新訳 そして伝説へ・・・   作:久慈川 京

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大魔王ゾーマ⑤

 

 

 

 先程までの闇の炎ではなく、真紅の炎が赤々と燃えるフロアは明るく照らされている。先程までの巨大な影は消え、しっかりと大魔王ゾーマの姿がカミュ達の瞳に映り込んでいた。

 おぞましくも美しいその姿は、全ての魔物や魔族の頂点に君臨するに相応しく、神々しくさえも見える。先程までとは異なる純粋な畏怖という感情が湧き上がる程のその姿に、カミュ達は一つ唾を飲み込んだ。

 傷が癒えた者達が、一人また一人とカミュの許へ集って行く。最後に辿り着いた幼い少女が不安そうに見上げて来る中、カミュは小さな笑みを浮かべた。

 

「あれが、大魔王ゾーマの本当の姿なのですか?」

 

「随分と小さくなったが、先程までの影の方が可愛く見える恐ろしさだな」

 

 穴が空いていた筈の腹部を擦りながらサラは前方に君臨する圧倒的な存在に冷や汗を流す。同じように、リーシャもまた、遂に真の姿を現した大魔王の強大さに息を飲んでいた。

 思い返せば、ゾーマ城の一室に安置されていたおぞましい石像を見たリーシャは、それに怯えるサラとは対照的に、その像が大魔王であれば楽に勝てるとまで言い切っている。そんな彼女が、目の前にいる、自分の背丈よりも少し大きいだけの存在に恐怖を感じていた。

 それは、生物として当然の感情でありながらも、歴戦の勇士達をここまで追い詰めた者への畏怖なのだろう。恐怖を感じながらも、その力を敬う気持ちさえも持ち得る不思議な感覚。それは強者でなければ感じ得ない何かなのかもしれない。

 

「メルエ、大魔王の強大な呪文に対抗出来るのはメルエしかいない。苦しい状況に陥るかもしれないが、信じている」

 

 リーシャとサラのやり取りを聞き流しながら、カミュはメルエの前に屈み、その瞳を真っ直ぐに見て言葉を紡いだ。

 それは、明確な信頼の証。何が起ころうとも、どんな状況に陥ろうとも、彼女であれば、大魔王にさえも遅れを取らないと彼が心から信じている証であった。

 そのような言葉を受けた彼女が返す言葉は一つしかない。

 この長い旅で信じて来た魔法の言葉。どんな状況でも、それを口にすれば、そうなる為に最善を尽くす誓いの言葉。

 一つ頷いた彼女は、しっかりとした声量でそれを口にした。

 

「…………メルエ……だいじょうぶ…………」

 

 その言葉に、優しい笑みを浮かべたカミュは、彼女の肩を一つ叩いて立ち上がる。そのまま一度ゾーマへ視線を送り、余裕を持って戦闘再開を待っている大魔王の姿を確認した後、目を瞑って大きく息を吐き出した。

 心を落ち着けるように、そして、これから始まる死と隣り合わせの激戦を覚悟するように、ゆっくりと息を吸い込む。深呼吸を二、三度繰り返した彼は、不意に振り返った。

 

「俺が行使した回復呪文は、もう使えない。サラ、補助呪文、回復呪文のタイミングは、全て任せる。この戦場全てを見渡し、把握出来るのはお前しかいない。その指輪が機能する限り、何度でも呪文を行使してくれ」

 

「え?……は、はい!」

 

 不意に向けられたカミュの視線に戸惑ったサラは、その後に続いた彼の言葉に、一瞬思考を飛ばしてしまう。彼女の名前は確かに『サラ』であるが、彼の口から出て来たその名前が自分の物だと認識するのに、時間が掛かってしまったのだ。

 アリアハンを旅立って六年。その間で、彼から名前を呼ばれた事は一度たりともなかった。この一行の中でも、名前を呼ばれるのは、彼女の足元で気合を入れている少女だけである。そんな彼が、この場面で自分の名前を呼んだ。それが何を意味するのか、そのような事を気にする余裕など、彼女にはなかった。

 純粋に、その信頼の証が嬉しい。嬉しさと共に湧き上がる勇気の炎が、彼女の胸で燃え上がる。そのまま真っ直ぐにゾーマを見つめた瞳の中に、最早怯えも不安もない。あるのは、覚悟と自信だけであった。

 

「…………ふふふ…………」

 

 勇気の湧いたサラの姿を見たメルエが微笑む。この最悪の状況の中で浮かべる物ではないが、彼女にとって、この三人が居れば、何も恐い物などないのかもしれない。

 驚く気持ちが覚悟に変わったサラを見ていたもう一人の仲間が、驚愕の表情から何かを期待するような物へと変化させて行く。その期待の瞳を横目に眺め、先程とは異なる明確な溜息を吐き出したカミュは、王者の剣を握り込み、ゆっくりと前方へと視線を送った。

 戦闘態勢へ入ってしまったその姿に、肩を落とし、落胆したような姿を見せるリーシャに、サラとメルエは小さな微笑を浮かべる。その心に点った勇気の炎は、彼女達の心に余裕を齎し、二度と消える事はないだろう。そして、そんな勇気を、彼がリーシャに与えない訳がない事を、誰よりもこの二人は知っているのだ。

 

「リーシャ……頼む!」

 

「任せろ!」

 

 その名を口にした彼は、悠然と構える大魔王に向かって駆け出した。

 カミュという青年と、リーシャという女性の間に、多くの言葉など要らない。彼が発した『頼む』という僅かな言葉の中に、その信頼全てが注ぎ込まれているのだ。

 彼と共に前線で武器を振るえるのは彼女しかいない。彼の動きを把握し、攻撃のタイミング、回避のタイミングなどを声を出さずに察知出来るのも彼女だけであり、連携が取れるのも彼女以外は有り得ないのだ。

 攻撃を繰り出す彼の背中を護り、彼の影から武器を振るい、どんな時でも彼と共に戦い続けて来た彼女だからこそ、『信じている』でも、『任せる』でもなく、『頼む』という一言だけなのだろう。カミュにとって、リーシャという女性戦士は、それだけ大きな存在なのだ。

 

「バイキルト」

 

「…………バイキルト…………」

 

 駆け出した二人の武器に、人類最高位の呪文使い達が己の魔法力を纏わせる。煌く刃が振り抜かれ、闇の衣を失ったゾーマの身体へと吸い込まれて行った。

 しかし、その刃が、ゾーマの身体を傷つける事は出来ず、真横から振り抜かれたゾーマの片腕によって弾かれる。泳いだカミュの身体に追い討ちを掛けようとゾーマの片腕が振り上げられた。

 

「小賢しい!」

 

 しかし、まるでカミュの背中に隠れていたかのように現れたリーシャの振る斧が、カミュの剣を弾いたゾーマの片腕に切り込んで行く。斧の切っ先がゾーマの片腕に切り込みを入れるが、その斧を振るった彼女の身体は、カミュへと振り上げていた腕によって弾き飛ばされた。

 吹き飛ばされたリーシャの身体は床へと叩き付けられるが、その直後に彼女の身体を淡い緑色の光が包み込み、外傷内傷共に癒して行く。そして、立ち上がった彼女は、その目でしっかりと自分が残した結果を見つめた。

 

「傷は付く……」

 

 呟かれた言葉通り、リーシャの振るった斧は、僅かではあるがゾーマの身体を傷つけている。切られた部分から体液を溢し、既に泡立ち始めて修復を開始しているが、それでも傷を残した事は確かであった。

 傷を付けられるのであれば、その命を奪う事さえも可能である。それは、先程までの戦闘のように、どれだけ攻撃しても傷一つ付けられなかった絶望的な状況から比べれば、雲泥の差であった。

 希望というには余りにも小さな光ではあるが、それでもカミュ達にとってはようやく手に入れた大事な糸口である。ここからどれ程に高い苦難の壁を越えなければならないとしても、その糸口を掴めれば、乗り越える事は決して不可能な事ではなかった。

 

「ふはははは。実に見事!」

 

 しかし、そんな小さな希望を吹き飛ばすように、再びゾーマはその手を前へと突き出す。それと同時に巻き起こる凍りつくように凍て付いた波動がカミュ達に襲い掛かった。

 サラとメルエという最上位の呪文使い達の魔法力が、カミュとリーシャの武器から吹き飛ばされる。覚悟はしていたとはいえ、何度補助呪文を行使したとしても、それが無に帰すという情景は心に負担を掛けるだろう。それでも、再び彼女達は、その手に握る杖を振るった。

 

「スクルト」

 

「…………バイキルト…………」

 

 賢者の放った魔法力が一行の身体を包み込み、魔法使いが放った魔法力が前衛二人の武器を覆って行く。

 バイキルトという補助呪文がなくとも、カミュの持つ王者の剣の輝きは闇を照らす程であり、その鋭さがあればゾーマの身体を傷つける事も可能であろう。同様に、リーシャの持つ魔神の斧もまた、魔の神が愛した程の武器であり、その切れ味があればゾーマの首を落とす事さえ可能な筈である。だが、それでも後方支援組は、その可能性を少しでも上げる為に補助呪文を行使した。

 たとえ掻き消されようと、たとえその呪文が何の効果を齎さなくとも、彼女達は何度でもそれを行使し続けるだろう。大魔王ゾーマという史上最悪の存在に立ち向かう為に残された手段は、それしかない事を、彼女達は誰よりも知っているのだ。

 

「フバーハ」

 

 間髪入れずに吐き出された、身も凍るような猛吹雪に対抗するように、サラは立て続けに呪文を詠唱する。カミュやリーシャの前面に霧のカーテンが生まれ、氷の結晶さえも認識出来る程の吹雪を軽減して行った。

 奮闘する勇者一行を見る大魔王の余裕は崩れない。どこか恍惚とした表情を浮かべながらも、霧のカーテンから飛び込んで来たカミュの剣に合わせるように右手を振り抜いた。

 神代の力を持つ剣と、絶対唯一の存在であるゾーマの爪が交差し、圧し負けたカミュの身体が後方へと弾き飛ばされる。カミュが態勢を立て直す前に動き出したゾーマの動きを、横合いからリーシャの斧が止めた。

 振り抜かれた斧の軌道上に、大魔王の物と思われる異色の体液が筋を作る。だが、サラがゾーマの苦悶の呻き声を聞いたと理解した時には、既に彼女の視界は姉のように慕う女性戦士の真っ赤な血液で染まっていた。

 

「!! ルビス様!」

 

 大魔王ゾーマの爪によって大きく傷つけられたリーシャの腕を見たサラは、祈りを捧げるように手を合わせる。それを受けたサークレットに嵌められた宝玉が輝き、リーシャとカミュを淡い緑色の光が包み込んだ。

 死に至る程の深手ではなかった為、賢者の石の効力によって、リーシャの腕の傷は癒え、吹き飛ばされたカミュの傷も癒える。そんなカミュ達一行の行動を見たゾーマは愉快そうに笑みを溢し、再び右手を高く掲げた。

 その右手に反応するように冷気が吹き荒れ、天井一杯を氷の刃が埋め尽くす。振り下ろされた右腕と同じ起動で降り注ぐ氷の刃が、前衛二人の身体に突き刺さろうとする時、後方から全てを焼き尽くす程の熱風が巻き起こった。

 

「ベギラゴン」

 

「…………ベギラゴン…………」

 

 人類最上位の呪文使い達が行使した最上位の灼熱呪文が、カミュ達を覆うように炎の壁を作り出す。視界が全て、真っ赤に染まる程の熱量を持つ炎が、その辺り一体の大気までをも焼き尽くして行った。

 それでもカミュやリーシャの身体が燃え尽きないのは、大魔王ゾーマが生み出した冷気の凄まじさが原因であろう。炎を突き抜けて来る冷気が、大気を冷やし、カミュ達の周囲の温度を下げて行く。喉を焼かないように息を止めていた二人は、自分の身体を冷やす冷気を感じて、一気に息を吸い込んだ。

 

「うおりゃぁぁぁ!」

 

 カミュらしからぬ程の叫びを発し、ぽっかりと空いた炎の壁の穴を突き進んだ彼は、ゾーマの姿が視界に収まると同時に剣を振り下ろす。その軌道、その剣速共に、常人では見切る事など出来はしない程の物。

 だが、それでもゾーマの身体に深手を負わせる事は出来ない。

 絶妙なタイミング、目で追えぬ速度、抗う事の出来ない威力。それらが合わさった一撃をゾーマは余裕を持ってその爪で受け止めていた。

 

「ふはははは。人間と云えども侮れぬ。余の身体に傷をつけ、この身を滅ぼし得る一撃を放つか!」

 

 剣を爪で受け止めたゾーマは、愉悦を抑え切れぬように笑い、反対の腕を突き出す。再びカミュ達に襲い掛かる波動が、先程のベギラゴンの炎で火照った身体を凍て付かせる程に冷やして行った。それと同時に、再びカミュ達に掛けられた補助呪文の全てが消えうせて行く。武器を覆う魔法力も、その身を覆う魔法力も、そして、吹雪を遮る霧のカーテンさえも、一瞬の内に無に返った。

 だが、そのような事など、サラやメルエの想定内であり、覚悟の上の物。消費の一途を辿る自身の魔法力を省みず、彼女達は再びカミュとリーシャへと杖を振るうのだ。

 

「バイキルト」

 

「…………スクルト…………」

 

 サラの魔法力が、カミュの後方から現れたリーシャの斧を覆い、鋭さを増したそれがゾーマの肩口へと斬りかかる。だが、それでも大魔王ゾーマという壁には届かない。

 突如として現れたように見えた筈のリーシャの動きに反応したゾーマは、片腕を自身の身体と斧の間に滑り込ませ、その攻撃を完全に防いだのだ。バイキルトという補助呪文を受けた斧は、ゾーマの右腕に食い込んではいるが、その腕を斬り飛ばすには至っていない。『人』ではない事を示す色の血液は腕から溢れてはいるが、それでも致命傷となり得る程の物ではなく、自分の身体に傷を付けた相手を睨み付けるゾーマの視線を受けたリーシャは、身体を硬直させてしまった。

 

「無駄だと言っておろう!」

 

 硬直してしまったリーシャの顔面を殴りつけたゾーマは、再びその掌を広げて前へと突き出す。吹き飛ばされたリーシャの身体を追うように凍て付く波動が一行に襲い掛かり、再び補助呪文の全てが無効化された。

 顔面を殴られたリーシャは床に転がり、血だらけになった顔を上げる。鼻の骨は折れ、頬の骨さえも折れているのかもしれない。幸い、彼女の整った顔の形が歪んでいない事を確認したサラは傍によって最上位の回復呪文を唱えた。

 

「遠い……本当に遠いな、サラ」

 

「簡単に届く事はないとは覚悟していましたが、これ程とは……」

 

 怪我を癒したリーシャが悔しそうに表情を歪めながら、再び立ち上がったサラに向かって愚痴をこぼす。その視線の先には、先程斬りつけたゾーマの腕の体液が泡立ちながら修復している様子が見えた。

 光の珠という神秘によって、闇の衣という絶対防御の鎧が剥がされて尚、大魔王ゾーマは健在であった。見た目こそ小さくはなったが、その威圧感はむしろ増しており、傷を付ける事が出来るという希望がある分だけ、尚更、その存在の遠さが浮き彫りになる。

 倒す事も、殺す事も出来る。そんな可能性を追おうにも、そこへ辿り着く為の力が足りない。傷を付けても、畳み込む手数は足りず、身を護る為の補助呪文でさえも、瞬時に消し去られてしまうのだ。

 希望が見える分だけ、感じる絶望も先程よりも濃いのかもしれない。

 

「だが、カミュは諦めないだろうな……」

 

「はい。カミュ様がいる限り、諦める理由もありません」

 

 それでも、彼女達の前には大魔王ゾーマに匹敵する程の大きな存在が居る。その巨大な絶望の闇を、大いなる勇気によって晴らそうとする勇者が、彼女達の前には常に存在していた。

 今も尚、リーシャが戦線に復帰して来るのを信じ切っているように、大魔王ゾーマと一人対峙している青年が生きている限り、リーシャは心を折らないと誓っている。絶対に生を諦めないし、希望を捨てないと彼に宣言しているのだ。

 それは、この女性戦士にとって、国王の前で行った騎士の誓いよりも重い誓いである。そして、自分と同様に彼を信じ、彼が生きている限りは、諦める理由さえもないと高らかに口にするサラに嬉しそうに笑みを浮かべた。

 

「遠いが、決して届かない距離でもない。私達は……いや、カミュが、いつでもその距離を飛び越えて来た」

 

「はい。これが最後の壁です」

 

 魔神が愛した斧を握り込み、リーシャは目の前に君臨する大魔王へ視線を送る。同じように視線を動かしたサラは、大きく頷きを返した。

 彼等の旅は、常に魔物よりも上位に立って戦っていた物ではない。アリアハン大陸という、世界でも最弱の魔物しか生息していない地域では、戦闘に苦労する事などなかったが、旅の扉を経て、ロマリア大陸へと足を踏み入れてからは、常に死と隣り合わせの戦闘を繰り広げて来た。

 その中には、明らかに自分達よりも力量が上位の魔物達も存在していたし、今に思えば、ジパングという国で戦ったヤマタノオロチという魔物などは、奇跡に近い勝利でもある。ゾーマと相対している彼等であれば、それ程苦労する事はないのかもしれないが、初めて魔王バラモスと対峙した時などは、彼等全員が死を覚悟したものだった。

 それでも、彼等は生きている。常に自分より上位の物と戦い、勝利し、それを乗り越えて来たのだ。この大魔王ゾーマという絶対唯一の存在であろうと、それは例外ではない。

 

「…………マホカンタ…………」

 

 リーシャがカミュの許へと駆け出したと同時に、彼女の身体を光の壁が覆う。同じようにゾーマと死闘を繰り広げているカミュの身体も光の壁によって覆われた。

 予測するように行使された呪文に一歩遅れて、前衛二人の周囲を夥しい数の氷の刃が埋め尽くす。ゾーマの目にも光の壁が見えた事は確かであるが、それでも構わずにその右手を振り下ろした。

 凄まじい速度で降り注ぐ氷の刃は、カミュ達の身体を覆う光の壁によって弾き返され、当然の如く、術者であるゾーマへと向かって飛んで行く。しかし、己に向かって飛んで来る無数の刃を見てもゾーマは動じる事なく、不敵な笑みさえも浮かべてその場に立っていた。

 

「氷結系の呪文は無意味か……」

 

 戻って来たリーシャを確認したカミュが一言呟きを漏らす。

 先程、大魔王ゾーマへと向かって行った無数の氷の刃は、ゾーマの身体に辿り着く前に全て消滅していた。何かによって相殺されたのではなく、まるで何事もなかったかのように消え去ったのだ。

 それは、大魔王ゾーマに対して、氷結系の呪文が全く効果を示さないという事を意味していた。ゾーマが練り上げた魔法力によって顕現した神秘だという事を考えても、魔法という形で具現化した段階で術者であろうと傷つける物となる。メルエが己の発したベギラマで火傷を負った事がその証明になるだろう。また、メルエが放ったメラゾーマがゾーマの身体を傷つけたという事実が、魔法全てが無効という訳ではない事を示しており、無効の対象が氷結系に限られている可能性を示唆していた。

 

「氷結系が効果がないにしても、私もお前も行使出来ない以上、関係のない事だ。今の光景を見た後ろの二人が、何かを割り出してくれるさ」

 

「……そうだな」

 

 悠然と構えるゾーマの前で、一分もない隙を探しながら口にしたリーシャの言葉は、何故かカミュの胸に素直に落ちて行く。

 魔法力を放出する才のないリーシャは別にしても、神魔両方の呪文を行使出来るカミュでさえ、氷結系の呪文は一つも契約出来なかった。火球系、灼熱系といった、熱量がプラスに転じる呪文は行使出来ても、熱量をマイナスへ落とす呪文は一切、行使が出来ないのだ。

 ここまでの戦いで氷結系のみを使い続ける大魔王ゾーマと、氷結系が一切行使出来ない勇者。それは正に対極に位置する者達である事を物語っているかのように思える。

 

「再び、貴様らの心を折ってやろうかと思ったが、なかなかにしぶとい」

 

 笑みを浮かべながら立ち塞がるゾーマの声は、カミュ達の心の奥底にある恐怖を揺り起こす。それでも、大きな勇気によって燃え盛る炎が消える事はなく、それぞれの武器を構え直した。

 生きるという執着の象徴であるリーシャの消失は、彼等全員の心を折ってしまう。それは、カミュによるベホマズン行使前の状況で明らかであった。故にこそ、ゾーマは再びリーシャを標的とし、その攻撃を加えたのだろう。

 そんな自分の思惑が外れたにも拘らず、ゾーマに苛立ちなど微塵も見えない。倒されても倒されても起き上がり、立ち向かって来るカミュ達に大抵の魔物は苛立ちと恐怖を感じていた。だが、この大魔王は、やはり規格外の存在なのかもしれない。

 

「フバーハ」

 

「…………スクルト…………」

 

「甘いわ!」

 

 口を開けたゾーマの姿を確認したサラが霧のカーテンを生み出し、メルエが仲間達の身体に己の魔法力を纏わせる。しかし、凍えるような吹雪を吐き出すと思われたゾーマは、再び手を前へ突き出し、凍て付くような波動を生み出した。

 霧のカーテンは無残に消え去り、カミュ達を覆った魔法力の鎧もまた、一瞬の内に吹き飛ばされる。そして、それの対処をする暇もなく、ゾーマは氷の結晶さえも視認出来る程の吹雪を一気に吐き出した。

 冷気、熱気をある程度軽減出来る勇者の盾を掲げたカミュは、傍に居るリーシャを自分の後ろへと引き寄せる。光の鎧と勇者の盾の力によって猛威を振るう吹雪を掻い潜りながら、カミュは攻撃の隙を窺っていた。

 後方では、咄嗟に放ったメルエのベギラゴンが吹雪を防ぐ炎の壁となっている。だが、それは前衛二人と後衛二人を分断してしまう悪手でもあったのだ。

 

「ぐっ」

 

 目も開けられない程の吹雪の中、カミュの身体が真横へと吹き飛ばされる。今まで盾となって吹雪を防いでいた彼が消え去った事で、その後ろに居たリーシャは吹雪の全てを受け止める形となった。

 自分の身体を凍りつかせる程の冷気が継続的に襲い掛かり、彼女の身体の自由を奪って行く。僅かに開いた目にゾーマが腕を振るう姿を見たリーシャは、ぎしぎしと嫌な音が鳴る腕を動かし、何とか力の盾を掲げた。

 襲い掛かる衝撃が冷気によって固定された彼女の全身を襲う。彼女ほどの勇士となれば、柔軟な身体の動きで衝撃を軽減させる事は不可能ではない。現に、ここまでの戦いで無意識であっても対処して来たのだ。だが、身体が固まった状態では衝撃を緩和させる事が出来ず、全てを受け止めた彼女の身体が悲鳴を上げた。

 

「まずは、貴様から逝け」

 

 全身を襲う激痛と、身体が硬直する程の寒さに苦悶の声を上げるリーシャを冷ややかな目で見据えたゾーマは、右腕を掲げる。それと同時にリーシャを囲うように現れた夥しい数の氷の刃が生み出された。

 未だに後方の炎の壁は消え去らず、吹き飛ばされたカミュは起き上がっていない。魔法力の才のないリーシャは、それに対する対抗力もない。抗魔力と呼べるその力を有していない彼女は、大魔王ゾーマ程の存在が放つ最上位の呪文を真正面から受ければ、どれ程の執着があろうとも、この世に存在し続ける事は不可能に近かった。

 氷の結晶が張り付くリーシャの顔が、絶望と悔しさに歪む。それこそが大魔王ゾーマの愉悦の元だと知りつつも、彼女はその表情を浮かべる事しか出来なかった。

 武器を振るう事しか出来ない自分に何度も苛立ちを覚え、成長し続け、その成長が目に見えて解る仲間達の姿に嬉しさと同等の悔しさを持ち続けた。『自分は役に立てているのだろうか』という自問自答を最も繰り返して来たのは、実は悩み続ける賢者ではなく、彼女だったのかもしれない。

 ゾーマの右腕が振り下ろされ、動く事の出来ない彼女に向かって、無数の刃が降り注ぐ。燭台に点る炎に照らされ、輝くように見えた氷の刃を、リーシャは不覚にも美しいとさえ思ってしまった。

 

「……アストロン」

 

 だが、彼女の退場など、彼が決して許しはしない。氷の刃が彼女を貫く寸前で行使されたその呪文が、彼女の身体を何物も受け付けない鉄の塊へと変えて行った。

 大魔王ゾーマという絶対唯一の存在が行使した、世界で最も強力な氷の刃が、リーシャの身体に当たって砕け散って行く。その光景を見て、今まで微塵も余裕を崩さなかったゾーマの表情に僅かではあるが、不愉快そうな色が浮かんだ。

 あの状況で、ゾーマのマヒャドを防ぐ方法など有りはしなかった筈。如何に後方の呪文使いが人類の中でも優れた者達であったとしても、既に氷の刃が到達する寸前で、それを相殺する灼熱呪文を行使する訳には行かない。氷の刃を相殺する為の炎で、救う筈の人物さえも燃やし尽くす可能性があり、例えそうでなくとも、手心を加えた形の灼熱呪文では氷の刃全てを相殺する事は出来ず、命を奪う事が出来る数の刃は、その身体を貫く筈だったのだ。

 

「勇者と呼ばれる者だけが行使出来る呪文か……。無粋にも程がある」

 

 苛立ちを浮かべた表情のまま、ようやく立ち上がったカミュへと視線を向けたゾーマは、彼が回復呪文を行使する前にその腕を振り上げる。しかし、回復呪文を唱える暇はなくとも、盾を掲げる時間はあった。間一髪のタイミングで掲げられた盾がゾーマの爪を弾き、その衝撃を緩和する為に、カミュは横へと飛んだ。

 着地と同時にカミュが回復呪文を行使しようと試みるが、再び動き出したゾーマがその隙を与えずに腕を振り下ろす。回復呪文を諦めたカミュが盾を構えようとしたと同時に、彼の身体が淡い緑色の光に包まれた。

 癒えて行く身体を確認した彼は、そのまま横へ転がり、間一髪でゾーマの腕を掻い潜る。動きが戻ったカミュは、追い討ちを掛けるように吹雪を吐き出し始めたゾーマに向かって王者の剣を振り上げた。

 

「…………バイキルト…………」

 

「フバーハ」

 

 そして、その剣筋に絶妙なタイミングで補助呪文が行使される。先程、カミュの回復の為に賢者の石の力を解放したサラは、そのまま霧のカーテンを再度生み出し、メルエはカミュの武器へと魔法力を纏わせた。

 針の穴に糸を通すような本当に細かな調節をこの絶妙なタイミングで行使出来るという事が、彼等がここまでの旅で築いて来た絆の成せる物なのだろう。ゾーマの吐き出した凍える程の吹雪は、霧のカーテンにぶつかりその威力を軽減させた。

 だが、至近距離からの猛吹雪である為、軽減させたとはいえ、カミュの身体に付着する氷の結晶は多く、その手は悴み、力が抜けて行く。それでも、この機会を逃してなるものかと、彼は渾身の力を込めて吹雪を突き抜け、王者の剣を振るった。

 

「ぐばっ!」

 

 苦悶の声と共に、異色の体液が盛大に噴出す。凍傷に掛かりそうな程の冷気の中、後方へと踏鞴を踏むように下がったゾーマの姿をはっきりとカミュは確認した。

 カミュが振り抜いた王者の剣は、ゾーマの肩口を切り裂き、胸にかけて斜めに深く斬り裂いている。その傷口は決して軽い物ではない事の証明に、溢れ出す体液の泡立ちは、その傷を即座に癒す事が出来ていなかった。

 初めて生み出した好機。人間という最弱の生命体が、絶対唯一の存在の身体に、即座に癒す事の出来ない程の傷を付けたのだ。そして、その機会を逃すような甘い旅を彼等は続けて来た訳ではない。

 

「…………メラゾーマ…………」

 

 カミュから幾分か距離が開いた事を確認したメルエは、即座にその杖を大きく振るう。杖先のオブジェの嘴の前に巨大な魔方陣が浮かび上がり、人類では辿り着けない程の巨大な火球が飛び出した。

 徐々に鉄化が解け始めたリーシャの真横を通り過ぎ、凍え切った彼女の身体に熱風を当てたその火球は、未だに肩口から体液を噴き上げているゾーマに向かって真っ直ぐに飛んで行く。

 メルエという稀代の魔法使いが唱えた最上位の火球呪文である。その熱量は太陽の如く、全ての物を融解させ、消滅させる程の威力を持つ。例え、この呪文を生み出したと云われる大魔王でさえ、直撃すれば只では済まない筈であった。

 

「かあぁぁぁぁっ!」

 

 しかし、彼等が対峙しているのは、精霊神や竜の女王でさえも届かぬ程の強者。絶対唯一の存在であり、全てを滅ぼし得る者である。

 気合を吐き出すように奇声を上げたゾーマは、凍える程の吹雪を盛大に吐き出し、火球の威力を弱めて行く。弱まったとはいえ、その熱量は生物の身体など簡単に融解させる程の物であったが、速度を落とした巨大火球に向けて手を翳したゾーマは、生み出した氷の刃全てを火球へ向けて放った。

 メラゾーマという最上位の火球呪文を見たカミュは、一歩後方へと下がってしまっている。ゾーマでさえ、無傷ではいられないと考え、その火球に自分が巻き込まれないようにと下がってしまった事を彼はこの場で悔やんだ。

 

「うおぉぉぉ!」

 

 だが、そんな後悔の元、遅れながらも走り出そうとしたカミュの耳に、聞き慣れた咆哮が轟く。メラゾーマという火球は、既に消滅に向かって温度を下げている中、火球へ降り注ぐ無数の氷の刃の余波を盾で庇いながら、一人の女性戦士が斧を振り抜いた。

 再び吹き上がる異色の体液。それと同時に、先程まででは聞いた事のない、怒りを含んだ絶叫が耳を突き抜ける。そして、復活したばかりの女性戦士は、凄まじい力で首を掴まれ、そのまま壁に叩き付けられた。

 

「人間如きが調子に乗りおって!」

 

 未だに傷口が塞がらないまま、ゾーマは何度も何度もリーシャを壁へと叩きつける。締め上げられている筈の喉から苦悶の声が漏れ、それと同時に大量の血液を吐き出した。

 そんなリーシャを救おうと杖を振るおうとしたメルエに向かって、ゾーマはマヒャドを瞬時に編み上げ、氷の刃を振り注ぐ。先手を打たれてしまったメルエは、サラを護る為に炎の壁を作り、氷の刃を溶かして行くしかなかった。

 駆け出したカミュは、リーシャの喉を絞めている物とは反対の腕を盾で防ぐ事が精一杯で、彼女をゾーマから救い出す事が出来ない。そのまま凍て付く波動の直撃を受けたカミュの周囲から霧が全て消え失せ、剣を覆っていた魔法力も消え去った。

 

「絶望に落ちながらも、何時まで生にしがみ付く! 貴様らの生きて来た道は、それ程に良い物であったか!? 絶望と苦しみを味わい続けながらも執着する程の美しき世界であったか!?」

 

 何度も何度も壁に叩き付けられ、リーシャの被っていたミスリルヘルムが床へと落ちる。乾いた音を立てて転がるミスリルヘルムの形状を見れば、如何に凄まじい力で壁に叩き付けられていたのかが理解出来た。

 頭部を守る兜を失ったまま、それでもリーシャは壁へと叩き付けられ続ける。金色に輝く彼女の髪の毛にどす黒い色が滲み出始めた。頭部が切れ、そこから溢れる血液が彼女の髪を染め始めているのだ。

 既に意識はないのかもしれない。力なく垂れ下がった足は宙に浮き、掌は開き切っている。それでも右腕の斧だけは握ったままである事が、彼女は死ぬまで戦士である事を物語っていた。

 近付こうとするカミュに向かって吐き出された吹雪が、未だにメルエの放った炎の壁が健在であるにも拘らず、このフロアの温度を急速に下げて行く。凍える足に力を込めて立つカミュではあったが、リーシャを救うまでは届かない。徐々に消え失せようとする彼女の命の灯火が、そこからでもはっきりと見て取れた。

 

「くそっ!」

 

 猛吹雪の中で目を凝らし、見つめたリーシャの瞳から光が失われて行く。しっかりと前を見つめ続けて来た黒目は徐々に光を失い、虚空を見るように色を消して行った。

 前へ踏み出す度に身体を縛り付ける氷の結晶が、彼の行動を停止させる。振るう腕さえも凍り付き始め、灼熱呪文を行使する為の口も縫い付けられたように動かなくなって行く。それは、死という状況を連想する程に暗く冷たい物であった。

 継続的に生み出されるマヒャドによる氷の刃が、後方支援組二人をもその場に縛り付け、救いの手さえも伸ばす事を許さない。

 大魔王ゾーマを倒す可能性は見出せた筈であった。それでも、それは、勇者一行四人全員で生み出した可能性である。もし、この中の一人でも欠けてしまえば、その可能性は永遠に消え失せ、手が届く事はないだろう。

 希望と隣り合わせにある絶望。コインの裏表のように僅かな動きでそれは入れ替わり、動きを止めた後では、どのような事があっても返る事はない。再び猛威を振るう大きな絶望が、世界の希望である青年の胸を締め付けていた。

 

「リーシャ……頼む」

 

 そんな彼が無意識の元で吐き出した呟き。

 吹き荒れる吹雪に掻き消される程に小さな呟き。

 誰にも届く筈はなく、叶う事のない呟き。

 そんな小さな呟きが、荒れ狂う氷の結晶の中に溶けた時、力なく垂れ下がった指先が微かに動いた。

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。
大変遅くなってしまいましたが、ようやく更新出来ました。

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