新訳 そして伝説へ・・・   作:久慈川 京

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イシス城③

 

 

 

 トルド宅で一夜を明かし、十分に別れの儀式と祝いの儀式を終えたカミュ達一行は、手を振り続けるメルエを引き連れ、カザーブの村の門を外へと出て行く。空は真っ青に晴れ渡り、雲が少ない快晴となっていた。

 大魔王ゾーマがこの世界にその手を伸ばし始めたとはいえ、今はまだ魔王バラモスの影響が消えた事による一時的な平和が続いている。魔物達の凶暴性は一時的かもしれないが鳴りを潜め、穏やかな風に瘴気は含まれていない。正気を取り戻した魔物達も、今は森の中などで己の生を謳歌している事だろう。

 

「カミュ、何処へ行くんだ?」

 

「そうですね……あちらの世界というのは、何処の事なのでしょう?」

 

 完全にカザーブの森へと入った事で、メルエも前を向いて歩くようになっている。先頭を歩くカミュは、ラーミアが羽を休めている場所へと向かっていた。そんな彼の背中に語りかけるように発せられたリーシャの言葉に同意を示したサラは、何かを考えるように視線を空へと移す。高い鳴き声を発しながら飛んで行く鳶を見つけたメルエもまた、目を輝かせながら空へと視線を移した。

 精霊ルビスと思われる声を聞いたのは、サラの言葉通りであればカミュと彼女しかいない。大魔王ゾーマを討ち果たす事を目的として行動するにしても、その行き先を把握しているのも二人しかいない事になる。

 

「とりあえずは、地図上で俺達が訪れた事のない地域へ行ってみる」

 

「……そうですね。それが一番の近道かもしれません」

 

 歩きながら地図を広げたカミュは、その地図上へ視線を落とす。それを横から覗き込むリーシャとサラを見たメルエは、自分だけが取り残される事を嫌い、一生懸命リーシャの身体へとしがみ付いた。

 苦笑を浮かべたリーシャが彼女を抱き上げ、幼い少女の顔が地図上に影を作る頃、カミュは一点を指差す。それは、カザーブから南東にある森と山脈に囲まれた場所であった。

 ホビットの祠から大陸内部に入る川から見て北部に辺り、オリビアの岬と呼ばれた大陸である。確かに、四年以上の旅の中でも、その場所に上陸した事は無かった。オリビアの岬にしても、船の上から視界に納めただけであり、停泊した事はない。世界中を隈なく歩いたと思われていた彼らでさえ、未だに足を踏み入れていない場所がある事にリーシャとサラは驚きの表情を浮かべた。

 カミュがその場所を指差した事によって、彼等の目的地は確定したといっても良いだろう。だが、そんな彼等の中でも、次の目的地となった場所に全く興味を示さない者が一人だけいたのだ。

 

「…………アンリ…………」

 

「え? アンリ……イシス女王様の事ですか?」

 

 地図を覗き込みながら一点だけを見つめていた少女は、その場所で出会った者との約束を思い出す。この幼い少女にとって、他人との約束程に重い物はない。そして、それを完全に思い出してしまった彼女の頑固さは、誰も敵う者はいないのだ。

 メルエという少女は、この四年の月日の中でようやく文字を読めるようになっている。全てを読めるかと言われれば、その単語が何を差すのかを全て理解した訳ではない以上、否となる。だが、彼女が覚えた言葉は数多く、少なくとも世界各国の国名ぐらいは読む事が出来た。

 イシス国という国は、この世界で唯一の砂漠の中で生きる国である。彼等が勇者一行として機能し始めた場所と言っても過言ではない場所であり、その後の旅の中で何度も彼等を救った『祈りの指輪』や、彼等に新たな道を示す事となった『魔法のカギ』という神秘の道具を手にした場所でもあった。

 

「あっ! もしかして、女王様にも『命の石』の欠片をお渡しするのですか?」

 

「…………ん…………」

 

 暫し、イシス国の女王の顔を思い出していたサラであったが、その真意に至る。メルエという幼い少女にとって、女王と交わした約束はとても重い物ではあるのだが、それ以上に彼女はある物を女王へと渡したいという願いを持っていたのだ。

 メルエという天涯孤独の少女に対して無償の笑みをくれた者は、彼女にとって大事な者となる。その大事な者には幸せな生活を送って欲しいと願い、その人生を全うして欲しいと彼女は願っていた。その表れとなるのが、彼女にとって絶対の保護者であるカミュを護ってくれた『命の石』の欠片の譲渡なのだ。

 ここまでの旅の中、それは数多くの者達へ渡された。

 異端児として同族にさえも避けられたホビット。ジパングで新たに生まれた女王。愛する妻と娘を失いながらも前へと進んだ商人。大きな夢を追う事を決めた元女海賊。常に共に歩んで来た船員達を代表した頭目。最後まで娘を愛しながらもそれを護りきる事の出来なかった事を後悔し続けているエルフの女王。

 それぞれにそれぞれの想いと後悔を持っている者達へ渡された石の欠片は、今は多くの役割を担い始めている。だが、その中で少しも変わる事無く在り続ける役目があった。

 それは、メルエという幼い少女の願いを叶える事。

 渡された者の『守護』である。

 

「そうですね。イシス女王様は、この先の時代に必ず必要な方となる筈です。メルエの想いと願いを持つ欠片であれば、大丈夫ですね」

 

「…………ん…………」

 

 自分の行動を肯定して貰えた事が嬉しいのか、メルエは満面の笑みを浮かべて頷きを返した。サラがメルエにとっての魔法の言葉を口にした事も大きいのだろう。ここまで彼女が行って来た行為が無駄ではなかった事や、その願いが間違っていなかった事を証明してくれたサラの腰に抱き付いたメルエは、次の行き先が思い通りになったのだと思っていた。

 だが、それに対し、一人顔を歪めた者がいる事に気付く者は誰一人としていない。

 

「イシスか……。サラとメルエで女王様と謁見して来たらどうだ? 私とカミュはイシスの城下町で待っていよう」

 

「え? 何故ですか? それに、私とメルエだけでは謁見の許可は下りませんよ」

 

「…………むぅ…………」

 

 顔を歪めていたリーシャが、全員でイシス城へ登城する事に否定的な事を口にしたのだ。だが、それは即座にサラから否定され、その腰に腕を回したメルエの不満そうな声と瞳の矛先となる。

 確かに、人類を救うと謳われる『賢者』となったサラであっても、それは世界的に周知の物ではない。知っている人間といえば、ダーマ神殿に居る教皇と、今や世界的な海の護衛団となりつつある元海賊達くらいのものであろう。

 通常の人間からみれば、サラは歳若い女性でしかなく、メルエに至っては何処にでもいるような少女に過ぎない。その身にどれ程の魔法力を備えていても、それを制御する事が出来る二人は、意図的にそれを表に出さない限り、魔王バラモスを討伐した者には見えないのだ。

 女王であるアンリであればサラやメルエの顔を憶えているかもしれないが、それを城で働いている者に求めるのは酷である。故に、サラとメルエの二人では、謁見の間にまで辿り着く事無く、城門で追い返される可能性が高かった。

 

「アンタとメルエは、常に一緒ではなかったのか?」

 

「ぐっ!」

 

 そして、そんな二人の否定に続き、カミュの意趣返しにあったリーシャは言葉を詰まらせる。まさか、トルドの家で意識を失っていた筈の彼がその言葉を憶えているとは思っても見なかったのだろう。苦い顔をした後に、親の敵でも見るような視線をカミュへと送っていた。

 自分を擁護してくれたのがカミュであった事で、先程までの蟠りが解けたかのようにマントの裾を握ったメルエは、花咲くような笑みで彼を見上げる。そんな少女の姿を見てしまったリーシャは、その目的地を受け入れる事しか出来なかった。

 

「では、メルエ。ルーラの準備を」

 

「…………ん…………」

 

 リーシャが大きな溜息を吐き出した事で、彼女が承諾した事を理解したサラは、カミュのマントの裾を握るメルエに向かって詠唱の準備に入るように指示を出す。メルエが行きたいという場所に向かうのだ。別に行使者が誰であっても変わりはないが、それでもメルエに唱えさせるべきだと判断したのだろう。

 サラに向かって大きく頷きを返したメルエをリーシャが抱き上げ、それを中心としてカミュとサラが近づいて行く。皆が傍にいる、それだけでも喜びを感じる少女が微笑みながら詠唱を完成させた。

 浮かび上がった大きな光は、暫しの滞空の後、南南西の方角へと飛んで行く。

 

 

 

 

 イシス城下町のあるオアシスの近くでは、最近多くなって来た他国からの商団の荷台が列を成していた。

 勇者一行の偉業が風の噂で広がる度に、世界各国の人間達の胸に再び希望の炎が燃え上がる。ここ数年、全く世界で名を聞く事の無かったサマンオサという軍事大国が再びその国交を開き、海を渡る商船を護衛する一団が組織を立ち上げた事で、魔王バラモスという存在に怯えながらも、人々は来る平和の世を夢見て活動を再開していたのだ。

 砂漠の中の国であるイシスにも、遠くバハラタの町や近くのアッサラームの町から商人が訪れ、砂漠に住む魔物という危険を冒しながらも商売を開始する。勿論、人間の力など及ぶ事のない程に強力な魔物達の被害は減る事はない。何人もの犠牲を出してでも、その先にある世を生き抜く為に、商人達は他国を目指した。

 

「もう少しでイシス城下だ。オアシスの麓にあるから水もある。もう少しの辛抱だぞ」

 

 そんな商人達の一人であるこの男もまた、そんな未来への夢を見る者の一人であった。

 数日前にそんな未来の道に立ち塞がっていた魔王バラモスが勇者一行によって討ち果たされたという報は、全世界の国家が同時に発表した。彼は旅の途中で寄ったロマリア国でその報を聞き、魔物の脅威が薄れて行く中で商売の競争が苛烈する事に焦りを感じて、僅か数日でこの場所まで来ていたのだ。

 生国はポルトガ。近年、勇者一行の船を造船した事から世界的にも発言権を持つようになり、世界各国との貿易を再開した事で富をも築き始めた国である。だが、勇者一行に船を与えてから既に三年近くの月日がこの貿易国家を変化させ過ぎたのかもしれない。

 既に出来上がった商売しかその場には無く、新たな商売を始めるにも土地はない。利権は目ぼしい者達に抑えられ、若い商人達が入り込む余地が無くなっていた。それでもその場で新たな商売を始める者達は数多くいたが、彼は新天地を求めてポルトガ国を出たのだ。

 

「キシャァァァ!」

 

 しかし、彼の旅は決して楽な物ではなかった。

 勇者一行によって着実に近づいていた魔王討伐の瞬間ではあったが、魔者達の凶暴性は強く、彼が持つ馬車は何度も襲われ、その度に馬を失う。ポルトガから持ち出した荷物や売り物の半分以上も失い、ロマリアに着く頃には元手以下のゴールドしか手に入らなかった。

 何度も挫折を繰り返しながらも、『砂漠の真ん中にある国であれば、他国よりも需要の多い商品は多いだろう』という希望的観測の中、彼はここまで歩み続けて来る。しかし、それも限界であったのかもしれない。

 

「……ふぅ。流石にこれは逃げ切れないかな……お前はお逃げ」

 

 既に前方には水辺に生い茂る木々が見え、その奥には美しく輝く城が見えている。数刻もしない内にイシス城下町の中へ入る事が出来るところまで来ていたのだ。だが、今、彼の目の前には四匹の巨大な蟹が取り囲むようにその牙を向けている。

 ここまでの旅で何度も魔物に遭遇し、馬車を引く馬を見捨てて逃げていた彼であったが、今共にいる馬はその中でも最も長く彼と共に歩んで来た馬であった。身体を焼く程の熱気に満ちた砂漠中で、水を分け合い、お互いを叱咤しながら歩んで来た戦友を一撫でした彼は、全てを諦め、全てを受け入れるような瞳を『地獄のハサミ』へと向ける。

 しかし、そんな彼の達観は、精霊ルビスはおろか、その上に立つ創造神にさえも認められる事はなかった。

 

「……サラ、やはり魔物達にも再び影響が出ているのか?」

 

「そうかもしれません。魔王バラモスの消滅で凶暴性は静まった筈ですから」

 

 城が見えるオアシスの方角から見えた陰は、砂漠の砂が発する熱によって歪んでいる。死を受け入れようとしていた商人は、陽炎によって生まれた幻とばかり思っていたそれは、姿がはっきりと視認出来るようになった頃、何か会話を始めたのだった。

 はっきりと見えるようになった影は全部で四人分。大きな影が二つに、彼よりも少し小さな影が一つ。そして、大きな影の横に更に小さな影が一つ見えている。死ぬ前に見る幻かとも思った彼であったが、自分の目の前まで来た幻は、一瞥する事も無く魔物へと向かって鋭い視線を送った。

 

「逃げるなら良し。向かって来るのなら容赦は出来ないぞ」

 

「アンタ一人で大丈夫だろう」

 

 大きな影の一つであった者が女性である事に驚いた彼であったが、その女性が背中から抜き放った斧の鋭さに更に驚く事となる。彼とて、駆け出しとはいえども商人である。ある程度の武器の良し悪しは解るつもりであるし、鑑定する事で値を決める事さえも出来た。だが、その女性が抜き放った斧は、彼がこれまでの人生で見て来たどんな斧よりも鋭く、どんな武器よりも禍々しい雰囲気を放っていたのだ。

 彼と同様の想いを魔物達も感じたのかもしれない。斧を構えたまま微動だにしない女性に対して気後れしているかのようにも見える。巨大なハサミを忙しなく動かし、飛び出た目を動かし、進むべきか退くべきかを迷っていた。

 

「キシャァァァァ」

 

 しかし、その内に一体が恐怖によっての錯乱の為か、巨大なハサミを振り上げたのだ。振り上げられたハサミはそのまま目の前に立つ女性に向かって振り下ろされる。通常の人間であれば、その一撃で地に伏し、そのまま巨大なハサミによって身体を捩じ切られた事だろう。それだけの力を、砂漠の中でも上位に立つこの魔物は有していた。

 だが、地獄のハサミと呼ばれる凶悪な魔物の前に立つ女性は、並の人間ではない。この砂漠を通過した日が遥か昔に感じる程の濃い経験を経て、彼女は人類最高位に立つ戦士となっている。そして、今や数多くある種族の垣根を越え、正に世界最高位に程近い場所に彼女は立っていた。

 

「キィィィィィィ」

 

 鳴き声なのか叫び声なのかも解らない叫び声を上げた地獄のハサミの身体が真横へと弾け飛ぶ。しかし、弾き飛ばされた身体は地獄のハサミの上部のみであった。

 斜め下から繰り出されたその一撃は、地獄のハサミの足元から突き入り、そのまま腕の上部まで突き抜けたのである。並の人間では理解出来ないばかりか、その速度を目で追う事さえも出来ない一撃は、一瞬でこの地方で食物連鎖の上位にいる魔物を葬ったのだ。

 体液の付着した斧を一振りした女性は、そのまま次の獲物へと目を向ける。その視線の鋭さと、その身体から溢れる空気は、魔物だけではなく、その場で成り行きを見る事しか出来なかった商人さえも怯えさせてしまった。

 

「リーシャさん、魔物達に最早戦意はありません」

 

「ん? そうだな。さっさと棲み処に帰れ」

 

 後方から告げられた声に、斧を持った女性はその空気を和らげ、武器を背中へと納める。場の空気が変わった事でようやく身動きが取れるようになった地獄のハサミ達は、我先にと砂の中へと姿を隠していった。

 ようやく去った危機に対する安堵とは別に、今見たばかりの凄まじい重圧に腰を抜かし、そのまま砂の上に腰を落としてしまう。股間の部分に若干の湿り気がある事は致し方のない事なのかもしれない。それだけの恐怖を与えてしまう程、彼等の力は規格を大きくはみ出してしまっているのだ。

 商人と共に歩んで来た馬も女性戦士に怯え、細かく身体を震わせている。こちらは恥も外聞も無く、砂地に体内の水分を出し終えてしまっていた。

 

「…………おうま…………?」

 

 そんな緊迫した空気を壊したのは、それぞれの分野で人類の頂点に立とうとしている者達と共に歩み続けていながら、何時までも変わらない少女であった。

 怯えている生き物に不用意に近づいてはいけないという事を教えられている彼女は、少し離れた所で小首を傾げて馬を見つめる。馬を見て『あなたは馬ですか?』と聞く事自体が何処か抜けたものではあるのだが、幼い少女がそれをする事によって、先程までの微妙な空気が一変してしまうのだった。

 馬の怯えた瞳が徐々に和らぎ、純粋に見つめる幼い少女の瞳を覗き込む。暫し見詰め合った馬と少女であるが、馬の瞳の中に映った一瞬の影が消えると、馬の方から少女へと歩み寄って行った。少女に触れようと下げられた首に小さな手が添えられると、安心したように馬は静かに瞳を閉じる。止まっていた時間が再び動き出した。

 

「大丈夫でしたか? イシス城下町もすぐですから、私達と一緒に行きましょう」

 

「へっ? あ、ああ……貴女達は人間なのですか?」

 

 腰が抜けたように座り込んでいた男性に手を差し伸べたサラは、男性から返って来た言葉に一瞬顔を顰める。その言葉は、彼女が最も恐れていた物であり、彼等四人の未来に暗雲を呼ぶ物でもあったのだ。

 差し出した手を落としそうになるサラではあったが、何とか意識を繋ぎとめ、ぎこちない笑みを浮かべる。若干引き攣り気味の笑みは、様々な想いが込められていたのだろう。それに気付いたリーシャは、サラがランシール近辺で恐れていた事が現実になりつつある事をようやく理解したのだった。

 

「…………ふふふ…………」

 

 眉を顰めていたサラを見て、尚更不安を煽られた男性であったが、自分の馬がじゃれ付いている少女の笑みを見て、顔の険しさを解いて行く。飼い主としての贔屓目ではないが、ここまで共に旅を続けていた戦友は、利口な馬であった。魔物の気配を察知する事も出来るし、危険な物に極力近づかない。自分にとって害になるか否かの判断を誤る事がないからこそ、数多くいた馬の中でも唯一生き残って来たのだ。

 そんな馬が恐れもせず、怯えもせず、警戒もせずに戯れる相手が、人間に仇成す物である訳がない。この男性は、そう思う事にした。

 

「申し訳ありません。余りの事に混乱してしまったようです。商人としてあるまじき振る舞いでした。お許し下さい」

 

「い、いえ! こちらこそ、無用な恐怖を与えてしまったようで……」

 

 静かに頭を下げた男性の心からの謝罪を受け、サラは慌てて頭を下げ返す。その二人の行動が余りにも滑稽であり、リーシャが笑い声を上げ、その声を聞いたメルエもまた笑みを浮かべた。

 その後、馬の背中に乗せてもらった事に大喜びしたメルエは、ゆっくりと歩く馬の背から見える砂漠の景色に頬を緩める。周囲に砂しか見えない場所であっても、今まで見た事の無いその視点は、彼女にとって何よりも楽しい事なのだろう。

 そのままイシス城下町へと入った一行は、商人の男性と別れ、イシス城へと続く道を歩き始めるのだが、その際に馬から降ろされる事を嫌がったメルエに三人が苦労した事は、後の笑い話となるのだった。

 そして、夢と希望を持ってイシスへと移り住んだ男性が、勇者一行に救われたという強運を使い、イシス国で大きく成長を遂げる事もまた、別の話である。

 

 

 

「よく戻りましたね。面を上げなさい」

 

 勇者一行が魔王バラモスを討ち果たしたという報は、このイシス国まで届いていた。

 イシス城門の前で名乗ったカミュ達の顔を見て、それを証明するイシス女王が記した文を見た門番達は、歓喜の声を上げて城内へと取り次ぎに行く。魔王バラモスという諸悪の根源は、それ程までに『人』の心を蝕んでおり、それを討ち果たしたという報は、世界中を歓喜の渦に飲み込んでいたのだ。

 それだけの変わりように驚いたサラであったが、彼女が謁見の間に通された時、門番の変化など些細な事のように感じる程に驚く事となる。

 謁見の間で対面の玉座に座る女王の姿は、ここまで見て来た王族のどれとも異なる物であり、その容姿を含めて別次元の物に映ったのだ。

 

「魔王バラモスの討伐、誠に大儀であった」

 

「はっ」

 

 四年近く前にこの場所を訪れた時の、祖母に怯え、自分の運命に怯えていた少女は何処にもいない。凛として玉座に座るその女性の身体からは威厳という空気が醸し出されており、周囲の人間もそれに呑まれる事無く自分達の王を立てていた。

 それは、自分の人生に絶望を感じていた少女が、一国を担うだけの王へと変貌を遂げた事を証明している。城下は潤い、未だに闘技場はあれど、町行く者達の顔は総じて笑顔であった。誰しもが砂漠という厳しい環境の中でも明日への希望を持っている証拠であり、そのような未来を造り得る事の出来る存在として、自分達の王を崇めている証拠でもある。

 ピラミッドという王家の墓を封鎖し、王族以外の立ち入りを禁じて尚、この国には人が訪れるだけの価値が存在する。その価値を作り上げたのは、歴代の王から全てを受け継いだ、目の前に座る絶世の美女なのだろう。

 

「して、このイシスへ戻ったという事は、妾に答えを聞かせてくれるという事ですね?」

 

 イシス女王アンリの言葉の意味を知る者は、この場に一人しかいない。先頭で跪く、この世界に新たに生まれた真の『勇者』だけである。

 アンリという運命に翻弄された少女が、一国の女王として立ち上がったその夜に交わした二人だけの言葉の中にあった問いかけ。それに対しての答えを期待した女王の瞳は、以前の少女に戻ってしまったかのように輝いていた。

 そんな女王の変化に戸惑いを見せながらも、問い掛けの内容が理解出来ない重臣達は顔を見合わせ、サラやメルエもまた首を傾げる。だが、その中でリーシャだけが何かを察しているのか、眉を顰めるように表情を硬くしていた。

 

「……再び旅に出ます」

 

「旅に? 魔王バラモスは確かにこの世界から消滅した筈ですよ。各国の王達が、ルビス様のお言葉を聞いています」

 

 カミュの予想外の答えを聞き、イシス女王はもう一度疑問を投げかける。そんな女王の疑問は、奇しくもサラの疑問を全て解消する事となった。

 カミュ達一行が魔王バラモスを討ち果たしてからの時間の経過を考えると、全世界にその報が届くのが早過ぎる。それはサラという賢者にとって何よりも強い疑問であった。だが、崩壊が進むバラモス城でサラが聞いた声の主が、世界各国の王族の夢の中に現れていたとしたら、その疑問は一気に解決してしまう。そして、それだけの事が出来る力を、あの声の主が持っていた事は明白であったのだ。

 

「平和が訪れたこの世界に私は必要ありません」

 

「そのような事はないと、あの時に妾は伝えた筈ですが?」

 

 カミュが漏らした言葉に表情を変えた女性が二人。

 一人は、目の前の玉座に座る美しき砂漠の女王。あからさまに顔を顰め、その美しい顔を歪めた瞳には、明確は怒りが込められている。カミュという勇者の瞳の中に絶望以外の色を見つけたこの女王は、世界中の願いである『魔王討伐』という物を成し遂げた後の彼の必要性を説いたつもりであったのだ。

 彼の瞳の中に微かに見えた『希望』の光は、その輝きを濃くしていると彼女は感じている。それは、彼自身がこの世界に対して希望の光を見たからなのだと考えていた。故にこそ、カミュの言葉が許せない。

 そして、もう一人は彼の後方で跪く女性戦士。世界最高位に立つ程の実力を有する者であり、最も勇者の心を知る者である。彼の心に巣食う闇と、その闇を払う光を知るが故に、彼の苦悩を理解していた。だが、それでも彼のその言葉は許す事が出来ない。

 その言葉が心の底から出ている本音なのか、旅に出る事を正当化する建前なのかは彼女には解らないが、その言葉は彼女にとって最も嫌な言葉なのだ。『そういう存在』という言葉を口にしなくなった彼ではあるが、平和な世界に必要のない者という言葉は同じような物である。握る拳から血が滲み出す程に悔しい言葉であった。

 

「……私の中の迷いは未だに晴れません」

 

「!!……そうですか」

 

 様々な想いが交差する中、搾り出すように口にしたカミュの言葉に、イシス女王アンリは絶句する。彼が口にした『迷い』が何を示すのかは解らない。だが、そのやり取りは、あの夜に二人だけで交わした物であった。

 『魔王討伐を果たし、その迷いも晴れたのならば、この地で共に生きて欲しい』

 これが女王アンリの願いであった。その願いを遠回しに断っている事が彼女には理解出来たのだ。世界に平和は訪れた筈。それでも彼の迷いが晴れないのならば、『人』の生み出した社会で生きる事は出来ないだろう。

 

「本日は、後方に控えるメルエから、女王様へ献上したき物がございます」

 

「……メルエからですか?」

 

 失意の中、呆然と視線を彷徨わせるアンリに再び掛けられた言葉は予想外の物であり、その言葉によって彼女は現実へと引き戻された。再び焦点の合った視線の先にいる少女は、アンリに向けて可愛らしい笑みを浮かべている。先程までのアンリとカミュの会話の内容が理解出来なかった彼女は、ようやく自分の番になった事を喜び、献上品を受け取る為の器を持った役人が近づいて来るのを待っていた。

 器に載せられた物は、小さな宝玉のような欠片。淡い青い輝きを持つそれは、神秘的な光を宿しており、アンリが数多く見て来た宝玉とは全く異なる物であった。

 

「これは?」

 

「畏れながら申し上げます。それは、ここにおりますメルエが、己にとって大事な方を護ってくれるよう祈りを捧げた石の欠片でございます。以前に勇者カミュを護りし『命の石』の欠片であり、このメルエによって新たな力を吹き込みました。叶う事ならば、女王様に身に着けて頂ければとメルエは願っております」

 

 その石に関しての答えを口にする事を躊躇うカミュの様子を察したリーシャは、このイシス城で初めて女王に向かって口を開く。その横では、自分の想いが正確に伝えられている事を喜ぶように、幼い少女が花咲くような笑みを浮かべていた。

 メルエにとって、アンリは恩人である。幼い指に嵌められた指輪は、何度も少女の願いに応えてくれた。『大事な者達を護りたい』という少女の願いに応えるように、再び少女の身体の内に魔法力を宿して来たのだ。

 その指輪は、イシス女王アンリからの贈り物であり、女王の願いをも宿した物。それと共に交わした約束を果たしたメルエは、その贈り物に対しての返礼をしたいと思っていたのだろう。

 

「ありがとう、メルエ。これは生涯に渡り、私の身を護ってくれるのでしょう。肌身離さず身に着ける事をここに誓います」

 

「…………ん…………」

 

 美しい女王の瞳から一筋の涙が零れ落ちる。それは、メルエからの贈り物に対する嬉し涙なのか、それとも彼等との永遠の別れを示す贈り物を受け取ってしまったという悲しみの涙なのかは解らない。だが、女王からの感謝を受け取った少女の笑みは、全てを打ち払う程の輝きを宿していた。

 少女の願いを宿した青い石の欠片を大事そうに両手で包み込んだアンリは、静かに瞳を閉じる。女王の胸の中にある想いは誰にも解らない。それは長らく側近として働いて来た者達であっても察する事は難しいだろう。

 そして、再び瞳を開いたアンリの表情は、先程までとはまた異なった物となっていた。

 

「そなた達の旅の目的は問いません。そなた達にはそなた達の信ずる物があるのでしょう。そなた達の歩む道の先に、多くの幸ある事を祈っています」

 

「……イシス国の更なる繁栄を」

 

 最後の会話は、一国の女王と来訪者の物となる。

 そこに、以前訪れた夜のような温かみはない。己の感情を己の立場で打ち消したその会話は、冷たい風を巻き起こした。

 

 

 

 そのまま謁見自体は終了し、今代の勇者率いる一行は謁見の間から退出して行く。玉座に残ったアンリは、謁見の間から見える西日へと視線を向けた。全てを赤く染める程の太陽の光は、謁見の間をも燃え上がらせるような色へと染める。一言も口を開く事無く外へと視線を向ける女王の心中を察した側近の一人が皆を下がらせ、無言の女王に一礼した後、自らも謁見の間から退出して行った。

 

「くっ……うぅぅ………」

 

 誰一人いなくなった謁見の間で、どれ程の時間が流れただろう。真っ赤に燃え上がった太陽が西の大地へ沈み、周囲を闇が支配し始めた頃、玉座に座る一人の女性の嗚咽が漏れる。一度溢れ出した感情は、簡単に抑える事は出来ず、瞳を覆うように伸ばした掌の隙間から小さな水滴が落ちて行った。

 もう片方の掌へと落ちた雫は、そこに乗る小さな石の欠片に染み込み、淡い輝きを曇らせる。しかし、何度も落ちる雫を受け続けた石の欠片は、新たに吹き込まれた使命を刻み込み、染み込む雫の主を、新たな主として認識して行った。

 

 メルエという幼い少女の願いが込められた小さな石の欠片は、己の主の身を護るという使命を帯びて行く。それは、『人』という短命な種族だからこそ成り立つ使命なのかもしれない。誰かを想い、誰かを信じ、誰かと寄り添わねば生きては行けない種族だからこそ、己の力が届かない者の身を強く案じる。

 それが『人』の強さなのかもしれない。

 

 イシスの国に受け継がれている国宝は二つある。

 一つは創造神からイシス王族が下賜されたと云われる『星降る腕輪』。王族の血に共鳴する事によって、装備した者の俊敏さを天突く程に上げる効果を持っていたと云う。女系家族のイシス王族の女王から、娘である次代女王へと継承されて行った。

 もう一つは、神の使いと謳われた勇者から与えられたと云われる『砂漠の涙』。

 勇者の身を想うその時代の女王の涙のような形状と、その石に込められた勇者の願いは、イシス国王家に長く受け継がれ、その淡い青色の輝きは永遠に色褪せる事はなかった。

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございます。

イシス編も完結です。
これにて、この世界での残りは後一つ。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。

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