ほむらの長い午後   作:生パスタ

4 / 10
04_ほむらの速さはどれくらい

 少女達が、〈転移ゲート〉なるでっかいドーナツを通過すると、キュゥべえが太陽の中心だとか言っていた先程の場所と見分けがつかないほど似通った光景が広がっていた。

 目的不明の白い管が網目状にびっしりと通っている巨大な球の内側から見える景色は、あまり気持ちのいいものではない。ほむらは、振り返る。白と黒の絵の具をぶちまけて混ぜ合わせたかのような様相を呈しているゲートの出入口が、大口を開けていた。

 

(コレは、もう二度と通りたくないわ)

 

 ほむらは、この〈転移ゲート〉なるものを通過している間に、何か、とてつもなく恐ろしい思いをしたような気がした。しかし、それを思い出すことができない。何者かが、自分の記憶を消去したが、恐怖心だけは全て消すことができなかったかのような、不愉快な思いだけが残った。

 彼女は、身震いしながらキュゥべえに尋ねた。

 

「今度こそ、あなた達の星に着いたのかしら?」

 

「まだだよ。僕達の星系には着いたけどね。ここは恒星の中心部さ」

 

「またなの? あなた達はよほど恒星の中心が好きなようね。ここに用がないのなら、早くあなたの母星へ案内しなさい。こんな気色の悪い場所に長居したくないわ」

 

 宇宙エネルギー回収マニアのインキュベーターは、とにかく少しでもエネルギーが回収できる場所には、基地を建造する習性を持っているようだ。やはり、がめつい連中だ。

 

「えっと……。キュゥべえ、恒星系内ならゲートを通過しなくても、どこにでも転移できるのよね? 確か、太陽でそんなことを言っていたと思ったのだけど……。もし、そうなら、ここからあなたの母星まですぐに転移できるということなの?」

 

 マミが、恐る恐るといった風に質問する。よくもまあ、そんな訳の分からないことを憶えているものだ。この宇宙人の戯言を一番理解できているのは、おそらく彼女なのだろう。ほむらは、素直に感心した。

 

「保安上の理由から、母星には〈転移ゲート〉は設置されていないし、任意座標転送もできないようになっているんだ。過去に、ゲートを不正利用して母星に転移してきた異星生物が、破壊活動を行ったことがあってね。そういったことがもう起こらないようにしているのさ」

 

「うわ、宇宙人同士の戦争かぁ、こりゃまるっきり映画の世界だね」

 

「魔法少女のアンタが、言えた台詞じゃないけどな」

 

 さやかと杏子が、遠く地球を離れた地で馬鹿丸出しの掛け合いをしていた。

 フヨフヨと宙に浮かぶキュートな小動物は、一見、戦争というものとは無縁の存在のように思える。しかし、その戦争の結果がどうなったかなど、インキュベーターが今もなお健在である以上明らかだ。戦いに敗れた異星人達はどうなったのだろう。貴重な感情エネルギーの源泉として利用価値のある人類と違って、その異星人が、キュゥべえ達にとって何の利用価値もなかったとしたら、いったい、どうなってしまうのか。感情のない生物が何を考えて、何をするのか、ほむらは、そんなことは知りたくもなかった。

 

「母星へは〈主導管〉内を移動することになるんだ。まあ、軌道エレベータのようなものだね。〈転移ゲート〉と結合している管が〈主導管〉だから、ゲートの壁面沿いに100mほど移動すれば、すぐに〈主導管〉の物資搬入口に着くよ。ああ、言い忘れてたけど、ゲートの構造体に直接触れないようにして欲しい。いくら特別性の体でも、反物質と接触すると対消滅が起きてしまうからね。いかに危険か分かるだろう? じゃあ、行こう」

 

「ええ、分かったわ」

 

(分かるわけないでしょう)

 

 ほむらは、面倒なので、分からなくても分かったと答えておいた。

 少女達は、習得したばかりの飛行スキルを使用して、キュゥべえの後を追う。彼女達は、宇宙人に言われるがままに行動するほかなかった。右も左も分からないし、ついでに上も下も分からないこの訳が分からない場所で、もしも迷子になって置いてけぼりを食らったとしたら、どうなってしまうのか。想像もしたくないことだった。

 

「ここが〈主導管〉の搬入口だよ。この中の〈移送体〉に乗れば、母星まで行くことができるんだ」

 

 キュゥべえは、そう言って、〈主導管〉とかいう巨大な柱の側面に、幾つも設けられている“窓”に向かって空中移動し始める。その窓は、1辺がおよそ2mの六角形で、ガラスの代わりに透明な薄い膜が張られている。キュゥべえが、その膜にぶつかった瞬間、水面に小石が落ちたときのように静かな波紋が広がって、つるりと柱の中に飲み込まれた。

 少女達は、もう何かに躊躇する段階はとっくに過ぎていたので、次々と窓に向かって飛び込んでいった。

 〈移送体〉は、1辺20m程の正六面体で、進入した少女達は、ゲート側の面を下にして立つようにと、キュゥべえに指示された。これで、進行方向が真上になるのだという。ほむらは、この中に入った瞬間から、体中に纏わりつく水流を感じていた。室内は、空気のように透明な液体で満たされていて、体を動かすたびに、サラサラとした殆ど抵抗のない水が静かに渦巻くのだった。

 少女達が、感嘆の呟きを漏らしながら、手足を色々と動かして摩訶不思議な液体の感触を楽しんでいると、床面に着地したキュゥべえが、水中でもお構いなしに喋り始めた。

 

「そろそろ、射出するよ。少し反動が大きいから気をつけて欲しい」

 

「なあ、何分くらいでアンタの星に着くんだ? まさか、何時間も掛かるとかはねぇよな?」

 

 当然、確認するべき事項を杏子が尋ねる。人類とインキュベーターの時間の尺度が大きく異なっていた場合、移動時間だけで何十年も掛かるということもあり得るのだ。そうなると、とてつもなく面倒になることだけは間違いない。

 

「心配要らないよ。ここから母星までは50億kmしか離れていないから、主観時間で10分もあれば着くね。〈移送体〉の加速度は――君達に分かりやすいように加速度の単位に、重力加速度Gを用いると、だいたい283万Gになるんだ。最高速度は光速を遥かに超えることになる。あっという間さ」

 

 地球を12万5千周する距離が、たったの10分とは景気のいい話だ。しかし、地球から1秒と掛からず50垓kmも移動してきたのに、わずか50億kmの移動に10分も掛かるなんて、なんともおかしな話だと感じてしまう。それとも、おかしいと感じることがおかしいのだろうか、天文学的距離を感覚的に掴む事など、人間には到底無理な話だ。ほむらは、今、自分がいる20m角の室内を見渡した。

 

(ヒトが見渡せる距離なんて、コレくらいでちょうどいいわ)

 

 ほむらは、ふと、軽く床面に引っ張られるような感覚を覚える。おそらく、電車が発進したのだろう。ジェットコースターくらいにひどい乗り物だと想像していたのだが、拍子抜けだった。もっとも、ジェットコースターに乗ったことなど一度もないが。

 

「ねえ、キュゥべえ。外の様子は見れないの? せっかく宇宙まで来たのにさ。気味の悪い白い壁しか見てないんだけど」

 

「残念だけど、外部からの可視光を通過させるような構造になってないんだ。それに、もうそろそろ光速を突破するから、もし外を見たとしても全ての光が一点に収束していて、何も見えないと思うよ」

 

「えー、それじゃあさ。……うーん、どうしよう。やることないわ、アハハッ!」

 

 さやかのテンションが、やたらと高まっている。わりと宇宙旅行を楽しんでいるようだ。彼女は、理由もなく笑っていた。

 ほむらは、なぜか周囲の液体の抵抗が強くなってきていることを煩わしく思いながら、じっと立っていた。目的地まであと僅かとなって、徐々に緊張が増してきている。無事にソウルジェムを強化できるのか。再び時間遡行の魔法を使えるようになるのか。そして――会うことができるのだろうか。考えれば考えるほどに不安が増してくる。

 宇宙の果てまで来て、宇宙人の乗り物に乗って、光の速さで移動しながら、それでも考えることは、ただ、ひとりのことだけだった。

 

「キュゥべえ、この水のようなものは何?」

 

 マミが、自身の周囲に満たされた液体を両手で掬い取るような仕草をしながら、不思議そうに尋ねた。誰も彼もが、皆一様にキュゥべえに質問を投げ掛ける。それも無理のないことだった。少女達が見る物は、全てが未知であり驚異であり、その正体を知らないままではいられなかったからだ。

 

「これは緩衝材だよ。地球上で体重60kgfのマミは、283万Gの下では体重がおよそ1億7000万kgfになってしまう。今の君達の体が、マルチウォールナノチューブで構成されているといっても、さすがにこの加速力には耐えられない。もっとも、君達の場合はソウルジェムさえ無事なら問題ないんだけどね」

 

「……私はそんなに重くない」

 

 背筋がぞっとするような声だった。

 ほむら達は、ニヤニヤしながら体重1億7000万キロのマミを見守っていた。

 

「もちろんさ。あくまで加速中の話であって――」

 

「そっちじゃないわ!」

 

「ふうん、じゃあそういうことにしておくよ。まあ、何にせよ加速力の99.9パーセントは減衰するんだ。何も心配――キュプッ!!」

 

 いきなりキュゥべえがぶっ潰れた。

 

「うわっ!!」

 

 近くに立っていた杏子が、鋭い悲鳴を上げながら大きく後ずさる。薄く引き延ばされて、床に張り付いた白い物体が彼女の足元まで迫っていた。ほむら達も、驚きのあまり口をポカンと開けて、ぺっちゃんこになった宇宙人の成れの果てを見つめていた。

 

「――いらないよ。ああ、どうやら荷重がこの体の許容応力度を超えてしまったようだね。このタイプは地球での活動に最適化されていたんだ。耐久値が低かったということさ」

 

 白いクレープの生地の上に、真っ赤な2つのさくらんぼが乗っていた。そして、喋っていた。

 

「だ、大丈夫なの? キュゥべえ」

「どー見てもダイジョブじゃねえよ。しっかしよく平気でいられるな、ゴキブリ以上だぞ、その生命力」

「うわぁ……、ちょっとキモイわ」

「死んでなかったの?」

 

 少女達は、白い水溜りになってしまった宇宙人に向けて、口々に心配の声を投げ掛けた。

 

「マミ、母星に到着すれば、すぐに再構成できるから問題ないよ。そんなことよりも、そろそろ目的地に到着するから衝撃に備えて欲しい」

 

 キュゥべえは、マミの問いかけのみに答えた。何らかの理由で、他の3人の発言が聞こえなかったのかもしれない。大方、鼓膜が破れでもしたのだろう。

 

 そして、宇宙人の注意喚起から間もなく〈移送体〉が停止する。衝撃というほどのものはなく、感じたのは微かな浮遊感だけだった。

 音もなく壁に透明の窓が出現する。少女達は、瞬時に復活した小動物に促されるままにそれを通過して、外へと足を踏み出した。こうして、総移動距離50垓+50億km、総移動時間30分弱の長旅が終わり、ようやくのことで最終地点であるキュゥべえの生まれ故郷に辿り着くことができたのだった。

 

 外に出た少女達を出迎えたのは、地平線まで見通せるほど広大な白い平原だった。つるりとしていて非常に平滑で真っ白な地面からは、およそ500m間隔で不規則に配置された大小様々な太さの柱がいくつも立ち上がり、天に向かって伸びている。白い柱は上空で枝分かれして、他の柱の枝と融合したり分岐したりしながら遥か彼方まで続いており、その枝の先はあまりにも遠くにあるせいで、上空で消失しているように見えた。

 乱立する柱の中でも一際大きな〈主導管〉を背にして、少女達は、しばし真っ白な異空間を眺めていた。静かだった。全ての生命が死に絶えたかのような静寂の中で、言葉を失った魔法少女達は、ただ、立ち尽くしていた。

 

「キュゥべえ、あのたくさんの柱は何?」

 

 放心しているのだろうか、気の抜けた口調のマミが、キュゥべえに尋ねた。

 

「この柱は〈外殻〉を支持するための構造物だね。分かりやすく卵で例えると、卵の殻が〈外殻〉で、柱が卵白で、星が卵黄に相当する。外殻は、隕石の落下や敵対勢力の攻撃を防ぐほかに、星の環境を一定に保つという役割を持つんだ。ちなみに、放射エネルギーをすべて利用するために、恒星も〈外殻〉で被覆しているよ。回収された恒星のエネルギーは〈主導管〉を通して母星に送られてくる。あと、地球で回収した感情エネルギーも〈転移ゲート〉を経由した後、同じく〈主導管〉を通して直接ここまで送信されるようになっているのさ」

 

 つまり、ここに来るまでに目にしてきた管は、そのすべてがエネルギーを運ぶためのものだったということなのか。思い返してみると、変なチューブばかり目に付いて、他の構造物を見た覚えがない。さすが、エネルギー回収オタクだ。インキュベーターという生命体は、宇宙中のエネルギーを集めることだけを目的として生きているのだ。

 

「あんたの仲間はいないの? どこにも家とか建物みたいなものがないんだけど、このあたりには誰も住んでないの?」

 

 さやかが、世界の終わりのような景色を見渡しながら、そう尋ねた。

 

「僕には仲間というものがいないんだ。今の僕の体は、本体から分岐した末端でしかない。本体はこの惑星そのものなんだ。遠い昔、ひとつの惑星の表面を自身の構成体で覆い尽くしたときに、僕は自我に目覚めた。自分というものを知った僕は、何かに突き動かされるように増殖を続けた。そして、元々あった星の構成物質を取り込みながら、地下深くまで侵食を続けていく内に、星の全ては“僕”となっていた。僕は、ひとりですべてなんだ」

 

 今、立っているこの白い地面が、この星そのものが、本体なのだとキュゥべえが言う。それを聞いた少女達は、少し居心地が悪そうに身じろぎした。知らないうちに、キュゥべえを足蹴にしていたこともそうだが、なによりぞっとしたのは、とてつもなく巨大な宇宙人に対して、ノミよりも小さい自分達があまりにも無防備でちっぽけな存在であるということだ。

 キュゥべえは、異質な存在だった。曲がりなりにも人類と会話が成立していることが信じられないくらいに。

 

(こいつが何を考えているのかなんて、分からなくて当然のことだったようね。何せ、相手は天に輝くお星様。生物と呼んでいいのかすら怪しいわ)

 

 キュゥべえには、仲間がいない。たった一人だけだ。その孤独な宇宙人が何を考えながら、ただひたすらエネルギーを集め続けるのか。ほむらは、その生き様に寂寥たる思いを抱いた。

 少女達は、それぞれの思いを胸にキュゥべえを見る。宇宙人の小さな紅い瞳は、空虚で、何も映さない。そこには、何もない。

 インキュベーターには、感情がない。

 

「アンタは、ひとりぼっちなんだな」

 

 杏子の微かな呟きは、なぜかほむらの心に残った。

 

 

「あなた達、ここへ来た目的を忘れたわけじゃないでしょうね? この星には気の利いた観光名所もなさそうだし、もう見るべきものもないわ。そろそろ、私のパワーアップの時間よ。キュゥべえ、いいから早く始めなさい」

 

 何も感じない生物に対しては、何も思わないようにするのが正しいやり方に違いない。宇宙人の生態をそれなりに理解したほむらは、当初の目的を達成するべきだと判断し、号令を発することにした。

 

「そうだね」

 

 キュゥべえから短い応えが帰ってきた直後、出し抜けに、床から棒状のものが隆起する。ほむらの腰の辺りまで伸びたそれは、そこから4つの枝に分かれて、正方形の対角線上に水平に1mほど伸びたあと、奇妙に捩じ曲がりながら上を向き、胸元あたりの高さまで伸張している。そして、その枝の先には、小さな受皿のようなものが乗っていた。

 

「皆、その装置の上にソウルジェムを載せて欲しいんだ。枝となっている管の天端にそれぞれのソウルジェムに対応した色のラインが通っているだろう? くれぐれも対応色を間違えないように、受皿の上に置いて欲しい」

 

 キュゥべえの言葉を受けて、マミは黄色の枝へ、杏子は赤色の枝へ、さやかは青色の枝へ、そして、ほむらは紫色の枝へ移動する。受皿の中央付近には、ソウルジェムの台座部分がちょうど収まる程度の僅かなへこみがあった。おそらくここに載せるのだろう。

 

「何かさ、変な儀式みたいなんだけど。載せちゃっても大丈夫なんだよね?」

 

 大きな燭台を挟んで、少女達は向かい合う。遠い宇宙人の星までわざわざやってきて、やることはこんなおかしなことなのだ。さやかは、色々と疑問を感じ始めているらしい。警戒をあらわにして、キュゥべえに尋ねた。

 

「……多分、大丈夫さ。それは、君達4人に共通する魔力の固有波長を、一定の間隔で放射することによって、ソウルジェムを共鳴させる装置なんだ。でも、つい最近完成したばかりのものだから、安全面についての絶対の保証はできないね。まあ、演算結果は成功が100%だから問題ないと思うよ」

 

「つまり、安全ということね。さあ、あなた達も、早く自分の本体をこの上に載せなさい」

 

 マミ達がほむらの方を振り向くと、彼女は、勇気があるのか無謀なのか、すでに自身のソウルジェムを皿の上に載せて、偉そうな顔をしていた。

 

「おいおい、突っ走ってるねぇ。ま、ここまで来たんだ。最後まで付き合ってやるか」

 

 杏子がソウルジェムを載せる。

 

「あんたね……、“自分の本体”とか、わざわざそういう言い方しなくてもいいでしょうに」

 

 さやかがソウルジェムを載せる。

 

「暁美さん、無事に成功するといいわね」

 

 マミがソウルジェムを載せる。

 

「さて、始めようか。今から星の機能維持の演算処理を中断して、リソースを優先的にこちらへ割り当てることになる。多少、環境が変化するかもしれないけど我慢して欲しい」

 

 最後に、キュゥべえがそう言った。

 

 そして、広大な空間をあらゆる方向から照らしていた白い光は、全て消え、暗黒に包まれた世界で、ソウルジェムが放つ黄、赤、青、紫のぼんやりとした光だけが辺りを照らし出す。その、ソウルジェムの光が、徐々に強くなっていく。ほむらは、網膜が焼き尽くされてしまいそうなほど、強烈な光を放ち始めた魂の結晶を無心で眺め続ける。意識が遠のく。魂が離脱する。

 

 真の暗闇の中で、ほむらは、自分ではない別の誰かになっている。その、誰かの心は、とても傷ついていて、今にも砕け散ってしまいそうになっている。

 

 なぜ、こんなにも悲しいのか。なぜ、こんなにも苦しいのか。それは、今のほむらには分からない。この気持ちは“誰か”の心だから。“誰か”の愛だから。

 

 ああ――声が聞こえる。微かな声が、消え入りそうな声が聞こえている。誰かが、何かを呟いている。何かを訴えている。懇願している。何と言っているのだろう。その、繰り返されるささやきは、ほんのあと少しで聞こえそうなのに、聞こえない。

 

 声が消えていく。段々と小さくなって、遠ざかっていく。追いかけることなどできない。何も上手くいかない。なにも、できない。

 

 足元から闇が忍び寄ってくる。じわりじわりと闇に侵食されていく。遥か彼方に微かな光が見える。光に向かって、手を伸ばす。意識が暗闇に溶けていく。手を、伸ばす。ああ、あと少しで届きそう――

 

 

『悪魔は何処にいる』

 

 

 ほむらは、絶叫した。全身を震わせながら覚醒した。

 

 彼女は、大きく息をつきながら、弾かれた様に周囲の様子を確認する。照明が消えて、真っ暗だった空間に、徐々に光が戻り始めている。照明は、まだ元通りに復旧していないらしい。その光は、少し赤っぽいような奇妙な色合いだった。

 今のは夢だったのだろうか。しかし、あの言葉は、とてつもない恐怖とともに、ほむらの心に深く刻まれていた。

 “悪魔”とは何か、彼女はそれを知らなければならない。

 

 ほむらは、視線を感じて、ふと顔を上げる。彼女を見つめるマミ達が、おかしな反応を示していた。杏子とさやかは、口元をヒクヒクさせながら必死で笑いを堪えている。それに対してマミは、キラキラと目を輝かせながら、時折、感嘆の声を上げていた。

 マミ達のリアクションを怪訝に感じたほむらは、恐る恐る自身の格好を検分した。

 

「……はあっ!?」

 

 ほむらは、驚愕する。彼女の衣装はいつもの魔法少女のものではなく、まったく別の何かに変貌を遂げていた。

 大胆に肩から背中に掛けて開いているいる漆黒のドレスは、その素材が鳥の羽のようなものでできている。さらに、理由は不明だが、ロングスカートの前部分は生地が殆ど存在せずに大きく開かれていて、妙な柄のロングソックスを履いた足が剥き出しになっていた。

 そして、生えていた。彼女の華奢な背から、一対の大きな羽が激しく自己主張していた。

 

「あらー……。ついにほむらさんもそっちの方向に行っちゃったか。うん、まあ似合ってるよ」

 

「人の趣味にケチを付ける気はないけどさ。ちょっとキツイぞ、それ」

 

 さやかと杏子が、憐れむような視線を送ってくる。

 ほむらの顔が紅潮した。何ということだろう。この二人から、このような扱いを受ける日が来ようとは。好きでこんな格好になったわけではない。知らないうちにこうなっていたのだ。それを、趣味だと勘違いされてしまっては困る。

 

「すごいわ、暁美さん! それが、覚醒したあなたの姿なのね!? しかも!」

 

 急にイキイキとしだしたマミは、ほむらのソウルジェムを勢い良く指差した。

 ほむらは、マミの指差す方向に視線を移す。

 

「くっ……、な、なんなのコレ……」

 

 ほむらは、装置の受皿に乗せてあったソウルジェムを見て絶句する。ほむらの魂の欠片はでっかくなっていた。しかも、単純に大きさが変わっただけではない、形状がへんてこりんになっていた。

 ソウルジェムは、ほむらの魂であり、彼女自身である。つまり、ほむらは、でっかくなって、へんてこりんになっていた。

 

(訳が分からないわ)

 

「ソウルジェムの形状も変化しているわ。おめでとう、暁美さん。それがあなたの真の姿よ」

 

 これは、おめでたいことらしい。ほむらは、素晴らしい素晴らしいと連呼しているマミを無視しながら、思い悩む。これが、自分の真の姿だというのか。冗談ではない。これから先、魔法少女に変身する度に、この、頭のおかしな人が好んで着用しそうなコスプレ姿にならなければいけないのか。それは、あまりにもクレイジーだ。

 

「ほむら、その姿は、共鳴装置による君の強化が成功したことを意味していると思うよ。この装置は、君の魂を一時的に確率時空のゆらぎに送り込み、あらゆる宇宙で最も魔力の強い“暁美ほむら”と魔力係数を同期させるという機能を持っているんだ。その、変質したソウルジェムからは途方もない魔力係数が測定されている。これほどの魔力係数を持つ今の君なら、別の時間軸への時間遡行なんて造作もないことだろうね」

 

 そんなことは、最初に言って欲しい。ほむらは、ぐったりとしながらそう思った。

 

「え? コレって別の宇宙のほむらの姿なんだ。その宇宙のほむらは、何を考えてそんなイカれた格好してるんだろ? やっぱ趣味かな」

 

「だろうな」

 

「黙りなさい……!」

 

 ここぞとばかりに、からかいの言葉を浴びせる2名に、ほむらは、魔力を伴って増幅された怒気をぶつける。彼女の恐ろしい感情をまともに浴びた両者は、震え上がって硬直した。

 

「暁美さん、たくさんある並行世界のあなたの内の一人が、実際にその姿になっているのよね。それが単なる趣味であるはずがないわ。ソウルジェムが変化するほどの何かが、その世界で起きたということよ」

 

「マミの言うとおりだね。まずは、その姿の君がいる時間軸を目標にしたらどうだい? その宇宙では、ソウルジェムが変質した何らかの理由があったはずさ。それは、もしかしたら君の探し人に関わることかもしれないよ」

 

 物事を真剣に考えているマミと、物事をありのままに考えているインキュベーターの言葉を受けて、ほむらは、気持ちを落ち着ける。何にしても、力は手に入った。溢れんばかりの魔力を体の内に感じる。今なら、キュゥべえの言ったとおり時間遡行の魔法が使えそうだ。それどころか、何でもできそうな気さえする。彼女は、瞑目する。とうとうこのときが来た。そう、このときを待っていた。

 

 

「もう、行くの?」

 

 さやかが、神妙な顔つきで尋ねる。

 

「ええ、見送りは無用よ。……ああ、それと、おかげさまで時間遡行の魔法は復活したわ。あなた達には感謝しておくべきね」

 

「ハハッ! 最後まで捻くれた奴だったな。フツーに“ありがとう”って言えよ」

 

 杏子が、迂遠な言い回しのほむらに苦笑した。

 

「ほむら! いや、あ……っと。あ、あんた、学校はどうするの!?」

 

「学校って……」

 

 地球から何億光年も離れた宇宙人の星で、学校の出席の心配をするさやか。それが、彼女の思いの程度。さやかは、今生の別れとなるほむらに対して、その程度の引き止めの言葉しか持ち合わせていない。結局、ほむらと他の魔法少女達の関係は、その程度のものでしかなかった。

 ほむらが、いつも、見ていたのは、追い求めていたのは、ただひとりだけ。ほかの存在について、顧みることはない。

 

「……フフ、そうね、先生方には、私が自分探しの旅に出たと伝えてちょうだい」

 

 ほむらは、そう言って、薄く笑う。

 

「ちょっといいかい? ほむら、違う時間軸の僕達と会う機会があったら、この結晶を渡して欲しい。これには、僕達インキュベーターが持つ全ての情報がインプットされているんだ。僕達にしか開くことのできないように厳重に封印されているから、もし紛失したとしても問題はないけど、できたら、なくさないようにして、確実に渡してくれるとありがたいね」

 

 キュゥべえが、白い地面に置かれた直径1cmほどの白いビー玉を、前足でコロコロと転がしながら言った。

 ほむらは、それを拾い上げた。何の重さも感じない。彼女は、少し考えた後、ビー玉をギュッと握り締めた。再び手のひらを開けると、先ほどまで確かにそこにあったはずのビー玉は、どこかに消えていた。

 

「暁美さん、……もう、会えないの?」

 

「そうよ」

 

 沈痛な面持ちのマミに対するほむらの返答は、そっけなかった。

 空間内を照らしていた赤色混じりの光が、ますます赤く染まっていく。

 

「今のアンタ、スゲー嬉しそうだな。良かったじゃん。それが、あんたの一番やりたかったことなんだろ?」

 

 杏子が、朗らかな笑顔で言った。

 異星の光に照らされて、ほむらは、全身を赤い血に染めながら、言う。

 

「そうよ。これこそが、私が一番やりたかったことなの。今までの私は死んでいたようなものだわ。生きる目的がなかったのだから。これから、私の2回目の人生が始まる。私は行かなくてはならない。このときのために、ただ、それだけのために生きてきたのだから。だから、さようなら。永遠に」

 

 ほむらの姿が、消える。跡には何も残らない。

 

 

 

 そして、ほむらの旅が始まる。


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。