新訳 そして伝説へ・・・   作:久慈川 京

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第十五章
ジパング⑤


 

 

 

 トルドバークの政権がクーデターによって覆されたという報は、この港へも届いていた。一夜にして決着した物であった為、自分達が港へ着くよりも早くに情報が届いていた事に驚いたカミュ達であったが、考えていたよりも多くの人間がこの出来事に賛同していたのだと納得する。

 今はまだカミュ達の船だけが停泊する大きな港も、他の商船が来港する事になり、勇者一行が乗る船が着港出来ないという事にもなりかねないだろう。

 錨を外し、徐々に離れて行く陸地を眺めながら、四人は各々の想いを胸に、巨大な自治都市となった町を一人で築いた男を思い浮かべていた。

 

「それで、ここから何処へ向かう?」

 

「……ジパングへ向かってくれ」

 

 大海原へ出て、陸地の影も見えなくなった頃、ようやく頭目が次の目的地をカミュへと尋ねた。彼自身はトルドバークへ向かってはいなかった為、詳しい事情などは理解出来ていなかったが、戻って来たカミュ達の表情がかなり厳しい物であった事で色々を察したのだ。

 カミュが暫く考えた末に出した目的地の名は、その他の三人の心に新たな風を巻き起こす。

 トルドバークにて体験した出来事を忘れる事はない。そしてトルドという男性の身を案じない日もないだろう。それでも、彼等は前を向いて歩んで行かなければならないのだ。そして、彼等の心に生まれた影を晴らす事が出来る物は、太陽だけである。

 ジパングは『日出る国』という異名を持つ国であり、その国を統治する若い国主は、そこで生きる者達の道を照らす太陽のような少女であった。

 

「…………イヨ…………?」

 

「そうですね、イヨ様です」

 

「草薙剣を返還しに行くのか?」

 

 カミュの告げた目的地を聞いた一行が甲板の中央に集まって来る。首を傾げてカミュを見上げたメルエの呟きをサラが肯定し、そんな二人に笑みを溢しながら、リーシャがその真意を問う。そしてそれを肯定するように、カミュは一つ頷きを返した。

 トルドバークでカミュが手に入れた武器は、<ドラゴンキラー>と呼ばれるこの世界で販売している中でも最強の武器である。販売している武器屋も限られており、その希少性も高い。カミュ達はサマンオサの武器屋で購入はしたが、その形状から今の時代で扱える者は少なく、在庫も一つ限りとなっていた。

 <草薙剣>は真名を<天叢雲剣>といい、ジパング初代国主が神より授かったと言われる神剣である。その刀身に<ルカニ>のように相手の防御力を下げる効力を持っているとも考えられる。それ程の剣である為、<ドラゴンキラー>よりも劣る剣という訳でもなく、むしろ剣としての能力であれば<草薙剣>の方が遥かに高いだろう。

 それでも、<天叢雲剣>がジパング国に伝わる神剣であり、国主が持つ覚悟の証である以上、何時までもカミュが所持していて良い物ではないのだ。この神剣の名が<草薙剣>となったのも、その本来の持つ主となる筈のイヨという皇女の計らいによるものである。故に、強力な武器が手に入った以上、それを本来の主へ返還する必要があった。

 

「ジパングですか……どのような国になっているのでしょう」

 

「心配するな。イヨ殿は、元々国主の血筋の者。そしてあの方であれば、立派に国を治められているだろう」

 

 トルドバークの結末を見たばかりである為、サラの胸には一抹の不安が過ぎる。だが、そんな不安はリーシャによって即座に一蹴された。

 トルドという人間は、どれ程に優秀であっても商人である。その求心力も、威厳も、一国の王族とは比べ物にはならない。成功をし続けている内は良いが、何か失策を犯したり、そこで生きる者達の胸に不安や不満が宿り始めてしまえば、それが致命的な物となってしまう。だが、その不安や不満は王族という血筋があれば、ある程度は抑える事が出来るのだ。

 相手が王族だろうと、クーデターを企てる場所はあるが、その際には王族に対する絶対的な忠誠を誓った者達が味方に付くだろう。そのような過去から続く歴史を持っているからこそ、その国を治める事が可能であり、その国を導く強さをも有するのだ。

 

 

 

 船は順調に南へと進路を取り、テドンの南の海を抜けて行った。

 テドンへ続く森が見えると、木箱を移動したメルエは陸地へ寂しい瞳を向け始める。それを見たリーシャはゆっくりとその背に近付き、包み込むように抱き締めたまま、メルエと共に北に見える大地を眺めた。

 そんなリーシャが不意に口にした言葉は、船に乗る全員が驚く物であった。

 

「カミュ、あの川を上って行くと何処へ向かうんだ?」

 

 既に船はテドンのある森の傍を抜け、その先にあるバハラタへ向かって北上している最中である。西側に陸地は見えるが、そこは断崖絶壁の岩山が続き、海鳥達が巣を成しているのか、何羽もの海鳥達が岩山に張り付いていた。

 その断崖絶壁が続く大陸は、バハラタのある大陸とは異なっている事はカミュ達も気付いていたが、その間にある川を上って行くという考えは微塵もなかったのだ。故に、サラは、それを知っているであろう頭目の顔へと視線を移し、カミュは地図を取り出してそれを覗き込む。突如向けられた視線に戸惑いながらも、頭目はその答えを口にした。

 

「アッサラームの東にある山脈から流れる川だろう。その川は、イシスの東にも流れ込んでいて、何でもネクロゴンドの火山の麓まで続いているって話だ」

 

「ネクロゴンドの火山だと!?」

 

 ネクロゴンドという単語は、何度もカミュ達の中で登場した物である。テドンという村が、ネクロゴンドの麓にあるという話は聞いていたが、その場所へ赴く手段も情報もなかったのだが、それを辿る為の噂は、意外な程近い場所にあったのだった。

 過剰な程に反応を示したリーシャに驚いたメルエは、不満そうに頬を膨らませ、サラの腰にしがみ付く。

 魔王の居城がネクロゴンドにあるというのも、結局噂であり、その信憑性を確認する術はない。術がない以上、それに関する物であれば、どのような物でも確かめなければならないのだ。故に、彼等の方向性はここで確定する事になる。

 

「カミュ様、ジパングの後は……」

 

「……行くしかないだろう」

 

 ジパングに行く事は既に決定事項であった。それは、このパーティー四人の総意である。故に、そこを訪れた後は、本当の意味での戦いが始まるのだ。

 アリアハンを旅立った時は、先が全く見えない旅であった。何処へ行けば良いのかさえ分からず、何処に何があるのかさえ分からない。当初の目的が、討伐の命を受けたにも拘らず、その命を下した国を出る方法を見つけるという物だったのだから、彼等の困惑は一入であっただろう。

 アリアハン大陸を出た彼等が次に辿り着いたのはロマリア大陸。そのロマリア国でも、国王の身勝手な要望を受け入れた彼等であるが、正確に言えば、あの場面では次の目的地を把握する事は出来なかっただろう。そして、このパーティーを何度も勝利に導いた、稀代の『魔法使い』と出会う事もなかった筈である。

 その後カザーブでトルドと出会い、ノアニールの事件でエルフという種族の王と出会う。その出会いが無ければ、彼等が大陸を南下し、イシス国へ入る事もなかったかもしれない。アッサラームでメルエの義母と出会わなければ、彼等の絆が生まれる事もなかったかもしれないし、その後の船の入手も有り得なかっただろう。

 そんなここまで辿り続けた細く頼りない糸のような道を思い出しながら、四人は感慨深く絶壁の岩山を見上げていた。

 

 

 

「メルエ、火炎系は駄目ですよ。メルエの氷結呪文であれば、この辺りの魔物は全て倒せます」

 

「…………ん………ヒャダルコ…………」

 

 船は順調に進む。軽い雨に降られる事はあったが、海が荒れる事はなく、<テンタクルス>のような強力な魔物が姿を現す事はなかった。

 度々現れる魔物も、既に何度も遭遇した事のある魔物であり、カミュ達四人の敵ではない。以前は船員達を護る為に武器を取っていた元カンダタ一味の者達も、今では己の仕事に従事する事に意識を向け、全てをカミュ達に任せていた。

 船に上がって来る魔物は、カミュやリーシャの餌食となり、海面に顔を出して船をよじ登る魔物達は、メルエの放つ呪文の餌食となる。船に残った魔物の遺体を海へと丁重に戻す行為は、何時の間にか船員達の仕事となっていた。

 

「そろそろジパングが見えて来る頃だぞ」

 

 戦闘を終えた一行がそれぞれの武器を納めると、頭目が船の左手を見ながら目的地の到着を口にする。既にバハラタのある大陸を過ぎ、ジパング南の小さな大陸が見えて来ていた。

 大陸と言っても、ジパングは島国である。同じ島国であるエジンベアと比べても、その領土は遥かに小さい。船から全体が見える程小さい訳ではないが、ジパングの南が見えて来たのであれば、数日以内に、イヨが治める集落近辺に辿り着くだろう。

 

「今回も数人の船員達を連れて行ってくれるか?」

 

「わかった」

 

 予想通り、数日で以前上陸した辺りに辿り着いた一行は、小舟を海へと降ろして上陸の準備を始める。その時、頭目が掛けて来た提案にも、カミュは二つ返事で頷きを返した。

 ジパングという国は、この世界でも名前が知られている事が少ない。また、独特の文化を有しているだけに、そこで手に入る品の数々は、世界でも価値が認められる物が多かった。

 貿易とは、需要のある物を運ぶ事が第一目的ではあるが、物珍しい希少品を世界に広めるという特性も有しているのだ。以前の交易の事を覚えている為、上陸しようとする船員達は、物々交換が可能だと思われる品も小舟へと積み込み、ジパングへの上陸の準備を始めていた。

 準備の終わった者から小舟を走らせ、数隻に及んだ小舟は次々に上陸を果たす。

 

「遠くに行っては駄目だと、何度も言っているでしょう!」

 

「…………むぅ…………」

 

 上陸した者から、小舟を近くの木に括り付けて行く。そしていつも通りのやり取りが砂浜で繰り広げられるのだった。小さな生き物を見つけては目を輝かせて後を追い、ちょこちょこと動き回る彼女の後をサラが大慌てで追いかけるというやり取りは、小舟に乗っている間、魔物への不安を抱えていた船員達の心に安堵と笑いを齎して行く。

 森の入り口付近でサラに捕まったメルエは、不満そうに頬を膨らませ、『ぷいっ』と顔を背けてしまう。それに対して溜息を吐き出したサラは、メルエの帽子を取って、その頭に軽く拳骨を落とした。

 リーシャ以外に拳骨を落とされた事の無かったメルエは驚いたように目を見開き、サラの拳が落ちた付近に両手を翳す。その部分にじわりと広がる痛みが、幼い少女の瞳に涙を堪えさせた。

 

「メルエ、私達が何故駄目だと言っているかを理解していないのですか? メルエが小さな動物や花や昆虫に興味を示す事はとても良い事です。私達が一緒にいて、時が許すのであれば、好きなだけ見ても良いとも言っている筈ですよ」

 

「…………うぅぅ…………」

 

 真剣に怒られている事を察したメルエは、小さく涙を溢す。確かにここまでの旅で何度も同じような注意を受けて来たし、それに対して叱られた事も何度もあった。だが、ここまで強い口調で言われた事はなかったし、ましてやサラから拳骨を落とされた事など一度たりともなかったのだ。

 故に、幼いメルエは、それ程に重大な事であると認識していなかった。奇しくも、以前にジパングを訪れた時にリーシャに軽い拳骨を貰った事を再び思い出したメルエは、自分が軽い気持ちで行っていた事が、本当にいけない事だと再認識するのであった。

 

「はっ!? メ、メルエ、私の後ろに!」

 

 落ち込むメルエに、ようやく表情を緩めたサラであったが、自分に降り注いでいた太陽の光が何かによって遮られた事を感じ、咄嗟にメルエの身体を自分の後方へと引き込む。森の木々による陰でない事は、先程までサラの目に入っていた光が消滅した事で証明されている。盾を掲げて正面へ視線を送ったサラは、瞬時に戦闘態勢に入った。

 

「グオォォォ!」

 

 目の前にいたのは、二本足で立つ巨大な熊。

 以前と同様にメルエへと襲い掛かろうとしていたのは、巨大な口から覗く鋭い牙を輝かせ、涎を垂れ流した<豪傑熊>であった。

 威嚇とも雄叫びとも取れる咆哮を上げた<豪傑熊>は、太い右腕を振り上げ、目の前にいるサラへと攻撃を繰り出す。迫り来る暴力に備えて、しっかりと盾を握ったサラは、自分の腰にしがみ付くメルエに被害が及ばぬように、両足を広げて踏ん張る態勢を取った。

 しかし、そんなサラの覚悟は、全くの杞憂に終わる事になる。

 大きな衝突音と共に、何かが軋むような音が砂浜に響き渡る。

 

「…………カミュ…………」

 

 サラの腰にしがみ付くメルエが発した通り、サラの前には<豪傑熊>の腕を完全に盾で受け止めた青年が立っていたのだ。

 左腕に装備した<ドラゴンシールド>は、<豪傑熊>の暴力を受け止めて尚、傷一つなく、その盾を持つ青年の身体もぶれる事はない。腕力自慢の魔物である<豪傑熊>の攻撃は、通常の人間であれば、遥か彼方に吹き飛ばされる物であり、その爪は人間の皮膚や肉を容易く切り刻む程に鋭い筈。

 だが、この青年は、何事もなかったように盾を下した。

 

「カミュ様……」

 

 盾を下したカミュは剣を抜く事もなく、ただ黙って<豪傑熊>と睨み合う。その後ろ姿しか見ていないサラでさえ、身体が硬直して動けなくなる程の迫力は、正面から対していた<豪傑熊>の心さえも飲み込んで行った。

 唸り声を上げ続けていた<豪傑熊>であったが、剣を抜こうともせず、逃げようともしないカミュの姿に恐怖すら覚え始める。再度両手を振り上げ、威嚇の咆哮を上げても、身動きせずに自身を睨む人間が、自分よりも大きな存在に見え始めていたのだ。

 先に根を上げたのは<豪傑熊>であった。

 

「グフゥゥ」

 

 前足を下ろし、四足歩行で逃げて行く<豪傑熊>の姿は、元々の姿である野生の熊を思わせる。自分の生息圏に入って来た異種族に対しての威嚇と攻撃をしていたと言われれば、非はカミュ達にあるだろうし、<豪傑熊>を責める事は出来ないのかもしれない。

 <豪傑熊>と呼ばれる魔物は、野生の熊が『魔王バラモス』の魔力の影響で凶暴性を増した物と考えられていたが、その根本は何一つ変わっていないのだろう。野生の熊よりも凶暴性が強く、人間という生き物を食料として欲する欲望が強いだけで、その本能は熊なのだ。

 森の奥へと消えて行く獣の後姿を眺めながら、サラはそう考えていた。

 

「……行くぞ」

 

 去って行った<豪傑熊>を一瞥したカミュは、何事もなかったかのようにジパングの集落がある方角へと歩き出す。そんな青年の姿を見ていた船員達は、改めてこの一行の凄さを理解する事になるのであった。

 その後、大した戦闘もなく、一行は順調に森を進んで行く。船を降りて二日目には、彼等の目の前に人々の営みの証である煙が見えて来た。集落の中で火を使えば、その煙が空へと立ち上る。集落の柵が見えて来た頃には、太陽が真上に登る頃であった。

 

「ようこそジパングへ」

 

 門番をしていた人間は、以前訪れたカミュ達を覚えていた。自分達と同じ髪色をしているカミュは、記憶に残る存在だったのであろう。小さな島国で生きて来たこの国の住民にとって、他国からの来訪者を目にする事は少なく、その為、一度見た『ガイジン』を忘れる事はなかったのかもしれない。

 にこやかな笑みを受けたメルエも花咲くような笑みを門番へと向け、手を振りながら集落の中へと入って行った。

 

「……流石はイヨ殿だな」

 

「はい……はい!」

 

 集落の中へ入ったリーシャは、その変化を即座に感じ取る。そして、その変化を起こしたこの国の国主に敬意を示した。それはサラも同様であったようで、瞳に涙を浮かべながら、何度も何度も頷きを返す。

 ジパングの人の営みは、輝きに満ちていた。ヤマタノオロチという強大な存在に怯えていた頃とは比べ物にならない程に活気に満ちており、外を歩く人々の表情は、希望と喜びによって眩しい程に輝いている。忙しそうに畑や田で農作業を行う者や、朝に狩って来た獣を誇らしく掲げて歩く者も見える。そして、そんな者達の周囲には、楽しそうな笑みを浮かべた子供達が、必ず駆け回っていた。

 それこそ、『人』という種族が長く続けて来た営みの姿であるのかもしれない。

 

「俺達は、色々と交易を始めてみるよ。言葉は通じるから問題はないとは思うけれども、まずは信用して貰わないとな」

 

「私達も付いて行った方が良いですか?」

 

 集落の姿に感動しているサラ達に微笑んでいた船員達は、自分達がここを訪れた目的を遂行する為に動く事を口にする。だが、船員達の言う通り、この国にはこの国の交易の仕方があり、それは他国から来た『ガイジン』では信用されないという可能性が残されていた。

 それを理解したサラが、自分達も共に行動しようと提案するが、船員達は静かに首を横に振り、その必要がない事を示す。交易は船員達の仕事であり、信用を得る為に様々な工夫を凝らすのも、彼等の力量の一つである。貿易や商いに信用が不可欠である事は、全世界共通の物である事に変わりはない。それを学ぶ事もまた、海に生きる者にとっての術でもあるのだ。

 

「じゃあ、戻る時には声を掛けてくれ」

 

 ジパングという国には、宿屋のような物は存在しない。この島国には、集落がこの場所にしかない為、宿屋を利用する人間がいないのだ。『ガイジン』と呼ばれる他国の者の来訪も少ない上、ゴールドによる取引の概念がない以上、宿屋のような物では生計が立てられないのだ。

 故に、この国で夜を超す事は出来ない。カミュ達だけであれば、この国の国主であるイヨに頼む事で屋敷に泊めて貰える可能性はあるが、流石に船員達も共に泊めてもらうように願う事は出来ないだろう。カミュ達と別れて集落の者達と話し始める船員達もその事は重々承知している事であった。

 

「カミュと申します。イヨ様へのお取次ぎをお願い致します」

 

 屋敷は相変わらず大きな平屋であり、その巨大な門の前には、腰に剣を差した男が警備を行っている。名を告げたカミュは、快くその言葉に頷き奥へと消えて行くその男性に若干の驚きを見せた。

 屋敷の中へと入って行った門番は、一人の女性を伴って短い時間で戻って来る。カミュ達へ丁寧に頭を下げた女性は、カミュ達にも見覚えのある者であり、サラはその姿を見た瞬間、優しい笑みを浮かべた。

 

「お久しぶりです。その節は、本当にありがとうございました」

 

 その女性の名はヤヨイ。

 カミュ達がこのジパングを訪れた折、ヤマタノオロチへの生贄となる筈であった女性である。

 イヨという皇女の決意の為、その命を一時的に救われた彼女は、カミュ達がヤマタノオロチを滅ぼした事によって、生涯を全う出来る権利を手に入れていた。

 彼女こそ、このジパングの平和の象徴なのかもしれない。彼女が生きているという事実が、あの忌まわしいジパングの闇を打ち破ったという証なのだ。

 

「今はイヨ様の侍女をさせて頂いております」

 

「そうなのですか」

 

 ヤヨイという女性は、あの時に結納を済ませていた相手との婚儀を済ませ、今はイヨ付の侍女として働いているという。あの時の恩義を感じている事もあるだろうが、イヨという国主がそのような器であると彼女が判断したという事も事実なのだろう。

 このジパングをカミュ達が出てから二年近くの月日が流れている。あの頃はまだ女性として成熟していなかったヤヨイも、未だでは立派な女性として成長を遂げている。しかも、その下腹部を見る限り、彼女の身体の中に新たな命が宿っている事が明確に分かった。

 

「イヨ様は、外に出ておられます。人を向かわせましたので、中でお待ち頂けますか?」

 

「お子を授かったのですね。おめでとうございます」

 

 カミュ達に履物を脱ぐように勧め、そのまま部屋へ案内しようとするヤヨイに、サラは祝辞を述べる。どの時代であっても、自身の血を受け継ぐ子を授かる事はとても喜ばしい事である。ましてや、ヤマタノオロチと呼ばれる厄災が消え、平和が訪れたばかりの国にとっては、国を挙げての祭りになるほどの物であろう。

 恥ずかしそうに微笑みを浮かべたヤヨイは、サラに向かって丁寧に頭を下げる。その様子を見る限り、この国の多くの者から祝福を受けて来たのだろう。もしかすると、その中でも一際喜びを表し、彼女を褒め称えたのは、イヨという名の国主なのかもしれない。

 

「皆、良い顔をしているな」

 

「本当にそうですね」

 

 国主の間への通路ですれ違う者達の顔は、以前に訪れた際の物とは大きく異なっていた。それは良い方向への変化であり、皆の表情にある笑みは心から浮かべている物である事が解る。カミュ達への好奇の視線も、排他的な物ではなく、歓迎を含めた物であった。

 各々の仕事も充実し、この国の安全も守られている。『魔王バラモス』という諸悪の根源の存在を知らない彼等だからこそ、今この時の幸せを噛み締めているのだろう。リーシャやサラに、彼等の幸せを邪魔する気は毛頭ない。この国で『魔王バラモス』の存在を声高に謳い、危機感を煽る事は得策ではない事を十二分に理解しているからだ。

 

「こちらで暫くお待ち下さい。イヨ様は、あなた方の安否をいつも気にしていていましたから、早々にこの場所へ参られるでしょう。では、私はお飲物でもお持ち致します」

 

 にこやかな笑みを浮かべたまま一礼をしたヤヨイは、そのまま国主の間を出て行った。

 国主の間は、先代の国主である『ヒミコ』が使用していた場所であり、この国を恐怖の底へと突き落とした<ヤマタノオロチ>が人に化けて暮らしていた場所でもある。だが、その面影は既に微塵も感じられない。

 現国主である年若い女性そのもののように明るいその場所は、外から入り込む太陽の光を部屋全体に広げていた。太陽の光が入り込むように広げられた縁側は、ヤマタノオロチという化け物と対峙した時に、カミュとイヨが吹き飛ばされて壊れた壁があった場所にある。破壊された壁は綺麗に修繕され、通常時は紙を張り付けた木戸によって閉じられる仕組みになっていた。

 イヨという国主の治世となり、徐々にこの国は変わって来ている。古き時代の物を色濃く残しながらも、この国を支える若い力が新たな輝きを放つ国。それは、この世界でも大きな力を持ち得る可能性なのかもしれない。

 

「そなた達、よう来た!」

 

 国主の間全体を眺めながら、リーシャやサラだけでなく、幼いメルエまでもが笑みを浮かべ始めた頃、突如開かれた入口から矢のように飛んで来た人物の発した声が響き渡る。本当に突然の登場だった為、先程まで柔らかな笑みを浮かべていたメルエは身体を跳ねさせ、笑みを凍りつかせた。

 入って来た人間は、予想通りこの国の国主ではあったが、その服装は粗末な物であり、その顔や服には泥や土が多く付着している。驚きで硬直していたメルエの表情さえも緩める程の滑稽な姿であり、とても一国の王としての物ではなかった。

 

「イヨ様、いくら嬉しかったとはいえ、そのようなお姿のまま来られては、お客人の方々に失礼ですよ」

 

「むっ。妾は子供ではないぞ! そのような事解っておる!」

 

 カミュ達の訪問を子供のように喜ぶイヨを窘める姿は、本当に姉のようである。ヤマタノオロチが存在する時には、このヤヨイという女性を守る為に毅然とした姿を見せていたイヨであったが、平和になり、この国を治める立場となったイヨにとって、このヤヨイという女性は安らぎを感じる場所なのかもしれない。

 小さく笑みを溢すヤヨイは、濡らした布でイヨの顔を拭き、汚れた衣服の上に打掛を羽織らせる事で、その表面を繕った。カミュ達の座る場所から一段高くなった場所に腰を下ろしたイヨは、再び満面の笑みを湛える。

 

「改めて、よう参った。そなた達が息災で何よりじゃ」

 

「有難きお言葉」

 

 深々と頭を下げたカミュの姿に一瞬眉を顰めたイヨであったが、メルエの花咲くような笑みを見て、満足そうに頷きを返す。彼女にとってカミュ達は、自分の祖国を護ってくれた恩人であり、自分の母の誇りを護ってくれた恩人でもある。だが、それ以上に、友のようにも思っているのかもしれない。

 その証拠に、カミュだけではなく、その後にはリーシャやサラ、メルエにまで声を掛け、その者の直答を許す言葉をも発していた。通常、一国の王が下々の言葉に耳を貸す事は稀であり、それ以前に下々の者が王に対して言葉を発する事さえも不敬とされている。それを考えれば、イヨの対応が如何にこの世界の常識と掛け離れているかが解るだろう。しかし、それがジパングという国の特性なのかもしれない。

 

「イヨ様は、外で何をされていらっしゃったのですか?」

 

 イヨという人物の人間性を知っているサラにとっては、そのイヨの対応は疑問に思う物ではなく、至極当然の物として受け入れてしまう程の説得力を持っており、サラはその行動を問いかけるといった、死罪に値する程の行為をしてしまう。

 だが、そんなサラの行動にも、国主の間にいる人間は誰一人として表情を変える事はない。イヨという国主が、如何にこの旅の一行を待ち侘びていた事を皆が知っているという証拠であろう。皆が皆、喜びを全身で表すイヨの姿に頬を緩めていたのだった。

 

「畑と田んぼじゃ。今年の実りは良いぞ! そなた達も食して行け」

 

「……畑?……ですか?」

 

 サラの問いかけを受けたイヨは、その笑みを更に濃くし、自国の豊作を誇る。国の作物の実りが良い事は喜ばしい事である事は理解出来る。だが、それは国民が大いに喜ぶ事であり、統治者が満面の笑みを浮かべて他国の者へ話す物ではないだろう。それ故に、リーシャやサラは不思議な表情でイヨを見つめ、サラに至っては疑問の疑問を口にしてしまう。

 『田んぼ』という言葉自体に聞き覚えがないサラではあったが、畑という物は理解出来る。だが、それはとても国主と呼ばれる一国の王が踏み入る場所ではない。ましてや、服や顔に泥や土を付着させる程にいる場所でもない筈である。

 

「イヨ様は、何度言っても聞かないのです。国主として、もう少し威厳を持たれなくてはならないと常々申し上げているのですが」

 

「国主としての威厳などいらぬ。妾は、皆と共に生き、皆と共に喜び、皆と共に泣く。それが妾の願いであり、喜びである。作物を育てる者達も、狩りを行う者達も、皆妾の家族と思うておる」

 

 小さな笑いを溢しながらイヨを窘めるヤヨイを見る限り、年若い国主の行動を苦々しく思っている訳ではない事が解る。その証拠に、それに対するイヨの答えを聞いたヤヨイは、その姿を誇らしく見上げ、満面の笑みを浮かべていた。

 この広い世界で、このような考えを持つ統治者は皆無に等しいだろう。ジパングのように、他国からの干渉が少ない島国だから出来る考えなのかもしれない。だが、この年若い統治者の考えこそが、自分の理想に近い物である事を、サラは気付いていた。

 

「妾の家族達が作った物は旨いぞ。近海で取れた海の幸や、周辺の山で採れた山の幸。そして、この国の大地で育った作物は皆の顔を笑顔にする。今宵はその食材を振舞おう。そなた達も堪能するが良い」

 

「有難き幸せ」

 

 国の要人への対応のように歓迎を示すイヨの言葉に、リーシャ達三人は笑顔で頷くが、一人の青年だけは重苦しく格式ばった受け答えを返す。その態度に、遂に年若い国主の堪忍袋の緒も切れてしまった。

 先程までの笑顔が消え去り、先頭に座る青年を射殺す程の視線を投げつける。リーシャは苦笑を浮かべるが、サラは急に変化したイヨの態度に慌ててしまった。

 

「そのような仰々しい態度はいらぬと以前に申したであろう! これ以上そのような受け答えをするのであれば、妾も怒るぞ!」

 

 とても一国の王とは思えない物言いに面を食らうサラとは異なり、憤る国主の横に立つヤヨイと、その怒りの対象のすぐ傍に座るリーシャは柔らかな笑みを浮かべる。

 イヨという国主と、カミュという青年の身体に流れる血液は、長い時間で薄まってしまったとはいえ、元は同じ物である事は、周知の事実となっている。年若くして一国の王となった少女にとって、自分の最も大切な国を救ってくれた縁者であるカミュを、兄のように慕っていても不思議ではないのだ。

 血縁者として慕う者に仰々しい態度を取られるという事は、そこに壁を作られてしまっていると感じる程に寂しい物である。既に母も亡くし、血縁者がいないイヨにとって、カミュという青年が唯一の支えなのかもしれない。

 

「……して、此度の要件はなんじゃ?」

 

 『むぅ』と睨み付けるイヨであったが、それに対して困ったような表情を浮かべたカミュの顔を見て満足したのであろう。険しかった表情を緩めて、彼等の来訪の目的を問う。

 カミュ達四人の旅の目的が『魔王バラモス』の討伐である事を知っているのは、この国でイヨ唯一人である。その存在さえも知りはしないが、彼らがヤマタノオロチを通過点と言う以上、それよりも恐ろしい存在である事をイヨは察していた。

 故にこそ、それ程の大事を成そうとしている者達が、この国を再度訪れたことに対し、喜びはしても疑問に思っていたのだ。

 

「まずは、こちらを……」

 

「ん? これは……草薙剣ではないか」

 

 カミュが前へと差し出した一本の剣を見たイヨは、再度カミュの表情を伺うように顔を上げる。国主の間にいた別の人間が、その剣を拾い上げようとするのを制したイヨは、何も言葉を発する事のないカミュを見たまま剣へと近寄り、鞘から抜き放った。

 抜かれた草薙の剣は、差し込む陽光を受けて神々しいまでの輝きを放つ。それは、正に所有者の手に戻った事を剣自体が喜んでいるようにさえも感じる程の輝き。国主の間に居た人間だけではなく、カミュ達四人もその輝きに目を奪われた。

 

「刃毀れなどはない……という事は、別の剣が手に入ったか?」

 

「……はい。草薙剣には劣りますが、ドラゴンキラーという良い剣が手に入りましたので、こちらをイヨ様に献上致します」

 

 カミュは、『返還』という言葉ではなく、『献上』という言葉を使用した。その言葉を聞いたリーシャは不思議そうな表情をするが、サラはカミュが言葉を選んだ意味を正確に理解する。

 草薙剣とは、本来はこのジパングの国宝とも呼べる神剣である。その名を『天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)』という、ジパング初代国主が神より授かった剣と謳われていた。カミュが『返還』という言葉を使用すれば、草薙剣が元々ジパングに有った物という認識を植え付ける。それは、国宝を持ち出した咎を受け入れるのと同義であり、それを許したイヨの立場をも危うくする物であった。

 故に、カミュは『献上』という言葉を使用したのだ。ジパングの国主であるイヨへ、同じジパングの血を引くカミュが物を『献上』するとなれば、それはジパングの民の自尊心を満足させる事になるだろう。

 

「着替えて参る。暫し待て」

 

 剣を鞘へと納めたイヨは、再びそれをカミュの前へと置き、そのまま別室へと移動して行く。慌ててヤヨイもその後を追って国主の間を出て行った。

 残されたカミュ達四人は、突然のイヨの行動に呆然とするが、国主の間に居る他の人間達は顔色一つ変えず、柔らかな微笑みを湛えていた。

 暫しの時間、国主の間には静けさが広がるが、奥の扉を開けてヤヨイが現れると、カミュ達全員が息を飲む。ヤヨイの姿は全く変わりはしないのだが、その後ろから現れた者の姿に驚愕の表情を浮かべたのだ。

 

「なんじゃ、その顔は?」

 

「…………イヨ………すごい…………」

 

 満を持して登場したイヨではあったが、驚愕に彩られたカミュ達の表情を見ると眉を顰め、年相応の少女のように頬を膨らませる。そんな中、メルエだけはイヨの姿を見上げて目を輝かせていた。

 メルエの発した言葉は、一国の王に対する物としては余りにも不敬な物である。だが、このジパングの国主は、笑顔を浮かべてメルエの言葉を喜んだ。先程まで膨らませていた頬を萎ませ、満足そうに頷きながら、一段上の場所へと腰を下ろす。

 この国での正装とも言って良い綺麗な姿を現し再度座り直したという事は、草薙剣という神剣をカミュから受け取る準備が出来たという事なのだろう。この国でもイヨとカミュにしか手に出来ない剣である以上、カミュが自らイヨの許へと差し出さなければならない。それを理解したカミュは、剣を両手で掲げながら、にじり寄るようにイヨの前へと出た。

 

「草薙剣と呼ばれる神剣でございます。神より授かったという伝承がございました」

 

「うむ。そなた達の忠義、嬉しく思う。この剣は我が国の宝としよう」

 

 仰々しく掲げた草薙剣を、カミュは跪いたままイヨへと差し出した。その剣を片手で受け取ったイヨは、笑みを浮かべながらも大きく頷きを返す。元々このジパングの国宝とも言える剣ではあったが、既に失われた物であった為に名を変えて再びその位置に戻す事にしたのだ。

 何も示し合わせた訳ではないが、剣を渡そうとしたカミュの言葉を聞いたイヨは全てを察し、衣装を着替えたイヨを見たカミュもまた、相手がそれを了承した事を理解したのだった。それは、この国の王族とも言っても過言ではない者の血を受け継ぐ者達だからこその意思の疎通なのかもしれない。

 

「皆の者、これは『草薙剣(くさなぎのつるぎ)』という。我が国の護神剣であった『天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)』を失って久しい。今後は、我が国の救い主が持ち帰ったこの神代の剣を御神体とする」

 

 カミュから受け取った草薙剣を抜き放ったイヨは、太陽の光を反射する刀身を国主の間に居る者全てに見えるように高々と掲げ、そう宣言する。その宣言を受けたジパングの民達は、一斉にイグサという植物で編んだ敷物へと頭を着けた。

 国主を信じる彼らは、国主の考えさえも信じ続ける。初代国主が神より授かったと伝えられる『天叢雲剣』が、遥か昔に失われたという事は、ジパングの民ならば誰もが知っている。だが、それ故に、その剣の姿や形などを知る者は誰もいないのだ。唯一つ、その神代の剣は国主の血を継いでいる者しか扱えないという事だけ。

 今後は、この草薙剣にそれと同様の伝説が語り継がれるのかもしれない。

 

「…………イヨ………それ…………?」

 

 しかし、そんな厳粛な空気の流れる国主の間の中で、これまでの一連の流れに興味を示さない者が唯一人だけいた。

 イヨが剣を抜き、それを掲げる際に胸元から飛び出した煌めく首飾りを目敏く見つけたメルエは、先程と同様に、国主に対しての口調とは思えない問いかけをする。そんなメルエの言葉に、頭を下げていた数人の民が明らかに眉を顰めた。

 そんな民達を手で制したイヨは、苦笑交じりの笑顔でメルエへと向き直り、首元から下がった煌びやかな宝石のような物を手に取る。

 それは、奇妙な形をした青い石。歪んだ楕円形の玉のような形をしたその石は、太陽からの光を反射し、淡い青色に輝いていた。

 

「これか? これはそなたから貰ったあの石じゃ。あのままでは肌身離さずという訳にはいかないからの……このように、職人に頼んで『勾玉』にして貰った」

 

「…………まが……たま…………?」

 

 その綺麗な姿に微笑むメルエであったが、イヨの発した単語に聞き覚えが無い為、少し首を傾げてその言葉を反芻する。剣を鞘へと納めたイヨは、それを持ったままメルエの傍まで移動し、首から下がる勾玉を見せた。

 近くで見ると、イヨの言う通りにそれは『命の石』の欠片と同じ色を放っている。首を傾げていたメルエも、その色を見て花咲くような笑みを浮かべた。違う形状へと加工はしているものの、自分が渡した物を肌身離さず大事に持っている事が嬉しかったのだろう。

 メルエは、この石の欠片が、その持ち主を護ってくれると信じている。故にこそ、それを大事に持っていてくれているという事は何よりの喜びなのだ。

 

「イヨ様、こちらもお納めください」

 

「……カミュ様、それは」

 

 そんな微笑ましいイヨとメルエのやり取りを見つめていたサラは、再びイヨへと向き直ったカミュが差し出した品を見て驚いた。

 それは、もはや使用する事はないと考えて、船に置いて来た筈の品であると同時に、草薙剣と同様に神から人間が授かった物と伝えられる神代の道具であったのだ。

 抜身の草薙剣の放つ輝きや命の石の欠片が放つ輝きとも異なる光を放つそれは、太陽の光を内に取り込む事無く、全てを反射している為の物。覗き込む者の本当の姿を映し出すと伝えられるそれに、カミュ達は何度となく救われて来た。

 

「その者の真実の姿を映し出すと伝えられる神代からの鏡にございます。ヤマタノオロチという厄災が去った後に、このような物を献上するというのは、ジパングの方々の心を逆立てる事になるかもしれませんが、この国の永久なる平和を願い、ここに献上させて頂きます」

 

「……真実の姿を映し出す鏡……か」

 

 カミュは敢えてその鏡の名称を伝えなかった。『ラーの鏡』という名の鏡は、サマンオサ国の国宝である。例え、サマンオサ国王からカミュ達が下賜された物とはいえ、巨大な軍事国家として名高いサマンオサの国宝を辺境の島国の王が所有していれば、何かと都合が悪くなる恐れがあるだろう。

 また、その鏡の効力を考えれば、本来はこのジパングで献上する事は考えられない。国主であるヒミコに化けたヤマタノオロチの真実の姿に気づかずに、何年もの間苦しみ続けて来た事を知っていれば、その申し出自体が無神経にも程があるだろう。だが、カミュはそれを知っていて尚、この国にその鏡を委ねたのだ。

 放心したように鏡を見つめるイヨは、おそらくあの苦しい時代を思い出しているのだろう。そのような逸話のある鏡があれば、もっと前に苦しみから解放されたかもしれないという思いとは別に、その鏡があったのならば、敵対したヤマタノオロチに全てを滅ぼされ、ジパングという国はこの世から消滅していたかもしれないという思いもあるに違いない。

 

「……カミュ、良いのだな?」

 

 放心しているイヨを余所に、リーシャはカミュへとその是非を問い質す。実際、リーシャ自身はその行為に納得してはいるのだが、この先の旅で『ラーの鏡』が不必要なのかどうかが解らず、最終的にカミュの意見を再確認する事にしたのだ。

 それに対して小さく頷いたカミュを見たリーシャは、満足気に頷きを返し、驚きを隠し切れないサラの肩に手を置いた。肩に置かれた手で我に返ったサラもまた、この方法が最も良いのかもしれないと考える。

 『ラーの鏡』は国宝に値する神代の道具ではあるが、今後使用する機会があるかは定かではない。そして、使用しない場合は船の中に置いて行かねばならず、不慮の事故などで船が沈んだ場合、貴重な品物が、永遠に海の底へ消えて行く事になってしまうのだ。それは、人間を思ってそれを下賜した神に対しての不忠であり、不義であるのかもしれない。

 

「……この鏡に、悪しき心が映らぬような国主となれ、とそなたは言うのだな」

 

「そのような畏れ多い事は……」

 

 鏡を手にしたイヨは、映り込む自分の顔を見ている内に、それを献上して来たカミュの真意に気が付いた。

 この鏡は、その者の真実の姿を映し出すと伝えられている。それは、何も変化をした者ばかりではないだろう。その者が悪しき心を持っていれば、鏡に映り込む姿は醜く歪むであろうし、その者が間違った行いをしていれば、その周囲にいる人間の心が正しく映るに違いない。

 この青年は、『そのような統治者にはなるな』と言っているのだとイヨは考えた。未だにヤマタノオロチの付けたジパングの傷跡は癒えておらず、国自体がようやく再出発を果たしたばかりである。道に迷う事があろうと、己が目指した道を歩まなければ、イヨが統治するこのジパングは滅びへと向かって進んで行ってしまうのだ。

 故にこそ、初志貫徹を心に刻み付け、イヨはジパングの民達を照らし続ける太陽でなければならない。

 

「良い。そなたの心を妾は解っておる。この鏡、確かに預かった。草薙剣と共に、我が国の宝としよう」

 

 鏡をヤヨイへと渡したイヨは、再び一段上がった場所へ座り直す。その表情はとても晴れやかであり、以前にも増した威厳をも持ち合わせた物であった。

 彼女は、この瞬間から、真の国主となったのかもしれない。このジパングを想う気持ちは些かの違いもない。だが、未来への希望と、それを成さなければならないという責任感は、以前よりも更に強くなった事だろう。

 今この時を持って、ジパングという辺境の島国は、世界に名立たる国家への道を歩み出したのだ。

 

「今宵は、この屋敷に泊まるが良い。以前のように、供の者達も連れて来ているのであれば、その者達も屋敷の一室を宛がおう。今宵は宴会じゃ、ジパングの地の幸を存分に味わって行け」

 

 笑みを湛えたイヨの表情は、実際の年齢よりも遥かに上に見える程の物。それは、国主としての威厳を備え、民達を愛する心を持っているが故の物なのかもしれない。

 謁見は終わり、夕食時には外で待つ船員達も招かれての大宴会となった。屋敷中の者達ばかりではなく、ジパングの民達を交えての大宴会は、屋敷内では収まりきらず、外に出て火を興し、ジパングという一国を上げての宴会となる。

 ヤマタノオロチという誰もが恐れ続けた化け物を倒した勇者を讃え、崩壊しかけたジパングを立て直した若き国主を讃え、国中の者達が浴びる程に酒を飲み、腹がはち切れそうな程に食べ、倒れる程に踊り明かした。

 『勇者』と呼ばれる者が起こした必然は、一つの国家を救い、そこで生きる者達の心をも救って行く。そして、この国でもまた、その存在は語り継がれて行くのだろう。

 

 

 

 その後、このジパングの国主の家系には、三つの神器が継承されて行く。

 一つは、国主の覚悟の証であり、決意の証でもある神剣。

 一つは、国主の身を護り続ける祈りが込められた勾玉。

 一つは、国主が間違った道を歩んだ際に戒める為の鏡。

 剣の名は『草薙剣(くさなぎのつるぎ)』。遥か昔、勇者と呼ばれる神の使いが、その時代の国主の身を、草を薙ぎ払って救ったと伝えられる剣である。

 勾玉の名は『八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)』。遥か昔、神の使いと共にジパングを訪れた者から、国主が譲り受けた宝玉であり、授かった者の身を護る加護が付与されていると伝えられる宝玉である。

 鏡の名は『八咫鏡(やたのかがみ)』。覗き込む者の真実の姿を映し出すと云われるその鏡は、国を統治する国主の心を戒める物である云われ、国主となる者は、幼き頃よりその鏡の恐ろしさと、それに醜い心が映り込まぬように励む事を教育されて行ったと云う。

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

第十五章の幕開けです。そして、ようやくジパング編も完結しました。
魔王バラモスまでもう少し。頑張って描いて行きます。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。

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