新訳 そして伝説へ・・・   作:久慈川 京

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今回はとても長いです。
そして、暗いです。
心を強く持ってお読みください。


過去~アン【エルフ】~

 

 

 

 優しい陽の光が降り注ぐ芝生。

 周囲の木々を宿り木にしている小鳥達のさえずり。

 それは、通常、実に心地良く、そして心が躍る物の筈である。

 しかし、一人の女性にとってそれは、毎日繰り返される日常の一コマ。

 決して変化する事のない、刺激も心の躍動もない毎日の始まりを意味していた。

 

「……はぁ……毎日、毎日同じだわ」

 

 溜息と共にこの里での暮らしに不満を呟く娘の名は『アン』

 この<エルフの隠れ里>を治める女王の一人娘である。

 エルフ達は、広いこの世界の中で、今ではこの里以外にはほとんど存在しない。元々、繁殖能力が乏しいエルフではあったが、度重なる争いにより、その数を更に減らして行った。

 世界のどこかに、ここと同じような<隠れ里>が存在するのかもしれないが、そんな噂はここまで届いては来ない。もう数十年、数百年とエルフはこの<隠れ里>でひっそりと暮らしているのだ。

 まるで、『魔物』や『人』から身を隠すように。

 

「……何故、私達がこんな風に隠れて暮らさなければいけないのかしら……」

 

 生まれて二十年程しか経たない、エルフにとっては赤子同然に幼い『アン』には、それが理解出来ない。

 エルフの女王の一人娘であるアンには、エルフの中でも有数の魔力が備わっていた。それを生きている物に向けた事はないが、『流石は女王の子』として育って来たアンにとって、同族達が『魔物』や『人』に怯えるように暮らす意味が理解出来ないのだ。

 

「……森の外はどんな所なのかしら……」

 

「アン様、ここにおられましたか。女王様がお呼びです」

 

 溜息を繰り返すアンに不意にかかった声。その声の主は、母である女王の側近とされるエルフの戦士であった。

 魔力は高いが、筋力の弱いエルフにおいて、稀に生まれてくる筋力の高いエルフは、代々エルフの長の親衛隊として重宝される。目の前でアンに跪いているエルフも同様であった。

 

「……わかりました。すぐに向かいますと伝えてください」

 

「畏まりました」

 

 溜息と共に吐き出されたアンの言葉に、女王の側近は恭しく頭を下げ、アンの母親である女王の待つ屋敷へと下がって行った。

 女王である母から呼び出される時は、大抵の場合何かのお咎めである。

 心当たりが有り過ぎるアンにとって、母親の呼び出しは溜息を吐いてしまうほど憂鬱な物であった。

 

「アン様、おはようございます。今日は良い天気ですね」

 

「……おはよう……私の心は、曇り空だけどね……」

 

「また何か女王様に叱られる事をなさったのですか? アン様もそろそろしっかりなさいませんと」

 

 さわやかな笑顔で挨拶をくれた里の住民に向けるアンの表情は、言葉通り曇った物だったが、それがいつもの事なのか、住民は気にした様子もなく、零れるような微笑みを浮かべたままアンとの会話を続けていた。

 

「……じゃあ、私はお母様の所へ行ってくるわ。行きたくはないけれど……」

 

「ふふふっ、はいはい。アン様に心当たりがおありなのでしたら、覚悟を決めて早めにお顔を出された方がよろしいですよ」

 

「……心当たりが多すぎて、どれだか分からないわ……」

 

 優しい笑みを浮かべたままの里の者に別れを告げ、アンは母親が待つ『女王の屋敷』へと足を進めた。

 

 

 

「アン様、お待ちしておりました」

 

「……お母様は、中にいるの?」

 

「はい。先程からお待ちになっております」

 

 屋敷の入口に、先程アンを呼びにきた側近が立っていた。

 恭しく頭を下げる側近の態度に何故かアンは溜息を溢す。

 アンは、母親の周囲にいる者達には辟易していた。

 確かに自分は女王の娘である事は間違いない。しかし、次期女王かと問われれば、それは否なのだ。

 元来、エルフの長は世襲制ではない。長い年月を生きるエルフにとって、それを纏める者にはそれ相応の能力が必要となってくる。

 それは、魔力の量であったり、エルフとしての質であったりするのだが、アンは自分がその素質を持っているとは思ってはいない。母親の様に常に笑顔を見せずにいる事などアンには無理な注文であったし、周りのエルフ達全ての態度が、今目の前にいる側近の様な態度であれば、それこそアンは窒息死してしまう。

 

「こちらです」

 

「……わかってるわ。一人で行けます」

 

 先導しようとする側近をその手で制し、アンは女王の待つ謁見の間へと進んで行った。

 これ以上、母の周囲を固める者達と共に居れば、アンの呼吸は止まってしまいかねなかったのだ。

 

 

 

「待っていましたよ、アン」

 

「お母様、今日はどのようなご用件ですか?」

 

 娘である自分ですら、物心ついた頃から目の前の玉座に座るエルフの笑顔を見た事がない。里を護るエルフの長としての顔しか、娘のアンも見た事がないのだ。

 母親としての優しさも、暖かさも、そして厳しさも感じた事はない。

 

「アン、貴女はまた里の外へ出ましたね。何故、私の言う事を聞けないのですか!?」

 

 アンは、何度か里の外の森へ出る事がある。しかし、それはこの里の中では禁忌の行為。

 例え、『結界』があり、魔物や人が近寄る事がないとは言え、まだ生まれたばかりの赤子同然のアンが、外に出る事は大きな危険を伴うのだ。

 

「……でも……魔物も出ないですし……」

 

「『結界』は絶対ではありません。『魔物』も『人』も迷い込んで来る可能性もあるのです」

 

 アンの弁解は母親によって斬り捨てられる。女王にとって、自分の娘であるアンが率先して里の規則を破ってしまえば、里の者達に示しが付かないと考えているのだ。

 それは、アンを通常の里の住民と同列に考えていない証拠でもあるのだが、若いアンにはそれが解らない。

 

「……でも……」

 

「『でも』ではありません! 貴女のその勝手な行動に、何人のエルフが動いたと思っているのですか!?」

 

 言葉を発しようとするアンを制するように、女王が言葉を被せる。女王の言う通り、アンの行動によって、アンの捜索の為に数多くのエルフが動いた。

 アンがいなくなるのは今に始まった事ではないが、曲がりなりにも女王の娘である以上、その安否は最重要事項となるのだ。

 

「……良いですね。今後は里から出る事は固く禁じます」

 

「わ、私は、籠の中の鳥ではありません! 私は女王の娘という前に、普通のエルフの娘です!」

 

 再度、静かにアンに語りかける女王の言葉に、アンは素早く反応を返す。それは、悲痛な叫びであると共に、自分の立場や存在を軽く見るような発言と女王には聞こえた。

 女王は、一度目を瞑った後、再度厳しい表情を作り直しアンを見つめる。

 

「……同じ事です。アン、貴女は私の唯一人の娘なのです。貴女は、一人のエルフの娘である前に、この里の女王である私の娘。それは、貴女がどれ程否定をしようとも、外れる事のない物なのです」

 

「……」

 

 女王の言葉は、アンの期待していたものではなかった。

 このような時だけでも、アンを女王の娘としてではなく、普通の母子として接して欲しかったのだ。

 しかし、今も尚、玉座に座る母親の顔には、女王としての仮面が着けられている。いや、元々それは仮面なのではなく、素顔なのかもしれない。

 そう、アンは思っていた。

 

「……お話はそれだけでしょうか、女王様?……でしたら、これで下がらせて頂きます」

 

 アンの精一杯の抵抗。

 自分を女王としての視線でしか見ない母親に対しての精一杯の皮肉をぶつけ、素早く身を翻したアンは、謁見の間から足早に退出していった。

 

 

 

「……ふぅ……」

 

 アンの出ていった謁見の間に、女王の溜息が洩れた。

 目を瞑り、天を仰ぐように顔を上げた女王の表情は雲っている。

 女王には、アンの感じている不満が理解出来ていたのだ。アンが生まれた時には、既に女王として彼女はこの椅子に座っていた。

 やっと生まれた愛しい我が娘を腕に抱く暇もなく、里に住む者と、世界中に散らばったエルフの保護に奔走していた為、アンに寂しい思いをさせてしまっていた事を悔やんでもいる。

 しかし、エルフを護る為には、そうするしかなかったのだ。

 『人』は神から与えられた、繁殖能力と、努力という才能を持っていた。知識も魔力も『エルフ』には及ばず、身体能力は『魔物』には及ばない。だが、他種族にはない、新しく何かを『産み出す』という事にかけては『人』に敵う種族などなかったのだ。

 そして、彼等は他種族の脅威へと成長して行った。

 傍観を決め込んでいたエルフにすら牙を向けるようになる程に。

 

「……アン……貴女がどれ程否定しようとも、次期女王は貴女以外にはいないのですよ……」

 

 目を瞑ったまま女王が呟いた言葉は、エルフの未来に関する事。

 『人』との争いも、今は膠着状態に入っている。原因は『魔王バラモス』の台頭である。

 それ以前から、エルフを護るかのように魔物が人を襲う事が多くなってはいたが、魔王の登場という決定的な出来事に、『エルフ』と『人』の争いは沈静化していったのだ。

 おそらく、このまま『魔王バラモス』が『人』を支配したとしても、逆に『人』が『魔王』を討伐したとしても、『エルフ』と『人』との争いは終止符を打ったままだろう。

 女王はそう考えていた。それならば、自分の役目も、もうあと百余年。

 『人』との争い、それに対する報復を考えるエルフ達。それを抑え、一つに纏める為には、エルフ内を厳しく律し、そして率いていかなければならない。

 女王として即位した時には『人』との争いの真っただ中だった為に、女王はその感情を胸の深い底へと隠したのだ。

 

「……アン……」

 

 だが、それももう必要がなくなるだろう。これからはアンの様なエルフが上に立つ時代。

 アンは、『自分は女王の娘というだけで、次期女王ではない』と思っている事だろう。しかし、女王は、身贔屓ではなく、次期女王はアンしかいないとすら思っていた。

 確かに、魔力の量や質では、アンは現女王である自分には敵わないだろう。しかし、アンには自分にはない物を数多く所有しているのだ。

 通常女王の娘となれば、周囲のエルフからの扱いも変わって来る。それこそ、自分の周囲にいる側近達のような態度が当然とも言えるのだ。

 しかし、アンに対しての里の者達の反応は違う。それは、里一番の若い者という事を差し引いても、アンへの接し方は異常なのだ。

 長く続いた争いにより数が減り、世界中に散らばってしまったエルフを、これから先で纏めて行くのは、厳しい規律でも、女王としての威光でもなく、アンが持つような暖かさだと女王は考えていた。

 まるで里にいるエルフ全体が一つの家族であるように接し、お互いで助け合い、叱咤激励しながら前へと進めて行く。アンにはその能力があると思っていた。

 

「……誰か!」

 

「はっ、ここに……」

 

 暫し、目を瞑ったまま考えていた女王の目が開かれ、玉座に座ったまま、近従の者を呼ぶ声を上げた。

 その声は決して大きい訳ではないにも拘わらず、即座に女王の前に一人のエルフが跪く。

 

「アンの護衛を頼みました。出来るだけあの子の自由に。しかし、身の安全を最優先に」

 

「はっ。畏まりました」

 

 とても難しい注文である。それでも、控えていた側近は表情一つ変える事なく、恭しく頭を下げると、謁見の間を出て行った。

 残ったのは、またしても女王唯一人。もう一度目を瞑り、何かを考えるように思考の渦に落ちていく女王の姿があった。

 

 

 

 女王の屋敷を出たアンは、その胸の内に色々な想いを持ったまま、里の中を歩いていた。

 基本、女王の屋敷とアンの自宅は違う為、あの屋敷はアンの家ではないのだ。

 幼い頃から、アンが起きている時間帯に、女王である母が、自宅と呼ばれる家へ帰って来た事は数える程しかないのだが。

 

「……私はもう子供じゃないのよ……魔法だって覚えたし」

 

 家への道を歩きながらアンは愚痴を溢し始める。確かに『人』であれば、成人として扱われる歳ではあるが、アンはエルフ。長寿のエルフの中では、赤子も同然なのだ。

 それが、若いアンには不満なのである。

 

「……アン様、女王様はご心配なのです。女王様は心からアン様を愛しておいでです。愛しているからこそ、里の外へ出る事を禁じているのです」

 

「お母様は、女王の視点からしか私を見ていないわ。私は、お母様に甘えた事も我儘を言った事もない……」

 

 屋敷を出てすぐに、護衛及び監視の役目を担った側近が近付いて来て、アンに言葉をかける。アンは、その側近の登場に驚く様子もなく、答えを返した。

 『今、愚痴をこぼしている内容、里の外へ出る行為自体が我儘なのでは?』という疑問が側近のエルフの頭に浮かんだが、『そこはまだ子供なのだ』と口には出さなかった。 

 

「そんな事はございません。女王様はアン様を想って言っているのですよ」

 

「はいはい! もう良いわ。もう私はこのまま家に帰るから、監視は必要ないわよ。貴女も暇ではないのでしょ?」

 

 鬱陶しそうに側近の言葉を遮り、アンは家へと向かう道を歩いて行く。女王の側近に対し、そのような態度を取ること自体、アンがその他の里の者達と違うという事にも、アンは気が付いていない。

 

「アン様、くれぐれも里の外にはお出にならぬようにお願い致します。『結界』がある森とはいえ、何が起こるか解りません故に」

 

「はいはい。わかっているわよ」

 

 アンの態度を気にかけた様子もない側近の続く諫言には、アンは振り向く事もなく答え、家へと入って行った。

 戸が閉まった事を確認し、側近は女王の屋敷へと下がって行く。

 この分では、今夜は家から出てくる事はないだろう。明日の朝、再び護衛に戻れば良いと考えての行動であったが、この側近も指示を出した女王も後々、この時の事を悔やむ事となる。

 

 

 

 里の中は静まり返り、薄暗い。まだ、太陽は地平線からその顔を出し始めたばかりの刻限に、アンは家を出ていた。

 強く拘束されれば、尚更強く反発したくなる。それは、子供特有のものであるが、女王の娘であるアンも例外ではなかった。

 母親も側近も里の外の森は危険が伴うと言うが、アンは森の中で『魔物』はおろか、『人』に出会った事すらない。

 

 『この前が大丈夫であったのだから、今日も大丈夫。』

 

 そういう子供ならではの言い訳がアンにはあったのだ。

 故に今日もまた木々がアーチを描く門を潜り、里の外へと足を踏み出す。側近が迎えに来るであろう刻限までには戻れば良いと考えて。

 

 

 

 森の中は今日も静けさに包まれていた。朝の早い鳥たちの囀りや、小動物達の姿。里の中だけの生活を送っていたアンにとって、日々変わる森の色合いは、その心を弾ませるものであった。

 朝露を掬い、木々を見上げる。大きく広げた枝々に色付く葉達によって、昇ったばかりの太陽の光は遮られているが、それでも森の中は徐々にその色合いを鮮やかにしていった。

 

「ふふっ、やっぱり、魔物の気配なんて全然ないわ。お母様も心配し過ぎなのよ」

 

 確かにアンの周囲に魔物の気配はない。『結界』の影響もあるだろうが、基本的にこの森に魔物が入って来る事はなく、暗黙の了解として、互いの領域を区別しているようであった。

 以前に一度、アンも森の中に迷い込んだ魔物を見た事はある。その時はアン一人ではなく、女王である母親と数人の側近が一緒であった。

 思えば、あれ以降、アンに対する里の外出禁止令が出たのだった。

 エルフの里の民も、食料などを取る為に、この森へ入る事はある。

 しかし、その時には必ず護衛をつける事になっていた。

 決して、アンのように、たった一人で森へ入る事はないのだ。

 

「……でも……魔物の気配はないけれど……何か今日は違うわね?」

 

 アンが感じたのは、森の中のざわめき。魔物の様な邪悪な気配はないが、それとは違う森の中の生物達の喧騒。それは、焦りや興味。内に秘める魔力の高さからなのか、アンにはそれを感じる事が出来ていた。

 

「……あっちの方ね……」

 

 森の声にならないざわめきの方向へと歩を進めるアン。

 それは、危険に遭遇した事のない子供の行動。

 恐怖や警戒心よりも興味が勝ってしまった結果であった。

 

 

 

 森を進むと、アンが感じるざわめきは大きくなって行く。それは、森にある全ての物達の意識がそこへ向かっているようであった。

 そしてアンは出会う事となる。

 彼女の運命を大きく左右する存在に。

 

 そこは、森の木々たちが作る動物達の憩い場。立ち並ぶ木々がぽっかりと開けた空間。優しく降り注ぐ朝陽がその空間を照らし出し、幻想的な光景を作り出していた。

 その空間にある切り株に腰を落とし、集まって来る小動物や鳥達に食料を与えながら、自分の口へも運んでいる一人の青年がいた。

 

『……人間?』

 

 木の陰に隠れながらその光景を見ていたアンは、その青年が何なのか分からない。生まれて二十年、里の外に出た事がないアンは、『人』自体を見た事がない。そして、男という性別も。

 その人間のような青年は、穏やかに微笑みながら手に持つパンを千切りながら、周囲に集う動物達へと与えており、朝陽が照らし出すその姿は、とても優しげに映し出されていた。

 青年の様子では、おそらくこの森に入ったのは初めてではないのだろう。何かの拍子で迷い込んでしまったが、入口付近であったため、何事もなく出る事も可能であったのかもしれない。

 そして、森に入った時に魔物の気配がない事に気付き、何度か足を運んでいたようだ。

 

『……あれが人間?……聞いていた話と違うわ……穏やかそうな生き物ね……』

 

 アンは遠目に見ながらその青年の動きをじっと見ている。その内、食料を与え終えた青年は、ゆっくりと立ち上がり、野草などを入れた籠を抱えて森を出て行った。

 森の出口に向かう青年の後姿を、動物達が見送るように見つめる中、アンもまたその青年の後ろ姿に魅入ってしまう。

 青年の姿が全く見えなくなった頃に、やっと我に返ったアンは、自分がいつの間にか森の出口付近まで来てしまっていた事に気が付く。それは、側近たちが自分を迎えに来る刻限にまで間に合わない事を意味するものだった。

 

「い、いけない! また怒られてしまうわ!」

 

 弾かれたように身を翻し、里への道をアンは全速力で走り出す。

 アンの声に驚いた森の動物達もまた、それぞれ森の中へと散って行った。

 

 

 

「……アン様……今までどちらに?」

 

 家に辿り着くと、そこには石像のように固まったまま門の前に立ちはだかる側近がいた。

 家に辿り着く少し前に息を整えていたアンは、カモフラージュの為に持ち出していた水桶を抱えてにこやかな笑顔を側近に向ける。

 

「おはよう。水を汲みに行っていたの。少し、そこで話し込んでしまって、遅くなってしまったわ」

 

「……そうですか……出来るならば、水汲みも私が来てからにして下さい」

 

「はいはい。気をつけるわ」

 

 水を並々に注いだ水桶を両手で抱えているアンに側近は溜息を吐く。いつも、里の外へ出たアンならば、夕方まで戻る事はないため、アンの言葉を信じる事にしたようだった。

 

 そして、アンにとって、これまで過ごして来たような退屈な毎日とは違う日が始まった。

 里に暮らすエルフ達との会話もいつもと色合いが違う。アン自体は気が付いていないが、里の住民はアンの変化に少なからず気が付いていた。

 いつもより笑う回数が多い。笑顔をよく見せるアンではあるが、今日のアンの笑顔はいつもよりも輝いていたのだ。

 アンの頭の中には、常に今日見た光景が思い浮かんでいた。それは、誰かと会話をしている最中でも、一人で洗濯をしている時でも、つい呆けたように思い浮かべてしまっていたのだ。

 

 それは、アンのつまらない退屈な日々を変えてくれるような予感のする光景。

 アンはそんな予感に胸震えていた。

 

 

 

 その日から、明朝の森訪問が始まった。

 毎日毎日、朝陽が昇る前に起き、側近が迎えに来るまでの時間はアンにとって心が躍る物となって行く。アンが出会った青年は、毎日森に現れる訳ではなかったが、それでもアンは雨の日も風の日も森へと訪れた。それこそ、愛しい者へ会いに行く女性の様に健気に。

 

 そして、歯車は動き始める。

 それは、アンにとって幸せの始まりなのか、転落への序章なのか。

 

 

 

 その日、いつもの様にアンは里を抜け出し、森へと歩いて行く。いつもの場所、いつもの光景。そこに、いつもの様に朝陽に照らし出され、美しく輝く青年がいた。

 その周囲には、やはり動物達。朝露に濡れた野草を籠いっぱいに取り終え、休憩を兼ねて朝食を取る青年の姿に、アンは魅入られた。

 

 ここ最近は、アンの心の中をこの青年が占める割合が大きくなっていた。

 それは淡い恋心なのかもしれない。

 しかし、経験のないアンには理解出来ない感情であった。

 

 一人の人間を見つめるアンは、いつもよりも近付いてしまっている。アンの気配に真っ先に気が付いたのは動物達。

 与えられたパンをかじっていたうさぎが、ぴくりと耳を動かし顔を上げたかと思えば、そのまま森の中へと逃げ去ってしまう。うさぎに続くように次々と森の中へと動物達は逃げ去って行った。

 

「!!」

 

 動物達の行動に驚いた青年は、周囲を見渡し、その視線の先にアンを捉えて止まった。

 アンは自分の姿が人間に見つかってしまった事に身体を強張らせるが、視線を止めた青年の柔らかな笑顔に緊張が解けて行く。

 

「……初めまして。君は誰?」

 

「えっ!?……あ、あの……」

 

 突然掛けられた声に、アンは戸惑い口籠る。

 そのアンの様子に笑みを深めた青年は、優しく手招きを返して来た。

 

「僕は、<ノアニールの村>に住む、ギルバード。君はこの森に住んでいるの?」

 

「あ、う、うん。私はアン。貴方はこの森に毎日来ているの?」

 

 アンの問いかけは、答えを知っている物。青年を毎日見かけている訳ではないのだから、何日に一度という事は間違いがないだろう。

 

「いいや。毎日ではないけど、この森には不思議と魔物がいないから、たまに野草やきのこを取りにね」

 

「そ、そう……」

 

 何時の間にか青年がすぐ前にいる。

 それは、青年が近づいた訳ではない。

 切り株に座る青年へとアンが近づいて行ったのだ。

 

「この森の中には、村があるのかい?」

 

「いいえ、村ではないわ。貴方は……『人間』なの?」

 

「えっ!? 人間って……君は違うのかい?」

 

 近づいても優しく微笑む青年に対し、警戒感を解いてしまったアンは、不用意な質問をぶつけてしまう。それは、アンの素性を明らかにしてしまう程に危険な物。しかし、それがどれ程危険な物なのかをアンは理解出来ていない。アンの母親である女王に話したのなら、極刑に値する行為だと叱責を受ける可能性すらあるものだった。

 

「……ええ……私はエルフ。この森にある<エルフの隠れ里>に住むエルフよ」

 

「……エルフ……」

 

 『人』に話してしまった以上、もはや<隠れ里>でも何でもない。アンの母親である女王が、長い時をかけて培って来たエルフの歴史を、アンは今まさに一瞬の内に不意にしてしまったのだ。

 

「へぇ~。君がエルフなのか……僕も初めてみるよ。でも、君の様な美しい子がエルフなら、世間でいうエルフの話は大袈裟なのだろうね」

 

「……噂?」

 

「あ、ああ、いや、なんでもないよ。それより、君はここに毎日来ているのかい?」

 

 『人』の間で噂される『エルフ』がどんな物なのかがアンは気になったが、苦笑の表情を浮かべるギルバードを見て、その事を追求することが出来なかった。

 

「ええ、毎日森には来ているわ」

 

「そうなのかい? なんだ。だったら、もっと前に声をかけてくれれば良かったのに」

 

 苦笑から柔らかな笑顔に再び戻ったギルバードの表情にアンは見とれてしまう。人間の噂ならアンも数多く聞いている。

 エルフとみれば、襲いかかり、連れ去ろうとしたり、殺したりするというようなもの。しかし、目の前で微笑む青年には、そのような感じは一切なかった。

 『もしかすると、猫を被っているのかもしれない』等とは、経験の少ないアンには思い浮かばなかった。

 只々、『<人>という種族も、母親が話しているような存在ではないのではないか?』としか思っていなかったのである。

 

 

 

 そんな二人の出会い。

 その出会いから、二人は何度もこの森で逢瀬を重ねる事となる。

 ただ、同じ時刻、同じ場所で会い、他愛もない会話を繰り返すだけ。

 それでも、アンはその日常の変化が何よりも楽しかった。

 

 やがて、お互いが種族という大きく、とても高い壁を越え、恋に落ちて行く。それは、それほど時間を要するものではなかった。

 相手に名前を呼ばれるだけで心が躍り、会えない時間を相手の事を考える事で潰す。そんなありふれた恋愛に、『エルフ』と『人』という相容れない者達が陥って行く。

 

「……アン……」

 

「……ギルバード……」

 

 朝陽が昇る前のそんな短かな時間。

 それこそ、雨が降ろうが雷が鳴ろうが二人はその時間を共に過ごして行く。 

 

 

 

 しかし、そんな甘い時間も唐突に終わりを告げた。

 

 毎日毎日、朝早くから水汲みに行くアンに対し、ついに女王の側近が動いたのだ。

 夜から見張りをつけ、アンの起床と共に気付かれないよう行動を監視する。案の定、アンは朝早くに家を出て、里の出口へと向かう木々のアーチを潜って行く。そして、脇目も振らずに森の出口へと進んで行くアンを側近の一人が制止しようとするが、その側近の動きそのものを制止する手が挙がった。

 それは、いつもアンを護衛していたあの側近。女王の親衛隊の隊長を担う女性だった。

 

「今しばらく、アン様の行動を追う。余計な事はするな」

 

「はっ」

 

 そのまま数人の親衛隊は、アンの後ろを気付かれないように追って行った。

 そして辿り着く。

 『エルフ』と『人』の禁忌の地へと。

 

「……隊長……これは……?」

 

「……」

 

 親衛隊の一人が声を発した。

 それは何かに脅えているように震えている。

 

「……全員、帰還する……この場で見た事は他言無用だ。良いな?……もし、誰かに口を割った者がいた場合は、私がこの手で裁く」

 

 暫しの沈黙の後、隊長である側近が口にした言葉は、かなり理不尽な物である。現実、裁かれる者は、目の前で『人』と抱き合っているアンである事は、誰の目にも明らかだった。

 しかし、誰の反論も受ける事なく、隊長は身を翻して里へと戻って行く。慌ててその後を追う少数の親衛隊は、何かを問いかけようとして隊長の顔を見た瞬間、その口は針と糸で縫いつけたように開く事が出来なくなった。

 

 彼女の表情は、それ程に厳しく、そして哀しみに彩られた物だったのだ。

 

 

 

「……アン……よく顔を出せましたね」

 

 アンは今、女王の謁見の間に跪いていた。

 いつも見慣れた光景。

 今日もまた、家に帰った後、母親である女王から呼び出しがかかった。

 しかし、今日はいつもと違う部分が目に入る。常にアンと謁見する際は、アンと女王の二人だけであった。例え、親衛隊と言えど、女王とアンの謁見中は広間に入室しては来なかったのだ。

 それが、今日に限って、女王の座る玉座を囲むように親衛隊が立ち並び、アンの後方にも控えていた。そして、女王の言葉。何かを含んだような、奥歯に何か詰まったように口を開いたのだ。

 

「お母様が呼んだのでしょう? 別に私もここへ好んで来ようとは思いません」

 

「……アン……」

 

 アンの言葉に、周囲を囲む何人かの親衛隊の表情が変わった。

 それは、今までアンに対して向けられた事のないような表情。

 敵として見るような冷たく、厳しい表情。

 自分に向けられた敵愾心剥き出しの視線にアンは怯える。

 

「……アン……貴女のような娘が、里の外の森へ出かける事は少なからず目を瞑っていました。しかし……貴女が森で『人』と会っているという報告を受けました。それに相違はないですか?」

 

 怯えるアンに対し、呟くように溢した女王の言葉に、アンの瞳は大きく見開かれた。

 それは、ギルバードとの逢瀬が発覚したという事より、今まで里の外に出ている事すら黙認されていたという驚愕の事実に。

 

「……それは……」

 

「……事実なのですね……」

 

 アンの煮え切らない答えに、女王は目を瞑り、深い溜息を吐いた。

 その女王の瞳が再び開かれた時、アンは思わず声を上げそうになった。目を開いた女王の表情は、今までアンが見た事のない物だったのだ。

 今まで、自分は母親の女王の顔しか見ていなかったと思っていたが、それが誤りである事に気が付く。今、自分の目の前にあるその表情が、まさしくエルフの民を護る女王の顔。

 自分が見て来た物は、母親としての情を捨てきれていない顔だったのだ。

 

「アン。貴女が行った行為は、万死に値する行為。当分の間、自宅にて監禁とします。常に親衛隊の監視をつけ、許可なく自宅から出る事を固く禁じます」

 

「……そ、そんな……」

 

 女王としての威厳を持ち、女王としてアンと相対する気迫に、アンは言葉を紡げなかった。

 それでも絞り出すように口にした言葉は、今まで聞いた事もない程の声量に搔き消される事となる。

 

「異議は認めません! 貴女が行った行為は、この里に住むエルフ全員を危険に晒す行為。貴女は我々エルフの民を裏切ったのです。その罪を自覚なさい!」

 

 アンは目の前が暗くなっていくのを感じた。

 女王の言葉は絶対。

 それは、もう二度と外へは出られないという事。

 そして、二度とギルバードには会えないという事。

 しかし、その絶望的な事実に覆い隠され、アンは気付かない。

 アンが恐怖すら感じた女王の表情の中にまだ母の情が隠れている事を。

 アンの生存が許されている。

 それは、母の愛以外何物でもないという事を。

 

 

 

 親衛隊の護衛と言うよりは監視を伴って、アンは自宅へと辿り着く。この戸を開け、中に入ってしまえば、もはや外に自由に出る事など出来ない。

 『逃げ出そうか』とも考えたが、周囲をがっちりと囲む親衛隊に隙などない。むしろ、逃げ出した瞬間に腰に差す剣にて斬り捨てようと考えている者までいるのではないかと疑ってしまう程、目を血走らせている者までいた。

 

「……アン様……大人しく家に入って頂きたい。女王様の慈悲を無駄にしないで下さい」

 

 悲痛の表情を浮かべて口を開いた隊長の言葉に、アンは諦めたように自宅の戸に手をかけ、絶望への扉を潜って行く。家の中は、アンの心の中を映し出したように暗く、静寂に満ち満ちていた。

 一際大きな音の様に、戸の閉まる音が響く。戸が閉まる音の反響も収まり、静寂が戻った部屋で、アンは一人崩れ落ちた。自分に起きた不幸を嘆くように、呪うように。

 

 

 

 あれから、幾日も過ぎた。

 その間、アンはほとんど家から出る事はなかった。

 心配した親衛隊の隊長が家の中に入ると、椅子に座り、一点を見つめて涙を流すアンの姿を見つける。食事も碌に取ってはいないため、女性特有の柔らかな丸みを帯びた身体は、病的に痩せていた。

 顔に生気はなく、何かうわ言の様に呟く姿は悲痛な物に映る。

 

「……アン様……」

 

 隊長が家に入って来た事も、言葉を発した事にも気がつかないように、一点を見つめて口を開くアンが呟く言葉は、あの『人間』の名前かもしれない。

 確かに女王の判断は正しい。そして、アンが行った行動は、エルフ全体を裏切るような行為であった事も事実。

 通常ならば、処刑と言う形で命を散らす筈が、今も尚、健康的ではないが生きてはいる。

 しかし、それは、本当に良かったのか。ここまでの苦しみを与えて、生き長らえさせるのであれば、命を奪ってしまった方が良かったのではないだろうか。

 女王の娘というステータスを考慮に入れずに、隊長はそう考えてしまった。

 

「……アン様……今日は良い天気です。たまには女王様にお顔を見せてはいかがでしょうか?」

 

 そんな考えが、隊長の口を動かしてしまった。

 常に流れ落ちていた涙の為、赤く染まってしまったアンの瞳を哀れと思い。

 

「……そうね……」

 

 ようやく、隊長の存在に気が付いたアンは、焦点の定まらない瞳を動かし、隊長の提案に首を縦に振った。

 その姿は、隊長の言葉を理解出来ているとは到底思えないものだった。

 

「はい。では、参りましょう。女王様もお喜びになるでしょう」

 

 アンの肯定に、隊長は表情を幾分か和らげ、アンを外へと導いて行く。

 この事を、後々まで悔やむ事になるとは知らずに。

 

 

 

「アン! よく来ました。ちゃんと食事をとっていますか?……顔色が優れませんよ?」

 

「……はい……お母様……」

 

 謁見の間に久方ぶりに姿を現したアンの姿を見て、女王は言葉を失った。

 アンが行った事への事後処理である、里の民の心を静める為、昼夜を問わずに奔走していた女王はアンの自宅へ帰ってはいなかった。

 この期間に仕事漬けだった女王もまたやつれてはいたが、アンはその比ではない。美しく艶やかだった髪はその輝きを失い、生気と好奇心に充ち溢れていた瞳は虚空を見つめるように儚かった。

 

「……アン……貴女の悲しみが解るとは言いません。ただ、貴女の未来は長いのです。それこそ『人』の道の数十倍になる程に……」

 

「……それでも……それでも私は……」

 

「……アン……」

 

 女王の言葉に再びアンの瞳に涙が浮かぶ。

 娘の姿に、女王も言葉を繋ぐことが出来なかった。

 今ここには、親衛隊等の女王の側近はいない。

 女王とアンの二人だけであった。

 

「……アン……ならば、母として願います。食事をしっかりと取り、生きて下さい」

 

「……」

 

 女王が見せた母としての顔も、今のアンには届かない。いや、むしろ女王の言葉など聞いていないかのように、ただ一点を見つめていた。

 アンの視線のその先にあったものは赤く輝く大粒の宝石。

 エルフの長が持つ事を許される<エルフの至宝>。玉座に嵌め込まれたその至宝をアンは見つめていたのだ。

 

「……少し待っていなさい。良い物を持って来ましょう」

 

 反応を示さないアンの姿に、女王は何かを思いついたように玉座を離れ、奥へと消えて行った。 

 

 空っぽとなった謁見の間。

 残された者はアン一人だけ。

 そこからのアンの行動は早かった。

 玉座に近づき、嵌め込まれている赤く輝く宝石を抜き取る。そして、周囲を警戒しながら、謁見の間を離れて行く。

 謁見の間から廊下へ続く戸を開ければ、親衛隊達が待ち構えている。しかし、アンにとってこの屋敷は幼い頃からの遊び場。誰も知らない抜け道等も心得ている。

 通気口を通り、謁見の間から脱出。その後は他の部屋から部屋へと移動し、誰にも会わないよう細心の注意を払いながら動いた。

 幼い頃より成長したアンであれば通れない場所も、ここ幾日かで痩せ衰えたアンの身体であれば可能であったのだ。

 無事、屋敷の外へ出たアンは、息つく暇もなく走り出す。

 自由と希望、そして輝く未来が待っている筈の里の外へ。

 愛しき『人』の待つあの場所へと。

 

 

 

「待たせました……アン……?」

 

 何かを手に持ち、謁見の間に戻った女王の目には誰もいない空間が広がっていた。

 アンがいない。

 待ちくたびれて帰ってしまったのか?

 それはない。

 もし、そうであれば、側近が一言告げに来る筈である。

 

「!!……誰か!? 誰かおらぬか!!」

 

 奇妙に思い、見渡した謁見の間に、感じてはならない違和感。その違和感の正体に気が付いた女王は、久しく上げていなかった程の声量で側近達を呼び寄せる。

 

 

 

 『ギルバードなら、いつもの場所で待ってくれている筈』

 アンは、その想いだけを胸に走り続ける。

 アンの予測は正しかった。アンが現れなくなったその日から、ギルバードはアンと逢瀬を重ねたあの場所に毎日来ていたのだ。

 仕事も手につかなくなり、ほとんど一日中、森の中の切株に座っているだけだった。

 

「ギルバード!!」

 

「!!……アン!!」

 

 引き裂かれた糸が修復されて行く。

 引き寄せられるように抱きあう二人。

 何年も会っていなかったかのように、お互いの存在を確認し合った。

 

「ギルバード、急ぎましょう。ここにいれば、里から追手が来るわ」

 

「わかった。僕の村に一緒に行こう。そして、一緒に暮らそう、アン」

 

 手と手を取り、二人は森を抜け出して行く。

 アンにとって未知の世界への旅立ち。

 しかし、そこに感慨など感じる余裕はなかった。

 『この<人>と共にいたい』

 アンの想いは、唯それ一点のみだったのだ。

 

 

 

「……女王様……間に合いませんでした……アン様は森の外へ出てしまわれたようです」

 

 陽も落ち、夜の帳が落ち始めた謁見の間で、玉座に座り目を瞑っていた女王に掛った報告。それは、エルフにとって最悪の結果であった。

 

「……それ以上、追う必要はありません……」

 

「し、しかし! 『夢見るルビー』が……」

 

 目を開いた女王が口にした言葉に、すかさず反論を返す側近に対して女王は鋭い視線を向ける。<エルフの至宝>と呼ばれる宝石の紛失は、既にこの里中に広まっていた。

 

「……例えアンといえども、『夢見るルビー』の力を解放する事など出来ません……」

 

「しかし、邪悪な心を持つ者が持てば……」

 

「……確かに、『人』の手に渡っただけではどうする事も出来ないでしょうが、『魔王』等の手に渡れば、あるいは……」

 

 鋭い視線のまま、口を開いた女王の言葉に、謁見の間に集まったエルフ達から次々と言葉が飛び交い始める。既に事は、女王とアンの二人の問題だけではなくなっているのだ。

 『夢見るルビー』という膨大な力を宿す宝石は、この世界を揺るがす程の物。それをこの場にいる全員が知っていた。

 

「……わかっています。今回の件では、エルフの民全てを巻き込んでしまいました。私には既に、女王としての資格はありません」

 

「……それは……」

 

 言葉が飛び交う謁見の間に女王の静かな声が響き渡る。

 その言葉に、周囲の声がピタリと止まった。

 誰も、今の女王に不満がある者等いないのだ。

 『人』との争いの中では先頭に立って戦い、争いが沈静化すれば民を導く力を持つこの女王には、皆感謝こそすれ、思うところなどない。

 確かに、争いが沈静化した後も、血気に逸る者がいなかった訳ではない。元来、温厚な種族であるエルフでも許容出来る範囲がある。それを権力で抑えるのではなく、諭し導きながら民全員の視線を前へ向けさせたのは、目の前で自分の悩みや悲しみを押し殺して話す女王その人なのだ。

 

「……恐れながら……このような時だからこそ、我らエルフを率いる事が出来るのは女王様だけだと心得ます……アン様の事は、確かに『許せぬ』と言う者もいるでしょう。しかし、おそらく……アン様は『人間』に誑かされたのです。アン様は外の世界を知らぬお人。悪いのはアン様ではなく、あの『人間』です」

 

「そ、そうです。何も女王様がその責を負う必要などありません」

 

「皆の言う通りです。『夢見るルビー』とて、『魔王』の手に渡る事などないでしょう。それに、云い伝えでは『邪悪』なる者では使う事など出来ないと云われておりますし」

 

 女王の言葉に反論を唱えたのは、やはり親衛隊の隊長。アンを幼い頃から見て来ていた者であった。

 彼女の一言が、周囲を囲むエルフ達への救いの手となる。女王の引責退陣など認めたくはない。しかし、アンの行為はすでに里のエルフ全員の周知の事実となっていた。

 アンの責=親である女王の責。

 その構図を崩す為には、アンの責を無にするしかない。

 ならば、『人』に負わせれば良いのだ。

 

「……わかりました。私の娘が犯した罪です。私に出来る限りの事をして行きます。皆には苦労をかけます」

 

 玉座から立ち上がり、深々と頭を下げる女王の姿は、女王と言うよりは、子供の失態を謝罪する親そのものだった。

 その姿に言葉を失う者、涙を溢す者。それは、各人皆違いはしたが、想いは同じだった。

 

 

 

 それから時は流れる。

 

 アンはギルバードと共に<ノアニール>の村へ辿り着き、ギルバードの父に『恋人』と紹介され、女っ気のない息子に突如現れた嫁候補に父親は素直に喜んだ。

 共に暮らし、洗濯をしたり料理を作ったり。里で過ごしていた時とやっている事は変わらないにも拘わらず、アンの心は軽やかだった。

 

 しかし、そんなアンの幸せも長くは続かなかった。

 

 それは共に暮らし仲睦まじい二人に対するギルバードの父親の『結婚は何時するのか?』という問い掛けから始まった。

 その場は言葉を濁したギルバードであったが、その夜、アンに『父親にアンがエルフである事を話す』という決意を告白する。『エルフ』と『人』の歴史を幼い頃から物語の様に聞いていたアンは、ギルバードの提案に迷うが、彼の強い決意と愛を信じ、首を縦に振る事となった。

 

「……僕は彼女と結婚しようと思う……」

 

 その言葉から始まったギルバードの言葉。

 次の日の夜、父親を含めた三人で夕食を取り終えた後の事だった。

 

「そうか! うむ。アンのような娘であれば文句はないぞ」

 

「……そうか、良かった。それなら親父に言っておく事がある」

 

 父親の柔らかな笑顔を受け、ギルバードの心は軽くなる。まずは最初の関門は突破出来た。

 アンという女性を父親が気に入っている事は、ギルバードも承知していた為、ここまでは障害がない事は予想出来ていたのだ。

 

「なんだ? 暮らしの事なら心配するな」

 

「……そうじゃない。落ち着いて聞いてほしい……」

 

 意を決したように口を開き始めたギルバードの言葉を聞いていた父親の表情は、最初に見せていた微笑みとは真逆の表情へと変貌して行く。そしてついに感情が弾けた。

 

「エ、エルフだと!! 馬鹿も休み休み言え!! エルフなど息子の嫁に向かえる事が出来る訳がないだろ!!」

 

「今、アンなら文句はないと言ったじゃないか!?」

 

 突如弾けた父親の感情に、ギルバードは一瞬戸惑った。

 難色を示すとは考えていたが、ここまで感情を剥き出しにするとは思ってもみなかったのだ。

 

「ふ、ふざけるな! エルフだと知っていれば、そんな事は言わなかった! わしを騙していたのだな!? エルフと知っていれば、家の中に上げなかったものを!」

 

「アンはアンだ! 『エルフ』だろうと『人』だろうと関係ないだろ!」

 

 父親が示した感情は激昂。

 アンが『エルフ』だという事が彼の逆鱗に触れたのだ。

 

「お前は『エルフ』の恐ろしさを知らないのだ! 今は大人しくしているかもしれないが、この娘がその気になれば、わしやお前など一瞬の内に殺されてしまうのだぞ!」

 

「アンはそんなことはしない!」

 

 感情をぶつけ合う父とギルバード。

 突如変わった家の中の空気に、傍にいたアンは驚き戸惑う。

 

 『何故?』

 『何がいけないのか?』

 

 少なくとも、アンの周囲にいたエルフ達は、理由もなく人間を殺すような者はいなかった。この父親が、何をそこまで怯えるのかがアンには理解出来ない。

 そして、自分に浴びせられる罵声。これまであれほど優しかった父親の豹変ぶりにアンの思考回路がついていけない。アンの素性が『エルフ』というだけで、昨日のアンと今日のアンが変わる訳ではないのにも拘わらず、何故ここまでの罵声を浴びなければいけないのか。

 結局この日、ギルバードと父親はケンカ別れの様になり、離れのように建てられたアンとギルバードの家へと帰る事になった。

 

 そして、アンは知る事になる。

 何故、彼女の母親が『エルフ』達を隠していたのかを。

 何故、『エルフ』が『人』を怯えるような態度を示すのかを。

 

 

 

 父親の豹変ぶりを見た次の朝、アンが見ていた<ノアニールの村>の景色が一変していた。

 いつもの様に朝の挨拶を交わそうと、村人に近づくと、その村人は一瞬怯えた表情を見せた後、アンの挨拶に答える事なく逃げるように自宅へと引っ込んでいったのだ。

 最初は何かあったのだろうかと思ったアンであったが、村人は全員例外なく同じような態度をアンに取り始めた。

 おそらく、昨日のギルバードと父親の口論を聞いていた村人がいたのだろう。

 

「……おはよう……ございます……」

 

「!!……ヒィィィィィ!!」

 

 一対一で声をかけると、必ず悲鳴を上げて逃げてしまう。そして、遠巻きで見つめる数人の村人が、まるで汚物でも見るような目でアンを見ているのだ。

 アンは、その視線を感じ、初めて恐怖を感じた。

 これ程の悪意ある視線を受けたのは生まれて初めてだったのだ。

 そして、それは日を追うごとにエスカレートして行く。少数では、アンの存在自体に怯えて逃げる村人であったが、それが集団となると次第にアンの姿を見ても逃げ出さなくなった。

 

「まだいるわよ、あの亜人」

 

「ほんと。エルフなんでしょ?……私達人間の村に来て何をするつもりかしら」

 

「あまり言うと、聞こえてしまうわよ。エルフは魔法で人間を焼いた後に食べてしまうらしいわ」

 

「えぇぇぇぇぇぇ」

 

 そんな話は聞いた事もなければ、人間等食べた事もない。わざと聞こえるように話しているのではないかと思う程の声で話す村人の言葉はアンの心に暗い影を少しずつ落として行く。

 村に住む子供の中には、アンが洗う洗濯物に泥をかける子供も出て来た。しかも、その子供の親は近くにいて、戻って来た子供を叱るどころか、まるで『良くやった』とでも言うように、その子供の頭を撫でていたりもする。

 アンは、泥で汚れた洗濯物を再度洗いながら、自分の瞳から流れる涙を抑える事が出来なかった。

 

 

 

 そして、ついに村人達が動く。

 

 その日、まだ陽が昇り切らぬ内から、戸を叩くノックの音にアンは目を覚ました。それは、等間隔に響くノックで、とても人が手で行っているものではなかった。

 不思議に思い、隣で眠るギルバードを起こし、玄関へと出てみた二人が見た者は、獣と化した『人』の姿だった。

 

「……ギルバード……」

 

「……アン、僕の後ろに隠れるんだ……」

 

 玄関の戸を空けたそこには、村人全員がアンとギルバードの家を囲むように立っていた。その中央にはギルバードの実の父親まで見える。

 思い思いの武器を手にした大人達。手に石を握った子供達。そして、全員に共通した悪意ある炎を宿した瞳。

 

「エルフはこの里から出ていけ~~~!!」

 

「出ていけ!!」

 

 誰かが叫んだ言葉に、村人全員の声が重なる。その言葉と同時に、子供達は手にした石をアンとギルバードの二人目掛けて投げつけて来た。

 子供が投げる石といえど、数が多ければ、殺傷能力のある凶器。

 

「痛い!」

 

「アン!!」

 

 一人の子供が投げた石が、アンの肩に直撃した。衝撃と痛みに声を上げるアンだったが、当の子供は罪悪感を覚えるどころか、身の毛もよだつような微笑みを浮かべ、胸を張って親を見上げていた。

 

「ここは『人間』の村だ。エルフが暮らす場所なんてない! 早急に村から出ていけ!」

 

「!!」

 

 その言葉を発したのは、アンがこの村に来た事を誰よりも喜び、誰よりも優しく接してくれていたギルバードの父親だった。

 アンの心は絶望に打ちひしがれる。

 

「くそっ! アン! もう中に入ろう」

 

 父親の姿に舌打ちをしたギルバードは、次々と飛んで来る石つぶてからアンを護りながら家の中へと導く。アンはもはや顔を上げる事すら出来なくなっていた。

 ギルバードに引かれるまま家へと入り、ベッドに横になったまま動かなくなってしまう。

 二人が家の中に入っても、尚続く外からの罵声。そして扉にぶつかる石の音。それらの音から身を護るように毛布を頭まで被り、その中で更に耳を塞いで震える事しかアンに選択肢は残っていなかったのだ。

 アンは、初めて『人』の恐ろしさを垣間見た。

 少人数では、怯えるだけで何も出来ない『人』が、人数が増えただけであれ程強気に変貌する。数を増やした中には、それ程アンや『エルフ』の存在を嫌悪していない者もいたかもしれない。

 それでも、数の暴力の前では自分の考えを押し通す事は出来ないのであろう。

 子供達が良い例だ。彼等は、もしかすると『エルフ』という存在自体知らないかもしれない。それでも、『親達が行っているのだから、それは正しい事なのだ』と考えているのだろう。しかし、その顔に浮かぶ表情は実に醜い。

 

「……アン、ごめんよ。僕が父に話そうとしなければ……」

 

「いいえ、ギルバードの責任ではないわ。やはり、『人』と『エルフ』では……」

 

 『エルフ』の住む里を追われ、『人』が住む村でも拒絶されたアンの心は折れかけている。毛布を頭からすっぽりと被り、小刻みに震えるアンの姿をギルバードは見ていられなかった。

 

「……この村を出よう」

 

「えっ!?」

 

 ギルバードの突然の提案に、被っていた毛布を取り、アンが顔を出す。

 余りの提案に、アンの耳には外の騒音が入って来なかった。

 

「……アンにはすまないと思ってる。でも、ここに居ても僕達二人は幸せにはなれない。二人で村を出よう」

 

「……でも……どこへ?」

 

 アンの疑問は尤もな物である。住処を追われているアンには、この<ノアニール>以外に居場所はないのだ。

 それを誰よりも知っている筈のギルバードが村を出る事を口にした。つまりは、行く当てがあるのだと、アンは考えたのだ。

 

「……わからない。アンが住んでいた<隠れ里>は駄目なのかい?」

 

 しかし、アンの問いかけに返したギルバードの言葉は計画性など全くない愚かな物。そんなギルバードの提案は、アンとしても簡単に了承出来る物ではなかった。

 

「……里は無理よ。『エルフ』は『人』を嫌っているわ。もし、里の中に入ったとしたら、今度はギルバードが攻撃の対象となるだけよ」

 

「……でも……もう、僕達はこの村には住めない」

 

 ギルバードの言う事は真実であった。

 いや、ギルバードは『エルフ』に誑かされた者として、村人から同情をもらえるかもしれないが、アンは無理である。『エルフ』と言う存在を恐れ、アン個人を見ようともしない『人』に何を話しても、何を示しても、それは無駄に終わるだけなのだ。

 

「……とにかく今夜、村を出よう。このままでは、いずれ村の皆は何をしでかすか解らない。アンの身が危険なんだ」

 

「……ええ……わかったわ」

 

 愛しい女性の身だけを案じるギルバードに、アンは首を縦に振らざるを得なかった。

 そして、彼等は転落して行く。

 幸せな時間、幸せな夢。

 それはとても儚く、そして脆かった。

 

 

 

 村人達の攻撃も止み、それぞれが各家に戻って眠りについた深夜。月明かりだけが頼りになる村の中を、周囲を警戒しながら歩く二つの影。

 アンとギルバードである。お互いの手を取り、村の門を潜る。ギルバードと繋ぐ手と反対のアンの手には、小さな木箱が握られていた。

 もう二度と帰って来る事など出来ない村を暫く見つめた後、ギルバードはアンの手を引き平原を歩き出した。

 行く当てなどない。お互いの身体に大量の<聖水>を降りかけ、魔物を寄りつけないようにはしているが、どこをどう歩けば良いのかが分からない。

 <エルフの隠れ里>しか知らないアン。

 <ノアニールの村>しか知らないギルバード。

 二人の行先は、自然と初めて出会った森へと向かっていた。

 

 

 

 森の入口まで来て、アンの足が止まった。

 不思議に思いギルバードが振り向くと、アンは思い詰めたように俯いている。

 

「……アン……?」

 

「やっぱり無理よ。この森に入ってしまえば、お母様に気づかれてしまうわ。そうすれば、また離れ離れになってしまうわ。私はもう貴方と離れたくない。離れるぐらいなら死んだ方がマシよ」

 

 顔を上げたアンの瞳には涙が滲んでいた。

 悲痛な叫び。

 それはギルバードの心に突き刺さる。

 

「……わかったよ、アン……僕達は永遠に一緒だ……行こう」

 

「……ええ……」

 

 アンに笑顔を向け頷いたギルバードは、進行方向を変更し、二人が初めて会った森とは真逆の森へと踏み込んで行く。行き先に見当がつかないアンは、それでもギルバードに頷き返し、歩を進めて行った。

 

 

 

「アン、大丈夫かい?」

 

「……ええ……」

 

 二人が向かった先。それは、<ノアニール>の真西に位置する場所にぽっかりと口を開ける洞窟だった。

 <西の洞窟>と呼ばれるこの洞窟には、多数の魔物が生活をしている。森で束ねた木々に、アンが魔法をかけ明かりを取りながら中に入って行ったが、洞窟内のような天の恵みのない場所では<聖水>の効力は及ばない。

 必然的に、何度か魔物と遭遇する事となるが、アンの魔法で距離を取り逃げる事で難を逃れていた。ギルバードも『アンを護る』という一念で能力を限界まで引き出し、魔物へ対応をしていた事も原因の一つであろう。

 

「ぐわっ!」

 

「キャ―――――!! ギルバード!」

 

 しかし、魔物との戦闘などした事のない二人には、常に緊張感を保つような事は出来なかった。

 洞窟内に出来た傾斜を登りきり、『ほっ』と一息ついた時、横合いから出て来た腐った狼にギルバードの腹部が喰い千切られたのだ。

 慌ててギルバードに近寄ろうとするアンを塞ぐように、腐った狼<バリィドドッグ>が立ち塞がる。アンも仕留めてから食そうと考えているのだろう。

 

「……許さない……許さない……」

 

 しかし、<バリィドドッグ>を睨みつけるアンの瞳に怒りが浮かび上がっていた。

 今まで一度たりとも、これ程怒りを覚えた事はない。女王に里の外へ出る事を禁止された時も、村人から石を投げられた時も、村人から『エルフ』としての存在意義を否定された時も。

 

「我が前から消え失せよ! ベギラマ!!」

 

 アンの振りかざした右腕から凄まじい熱風が吹き荒れる。熱風はアンを仕留める為にゆっくりと近づいて来ていた<バリィドドッグ>に直撃し、炎の海へと変化して行った。

 炎の海に溺れる三体の<バリィドドッグ>は、断末魔の叫びを上げる暇もなく、その身体を消し炭へと変えて行く。

 怒りに燃えた瞳で、<バリィドドッグ>を見つめていたアンは、その後ろで倒れるギルバードの姿を見つけ、瞳の色を戻していった。

 

「!!」

 

 傍まで近付き、アンは言葉を失った。地面に倒れるギルバードの身体はもはや虫の息だったのだ。

 腹部を食い破られ、内臓が出始めている。地面は血の海と化していて、その原因である液体は、今も尚ギルバードの身体から流れ落ちていた。

 

「ギルバード! ギルバード!」

 

「……アン……良かった……無事なんだね……」

 

 動かす事の出来ない首を無理に動かしてアンを見つめたギルバードの瞳は、焦点が合っていない。

 微かにアンの姿を確認し、安堵の言葉を溢すが、それも痛々しいものだった。

 

「動かないで!……何故……何故、私達がこんな……誰か……誰か助けて……」

 

「……アン……もう僕は……」

 

「ギルバード!!」

 

 アンの悲痛な叫び。

 ギルバードのか細い声。

 魔物の気配もなくなったその空間にそれだけが響いていた。

 

 その時、奇跡が起こる。

 

 目を瞑ってしまったギルバードの身体を抱き抱え、涙を流すアンの胸元から眩いばかりの赤い光が放たれたのだ。

 突如起こった出来事に、アンは胸元から光の出所を探る。胸元から出て来たのは、<エルフの隠れ里>から持ち出し、着のみ着のままで抜け出した<ノアニール>からも持って来た『エルフの至宝』。

 

【夢見るルビー】

それは、長く続くエルフの歴史の中で最古の品。この世界にエルフが生まれ落ちた時に『精霊ルビス』から与えられたと伝えられし物。それは、代々エルフの長が所有する事になっていた。純粋な者が持ち、心からの願いを向けた時、その赤く輝く宝石はその願いを『精霊ルビス』へ届けると云われている。

 

「!!??」

 

 ルビーの放つ光は、それを仕舞っている木箱から漏れ出し、もはや木箱全体が光っているようですらあった。

 恐る恐る木箱を空け、中のルビーを取り出したアンは、その光の強さに目が眩む。視界を失ったアンの耳に地響きのような音が入り、その音と共に、アンが座る地面が大きく揺れ動き始めた。

 

「キャ――――」

 

 大きく揺れる地面に愛しき者が攫われないよう、アンは叫び声を上げながらも血だらけのギルバードの身体をしっかりと抱き抱えた。

 やがて、『夢見るルビー』から放たれていた光が収まると同時に、地面の揺れも収まって行く。

 

「えっ?」

 

 揺れが収まるが、まだ視界が戻らないアンの足元が濡れ始めた。それは、次第に上がっていき、アンの胸までを覆い尽くして行く。視界が戻り、アンの目に入って来た光景は、とても信じられない光景だった。

 アンとギルバードを囲むようにそびえ立つ四本の石柱。そして、アンの足元からは、冷たく澄んだ水が湧き出している。アンの膝元で横になっていたギルバードの身体は水面に浮かび上がっていた。

 今まで洞窟内を覆っていた魔物の邪悪な空気はなく、静かな澄んだ空気が広がっている。何より不思議な事は、あれだけ血を流していたギルバードの身体に傷がなくなっていたのだ。

 

「……ギルバード……ギルバード!!」

 

「……うぅん……アン……?」

 

 そして、二度と目を開けることがないと思われたギルバードの瞳が開いた。愛しき人の生還。その余りにも信じられない出来事に、アンの涙腺は崩壊した。

 

「……これは……何をしたんだい、アン?」

 

「……ぐずっ……うぅぅ……わから…ない……ただ、『夢見るルビー』が……」

 

 ギルバードの胸に顔を埋めながら差し出されたアンの手に握られた赤い宝石を受け取り、ギルバードは何かを考え込むように黙り込んだ。

 

「……この宝石に願いをかけたから僕の傷は治ったのかな?……だったら、僕を『エルフ』にしたり、アンを『人間』にしたりする事も出来るんじゃないのか!?」

 

「……えっ!?」

 

 ギルバードの話は、アンにとっても願ってもない事だった。

 そんな事が出来れば、アンとギルバードは二人で暮らす事が出来る。

 アンはギルバードに言われた通り、もう一度『夢見るルビー』を握り、懸命に願う。しかし、『夢見るルビー』は光らない。それでも諦め切れず、何度も何度も試みるが、赤い宝石は暗闇に覆われた洞窟の中で輝きを取り戻す事は二度となかった。

 深い溜息を吐き、希望を失った二人は、疲れた体を起こし、再び洞窟の深部へと歩き出す。数度の魔物との接触もあったが、警戒心を怠らなかった二人は、何とか最深部へと足を踏み入れた。

 

 そこは、更に幻想的な世界が広がった空間。

 先程、ギルバードの傷を癒した物と同じ水が溢れ、地底湖を作っている。その中心にまるで浮いているように地面が続いていた。

 地底湖の中央まで歩き、二人は手を繋いだままその場に座り込んだ。

 

「……アン……僕達はこの世界で生きる事が出来なかったけれど、ずっと一緒だよ」

 

「……ええ……ずっと一緒よ」

 

 そして、再びアンの膝枕でギルバードは眠りについた。

 そのギルバードの髪の毛を愛おしく撫でながらアンは寝顔を見つめ続ける。

 

 

 

 幾日が過ぎても、アンは未だにギルバードの髪を撫でていた。

 もはや、ギルバードの身体は動く事はなく、冷たく冷え切っている。例え、傷を治す水が湧き上がっている場所でも、食料がなければ生物の活動は停止するのだ。

 生物としての生命力はやはり『エルフ』であるアンの方が上だった。

 二日間泣き続けたアンであったが、今は、虚ろな目で虚空を見上げている。もう、アン自体の命も長くはない。アンの頭の中にここまでの出来事が蘇って来た。

 仕事ばかりの母親を追って、母親の仕事場である屋敷に行き、そこで何でもない毎日の出来事を母親に話す。

 そんなアンの話を仕事中にも拘わらず、笑顔は見せずとも静かに聞き、一つ一つ答えてくれる母。

 外で遊んでいて怪我をしてしまった時は、政務を放り駆けつけ、自らの魔法で癒してくれた母。

 遊んでいた内容を話すと、こってりと叱られ、痛みは消えても泣いてしまった自分。それでも最後は『無事で良かった』と抱きしめてくれた母。

 蘇って来るのは、膝元で静かに眠る愛しい『人』ではなく、いつも厳しく、自分に笑顔を向けてくれた事のない母親の顔ばかりであった。

 

「……うぅぅ……お母様……」

 

 次第に込み上げて来る感情を抑える事が出来なくなったアンの双眸から、涙の雫が溢れ出す。それは、母への溢れる想い。

 勉強も魔法もアンは母親から教わった。

 常に仕事場に顔を出すアンに嫌な顔をせず、母の玉座の近くに小さなテーブルを作り、政務の傍らで字を教え、魔法を教え、そして生き方を教えてくれた。

 

『アン、良いですか。我々<エルフ>は、<人>の守護を『精霊ルビス』から託された種族。それを誇りとしなさい。<人>は弱い。弱いからこそ、怯え、備え、そして牙を剥きます。だからと言って、<人>は単体では生きる事が出来ません。彼らは集まり、力を合わせる事で何かを作り出す種族。我ら<エルフ>はそれを遠くから見守り、保護していく誇り高い種族なのです』

 

 その母の教えの一つがアンの頭に不意に浮かんだ。

 『人』への復讐を唱える者達を諭し、『エルフ』としての誇りを蘇らせた女王の想い。

 アンが<ノアニールの村>で村人達から仕打ちを受けた時、アンの胸には怒りよりも哀しみが真っ先に湧き上がった。

 それは、自分の境遇に関する悲哀だと考えていたが、違ったのだ。

 

 『何故、<人>はこのように弱いのか。何故、母の様に考える事が出来ないのか』

 

 その想いが、アンに無自覚の感情を呼び起こさせていた。

 ギルバードが<バリィドドッグ>に傷つけられた時のアンの天突く程の怒りは、愛しい『人』が傷つけられた為ではなかったのだ。

 誇り高き『エルフ』の誇りである、『人の守護』という物を傷つけられた事への怒り。

 アンは無意識に母の教えを思い出していたのだ。心に刻まれた『エルフ』としての誇りを。

 それは、アンの母親である女王がアンに残した物。アンが一度も母親としての顔など見た事もないと思っていた母の愛は、しっかりとアンに刻まれていたのだ。

 初めて知った、大きく暖かな母の愛。

 胸に込み上げる熱い思いに、アンの涙は止まらなかった。

 アンは、『夢見るルビー』の入っている木箱を空け、その中にある、一枚の紙とペンを取り出す。そして、涙で滲んだ視界の中、震える指で文字を書き始めた。

 

 

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

親愛なるお母様

先立つ娘の不孝をお許しください

私達は『エルフ』と『人』

どうせ叶わぬ仲ならば……

天国で一緒になろうと思います

 

アンは、お母様の娘として産まれて来た事を誇りに思います

 

                           アン

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

 

 

 短い手紙を書き終え、ペンと共に木箱に入れて蓋をし、地面に木箱を戻す。もう一度ギルバードの髪を愛おしそうに撫でたアンの顔は、美しい笑みを浮かべていた。

 

「……ギルバード……約束よ。私達はずっと一緒……」

 

 静かに目を瞑ったアンの身体は、二度と動く事はない。

 静寂と澄んだ空気が満たした空間には、地底から湧き出す<聖なる水>の音だけが響いていた。

 

 

 

 

 




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