新訳 そして伝説へ・・・   作:久慈川 京

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ギアガの大穴

 

 

 

 竜の女王の城から外へと出た一行の中で、メルエだけは満面の笑みを浮かべていた。この場所に入る時は、これ以上ない程に怯えきっていたにも拘わらず、そのような事は忘れてしまったかのように微笑む彼女を見たサラは苦笑を浮かべてしまう。

 幼いメルエの手を引いているのはサラである。入る時にはリーシャに抱かれたまま身動きせずにいた少女は、今は近くに寄って来る小動物に目を輝かせ、サラを引っ張るように歩いていた。

 

「良かったですね、メルエ。でも、一体メルエは『命の石の欠片』を幾つ持っているのですか?」

 

「…………ふふふ…………」

 

 サラの質問に対して笑顔で返したメルエは、答えを言うつもりはないのだろう。幼い彼女にとって、カミュを護ってくれた『命の石』の欠片は、何よりも大事な宝物なのかもしれない。少女にとっての宝物は秘する物である。故にこそ、彼女の肩から掛けられたポシェットに入っている欠片の数は誰にも口にしないのだった。

 困ったような笑みを浮かべたサラであったが、優しい心を持ったこの少女を誇りに思う事には変わりなく、彼女と共に小動物達へと近付いて行く。

 

「あの石の欠片が、新たな守護者を護ってくれるだろう」

 

「……世界の守護者さえも護る石か……」

 

 先程、竜の女王が光の粒となり、己の産み落とした卵を護るように輝く中、出口へ向かおうとしていた一行の中で、突如サラの手を解いたメルエは、制止しようとする竜族の間を抜けて卵の前に立った。幼い少女から邪気や敵意が感じられなかった為、竜族の者達はメルエを害する事無く、彼女の行動に目を光らせる。そんな緊迫した空気の中、ポシェットの中を小さな手で探り、青く輝く小さな欠片を取り出したメルエは、その欠片を卵に向かって差し出した。

 笑みを浮かべ、欠片を差し出す少女を中心に暖かな空気が部屋を満たして行く。その石の欠片の効力を知るリーシャやサラはメルエのその優しさに微笑み、それが示す意味を理解出来ない竜族の者達もまた、何処か優しい空気に表情を和らげた。

 しかし、幾らメルエが欠片を乗せた手を差し伸べようと、卵が受け取る事など出来はしない。誰もがそう考え、竜族の一人がそれを受け取ろうと足を踏み出した時、卵を護るように輝いていた光の粒が動きを見せる。メルエを包むように光の粒が輝き、その手に乗った欠片を受け取った後、そのまま卵の周囲へと戻って行ったのだ。

 卵の中央に浮かぶ青い石の欠片を中心に、光の粒の色が変化して行く。淡い青色へと変化して行った光の粒が、まるで障壁のように卵を包み込んで行った。

 

「忘れているかもしれないが、あの石の欠片はニーナ様の愛情が刻まれた石が砕けた物だ。ニーナ様のお前への愛情と、メルエの持つ純粋な想いが、あの欠片に力を与えているのだぞ」

 

「……ちっ」

 

 竜の女王の居た玉座の間での出来事を思い出しながら、リーシャはカミュに対して口を開く。それを聞いた彼は勇者らしからぬ表情を浮かべ、舌打ちと共に離れて行った。

 そんな彼に対し、リーシャは優しい笑みを浮かべる。今のカミュはまだそれを認めない。だが、リーシャを罵倒する事もない。彼の中にある憎しみや悲しみは生涯消えない程に重い物である事を彼女が理解していて尚、それでも踏み込もうとしているのだと解っているからなのだろう。

 だからこそ、彼は逃げてしまうのだ。『自分の想いは誰にも解る筈がない』という言い訳が出来なくなっている事を無意識に感じ始めているのかもしれない。

 

「これもまた、長い戦いになりそうだな……」

 

 ラーミアへと向かうカミュの背を見つめながら、リーシャは小さな笑みを浮かべる。彼の想いや、彼の受けて来た傷痕を否定するつもりは毛頭ない。その上で、彼もまた愛されていたのだという事を教えてやりたいという想いしか、彼女の中にはなかった。

 余計な世話かもしれないし、身勝手な言い分なのかもしれない。だが、歪んで尚、心の奥底の優しさは失わず、真っ直ぐに立つ彼をリーシャは救ってやりたかった。傲慢な言い方に聞こえるかもしれないが、それもまた、一つの愛情なのかもしれない。

 

「メルエ、行きますよ」

 

「…………ん…………」

 

 カミュがラーミアの許へ向かったのを見たサラは、近寄って来たうさぎの背を優しく撫でるメルエに声を掛ける。名残惜しそうにしながらもしっかりと頷いたメルエは、サラの手を取って歩き始めた。

 四人がラーミアへと近付くと、ゆっくりとした動作で神鳥は羽を広げ始める。真っ先にその背に乗ったのはやはり幼い少女であった。ラーミアの背の羽毛に寝そべったメルエは、そのまま幸せそうに瞳を閉じ、神鳥の暖かさに身を委ねる。そんな少女の行動に優しい笑みを浮かべたリーシャとサラもラーミアの背へと乗って行った。

 

「……世界の歪を上空から確認する。頼む」

 

 最後に残ったカミュが、ラーミアの首に手を当てながら言葉を発すると、鳴き声を上げる事無く神鳥が首を縦に振る。その姿とその瞳が理知的な色を宿している事を感じたカミュは、暫しラーミアの蒼い瞳を覗き込んだ。

 雲一つない大空のように青く澄んだその瞳は、真っ直ぐカミュを見つめている。優しく暖かな光を宿しながらも、確かな力強さも感じるそれは、神鳥とはいえ鳥類が持つ物ではなかった。遥か高位から見守る者が持つような瞳。それは不思議な安心感と、強い力を与える物であった。

 

「カミュ、何処へ向かう?」

 

「この場所以外で、未開の場所はない……」

 

 ラーミアの背に乗って来たカミュに対して発せられたリーシャの問い掛けは空を斬る。ここまでの旅で、常に一行の進路を決定して来た彼ではあったが、ここに来て全ての選択肢が潰れてしまっていた。

 彼らが足を踏み入れた事のない場所は、この竜の女王の居城のある大陸だけである。地図上に載っている場所という限定はあるが、それでもそれ以外の場所に精霊ルビスの創造した世界があるとすれば、最早闇雲になって探すしかないのだ。

 それは、神鳥ラーミアの飛行速度などを考えても、この世界の広さからすると絶望的な物でもある。世界の歪がどれ程の大きさの物かも解らない。何よりも、その歪がこの世界にあるのかも解らないのだ。

 しかし、魔王バラモスという存在が、その歪からこの世界に現れたと考えるならば、その存在は確かにあるのだろう。

 

「魔王の爪痕と呼ばれる歪か……」

 

「あの……少し宜しいでしょうか?」

 

 カミュの返答を聞いたリーシャが、考え込むように呟きを漏らす。ここまでの旅を必死に歩んで来た彼等だからこそ、道中で目的以外の物を見たとしても、目的との関係性が薄ければ記憶にも残っていない。特にリーシャのような戦士は、勇者と賢者が考え、導き出した道を共に歩んで来た傾向が強い為、尚更であった。

 そんな重苦しい空気が流れる中、ラーミアが大地を蹴って上空へと浮かび上がる。何度も感じた事のある浮遊感に頬を緩めて周囲を見るメルエの横で、サラが慎重に口を開いたのはそんな時であった。

 

「カミュ様、最後のカギを入手した場所での会話を憶えていますか?」

 

「……渇きの壷を使ったあの場所か?」

 

 ラーミアの背の上で地図を広げるカミュは、サラから発せられた疑問に意識を向ける。最早遠い過去の出来事のように、思い出さなければならないその場所は、海の中央にある浅瀬であった。

 エジンベア国に奪われたスーの村の宝物は、その場の水分を飲み込んでしまうという神秘の道具であり、海水さえも飲み込み、浅瀬に祠を浮かび上がらせる。その祠の奥にある玉座のような場所に、彼等の旅を進める最後のカギがあったのだ。

 しかし、サラが言っているのは、神代の道具である最後のカギではない。あの場所で遭遇した者との間に交わされた会話であった。

 

「確か……『ネクロゴンドの山奥にギアガの大穴ありき。全ての災いは、その大穴から(いづ)るものなり』だったと思うのです。竜の女王様のお話をお聞きし、思い出したのですが」

 

「……全ての災いの元となる大穴か」

 

 サラの言葉を聞いたカミュは、考え込むように瞳を伏せる。あの時の言葉など、カミュは憶えていなかったのかもしれない。その内容の重要性を理解しながらも、彼は目の前に次々と現れる難題を解決して行く事の方が重要性を増して行っていたのだ。

 あの時点では。

 だが、そんな些細な会話を、一言一句違わずに憶えていたサラは、あの場所に居た亡霊が誰であるのかという事を考えていたのだろう。その答えが出たのかどうかは定かではないが、彼女の中で、その会話の内容は何処かに引っ掛かりがあった事は間違いなかった。

 

「ネクロゴンドの山奥という事は、おそらくバラモスの居城があったあの辺りだと思います。あの洞窟内にあった可能性もありますが、あの中ではかなり歩きましたので……」

 

「カミュ、もしかすると魔王バラモスがあの場所から動かなかったのは……」

 

「その歪みを護り、監視する為という事か?」

 

 ようやくサラの話している内容が理解出来たリーシャは、自分が思い至った事柄の重要性に驚き、カミュへと視線を移す。尻切れになった彼女の言葉を繋いだカミュは、その内容の的確性を感じ、信憑性の高さを知った。

 魔王バラモスが台頭して数十年。魔王自らその手を動かした事はない。魔物達と共に村や町、城などを襲った事もなければ、国自体を壊滅に陥れた事もない。唯一、サマンオサ国の内部が魔王の手下によって大きく揺り動かされてはいるが、魔王バラモス自らが手を下した訳ではなかった。

 そんなサマンオサ国へ自身の部下を送り込んだ理由も、世界の地形さえも変えてしまう力を持つ『ガイアの剣』という神代の武器を懸念した故となれば、世界の歪みを護っていたという仮説にも説明が付いてしまう。

 精霊神ルビスと竜の女王によって封印された大魔王ゾーマの復活の為にも、魔王の爪痕と呼ばれる世界を繋ぐ歪みを監視していたとすれば、あの場所を動かなかった理由としては十分だろう。

 竜の女王は、バラモスを小者と称してはいたが、人間にとっては恐怖の象徴とも言える存在であった。それ程の存在が、身を挺してでもその場所を護らなければならない程に大魔王ゾーマは強大な存在だというのだろうか。改めてそれを実感した三人は、口を閉ざして黙り込んでしまった。

 

「もう一度、バラモス城へ向かってくれるか?」

 

 何よりも先に、その是非を確かめなければならない。今や、魔王バラモスの本来の目的など知る術はなく、そこに何の意味もない。大魔王ゾーマが、復活後にこの世界を滅ぼそうと考えていたのならば、その復活までの期間をバラモスが抑えていた事になる。後は号令を掛けるだけという状態まで追い込まれていた世界ではあるが、勇者一行が成し遂げた偉業によって、その危機は一時的に回避されていた。

 しかし、既に大魔王ゾーマは復活を遂げている。もし精霊ルビスが生み出した世界が未だに健在だとすれば、それを征服した後に、この世界へと乗り込んでくる可能性は高いだろう。それは、完全な世界の崩壊である。

 この世界の守護者は最早残っていない。創造神から託された使命を全うした竜の女王は、新たな時代の到来を予期し、自身の後継者を生んでその生涯を閉じた。もう一つの守護者である精霊ルビスは、己が創造した世界で封印されている。今、大魔王ゾーマがこの世界に足を踏み入れてしまえば、間違いなく世界の終焉が待っているだろう。

 

「……もし、ギアガの大穴という物が存在し、それが異なる世界へと繋がる歪みであった場合、この世界の見納めになる」

 

「そうだな……私達が生まれ、多くの事を経験し、多くの事を学んだ世界だ。人間だけではなく、エルフも魔物も、動物や昆虫や草木も生きている世界。こうして見ると、本当に美しい世界だな」

 

「……はい。美しく、強い世界です」

 

 ラーミアがゆっくりと羽根を動かし、上空から見える大地や海が見える。それを見ながら口にしたカミュの胸の内は解らないが、それでもリーシャやサラは感慨深く自分達の故郷となる世界を見つめていた。

 本来、故郷とは生まれ育った国や町を指すのだろうが、この世界の広さと美しさを知る彼女達にとって、広大な世界そのものが故郷のように感じているのだろう。太陽の光を反射する大海原の輝きが眩しく、吹き抜ける風に動く緑の木々が映えている。

 広大な海と雄大な大地。無限に広がる大空に流れる雲。

 その全てが今この世界で生きている者達全てを拒絶せずに受け入れている。この太陽からの恵みを受けて生きる者達は、この世界に護られているのだろう。

 

「メルエ、眠ったら起きれなくなってしまいますよ」

 

「…………むぅ…………」

 

 先程までのカミュ達の会話が難し過ぎたのか、羽毛に寝そべり瞳を閉じてしまったメルエから小さな寝息が聞こえ始めた事で、サラはその身体を小さく揺り動かす。気持ちの良いまどろみから強制的に引き戻された事で少女がぐずり出した。

 最早、行き先は決まっている。その場に行き、どうするべきかを考えるのはサラとカミュであり、その後に決定するのはカミュであるのだ。竜の女王や精霊ルビスがこの世界の守護者であるのならば、リーシャはこのパーティーの守護者である。三人に害を成す者がいればそれを打ち払うが、行く道を決めるのは彼女ではない。

 

「メルエはラーミアが大好きだな」

 

「…………ん…………」

 

 微笑を浮かべたリーシャは、メルエの帽子を取って頭を優しく撫でる。その気持ち良さと暖かさにメルエは笑みを浮かべ、大きく頷きを返した。眠気にぐずるのを止め、座っているリーシャの膝に乗った少女は、自分の周囲に大好きな者達がいる事の幸せを改めて感じ、満面の笑みを浮かべるのだった。

 

 

 

 陽が傾き始め、空と海が真っ赤に染まる頃、ようやく一行を乗せたラーミアがネクロゴンドの山脈を抜ける。魔王バラモスが居た頃の不浄な空気は霧散し、澄んだ風が吹き抜ける大地は、多くの草花が咲き誇っていた。夕陽に照らされた泉は見惚れる程に美しく、諸悪の根源が根城にしていた場所とは思えない厳粛な雰囲気を醸し出している。

上空を旋回するように飛び続けていたラーミア上から大地を見ていたサラは、バラモス城へ目を向けているカミュやリーシャとは異なった場所に視線を動かしていた。

 

「カミュ様!」

 

 それは、バラモス城が浮かぶ小島の横にあった。

 同じように湖に浮かぶ小島は、夕陽の輝きを飲み込む程の闇に閉ざされている。何故これ程までの歪みに今まで気付かなかったのかと自分自身に疑問を感じてしまう程の闇は、浮島を斬り裂くように島全体を覆っていた。

 大地の歪みは空中にまで広がり、その傍の大気までをも歪ませている。向こう側の景色まで歪み、その実体を正確に把握する事は出来なかった。

 

「……下りれるか?」

 

 問い掛けるカミュに対して無言の肯定を示したラーミアは、バラモス城のある小島の隣へと降下して行く。高度が下がるにつれて明確に見えて来るその歪みは、まるでラーミアごと四人を飲み込むように大きな口を開けており、それが大地の裂け目である事に気が付いたのは、大地の緑が正確に把握出来るようになってからであった。

 そこまで来て、バラモス城へ向かった際に、この割れ目に気付かなかったのかをサラは理解する。それは、この世界の歪みといえる異質な空間と、バラモス城が放っていた異常なまでの瘴気によって、この場所自体が視界から外れていたのだという考えであった。

 魔王バラモスという存在が与える影響は大きく、人間よりも強靭な魔物達が理性を失う程に凶暴化し、人間という弱い種族の心を恐怖で支配する程の物。故にこそ、その周囲に漂う瘴気は空間を歪ませるのに十分な物でもあるのだ。空間を歪ませてしまう程の瘴気と、空間自体の歪みが同一の場所にあった場合、『人』という種族ではそれを認識する事さえも不可能なのかもしれない。

 

「これ程に巨大な穴に気付かなかったとは……」

 

 無事に着陸したラーミアの背から降りた一行は、島の大地を足で踏み締めながらも、とても不安定な浮遊感を感じていた。島の中央付近から裂けたように広がる割れ目は、その端も見えない程に大きく、全てを飲み込むかのような穴と化している。

 奥を窺う事など出来ない真っ暗な闇が広がり、その闇が地上に漏れ出してしまうのではないかと思う程に不穏な雰囲気を醸し出していた。

 足を踏み外せば、奈落の底へと落ちてしまう恐怖にメルエは怯え、サラの腰へとしがみ付く。通常の大地の割れ目ではない事だけは確かであり、別の世界へと繋がる道だと言われても納得せざるを得ない物であった。

 

「カミュ様、ここに飛び込むのですか?」

 

「……余りにも情報が少な過ぎる」

 

 自然と膝が笑い始めたサラは、恐怖に震えた声で前に立つ青年へと声を掛ける。しかし、救いを求めて口にした彼女の問い掛けは、苦い顔をした勇者には届かなかった。

 巨大な闇の口を開くその歪みを前に厳しい表情を崩さない彼は、ここまでの自分達の旅を思い出す。

 アリアハンを出た当初から綱渡りの旅であった。一つ一つの情報を繋ぎ合わせ、細い一本の糸を手繰るように歩いて来た道は、先の見えない頼りない道ではあったが、それでもその先に僅かな光が見えていた筈である。だが、今目の前に広がる巨大な歪みは漆黒に覆われ、一寸先も見えない完全なる闇であった。

 『勇者』として歩んで来た経験も、魔王を討ち果たしたという実績も霞んでしまう程の闇に、彼の心でさえも飲み込まれそうになって行く。

 

「カミュ! 何かが来るぞ!」

 

 呆然と闇の前で佇む一行の中で、その動きに気付いたのは唯一人であった。

 それは、常に何かの気配を真っ先に感じ取る少女ではなく、常に先頭を歩き続けて来た青年でもない。『人』の高みへと駆け上がる賢者でもなければ、神の使いと云われる神鳥でもない。

 己の肉体と精神、そして手にする斧を武器として戦い続けて来た一人の女性である。

 素早く構えた彼女は、後方にいる少女を護るように立ちはだかり、漆黒の穴から這い上がって来た何かに向けてその手にある斧を振り抜いた。

 真っ二つに斬り裂かれたそれは、小島に残された大地へと落ち、その形状を崩して行く。まるで土へと還るように消えて行く姿は、生物とはとても思えない物であった。

 

「…………て…………?」

 

 サラの腰元から顔を出したメルエは、巨大な穴から這い出て来る物を見つけ、首を傾げる。緊張感の感じられないその仕草ではあったが、先程のリーシャの一撃で絶命したその物体を見る限り、彼らの脅威となり得る者でない事だけは確かであろう。背中から剣を抜いたカミュもまた、その物体の放つ物が自分達を害する力のない物である事を感じており、その全ての姿が把握出来るまで、攻撃を仕掛けるつもりはない様子であった。

 しかし、その物体を見たサラだけは顔を歪める。何故なら、その物体を彼女は初めて見たのだからだ。

 勇者一行として、魔王バラモス討伐の為に世界を隈なく歩いて来た。世界中全ての生物を把握しているとは言わない。それでも、数多くの魔物や動植物を見て来た彼女が初めて見る物なのだ。ましてや、世界の歪みと思われるその大穴から這い上がって来たとなれば、この物体がサラ達の生きて来た世界の生物ではないという可能性が高いだろう。

 

「カミュ、それ程強い敵ではない」

 

「わかっている……だが、油断はするな」

 

 リーシャは既にその物体を『敵』と認識していた。明確にこちらに敵意を向けて来た訳ではない。それでも、この異形の物体が自分達と共に生きて行ける物ではない事だけは理解出来たのだ。

 メルエの言葉通り、その物体は人間の肘から先だけの姿をしている。まるで土から手が生えて来たようなその姿は、大地の手として崇められてもおかしくはないのかもしれない。しかし、手の先の部分から溶け掛かっているように崩れて行くそれが、大地の神の力を借りた神聖な物とは思えなかった。

 崩れ行く手の先を必死に模ろうと動く物体の不気味さに眉を顰めたメルエは、サラの後方へと隠れてしまう。何度も手を握るように動き、それはカミュ達を誘うようにさえ見えた。

 

「はっ! いけません、仲間を呼んでいるようです!」

 

 それ程脅威を感じない手の化け物を前に、カミュとリーシャはその動きを見てしまう。彼等が培って来た強敵との戦闘経験が、この場面では裏目に出てしまった。

 何をして来るのか解らない相手に対し、迂闊に飛び込むという愚行は、仲間全員を危険に曝す可能性を秘めている事を知る二人だからこそ、その物体の奇妙な動きが生む結果を見てしまったのだ。サラの叫びに慌ててカミュがその物体の身体を両断するが、時既に遅し。

 割れ目を這い上がって来た腕の化け物が即座に手招きを繰り返し、それに呼応するように現れた同じ生物が更に手招きを行う。カミュ達が対処をする暇もなく増え続ける腕は、瞬く間にカミュ達の視界を埋め尽して行った。

 

【マドハンド】

大魔王によって生み出された下級生物。暗闇を好み、集団での行動を好む。まるで人間の腕のような身体を使って行動する。攻撃力などはそれ程高い訳ではないが、それでも魔王バラモスが従えていた中級の魔物よりも上位の力を持っていた。集団での行動を好む為、行動を共にする同種の一体を失うと、新たに同種を呼ぶ行動を繰り返す。倒しても倒しても減らないという悪循環によって、相手が疲れ果てた頃を見計らって襲うという戦闘を得意としていた。極稀にマドハンドの呼びかけに応じる他種族が居るとも云われている。

 

「カミュ! 個別に撃破して行っても限がないぞ!」

 

「ちっ」

 

 カミュとリーシャが、その武器の一振りで一度に二体を土に返しても、他のマドハンド二体が仲間を呼ぶ行動を繰り返し、その数は減らない。カミュ達がマドハンドの攻撃を受ける事はないが、このままでは彼等の攻撃よりも増えて行くマドハンドの方が上回る可能性が高い。

 一体を魔神の斧で吹き飛ばし、割れ目へと落としたリーシャは、割れ目から這い上がって来る二体のマドハンドを見てカミュへと救援を求める。今までにない魔物の属性に戸惑う彼女と同様に、じりじりと包囲網を狭めて来るマドハンドの存在にカミュもまた苛立ちを隠せなかった。

 

「カミュ様、リーシャさん、一度下がってください!」

 

 しかし、この一行には前衛で剣を振るう者達の他にも頼もしい仲間が居る。

この世界で生きる人間達の旅団の間で時折話題に上る理想の一行の職業という噂がある。魔物が蔓延る世界を長く旅するに当たり、最も適したパーティーというのがあるとすればという話は、アリアハンにあるルイーダの酒場では頻繁に話題になっていた。

 その中でも最も有力な物として、四つの職業で構成された四人パーティーという物がある。重量のある武器や防具を装備する事が可能であり、その腕力と武器の威力による大きな攻撃力を有し、また頑丈な防具によって壁役にも成り得る『戦士』。武器や防具に頼らず、己の肉体のみで魔物さえも打ち倒す事が可能であり、その身軽さから来る敏捷さで、咄嗟の危機にも反応出来る『武闘家』。長く旅を続ける為には絶対不可欠な回復呪文の使い手であり、身を護る為の補助呪文も多様に使いこなす事の可能な『僧侶』。そして、剣や拳では討ち果たせない魔物の集団を薙ぎ払う事の出来る強力な攻撃呪文を放ち、攻撃に対する補助呪文さえも行使可能な『魔法使い』である。

 酒の肴に話されるこの議論は、土台無理な話でもあるのだ。何故なら、この世界で生きる者達の中で、噂に上る程の力量を持つ『戦士』も『武闘家』もおらず、それだけの呪文を行使可能な『僧侶』も『魔法使い』もいないのだから。

 この世で唯一の『勇者』の後ろに控える者達以外には。

 

「メルエ!」

 

「…………ベギラゴン…………」

 

 カミュ達が後方へ下がり、それを追う様に間を詰めて来るマドハンドに向かって、凶悪なオブジェが彫られた杖が振られる。その持つ主である少女の呟くような詠唱と共に、燃え盛る炎が大地を焦がして行った。

 目の前に広がる巨大な穴さえも隠す程も炎の海が広がり、その場所にいたマドハンド達を包み込んで行く。一瞬で飲み込まれたマドハンド達は、炎の中で悶え苦しむように動き回るが、理想の『魔法使い』と噂される程の者が放った火炎呪文は、一度飲み込んだ者を逃がす程に甘い物ではない。 焼け焦げる不快な臭いを放ちながらも、全てのマドハンドの身体を焼き尽くし、炎が消える頃には、その場所に残る物など何一つなかった。

 

「ちっ」

 

 しかし、戦闘終了かと思われたその時、炎が消えた大地の向こうから新たに這い上がって来る物体を見たカミュは盛大な舌打ちを鳴らす。メルエがベギラゴンという最上位の灼熱呪文を放つその瞬間に、一体のマドハンドが仲間を呼んでいたのだ。

 その数は僅か一体であり、仲間を呼ばれる前に斬り捨てれば何も問題はない。そう考えたカミュは一気に間合いを詰めて剣を振り抜く。しかし、その剣の軌道よりも早く、マドハンドは再び仲間を呼ぶ為の儀式を始めていた。

 

「!!」

 

 その瞬間、この場にいる誰もが硬直する。ゾワリと背中を撫でる冷たい感触。その後に全ての毛が逆立ったのではないかと思う程の危機感が襲ったのだ。

 それが何なのかは解らない。だが、剣を振るったカミュも、その後ろで斧を握っていたリーシャも、確かに自分の身に強烈な危機感を覚えた。後方にいるサラの膝は無意識に震え、杖を持つメルエの眉は下がり切る。彼等ほどの者達がこれ程の危機感を覚える相手など、この世界の魔物には存在しない。それが何を意味するものなのかを考える暇も無く、仲間を呼ぶ行動を終えたマドハンドはカミュの剣によって葬られて行った。

 その場に残るのは何もない大地と、吸い込むように大きな口を開けた世界の歪み。誰一人声を出す事も出来ず、その場を静寂だけが支配する。

 

「あのような魔物が、あちらの世界にはいるのだな」

 

「おそらくだが……あれは最弱に分類される魔物だろう」

 

 新たな魔物が割れ目から這い上がって来る様子はなく、長く続いた緊張を緩めたリーシャは、斧を収めながら呟きを漏らす。それに反応を返したカミュの言葉通り、マドハンドという魔物の強さは、この世界の中級の魔物程度。この一行が全滅の危機に陥るような強さはなく、只の捨て駒のような存在であったと言っても過言ではないのだろう。

 それは、この先の旅がこれまで以上に過酷な物となる可能性を示唆していた。

 

「どうする? この穴に飛び込むのか?」

 

 あの魔物が這い上がって来れたのならば、カミュやリーシャが降りる事が出来ないという事はないだろう。だが、何も考えずに飛び込む事が出来る程、安全な物でない事も確かである。答えに窮するカミュに全員の視線が集まる中、暫しの時間が流れて行った。

 そんな張り詰めた静寂の時間が流れる中、予想外の者が動きを見せる。静かにカミュの傍へと寄って来たそれは、その首を下げてカミュの瞳を覗き込む。

 

『私の背にお乗りなさい。この先に感じる闇の中では、私が役に立てる事は少ない筈です。ですが、安全な場所までは、貴方達を送りましょう』

 

「…………ラーミア…………?」

 

 カミュへと顔を寄せて来たラーミアの瞳は青く澄んでいる。そして、この場にいる全員の頭の中へ直接響く声は透き通るように美しい物であった。

 大気を震わせ、耳に届いて来る声ではない。直接脳へと届くその声に、幼いメルエがラーミアへと近付いて行く。彼女にとって、話が出来る動物は特別なのだ。スーの村で出会った馬のエド以来、何度か遭遇した会話が出来る動物と彼女は話をして来た。それは、エドと『話が出来る動物とあったら話をする』という約束があるからなのだろう。

 近付いて来るメルエを大きな翼で包み込んだラーミアは、優しい瞳をメルエへと向け、その頭へ直接言葉を投げかける。カミュ達には届かない声ではあったが、笑みを浮かべたメルエが何度も頷いている事から、会話が成されている事だけは解った。

 

『さぁ、行きましょう。精霊神ルビスの居る世界へ』

 

 一通り会話を終えたラーミアは、翼を広げて背中へとカミュ達を誘導する。笑顔のまま背中に乗り込むメルエの後を追ってリーシャとサラ歩き出す。最後に残ったカミュがもう一度ラーミアと目を合わせると、その青く澄んだ瞳をカミュの奥へと向け、目元を緩めた。

 神鳥と呼ばれるラーミアは、この世界では精霊ルビスの従者として伝えられている。しかし、先程の言葉を聞く限り、ラーミア自体がルビスの下に就いているという印象は受けない。むしろ、同列に並ぶ友のような言葉に、サラは疑問を感じていた。

 

『貴方が居る限り、こちらの世界もあちらの世界も闇に閉ざされる事はありません。貴方がこの世に生を受けた事がこの世界の答えであり、この世界で生きる全ての者達の願いなのでしょう。辛く、苦しい運命かもしれません。それでも、貴方ならば……いえ、貴方達ならば乗り越えて行ける筈です』

 

 カミュの瞳を覗き込んだまま、ラーミアは彼の頭にだけ届く声を発する。リーシャ達がその声を聞いていない事は、彼女達を見れば解る。それでも、暫し三人の姿を視界に納めたカミュは、口元に小さな笑みを浮かべて一つ頷きを返した。

 それこそが、この世に生まれた唯一人の『勇者』の答え。

 数多くの英雄達の生まれて来た世界で、勇ましい者達は多く存在したし、強者も多く存在した。だが、世界に愛され、世界に望まれた『勇者』は、彼一人なのかもしれない。

 

 カミュを背に乗せた後、大きく翼を広げたラーミアが大空へと舞い上がる。太陽の輝きを失った大地が夜の闇に閉ざされる中、輝く神鳥の身体が更に深い闇の中へと消えて行った。

 アリアハンから始まった彼等四人の旅は、一つの世界で終わる事はなく、更なる世界へと羽ばたいて行く。

 それは、新たなる伝説の始まりなのかもしれない。

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

遅くなってしまいましたが、これで第十七章は終わりとなります。
十八章以降はあの場所です。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。

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