、もはや外聞もあったものではない。
イナとアカリは、その後しばらくの間、じゃれあいを辞めなかった。
皆が皆新たな目標を得て奮起している中、座り込んでいる大蛇丸。彼には、自分の頭の上で交わされる女たちの明るく可愛らしいじゃれあいが、妙にうっとうしく感じた。自分が失格になった理由の候補が、すべてろくでもないものであることに自分でも驚くほどに落ち込んで、この世の無常を見たような気分になっていた。
★
「あんた、随分痛めつけたみたいじゃないの」
「アカリには必要なことだっただろ」
包帯で体中を覆った男―――千手畳間が横になっているベッドに、イナが腰を下ろした。畳間の方へと体をひねらせて手を伸ばし、イナは畳間の頬を優しくなでる。畳間はくすぐったさを表に出さず、イナにされるがままに、その愛撫を受け入れていた。
「大蛇丸には?」
「正直、すまないと思っている」
「やっぱり。ほんと、あの子、かなり落ち込んでいたわよ。ヒルゼンさんに修行をつけて貰っていて、自信もあったみたいだし……。でもまあ、挫折も必要でしょう。謝ることはないと思うけど、張り切り過ぎよ」
イナの柔らかな指が、畳間の頬を滑り、首筋へと降りてくる。畳間はイナの指の感触へと視線を向ける。次いで、イナがどのような意図でこれをやっているのか、イナの瞳へと視線を向けた。その表情は心配の色で溢れ、優し気な微笑みで隠された、寂しさと不安が読み取れた。
「また、酷い怪我。本当はカガミ先生、呼ぶ予定だったんでしょ。珍しく怒ってたわよ。畳間が独断専行をしたって」
「俺が独断専行をするのはいつものことだろう」
「こらっ」
「ふん、叔父貴の仇を一人で討ちたかっただけだ」
「―――嘘」
腐ったような物言いを、イナが即座に断じて捨てる。畳間はその思いきりの良さと、畳間がそういった憎しみに捕らわれていないと信じているイナの目の光に、参ったとため息を吐いた。
「やはりお前には適わんな、イナ。確かに、嘘だ。金角は確かに憎いが、独断専行の理由はそこじゃない。まったく……俺は本当に、
「なに当たり前のこと言ってんのよ、ばーか」
「あの日、お前のおかげで、俺は本当の意味で男になれた」
―――思い出されるのは、あの日の記憶。鍛錬をしていたイナとアカリを、畳間が訊ねたあの日である。
アカリとの鍛錬を切り上げ、自宅でシャワーを浴びて汗を流し、イナは意気揚々と、千手家を訪れた。
一方、畳間は苦悩に満ちた表情を浮かべ、イナを迎え入れたのである。
畳間はあの日、抱えていた苦悩を、イナへと打ち明けた。
本当に自分が試験官で良いのか、子供たちに”道”を教える者として、自分が本当に相応しいのか―――。畳間は苦し気に、強く握りしめた拳を震わせた。
一年間、過酷な環境を生き抜いた畳間の原動力に、二代目火影への気持ちがあった。彼の作り上げた里は決して踏み荒らさせはしないと、畳間はその身を粉にして、効率よくかつ機械的に、ずっとずっと踏ん張ってきた。
イナは重荷に苦しむ畳間を見て、改めて思った。この外敵に強く、身内に弱いダメ男は、ずっと無理をしてきたのだと。二代目火影のようになろうとして、苦しんでいる。それがそもそもの間違いなのだと、イナには瞬時に理解できたが、畳間は気づけていないらしい。
自分のこととなると鈍感というべきか、あえて目を逸らしているのか、イナには後者のように思えてならなかった。心転身の術で畳間の深層心理へ入り込んだことのあるイナは、畳間のうちに眠る大きく暗い力を、知っていた。
苦しんでいる畳間を理解することなどイナには造作も無いし、踏ん張る男を支えるなんてことに苦を案じるイナではないが、畳間は一つ、間違っていることがある。
それは千手畳間という忍びの根源に関わる部分。それに気づけば、畳間はもっと強くなる。イナは願いを込めて、一言だけ、口にした。
―――あなたが心から憧れた火影は、誰かしら。
一瞬、呆けたような顔を浮かべた畳間。その次の瞬間、畳間の表情から一切の苦悩が消えた。イナはそのあまりの変わりように思わず笑ったが、畳間からすればそれどころではなかっただろう。己の苦しんでいた部分を瞬間的に察し、たった一言でその苦しみから解放して見せたのだ。思わず涙が溢れ、畳間はイナを抱きしめた。ありがとうと、言わずにいはいられなかった。
そう―――イナにはすぐに分かったのである。ある意味で柱間を上回る完璧超人である千手扉間に師事し、その考え方や生き様を叩きこまれてきた畳間が、強烈な別れを経て、”そのようにならなければならない”と自分を強制してしまうことなど、イナからすれば少し考えればわかることなのである。かつて、千手柱間を真似たように。その点が全く変わっていないことにイナは苦笑いを浮かべたが、かつてよりは己を制御する力を手に入れているところから、成長はしているのだろう。
だが、いくら努力しても、畳間は柱間になれなければ、扉間にもなれない。畳間が心の底から憧れた千手柱間。では何故畳間が柱間に憧れたのか―――それは柱間が、イズナという存在を認め畳間という個人を愛したうえで、里の仲間だと受け入れたからに他ならない。
イナが言いたかったのは、里のために自分を殺す必要はないということだ。畳間は畳間のままで、里のために生きればいい。里は誰をも受け入れる、里に住まうものは皆家族である。千手柱間が興した里は、きっとそういうものだから。
イナに諭された畳間は、本来の持ち味を取り戻した。里のすべてを愛する、うちは一族の魂を発端とする、真に深い”愛”を。
―――ゆえにその後、畳間には里を蔑ろにしているように見えた猿飛ヒルゼンとぶつかり、里の子供たちを案ずるがあまりに、厳しい試練を課した。
優しすぎるがゆえに厳しくなれなかった柱間と、情熱家であるがゆえに冷厳さを求めすぎた扉間―――彼らから受け継いだそれらが畳間の中で形になるのは、もう少し先のことだろう。
「アカリ、とってもおかんむり。うちはイズナって人に、相当思い入れあるみたいよ」
「ソフトクリーム一つで、許してくれるといいんだが……」
イナと畳間が笑いあい、共に青空を見上げる。金角をともに打ち取ったという名声を手に入れた岩隠れは、しばらくの間、木ノ葉に手を出すことはないだろう。砂隠れも金角との関わりを表立って広めるわけにはいかず、沈黙を保つはず。
―――だがこれで、もしも戦争が起こったとすれば、砂が狙うのは確実に木ノ葉となるだろう。心情的に、木ノ葉は砂を煽りすぎた。
三代目火影はそれに気づいているのか。霧の情勢も不安定であり、使者はつっぱねられている。今回、ギリギリの賭けには勝ったが、それは偶然の産物に過ぎない。それに―――今回の金角討伐戦で、木ノ葉の戦力は岩の知るところとなった。畳間がカガミを応援に呼ばなかったのも、カガミに付いてくる岩の忍びに、畳間の奥義を知られたくなかったからだ。
畳間は思う。千手扉間と言う名の抑止力の喪失は、ヒルゼンやダンゾウが思うよりも遥かに大きいと。他里だけでない、内なる懸念。
千手一族の男は第一次忍界大戦にて里を守るために矢面に立ち、多くが戦死した。残った女たちも猿飛や秋道へと溶け込んで、千手の名を背負う者が極端に減っている。戦国の世で最強の一角を誇った一族の衰退―――これから先、木ノ葉はうちは一族に頼らざるを得ない状況に追いやられていくだろう。それだけなら構わない。今のうちは一族の当主は誇り高いが馬鹿ではない。一族そのものも、里の皆から憧れられるエリートとして木ノ葉に君臨し、警備隊として里を守るその姿は、子供たちの羨望を集めてさえいる。
だが、里の英雄として持て囃されるようになったうちは一族は、やがて気づくはずだ。千手扉間による隔離政策の実態を。
畳間は今、己が本当にするべきことに気づいた。柱間が甘く、扉間が厳しすぎたうちはへの政策の、落としどころを見つけること―――。それこそが畳間の役割。
畳間は、今はリンゴの皮をむいてくれている、愛らしい女性へと視線を向ける。胸の奥からこみ上げる感情は、ようやく自覚した己の本心である。
だが、畳間は気づいた。扉間がうちはアカリと千手畳間を一緒の班とし、うちはカガミを担当上忍とした本当の思惑に。
いつか、選ばねばならないときが来る。だが、そのときまでは―――。
柔らかな枕に頭をゆだね、畳間は静かに、目を瞑った。