新訳 そして伝説へ・・・   作:久慈川 京

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マイラの森②

 

 

 

 部屋から忽然と姿を消してしまったメルエを探してリーシャは宿屋を駆け回り、隅々まで探し続けたが、その姿の欠片も見えなかったのだ。カウンターで帳簿を付けていた宿屋の主人に迫った彼女の表情は鬼気迫る物であり、それを真正面から受けてしまった店主は肝を冷やした事であろう。それでも、背の高いカウンターで帳簿を付けていた主人は、少女が宿を出て行く姿を見ていなかったと答えた。

 ならば宿から出ておらず、生理現象の為に部屋を出たのかと再度宿屋の隅々まで確認するが、それでも少女の姿は何処にも見つからない。焦りに焦ったリーシャは、偶然外から戻って来たサラを見てその焦りを怒りへと変貌させた。

 怒鳴り声にも似た問いかけを受けたサラは、後ろに仰け反りながらもリーシャの瞳を真っ直ぐ見つめ、内容を聞き進める内に顔色を失って行く。最早真っ青を通り越して血の気すらもない蒼白という状態に入ったサラをリーシャの怒声が再び現実へと引き戻した。

 

「メルエは何処へ行った!? 何故、サラは傍にいてやらなかったんだ!?」

 

 本来のリーシャであれば、これ程の追求をサラへ向ける事は無かっただろう。だが、今のリーシャの表情には明らかな怒りが浮かんでいる。その瞳を見て、この女性戦士は既に自分の中に再浮上して来た悩みを知っていたのだとサラは察した。

 リーシャさえも買い出しへ出たのは、メルエに食べさせる物を自ら選びたいという理由の他に、サラとメルエの二人だけに時間を与えるという理由もあったのだろう。カミュでは察する事も出来ない他人の心の機微。ここまでの五年以上の長い旅の中で、そんな彼女の能力に何度も救われて来た。だが、今回はそれが完全に裏目に出てしまう。リーシャはサラの胸の奥にある深い闇を見誤っていたのだ。

 

「わ、わかりません……」

 

「カミュ! 表に出るぞ! 村の外へ出るのであれば、必ず門を通る筈だ!」

 

 完全に目が泳いでしまったサラに表情を歪めたリーシャは、一歩後ろで自分以上に顔を歪めている青年へと言葉を飛ばす。彼はメルエの失踪とサラとの関係性に理解が及んではいないだろう。だが、メルエという少女を最優先に考える彼は、現状がかなり深刻である事は理解している。故に、リーシャよりも早く宿屋の門を飛び出していた。

 自分の言葉を聞き終える前に宿屋を飛び出した青年の背中に大きな溜息を吐き出したリーシャは、元々吊り目気味の瞳を細めてサラの方へ視線を送る。だが、その視線を受けたサラが身体を硬直させるのを見ると、再び息を一つ吐き出した。

 

「まずはメルエを見つけるのが先だ。細かな話は道中で話す」

 

「は、はい……」

 

 自分の中身まで見透かされてしまったように感じたサラは、力なく頷きを返し、リーシャの後を追って外へ出る。まるで自分の心の闇が噴き出してしまったのかと思う程の空を見上げた彼女の瞳は暗く濁りを見せていた。

 晴れる事のない闇が彼女の心を覆い、歩むべき道を見失う。賢者として歩み始め、その想いを成就する先が見えたと感じていた矢先に、的中する筈の的を失ったのだ。

 魔王バラモスを討ち果たし、精霊ルビスの教えを忠実に受け継ぐアレフガルド大陸にて、その大陸を統べる王族の尊い志に触れ、自身の目指す先が決して不可能な未来ではない事を知った。だが、それを不可能にしてしまう者が自分であったという最悪の結末が、彼女の心に太い杭となって打ち付けられたのだ。

 

「女の子? ああ、アンタ達と一緒にいた女の子か……いや、悪いが、一日ここで警備をしているが、門は開けていないぞ」

 

 サラがカミュ達に追いついた頃、既に彼等の会話は終わっていた。門番の話を聞く限り、彼がこの場を動いていない事は疑いようも無い事実であり、彼が門を開けない限り、この村に誰も入れないのと同様に誰も出る事が出来ない。つまり、メルエはこの村から出ていないという事になるのだ。

 ならば、あの幼い少女は何処へ行ったのか。温泉村であるマイラは、並みの村に比べれば確かに広い。だが、周囲を森に囲まれた村であり、魔物対策も兼ねた村壁は、極力村の拡張を抑えるように作られていた。目が届かない範囲など、木々の根元や建物の裏などしか考える事が出来ないのだ。

 

「……まてよ? もしかしたら……。ちょっと来てくれ」

 

 カミュとリーシャが焦りながらも周囲を見渡し、再び駆け出そうとする頃、少し思案に耽っていた門番が不意に口を開き、何かに思い当たったのか、村の北側へ視線を向けて歩き始める。そんな門番を見たカミュ達は、元々心当たりも無く、藁にも縋る思いで門番の後を付いて行く事にした。

 門番は、村の中央にある井戸を横目に、宿屋に併設する温泉の裏へと抜けて行く。温泉の周囲は竹で出来た柵で囲まれており、その中を見られないようになってはいるが、その脇は人が通れるような獣道が続いていた。

 温泉の後方には、マイラの森を縦断するような岩山が聳えており、それはこの村を護る自然の壁となっている。だが、村の西側には木々が生い茂る小さな森が広がっており、門番はそちらへと歩いて行った。

 

「やっぱりか……。もし、あのお嬢ちゃんが村の中に居ないとすれば、ここから外へ出たのかもしれない。以前、子供達が誤って空けてしまった穴なんだが……」

 

「カミュ、行くぞ!」

 

 門番に案内されて向かった先には、村を囲む壁があったのだが、その壁の一部分の木が壊され、大人であっても無理をすれば通れる程の穴が開いていた。穴の先は木々が生い茂る深い森が広がっており、それがマイラの森と呼ばれる、『森の精霊』が護る神聖な森である事が一目で解る。

 最早メルエは村の中にはいないという確信に近い物を持っていたリーシャは、躊躇無く壁の穴に飛び込み、それを追うようにカミュもまた穴を潜った。残されたサラも、呆然とする門番に一礼をした後、壁の穴へと身体を潜り込ませる。しかし、門番によって呼び止められたサラは、彼が持っていた『たいまつ』を受け取ってから二人の後を追うのであった。

 

「何!? メルエは古の賢者の血筋なのか!?」

 

 マイラの村へ入ると、並走するように走るリーシャからの問いかけに小さな声で答えを返したサラは、自分の憶測も含んだメルエの真実を語り始める。それなりの速度で走っているにも拘らず、それでも会話を止めようとしないリーシャの問いかけは矢継ぎ早に飛び、息を切らせながらもサラはその問いに一つ一つ答えて行くのだった。

 メルエが古の賢者の血を受け継ぐ事。その賢者がドラゴラムという呪文を『悟りの書』に残していた事。そして、その呪文を行使するには、賢者の血筋に残る『竜の因子』が不可欠である事。それが、メルエが『竜の因子』を持つ、竜種と人間種との間に生まれた者の末裔であると云う証明になる事。

 一つ一つが驚愕の事実であり、二人の会話に関心を示していなかったカミュでさえも、驚愕の表情を浮かべて振り返る。魔法の才能から考えれば、メルエが賢者の血を引いているという事は何の疑いも無く納得が出来るが、それが竜種と人間種との末裔となれば荒唐無稽な物語とも言える程であったのだ。

 

「メルエのご先祖様が、竜の女王様のように人型になれるとすれば、二つの種の間に神と精霊の祝福が降りたとしても不思議ではありません……」

 

 驚愕の表情を消し、再び先頭でメルエの名を叫び始めたカミュを余所に、サラは自分の胸に広がる闇と戦いながらリーシャとの会話を続ける。

 種族の垣根を越えた子種と云うのは、神や精霊の祝福とも考えられていた。それは、それだけの希少な確率で生まれる奇跡であり、偶然と云う言葉で片付けるには畏れ多い程の奇跡だからである。

 だが、メルエの魔法力や、古の賢者の残した功績から考えれば、その力は『人』という種族の能力を大幅に超えており、人間から見れば脅威に等しい。迫害を受け、人の集落では生きて行く事は出来ず、人目を避けるように生きていたのかもしれない。賢者としての祝福を受けるまでは、その一族は不遇な生活を強いられていた可能性も否定は出来なかった。

 

「メルエが恐ろしいのか?」

 

「!!」

 

 そんな自身の胸に渦巻く負の感情を隠しながら話していたサラは、突然告げられた核心に息を飲む。走りながらも顔をサラへと向けたリーシャの瞳は真剣な光を宿しており、それでありながらその光は糾弾するような物ではなかった。

 それは、何処か哀しみを宿した寂しい光を含む物。サラの胸の中にある全てを理解しながらも、僅かに残るそうでない可能性を信じようとしているようにさえも見える。そんな瞳を見ている事の出来なくなったサラは、顔を背けるように地面へと視線を落としてしまった。

 

「私は、バハラタを出る時、サラに『顔を上げろ』と伝えた筈だぞ」

 

 しかし、そんなサラの行為は許される事はなかった。静かに、それでいてとても強い強制力を持つその言葉は、その顔を見ていなくとも感情を抑えた物である事が解る。それでも、それが怒りなのか、悔しさなのか、それとも悲しみなのかは解らない。ただ、その言葉に逆らう事が出来ない事だけは事実であった。

 顔を上げたサラはリーシャへ視線を送るが、当の本人の視線は既にサラに向けられてはおらず、先頭を走るカミュの背中へ向けられている。メルエという少女が村を出てからそう長い時間が経過した訳ではない。本来であれば、既にその姿を見つけていても可笑しくない事を考えると、見当違いの方角に向かっている可能性さえも考えられていた。

 

「カミュ! 方角を変えよう!」

 

 振り向いたカミュは静かに頷きを返し、一旦周辺へ視線を向けながら、サラの持っていた『たいまつ』を奪って周囲を確認する。その間にリーシャはサラへと視線を向け直した。

 その視線を受けたサラは心臓を鷲掴みにされたように感じる。この五年の旅の中で、姉のように慕うこの女性戦士が、サラに向けてこのような瞳を向ける時、その言葉は絶対に聞き逃してはならない物であった。その言葉の数々は、新たにサラの胸に苦悩を生み、その先にある厳しい道を彼女に示す物となって来ている。

 故にこそ、サラは息を整えるのも忘れ、リーシャの瞳を見つめてしまった。

 

「サラ、一つ言っておく。その者への恐怖と愛情は、全く別のものだ」

 

「……え?」

 

 だが、その言葉はサラの考えていた物とは全く異なる物であった。

 叱責を含む、呆れや失望などを受けると考えていたサラは、リーシャの口から出た静かな言葉に、意表を突かれたように惚けた声を上げてしまう。手元の地図に『たいまつ』を翳して真剣に道を探っているカミュを横目に、リーシャは呆けるサラの頬に軽く手を当てた。

 その手はとても暖かく、何よりサラの心の闇を晴らすように浸透して行く。その悩みなど小さな物であるようにリーシャの瞳は優しく、揺れ動くサラの瞳を固定させて行った。

 

「私は父を心から愛しているし、父も私を深く愛してくれていた。だが、私はこの世の何よりも父が怖かったぞ」

 

 サラはそんなリーシャの口から告げられた言葉に首を傾げる。先程まで感じていた安心感など気の迷いであったかのように、その言葉は的外れに近いように感じたのだ。

 カミュが道を決めるまで、もう暫くの時間が残されているだろう。メルエという少女がのこの森で彷徨うのならば、一刻の時間も許されはしないのだが、それでもリーシャはサラの瞳を真っ直ぐに見つめ、言葉を紡いだ。

 

「剣の修行の時は本当に厳しかった。それ以外でも父の張りのある声を聞くと背筋が伸びたさ。周囲の人間が恐れる魔物さえも打ち倒して行く父が、魔物よりも恐ろしい化け物に感じた事もある。だが、それでも婆やの作ってくれた食事を二人で食べる時は誰よりも優しく、誰よりも暖かかった」

 

「でも……」

 

 リーシャの話したい内容は理解出来る。だが、それでもリーシャの父親は魔物でもなければ竜種でもない。絶対の強者ではなく、何時か乗り越える事も出来る強さを持った普通の人間なのだ。それを言おうとしたサラの口を続いて告げられたリーシャの言葉が塞いでしまう。

 それは、サラにとって、最も考えたくはない内容であり、最も考えなければならない内容であった。

 

「サラにとって、メルエという存在は何なのだ?」

 

「そ、それは……」

 

 メルエという幼い少女と出会い、既に五年近くの時間が経過している。サラの年齢を考えれば、人生の四分の一に近い時間を共に過ごしていると言っても過言ではない。それは、サラの生みの親と過ごした時間と匹敵する程の長い時間であった。

 妹のように愛し、メルエもサラを姉のように慕っている。一番心が許せる相手のように、サラに対して最も我儘を言い、対抗心を燃やしていた。カミュやリーシャに対しては父や母への甘えを見せる反面、サラに対しては実の姉への感情を見せていたのだ。

 そんな幼い少女の笑みや涙、怒りの表情や悲しみの表情。頬を膨らませて不満を表そうと必死な姿に、感情を失くしたように表情さえも失う姿。この五年間で見せるようになった様々な彼女の姿がサラの脳裏に浮かんでは消え、最後に花咲くような満面の笑みが浮かぶ。

 

「生物が強者へ恐れを抱くのは当然の事だ。だからこそ、人と魔物は住み分ける事も出来る。人を恐れる獣や魔物は人里へ近付かず、魔物を恐れる人間は森や洞窟へ近付かない。それがこの世で生きる為の生物としての本能だ」

 

 愛すべき妹のような少女の笑みを見たサラは、リーシャの言葉で我に返る。それは誰しもが知る当たり前の事で、誰しもが解る簡単な理。

 恐ろしければ近寄らなければ良い。命の危険を回避するのであれば、その場に近付かない。そんな子供でも理解出来る内容が、本来生物が持つ本能である。

 

「サラの目指す世界というのは、人間も魔物も同じ家屋で暮らす世界なのか? そんな実現不可能な夢に向かって邁進していたのか? 人間が魔物を恐れ、魔物が人間を恐れる。そういう世界だからこそ、互いの生活圏を侵さないという決まりが自然と生まれる筈だ」

 

「リ、リーシャさ……ん」

 

 賢者となり、自分の目指す道を定めたサラは、己の胸の奥にある本能を隠し続けて来た。深く刻まれた傷は、再び表に現れた時にはその本能を大きく肥大させてしまう。生物としての本能は、賢者の精神をも壊してしまったいた。

 人間も魔物も同じ場所で生活をし、お互いを襲う事がないなど、弱肉強食の食物連鎖で成り立つ世界では不可能な話である。互いの住処を分け、それを侵す者の生命は自己責任というのが、当初の目標であった筈。しかし、魔物に対しての潜在的な恐れを表に出してしまったサラは、そんな思いさえも忘れてしまう程に落ちていたのだ。

 魔物を恐れる自分では、そのような世界は望めないという思いが、彼女の賢者としての資質を曇らせている。常に仲間を見続けて来た女性戦士だからこそ、そんなサラの誤った認識を理解する事が出来たのだろう。

 しかし、この女性戦士は、何も優しさだけの女性ではない。

 

「だが、サラ。それと、メルエの件は別だ。お前にとってメルエは何だ!? この五年の時間は、あの一瞬の、あの一つの呪文で崩れ去る程度の物か!? メルエはサラが見て来た魔物のように、恐れるだけの存在なのか!?」

 

「!!」

 

 それは悲痛にも似た叫びであった。

 サラとメルエの間に築かれた絆を彼女は知っている。あの幼い少女が、目の前の賢者をどれだけ信頼し、どれだけ慕い、どれだけ愛しているのかを彼女は知っている。そして、この賢者が幼い少女の事をどれだけ真剣に考え、どれだけ心を痛め、どれだけ深く愛しているかを知っている。

 故に、彼女は怒るのだ。

 『何故、自分の想いに気付かないのだ』と。

 

「……いくぞ」

 

 固まってしまったサラから視線を外したリーシャはカミュの近くに寄り、向かう方角を確認し合う。それが完了した後に発したカミュの声で、サラもその後を追うように歩き出した。

 そして、カミュの傍まで近寄った彼女に、最終勧告が告げられる。それはとてつもなく重い信頼に包まれながら、それでいて凄まじい厳しさを放つ言葉。遠い昔に聞いた事のある言葉であり、それはサラの心の奥底に眠っていた物であった。

 

「アッサラームで先延ばしにした答えを出す時だ」

 

「あっ……」

 

 その先をカミュは口にしなかった。だがサラには、彼が口にすべきであった言葉の続きが解ってしまう。それは、アッサラーム近辺の森で成された二人の会話から来ていた。

 ベギラマという呪文を魔道士の杖を媒体として行使したメルエの膨大な魔法力を改めて感じたサラは、少女の存在に疑問を持つ事となる。そして、その問いをカミュへと向けたのだ。その時に彼が口にした言葉は、遥か昔の事のようにサラの心の奥底に眠っていた。

 『メルエに対して危害を加えるのならば、敵対する』

 それは、勇者と呼ばれる青年が向ける完全なる敵意である。だが、サラはその言葉の裏に、彼の深い優しさを見た。

 先程までのリーシャとの会話は、地図を見ているカミュにも聞こえていただろう。それでも、即座にサラをメルエの敵として認識する事なく、メルエが消えてしまった責を追求もしなかった。今もまだ敵意を向ける訳でもなく、サラの決断を待ってくれている。

 それは、彼らが歩んで来た五年の月日が築かせて来た絆なのだろう。

 

 

 

 

 

 カミュ達三人が再びメルエを探す為に駆け出した頃、その少女は森の中を彷徨い歩いていた。

 彼女の姿は宿屋が用意した部屋着のまま。バハラタで購入して貰った魔法の盾も装備していなければ、エルフの隠れ里でエルフ族の好意で購入した天使のローブも身に着けていない。彼女と共に苦楽を共にして来た相棒である雷の杖さえも、今の彼女の手には握られていなかった。

 『たいまつ』の明かりも無い、真っ暗な闇に包まれた森の中を少女は彷徨い歩く。その瞳に輝くような光は無く、虚ろに揺れ動く瞳を虚空へ向けて一歩一歩森の奥へと進んでいた。

 何処へ向かおうという訳でもない。今の彼女に目標もなければ、希望さえも無いのだ。只々、あの宿屋の一室には居たくはなかった。それだけなのだろう。

 

「…………うぅぅ…………」

 

 思い出したように突如として溢れて来る涙が、この幼い少女の心に大きな傷がある事を示している。母のように慕う女性戦士の笑顔が浮かぶ。父のように慕う青年の小さな微笑みが浮かぶ。そして、最後に姉のように慕う賢者の笑みが浮かんだ後、あの凍りついたような表情が浮かんだ。

 自分と目を合わせる事を嫌うように逸らされた顔は、少女に絶望を植え付け、その後に静かに閉まって行く扉が、少女の未来へと続く道を閉ざした。

 原因は、幼い少女であっても理解はしている。あのルビスの塔と呼ばれる場所で、皆を救う為とはいえ、行使してしまった呪文が原因だという事を。

 メルエはドラゴラムを行使していても、自分の姿が変わった事を理解していた。初行使の時には、自分が人間ではない姿になってしまった事に驚き、そして恐怖している。それが、『変化の杖』を使用した時とは全く異なる感覚だった事は、メルエの内にある本能で理解していたのだろう。そして、余りの恐怖に自身の力の制御が出来ず、周囲一面を氷の世界へと変えてしまった。

 その後、いつの間にか野営地へ戻っていたメルエは、皆が自分が竜の姿になってしまった事に気付いていないかを不安に思いながら過ごしていた。だが、誰もその事には触れない事に安心した彼女は、あの塔に入るまで、ドラゴラムという呪文の存在さえも忘れようとしていたのだ。

 

「…………ぐずっ…………」

 

 いつも自分に絶対の安心感をくれる大事な人。自分に光を与えてくれた勇者の青年。自分に愛を教えてくれた母のような女性戦士。自分に心を与えてくれ、大きな力を教えてくれた姉のような賢者。その三人は、メルエという少女にとって何に変えてでも護りたい者達であった。

 竜に変わってしまえば、皆と異なる姿になってしまえば、そんな大好きな人達に嫌われてしまうのではないかという恐怖と戦いながらも、彼女はあの場でその呪文を唱えている。彼女の心の葛藤は、想像する事も難しい程の物であろう。彼女にとって、彼等三人しかいないのだ。そんな三人に嫌われるかもしれないという恐怖は、想像を絶する物であった筈だ。

 それでも、行使後に目が覚めた時、そこに二人の満面の笑みがあった。それがどれ程に希望を与えただろう。メルエの内に宿った恐怖を吹き飛ばすような強い微笑みの光は、彼女の心にどれ程の勇気を与えただろう。

 だが、そんな希望と勇気は、あの一瞬で消し飛ばされてしまった。

 

「…………サラ…………」

 

 賢者となった女性が、魔物を嫌っていた事をメルエは知っている。初めて出会った時、魔物と同様にカミュを嫌っていた事を知っている。サラがどれだけ隠していたとしても、子供の瞳は全ての真実を映し出してしまう。

 そんなサラが徐々に変わって行く過程を見て来たメルエであったが、あの頃のサラが魔物に対して向けていた瞳と感情を忘れた訳ではない。そんな姉のような存在が、自分と目を合わせる事もなくその場を離れたという事が、メルエの心に残っていた最後の希望を打ち砕いてしまったのだ。

 カミュやリーシャは必ずメルエを護ってくれるだろう。サラがどれ程にメルエへ敵意を向けたとしても、彼女の生命が危ぶまれる事など有り得はしない。だが、そんな考えが思い浮かぶ程、この少女の心と身体は成長を果たしてはいなかった。

 竜の因子と云うのは、人間とは異なる。元来竜種は希少種であると共に長命種でもある。人間と同じ速度で成長する事はなく、成熟するまでの期間も人間の何倍も時間が掛かるのだ。純粋な竜種とは異なるメルエのような存在であっても、その度合いは異なるが、通常の人間とは成長速度が異なっていた。

 故に、カミュ達と出会って五年と云う月日が流れても、出会った頃のままの姿なのだ。子供の成長を間近で見た事のないカミュ達でさえ、その異常さに薄々気づいてしまう程、この少女の姿は全く変化していなかった。

 

「クククク」

 

 絶望の淵に落とされ、夢も希望もなく漆黒の森を彷徨い歩く少女の耳に聞き慣れない笑い声のような奇妙な音が聞こえて来る。近場の木々以外は闇に閉ざされた中、その笑い声は何処か遠いところから聞こえて来るようで、それでいてすぐ耳元で聞こえて来るようにも感じる。だが、今のメルエにとってそのような事はどうでも良い事であった。

 今のメルエにとって、これ以上恐怖を感じる事など何もない。カミュを見失ったスーの村では、彼女の心は壊れかけていても未だ希望は残されていた。だが、今の彼女の心に希望も余裕も何も残されてはいない。心に残るのは、絶望と悲しみだけであった。

 

「P¥5%*」

 

 暗闇から響く笑い声さえも気にする事なく、歩を進めようとするメルエの耳元に、いつか何処かで聞いた事のあるような文言が響く。いや、正確には耳に響くのではなく、直接脳へと届く物。空気の振動による伝達ではなく、生物の本能へ打ち込む楔のような文言が届いて行った。

 瞬時にメルエの顔が曇る。虚空を見るように虚ろでありながらも光を宿していた瞳から完全に光が失われて行く。愛情を求めるように差し出された小さな手は何も掴む事もなく、幼い身体と共に枯葉が落ちるように地面へと落ちて行った。

 

「ククククク」

 

 世界の希望となる一行をここまで繋ぎ止めていた少女の輝きは、アレフガルドを覆う闇の中へと消えて行く。僅か一人の年端も行かぬ少女の消失は、このアレフガルド大陸だけではなく、全ての世界を闇で覆い尽くす大きな起因となるだろう。

 漆黒の闇に包まれる深い森の中で、得体の知れぬ笑い声だけが静かに響き渡っていた。

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。
かなり短いですが、ここで区切る事にしました。
次話でこの十九章も完結です。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。

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