新訳 そして伝説へ・・・   作:久慈川 京

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~幕間~【ラダトーム周辺】

 

 

 ルーラによってラダトーム王都周辺に降り立った一行は、共に連れて来たガライと別れる事になる。しかし、夢現のようにサラの手を握ったまま周囲の景色を眺めていたガライは、自分が降り立った場所が本当にラダトーム王都の周辺である事に気付き、弾かれるように顔をサラへと向けた。

 何時まで経っても手を離してくれないガライに困り顔を向けたサラは、その瞳に宿る光を見て驚きの表情を浮かべる。そんな横でメルエを抱き上げていたリーシャは『くすくす』と苦笑を浮かべ、サラを困らせている青年にメルエは鋭い視線を向けていた。

 

「こ、これは何という魔法なのですか!? 私にも使えますか!? この魔法さえあれば、私が旅をしている最中に救える命も数多くある筈です!」

 

「ふぇ!? あ、はい……」

 

 繋いでいた手を両手で握り締められたサラは素っ頓狂な声を上げる。メルキド周辺でガライを呼ぶ為に繋いだ時には全く意識していなかったが、異性に手を握られた事など、生まれて二十年以上の中で初めての経験であったのだ。

 勇者であるカミュには何度も触れられた事はあるが、サラ自身がカミュを異性として認識していない。いや、異性として知ってはいても、カミュという存在が男性という側面よりも、勇者としての側面が大きいのだろう。

 ガライに手を握られて真っ赤に染まるサラの顔を見たメルエは、彼女が怒っているのではないかと感じ、ガライに向ける視線を更に厳しい物へと変える。だが、そんなサラがメルエに向かって魔道書を要求した事によって、渋々ながらポシェットに入っている書を手渡した。

 

「アレは、ルーラと呼ばれる呪文です。自分の頭の中に目的地を想い描き、その場所へ魔法力を使って移動する物ですが、魔法力の素養がなければ行使は出来ません」

 

「魔法力の素養ですか……」

 

 握られていた手を柔らかく解いたサラは、手渡された魔道書のページを捲り、今では魔道書の前方のページに記された魔法陣を地面に描き始める。先日の雨はラダトーム地方でも降ったのであろう。多少緩くなった地面の土に綺麗な魔法陣が描かれた。

 ルーラという呪文は、並大抵の人間では修得が出来ない。このアレフガルド地方の人間よりも総合的に魔法力を多く有する上の世界の人間であっても、一握りの魔法使いしか修得は出来ず、修得した魔法使いは、国家に召抱えられるという栄誉を受ける資格を有する程であった。

 しかし、ラダトーム王都でシャナクを修得する資格を得た少年のように、生涯その呪文のみと定めた場合は、その限りではないのかもしれない。

 呪文とは契約である。その契約が単願の物であれば、その力もまた、契約者の意を汲んでくれる可能性もあるのだろう。描かれて行く魔法陣を見たメルエは、リーシャに目配せをして地面へ降ろして貰い、その魔法陣の完成を間近で見つめていた。

 

「出来ました……メ、メルエ! この呪文の契約は既に済んでいるでしょう!?」

 

 魔法陣が完成した事で腰を上げたサラは、それと同時に魔法陣の中へ入ろうとするメルエを見て驚きを声を上げる。だが、小首を傾げて見上げるメルエを不思議に思ったサラが再度魔法陣を見直すと、何箇所か魔法陣を模る文字が異なっている事が解った。

 メルエという少女は、魔法使いとして超一流であるばかりか、賢者としての才能も有している逸材である。数多くの呪文の契約を済ませているばかりか、魔王しか行使出来ない呪文で浮かび上がった魔法陣をその場で記憶して形成する程の才能と力量さえも有していた。

 そんな彼女だからこそ、少し異なる文字が入った魔法陣を見て、『新しい呪文かもしれない』と考え、我先にと踏み込もうとしたのだ。ルーラの魔法陣だと口にしたにも拘らず、そこへ入ろうとするメルエを叱ったサラではあったが、不思議そうに見つめる瞳と己の間違いに恥ずかしくなってしまい、顔を赤くして謝罪の言葉を口にした。

 

「こほん……。それでは、この魔法陣の中へ入ってください。必ずしも契約が完了する訳ではないですが、ガライさんはそれなりの魔法力を有しているようですので、ルーラ単体だけであれば契約は可能だと思います」

 

「私でもあの魔法が使えるようになるのですね」

 

 気を取り直して咳払いをするサラを見つめる目は、ガライ以外は少し冷ややかな物である。特に先程叱られたメルエに至っては、彼女が放つ氷結呪文のように凍てついた視線を送っていた。そんな少女の頭に手を乗せたリーシャは、苦笑を浮かべながらもサラとガライのやり取りを眺める。ラダトーム王都で解呪の呪文であるシャナクの契約を行った少年と同じように、このようにして次代を担う者達へと力が受け継がれて行くのだろうという感慨を持って、魔法陣の中へ入って行く青年を見つめていた。

 ガライが中へ入ると、ラダトームの少年の時とは異なり、魔法陣を形成する全ての文字が輝きを放ち出し、魔法陣を形成する文字の一つ一つから放たれた光が交じり合い、ガライを包み込むような風となる。それはガライ本人の魔法力と、魔法陣から生まれた魔法力が結びついた証拠でも合った。

 

「ほう……」

 

 感心するようにガライを見つめるカミュが、声を発した事で、魔法力を感じる事の出来ないリーシャもガライの契約が無事に終了した事を理解する。放心したように自身の身体を確認するガライの姿と、先程まで冷めた視線を送っていたメルエの瞳も緩んでいる事にサラは微笑みを浮かべ、契約が終了した魔法陣を消去して行った。消して行く最中に、サラはカミュへと視線を送り、彼が一つ頷いた事を見て、笑みを濃くする。そのままメルエの前で屈み込んだサラは、少女に何事かを告げ、少女も頷きを返した事で再び微笑みを浮かべて立ち上がった。

 魔法陣の中から出され、自分の身体の中を渦巻く不思議な感覚に戸惑っていたガライではあったが、そのまま自分に手渡された一つの書物に驚いて顔を上げる。そこには美しい笑みを浮かべた女神のような女性の顔があった。

 

「その魔道書は、ガライさんにお預けします。ガライさんにはもう少し呪文を契約出来る可能性もありますので、その書物に記されている魔法陣を試してみて下さい」

 

「え? これを私に?」

 

 予想外の出来事に、立ち直りかけたガライの思考は再び迷走し始める。最早、彼の中ではこの世の物とは思えない美しさを持つ女性と対峙している事になっているのだろう。手渡された書物は神々しく輝き、まるで女神から下賜されたかのように畏れ多く感じて、彼は無意識のまま跪いてしまった。

 思わず跪いてしまったガライの姿に慌てたのはサラである。『くすくす』と笑うリーシャとメルエに鋭い視線を送りながらも、慌ててガライの手を取って立ち上がらせようとするが、腰が抜けたように立ち上がらない彼に深い溜息を吐き出した。

 

「ですが、忘れないで下さい。魔法は力です。時には人を助けますが、それは他者を害する事でもあります。そんな恐ろしい力である事を心に留めておいて下さい。魔物と共に音楽を楽しむ事の出来るガライさんならば大丈夫だとは思いますが、この力を悪用しない事を誓ってください」

 

「は、はい。神と精霊と、そして貴女に誓って、そのような事は致しません」

 

 跪いたまま深々と頭を下げるガライの姿は、王に対する臣下のようでもあり、神に平伏す人のようでもある。既に二人のやり取りに興味を失ったカミュは、そのままマイラに向かう為の準備を始めており、新たな呪文でない事で魔法陣に興味を失くしているメルエもまた、そんなカミュの許へと移動していた。

 賢者としての役割を全うしようとするサラの横には、微笑みを浮かべるリーシャだけが残っており、暫く二人のやり取りを眺めていたが、その微笑みを消したかと思えば、厳しい瞳をガライへと向けて口を開く。彼女が纏っている空気は、歴戦の勇士が持つ強烈な物であり、如何にルーラの契約が可能な程の才能を持つガライといえども、身動き一つ、呼吸一つ出来ない程の物であった。

 

「その力を悪用しようとすれば、サラに代わって私がお前の首を貰いに赴く」

 

「リ、リーシャさん」

 

 厳しい瞳を向けるリーシャの前で、サラでさえも身動きが出来ないのだ。一般人であるガライが言葉を発する事など出来はしない。それに気付いたサラは、自分の中に残る物を振り絞ってリーシャを諌める為に口を開いた。

 蚊の鳴くようなか細い声ではあったが、その必死の訴えによってリーシャは己が放つ空気を自覚する。今まで他者を圧迫する程の空気を醸し出していた女性戦士が、苦笑を浮かべた事によって空気は和らぎ、ようやくガライは胸の中の空気を外へと吐き出した。

 ほっと息を吐き出したサラは、荒い呼吸を繰り返すガライの身体を気遣うように屈み込む。しかし、ガライとしても、リーシャという女性の力量と本気度を身に刻みつけた筈であり、どのような事があろうと、サラが手渡した魔道書を悪用する事はないだろうと確信したサラは、心の中でリーシャに感謝した。

 サラの行動は、良くも悪くも他人を信じ過ぎている傾向にある。それがサラの美点でもあるのだが、彼女は幸か不幸かその心を裏切るような者に出会った事がない。トルドなどもそうであるし、女海賊のメアリなどは特徴的な例であろう。それは、彼女の心を裏切るであろう者に対して甘さを見せる時、必ずカミュやリーシャがその間に入っていたという証拠であった。

 

「……この力は、必ず誰かを護る為に使う事を誓います。もし、その誓いを破る時には、この首を差し上げます」

 

「その言葉、確かに受け取った」

 

 未だに震える手を地面に付け、ガライはリーシャに向かって宣言する。今も自分を気遣うように傍にいる賢者サラの意を汲んで、この先の時代を生きるという事を。そして、その言葉を聞いたリーシャは、先程とは全く異なる笑みを浮かべて大きく頷きを返した。

 ゆっくりと立ち上がったガライは、もう一度リーシャとサラに一礼をして、少し離れた所にいるカミュ達にも頭を下げる。それを見たカミュは、真っ直ぐ北へと進路を取って歩き出した。

 ガライの実家に行くには、ラダトーム平原を北へ進み、マイラへ向かう分かれ道を西へ進む必要がある。故に、その分かれ道までは共に歩むつもりであったのだ。

 

「ありがとうございました。今頂いた呪文を試して見ます。これがあれば、旅の途中などで魔物に襲われている者達なども救う事が出来るでしょう。いつかまた、貴女にお会い出来る日まで、私に出来る事を精一杯試してみます」

 

「はい。では、お気をつけて」

 

 しかし、そんな一行の考えをガライは丁重に断る。カミュ達にとっては頭に描くには印象が弱いガライの実家ではあるが、当のガライにとっては、生まれてから長い時間生きて来た家であり、その場所を明確に描く事など容易い事なのだろう。

 契約したばかりのルーラが起動するかどうかは解らない。通常の順序を幾つも飛ばして手に入れた力である。本来、メラやホイミのような下級の呪文の契約を済ませ、己の中にある魔法力に色を馴染ませてからというのが上の世界での常識であり、それ以外の方法で力を手に入れる事は不可能なのだ。

 だが、このアレフガルドで生きる人間達は、何処か上の世界の人間達と異なる部分があった。創造神が生んだ上の世界の人間と、精霊神ルビスが生んだアレフガルドの人間の違いなのかもしれないが、その違いがこの先のアレフガルドに大きな影響を及ぼす可能性は高かった。

 

「ルーラ」

 

 サラに教えて貰ったように、自分の体内にある魔法力を感じながら詠唱の言葉を口にしたガライを、彼自身の魔法力が包み込む。未だに不安定な状態で上空に上がった魔法力の塊は、そのまま北西の方角へと飛んで行った。

 最後にサラを見つめたガライの瞳は、眩しい高嶺の花を望むような物であり、恋焦がれるような物であった事にはサラもリーシャも気付いていなかった。

 

「さぁ、行こう」

 

「はい」

 

 その後、実家に戻ったガライは、後に高位の呪文使いとして名を馳せる。吟遊詩人として旅をする傍らで、危機に窮した者達を己の呪文で救い、実家付近である安全な場所へと連れて行った。そんなガライの人柄に惹かれた者達がガライの実家があった付近に集落を作る事になるのだが、それは遥か先の別の話である。

 

 

 

 

 ルーラによって一度マイラの村へと戻った一行は、その足で再びルビスの塔を目指して歩き出す。マイラの森を抜け、平原に出ると空を覆う闇がこれまでよりも深くなっているようにも見える。また雨が降る前触れなのかと顔を上げるが、そこには雨雲のような者は一切無く、むしろ微かな星の輝きが見えるのではないかと思う程の綺麗な夜空が広がっていたのだった。

 シャンパーニの塔を昇る頃から始まった雨という恒例は、このルビスの塔の二回目の来訪によって終わりを告げようとしている。このアレフガルド大陸に塔と呼ばれる場所が他にない以上、これが最後の塔探索となるだろう。太陽さえ見えれば、雲ひとつ無い快晴であった事が予想される程の空が何を示しているのか、何を勇者一行に語っているのかをサラは空を見上げながら考えていた。

 

「カミュ、マイラの村には寄らないのか? 既に二ヶ月近く経過しているのだから、あのオリハルコンの剣も出来上がっているのではないか?」

 

「そうかもしれないな……」

 

 メルエの手を引きながら空を見上げるサラを余所に、リーシャは先頭で地図を見ながら歩くカミュへと問い掛ける。確かに、ドムドーラで発見したオリハルコンをマイラの村に居る鍛冶師に届けてから二ヶ月の時間が経過しようとしていた。それだけの時間があれば、通常の剣などは疾うの昔に出来上がっているだろう。如何に神代の剣を打っているとはいえども、何らかの形が出来上がっていても可笑しくはない。だが、地図から顔を上げたカミュの返答は、そんな剣を受け取りに行く気がない事を物語っていた。

 今、カミュの手にある雷神の剣も神代から伝わる名剣である。雷の神が愛した剣として伝えられ、大きな力を有している剣なのだ。だが、それでも古の勇者が手にしていた『勇者の剣』となれば、それ以上の存在であるだろう。この地上に現存しない金属オリハルコンに選ばれたカミュという青年が持てば、その能力は計り知れない。その剣があれば、この先の旅も大きく変わって行く事は、リーシャだけでなく、カミュも既に理解している筈であった。

 

「……もし、その剣が出来上がっていたとしても、俺にはまだそれを手にする資格が無い」

 

「資格? ああ……そうだな、少なくともあの竜種を退けられる力を示さなければ、古の勇者の剣に振り回されかねないな」

 

 振り向いたカミュの瞳を見たリーシャは、彼の胸の中にある想いを正確に理解する。

 彼の中で、あの塔での出来事は終わっていないのだ。メルエという彼が大事に想う少女の力によって辛うじて生き長らえたという事実は、とても重い物なのだろう。武器という装備品を強くし、その強敵を倒したところで、彼にとっては乗り越えたと言えないのだ。

 あの時と同じ装備で、あの時以上の想いを持って、あの時感じた恐怖と絶望感を振り払ってこそ、彼は最上階で封印されているであろう精霊神と会う覚悟が出来ると考えているのだろう。

 この五年という長い旅路で大きく変わった彼の心の中で、唯一変わらぬ想いは、父オルテガと精霊ルビスへの憎しみに近い想いだけである。その想いを持ち続けたままここまで旅を続け、遂にその憎悪の相手と対面する可能性を見た時、彼の中には多少なりとも迷いがあったのかもしれない。迷いがあったからこそ、前回の敗走があり、それに繋がるサラとメルエの葛藤があった。この若い勇者は、そう考えているに違いがないとリーシャは考えたのだ。

 

「馬鹿者、全てを一人で抱え込むな。確かにお前は弱かったが、私も弱かった。だが、今回は違う。父と、この斧に誓おう」

 

「……父の次に来るのが、その斧なのか?」

 

 胸を張ってそう答えるリーシャを見たカミュは、小さな笑みを浮かべる。リーシャであれば、自身の誇りに賭けてや騎士としての誇りに賭けてなどという言葉を口にすると思っていたのだが、それが手にする一振りの斧に誓うと言われた事で、張り詰めていた彼の気が良い意味で緩んでしまったのだ。

 『もう、この斧が私の誇りでもあるからな』と照れ臭そうに笑うリーシャの笑顔が、とても眩しく映り、カミュはもう一度小さな笑みを浮かべる。そんな二人の笑顔に嬉しくなったメルエがリーシャの腰にしがみ付いて花咲くような笑みを溢した。

 

「メルエが危険な呪文を唱える必要がないように、カミュと二人で踏ん張るからな」

 

「…………ん…………」

 

 しがみ付いて来たメルエの帽子を取って頭に手を乗せたリーシャの言葉に、少女が大きな頷きを返す。これだけの決意を受けたとしても、この少女は他の三人が危機に陥れば躊躇い無く大呪文を行使するだろう。だが、それでもドラゴラムだけは二度と詠唱しないかもしれない。この笑みを一度失わせた呪文は、彼女の中で封印されてしまう可能性は極めて高かった。

 後の世で、メルエが子を成すかどうかは解らない。だが、彼女は自分の子供にドラゴラムという呪文を教える事はないだろう。自分自身が味わった絶望と苦しみを、彼女が大事に想う者に残すとは考えられなかった。それだけの心の傷を残した呪文であり、それだけ強大な力でもあるのだ。

 

「それともう一つあるが、どうやってあの塔へ行くつもりだ? あの時、ルーラでマイラまで戻って来ているから、舟はこちら側にはないぞ?」

 

 メルエの頭を優しく撫でていたリーシャが、思い出したようにカミュへと視線を送る。確かに彼女の言葉通り舟はルビスの塔のある小島に繋がれており、マイラの村がある大陸にはない。つまり、海を渡る手段がないのだ。

 それでも何も言わずに真っ直ぐ北へカミュが向かっている以上、何らかの方法があるのだろうと感じてはいたが、リーシャにはそれが全く理解出来ない。故に、会話する機会に恵まれた事で、尋ねてみたのだ。

 サラやメルエが居る為、あの距離を泳いで渡ろうとなど言い出す事はないと思ってはいるが、それでもやはり不安に思ってしまったのだろう。カミュやリーシャが身に纏っている防具は決して軽い物ではない。それを装備したままで海を泳ぐ事はまず不可能であり、それを脱いで渡ったとしても、あの塔での戦闘に耐えられる訳が無いのだ。

 

「それは心配ありませんよ。おそらくですが、カミュ様がルーラを唱えればルビス様の方からお呼び頂ける筈です。私やメルエでは駄目かもしれませんが、ルビス様の涙が晴れた今ならば、必ずあの塔へ辿り着けると思います」

 

「…………むぅ…………」

 

 しかし、そんなリーシャの不安に明確な答えをくれたのは、彼女を不機嫌そうに見つめるカミュではなく、後方で空を見上げていたサラであった。

 サラの返した答えの中に、自分が駄目だという文言があった事に頬を膨らませているメルエであったが、リーシャが視線を戻した先にいるカミュの表情は更に酷い。彼自身、サラに言われるまでもなくその事を理解していたのであろう。敢えて触れようとしなかった事を明確に告げられた事に明らかな不満を示していた。

 精霊神ルビスに仕えていたと云う妖精からの直々の願いを受けた勇者である。その勇者を拒む理由が最早ルビスには存在しないだろう。バラモス城で聞いたあの声が精霊ルビスの物であれば、カミュ達がアレフガルドへ来る事を拒んでいた筈である。サラの言葉通り、最初の塔の探索時に降っていた雨がルビスの涙だとすれば、アレフガルドへカミュ達が来てしまった事への贖罪の涙なのか、それともこの先でカミュ達の身に降りかかる苦難を想ってなのかは解らないまでも、その涙が晴れる程の実力をカミュ達が有し始めている事だけは確かであった。

 

「そうか、確かに晴れているな。ルーラで塔へ向かう事が出来るのであれば、探索時も晴れ続けている事だろう」

 

「はい。ルビス様にお認め頂けたのだと思います」

 

 満面の笑みを浮かべたサラの言葉に鼻を鳴らしたカミュは、そのまま北へと歩みを進め始める。世界を救うと云われる青年の不貞腐れた姿に苦笑を浮かべたリーシャは、同じように困った笑みを浮かべているサラの背中を叩き、未だに頬を膨らませる少女の頭に帽子を被せた。

 封印されている精霊神が、自身を解放する力を有する者達としてカミュ達一行を認めたのならば、その者達を自らの場所へ誘う事は簡単であろう。魔王バラモスの死によって綻びを見せた封印は、大魔王ゾーマの復活によって強固な物に変わりつつある。大魔王ゾーマの力が完全に戻った時、精霊神ルビスの姿は永遠に失われてしまう筈であった。

 だが、未だその時ではない。精霊神ルビスと竜の女王との戦いは、如何に大魔王といえども無傷では済まなかったのだろう。その傷を癒し、力を取り戻す為の時間を得る為に、バラモスがルビスを封じていたのだとすれば、今はまだ大魔王が完全に復活していない可能性は高かった。

 大魔王ゾーマの力が完全に戻るのがいつなのかは解らない。今日なのか、明日なのか、それとも数年後なのかさえも解らない中、精霊神ルビスの解放が可能な時間は残り少ないのだ。

 

「ルビス様に呼ばれるなど、何処か感慨深いな」

 

「……今までその力の片鱗さえも見た事はないがな」

 

「カミュ様!」

 

 真っ暗な闇のような海を前にして、その先にあるルビスの塔の方角へ顔を向けたリーシャは、ここまでの長い旅を思い出して口を開く。彼女が生きて来た世界では精霊ルビスという存在は唯一無二の存在でもあった。全ての人間が崇め、その姿を見るどころか、その存在を有無を口にする事さえも畏れ多い程の存在。誰一人としてその声を聞いた事の無い神のような存在から招かれるという事自体、僧侶ではないリーシャにとってすれば想像を絶する物であった。

 だが、先程まで不機嫌そうな表情を浮かべていた青年は、そんな感慨を嘲笑うかのような発言を口にする。そして、それに対して過敏に反応した賢者の叱責が飛ぶ中、この状況まで来て虚勢を張ろうとするカミュの姿にリーシャは再び笑みを溢していた。

 

「それは嘘だな。お前は何度もルビス様のお力を見ている筈だ。ニーナ様の想いと願いを宿した命の石、イシス女王様の願いとメルエの想いに応えてくれた祈りの指輪、そしてサラをあの時救ってくれた大きな魔法力、何よりもお前自身がバラモス城でそのお力を身を持って体感した筈だ」

 

「ちっ」

 

 リーシャの悟ったような顔と口ぶりに、若い勇者は舌打ちしか出来ない。リーシャが全て正しい訳ではない。それでも、全て誤りでもないのだ。カミュの心情を抜いてしまえば、彼女の言っている事は事実であり、それを五年という月日の中で何度と無く味わって来ている。それでも認めようとしない自分を、仕方のない子供を見るように見つめるリーシャに、彼は苛立ちを覚える事しか出来なかった。

 しかも、カミュ自身が何を想い、何を考え、何を犠牲にしてこの場所に立っているのかを誰よりも理解している事が解るからこそ、苛立ちも大きいのだろう。顔を背けるカミュに向かって未だに笑みを浮かべている姿からも、彼女が誰よりもこの青年の心を慮っている事が解った。

 

「カミュ様、行きましょう」

 

「そうだな、悠長に話をしている場合ではなかったな。行こうか、私達が置いて来てしまった借りを返してもらいにな」

 

 自然とカミュを中心に集まり始め、目の前に来たサラが真剣な瞳で彼を射抜く。最初にルビスの塔へ挑んだ時の不安定な賢者は既にいない。誰もが認める勇者の前に立ったのは、誰しもが認める賢者。悩み苦しみ、泣き続けた彼女は、信じて止まない精霊ルビスという唯一無二の存在の前に立つ資格を有した存在へと上り詰めた。

 全ての生物の幸せを願いながらも、根底に在る魔物への恐怖を認め、それでも尚前へと踏み出した彼女は、世界の全てを愛す精霊神の御前に参上する資格を得る。いや、正確に言えば資格など存在しないのだが、その大いなる存在を前にしても自身の目指す未来を口に出来るだけの強さを得たのだ。

 何度となく揺れ動いて来た心は定まり、目指す未来へと続く道は彼女自身が切り開くだろう。その強さと柔軟さを身に着けた賢者の瞳を見たカミュは小さく頷きを返し、その横で名誉を挽回しようと口にする女性戦士に大きな頷きを返した。

 

「ルーラ」

 

 太陽さえ出ていれば、晴れ渡るような青空であるだろう空中に浮かび上がった光は、何かに吸い込まれるように、そして何かに導かれるように北の空へと飛んで行く。

 塔の探索時に常に降り続けていた雨が、精霊ルビスの流す涙に呼応していたのかどうかは解らない。だが、アレフガルドに僅かに差し始めている光の道は、今は確かに精霊神ルビスが封じられた塔へと向けられている。それが解放される時を待つルビスの喜びなのか、アレフガルドという世界を照らす勇者の誕生を祝う世界の喜びなのか、今はまだ誰にも解らない。

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございます。
短いですが、この辺りの話をどうしても入れ込みたかった為、1話としました。
次話からは再びルビスの塔です。
おそらく3話程かかると思います。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。

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