「ふうん、じゃあ、その〈まどか〉という少女の願いで宇宙の法則が改変されて、魔法少女が〈魔女〉とやらになる代わりにソウルジェムが消滅するようになったと、そういうことなのかい?」
「そうよ」
ソファーに深く腰掛けながら、湯気が立つコーヒーを静かに口にした少女が、犬でも猫でもない奇妙な小動物の問い掛けに答えた。
少女――暁美ほむらは、彼女の隣でちょこんとソファーにおすわりしている地球外生命体――インキュベーターを一瞥した。
(この獣、土足でソファーに上がっているわ。ちゃんと足を拭いたのか確かめるべきかしら)
彼女の猜疑心に満ちた視線をまったく意に介さないキュゥべえが、「興味深い話だね」などと言いながらしっぽを左右に振っている。この宇宙人は、感情がないくせに好奇心はあるらしい。
ほむらは、このような魔法少女の核心に触れる事柄について、気を張ることなくキュゥべえと会話するのは、これが初めてなのだと今更ながらに気がついた。
〈前の世界〉において、数え切れないほどのインキュベーターを蜂の巣にしてきたキュゥべえハンター暁美ほむらは、この畜生にほんの僅かでも気を許してしまった自分自身に軽い驚きを感じた。
(でも、この世界は〈前の世界〉とは違う。魔女は生まれないし、こいつを嫌う理由はない。それに、感情のない相手に、悪意を向けても馬鹿馬鹿しいだけだわ)
ほむらは小さく溜息をついた。
キュゥべえがほむらの部屋を訪ねてきたのは、他の魔法少女と共闘せずに彼女一人だけで魔獣どもを倒したその翌日、つまりは今日であった。
休日の午後3時、マンションの自室で1袋12個入り100円のミニドーナツをつまみながらコーヒーブレイクをしているほむらの頭の中に、キュゥべえの声が無断進入してきた。
『ほむら、昨日の分のグリーフシードを回収させて欲しいんだ。部屋の中へ入ってもいいかい?』
そのとき、ほむらは、ソファーの上でだらしなく寝そべりながら、表紙に“小悪魔系ファッション特集!”と銘打たれたファッション雑誌を読んでいた。そして、キュゥべえの呼び掛けをとりあえず無視した。
『ほむら、昨日の分のグリーフシードを回収させて欲しいんだ。部屋の中へ入ってもいいかい?』
ほむらは、雑誌を机の上へ置き、コーヒーカップを持ってキッチンへ向かうと、冷め切ったコーヒーを電子レンジで再加熱し始めた。そして、キュゥべえの呼び掛けを特に理由もなく無視した。
『ほむら、昨日の分のグリーフシードを回収させて欲しいんだ。部屋の中へ入ってもいいかい?』
キュゥべえは、壊れたテープレコーダーのように同じ台詞を繰り返した。このスペースアニマルは、自分が何かしらの返事をするまで、延々と同じ内容の念話を発信し続けるつもりなのだろうか。さすがに気味が悪くなってきたほむらは、穏やかな午後のひとときを邪魔されて、不本意ながらも、白い小動物を部屋の中に招き入れることにした。
そして、キューブ状の結晶をキュゥべえへ向かってポイポイと放り投げながら、ほむらは、心境の変化によるものなのか、あるいは単なる暇つぶしなのかは彼女自身ですらよく分からないが、女神様による宇宙改変について、しめやかに語り始めたのだった。
ほむらの長話に最後まで口を挟まず静聴していたキュゥべえは、いつも通りの抑揚がない平坦な口調でこう言った。
「僕達は、およそ1万年前に君達人類と接触したんだ。当初から、浄化しきれなくなったソウルジェムがなぜ消滅するかについて、そのメカニズムは分からなかったわけだけど、まさか、それが魔法少女の祈りによるものだとは考えもしなかったよ。魔法少女が魔法少女の在り方を変えてしまったというわけだね」
「意外ね、あなたがこの話を信じるなんて。自分で言うのもなんだけど、これは相当に非常識な話よ」
予想と違うキュゥべえの反応に、ほむらは少し面食らった。てっきり、“それは、昨日君が見た夢の話かい? 訳が分からないよ”とか何とか、上から目線で言ってくるものだとばかり思っていたのだが。
「君の話を鵜呑みにするわけじゃないよ。ただ、目立った矛盾はないし、いくつかの点においてそれなりに納得できる部分があるから少しばかり興味を持ったのさ」
(上から目線で人をイラつかせる物言いであることだけは、間違いなかったようね)
「ソウルジェムがグリーフシードに変化して魔法少女が魔女になるということだけど、それは、まさしく僕達が予測を立てていた現象に他ならない。でも、実際にはそうならずにソウルジェムは、君達が〈円環の理〉と呼ぶ概念存在による干渉で消滅してしまう。この宇宙の物理法則に当てはまらないこの不可思議な現象の正体が、魔法少女の祈りの結果だという主張は、ある程度有力な仮説と言えるだろうね」
「仮説じゃないわ。すべて本当にあったことよ。絶対に――」
(――そう、絶対に彼女は存在していた。憶えているのは私ひとりだけだとしても、これは絶対に私の妄想ではないし、ましてや夢なんかではありえない。……そのはずなのに)
それは、この世界の住人となってから幾度も繰り返してきた想いだった。ほむらの頭の中で何度も否定と肯定が反覆する。彼女の思考は、ループしていた。
急に黙り込んだほむらを一切気にすることなく、気づくことなく、キュゥべえが疑問を口にした。
「ところで、ほむら、どうして君だけが〈まどか〉のことを憶えているんだい?」
「愛よ」
ほむらは、得意げな顔で即答した。
想定外の答えに少々たじろいだ様子のキュゥべえは、小さな紅い瞳でほむらをじっと見つめたまま黙り込んだ。
「愛は不滅なのよ」
ドヤ顔で繰り返すほむら。彼女は、わりと元気そうだった。
「必ず最後に愛は――」
「いや、分かったよ。愛については分からないけど。とにかく分かったよ。……仮説だけど、君が〈まどか〉を憶えている理由は、君の魂――ソウルジェムが宇宙の再構成を逃れて〈前の世界〉のままであるためか、あるいは、君のソウルジェムに〈まどか〉の因子が組み込まれているか。そんなところじゃないかな」
時間の無駄を回避するために、ほむらの発言を秒速で遮ったキュゥべえが持論を述べた。
そんな宇宙人の御高説を、うすら笑いを浮かべて聞いていたほむらが、ソファーの背もたれに片腕を乗せ、足を組みながらふんぞり返ってこう言った。
「私もひとつ、仮説を提唱するわ」
「“愛”によるものだと言いたいのかい? 確かに君達人類の感情エネルギーはとてつもなく大きなものだ。何が起きても不思議じゃない。でも、僕達は、その根底となる価値観について理解できないんだ。君は、〈まどか〉という少女のために、何度も時間遡行したと言ったね。どうして、そんなことをしたんだい? 君の言う“愛”は恋愛感情なのかい? 君は、所謂、同性愛者と呼ばれる人間なのかい?」
空気の読めないインキュベーターの、不躾なセクハラ発言が炸裂した。恋愛感情以前に感情そのものを持ち合わせていない彼らにとって、ほむらの行動は不可解なものに映るらしい。
ほむらは、キュゥべえの問いを受けて、追想する。自分にとって、まどかはどのような存在なのか、それを考えようとするだけで、胸中で得体の知れない何かが渦巻き始める。それは、安易な言葉で表現できるような感情ではなかった。
(そもそも、私は、まどかが居なければ死んでいた。あのとき、魔女の結界に囚われた私をまどかが助けてくれた。命を救ってくれた。……でも、彼女は私の目の前で死んでしまった。それが、とてもつらくて、悲しくて……、私が魔法少女になったのは、彼女を救うため。その祈りもまどかのため。何度も何度も同じときを繰り返したのも、生きる目的も、何もかもすべてが――)
――突然、室内に呼び鈴の甲高い音が鳴り響いた。
思考の海を漂っていたほむらは、ハッとして我に返った。
「アレ? チャイムが鳴ったね。これは一体……」
「……そうね、誰か来たみたいだわ。少し待ってなさい。まあ、別にもう帰ってくれてもかまわないのだけど」
ほむらは、何かに違和感を感じている様子のキュゥべえに対してそう言い残すと、疲れた様子で立ち上がり玄関へ向かった。歩みを進めながら、彼女は、妙なことに気がつく。自分には、休日に訪ねて来てくれるような友人はいないし、もとより来客の予定はない。何かの荷物が届く予定もない。宗教の勧誘か何かだろうか。不審に思いながらも玄関に着いた彼女は、ドアスコープから外を覗き見た。
レンズ越しに見えるマンションの通路は、ひっそりとしており、人の姿はない。彼女は、扉を開けて訝しげに周囲を見回した。
(まさか、ピンポンダッシュかしら。マンションなのに)
この手のいたずらは、犯人――クソガキがこっそりと、出てきた住人の様子を窺っているものだ。そう考えたほむらは、長い通路の端から端まで目で確認したが、人の気配は感じられなかった。
心中にモヤモヤとしたものを感じながら、ほむらは部屋に戻った。
(次は、時間を停止して身柄を拘束してやるわ)
リビングに戻ると、意外なことにキュゥべえはまだ帰っていなかった。室内に入ってきたほむらに一切注意を払うことなく、平常どおりの無表情で宙を見つめている。彼女は、少々乱暴に身を投げ出すようにして、勢いよくソファーにヒップドロップを決めると、ミニドーナツの菓子袋に手を突っ込んで中身を探り始めた。しばらくの間、ガサガサと音を立てていたが、次第に彼女の眉間にしわがより始めた。
「キュゥべえ。あなた、私のお菓子を勝手に食べたでしょう。最後の1個だったのよ。もしかして、風穴を開けて欲しいの? それとも木っ端微塵に砕け散りたいのかしら?」
ほむらの言葉には、明確な殺意が込められていた。今度マミに会ったら、ペットの躾くらいちゃんとしろと文句を言うべきだろう。彼女の呪詛を聞いたキュゥべえが、ここでようやくほむらに顔を向けて、こう言った。
「僕は、食べてないよ」
「最後のひとつが残っていたことは確かよ。でも、私が玄関に行って戻ってくるまでの間に、何者かによって食べられてしまった。そして、それが可能なのはずっとリビングに居たあなただけ。もう、ネタは上がっているのよ。言い逃れはできないわ、おとなしく白状しなさい」
名探偵が、穴だらけの推理ショーを披露して容疑者Qを追い詰める。ほむらに睨まれたキュゥべえは、考え込むようにして言った。
「もう一度言うけど、僕はやってない。食べたのは――」
キュゥべえは、テーブルの上に置かれた雑誌をチラリと見た。
「――そう、あれは、悪魔だったよ。間違いなくね」