新訳 そして伝説へ・・・   作:久慈川 京

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~閑話~【ランシールの村】

 

 

 

 

 ランシールと呼ばれる村に陽光が射し、朝の始まりを告げる頃、カミュ達四人は宿屋の前で出立の準備を終えていた。

 未だにカミュとの再会が嬉しいのか、メルエはカミュの腰元にがっちりとしがみ付き、そのマントの中に潜り込んでいる。昨晩から続く、そんなメルエの行動を誰一人として咎める事など出来はしない。

 彼女がどれ程に不安を感じ、どれ程に恐怖を感じていたかを知っている者達は、その喜びさえも共有してしまったかのように、メルエの行動を微笑ましく見ていた。

 

「さあ、出発だ。カミュ、一度船に戻った後は何処へ向かう?」

 

「サマンオサだろうな」

 

「そうですね……ですが、その前にトルドさんの所へ行きませんか?」

 

 同道して来た船員達が全員揃った事を見届けたリーシャは、高らかに宣言を発する。その声は、朝陽の影響で明るくなり始めた村の中へと響き渡った。

 既に村の人々も行動を始めており、村にある共同の井戸などへ向かう女性陣がリーシャの大声に苦笑のような笑みを漏らして通り過ぎて行く。気恥ずかしさを感じながらも、サラは目的地を口にしたカミュに向かって、次に向かう場所の変更を提案した。

 サラの言葉の中に知った名が出た事で、マントの中から顔を出したメルエが笑顔でカミュを見上げる。それで目的地は決定したと言っても過言ではないだろう。この『勇者』と呼ばれる青年が、幼い少女の笑みを断れる訳がないのだから。

 

「よし。ならば、まずはトルドのところだな。ポルトガにも一度寄るか?」

 

「献上する物がないが、顔は出しておいた方が良いだろうな」

 

「そうですね。その前に、リーシャさんの<魔法の鎧>を武器と防具のお店に引き取って貰いに行きましょう」

 

 最後のサラの言葉で、一行の進行は定まった。

 リーシャの身体には、既に<大地の鎧>という神秘が装備されている。その輝きは、昨夜に見た時とは異なる物。リーシャという主の身に装備された事によって、鎧は飾り物ではなく、本来の役割を思い出したかのようにその身を変化させていた。

 既にその役割を終えた<魔法の鎧>は、サラでは装備する事が出来ない。言う必要もないかもしれないが、メルエも同様である。

 装備する人間がいない以上、その鎧は荷物にしかならず、傷などもあるが、武器と防具の店であれば、引き取ってくれるだろうと考えたのだ。

 

「言うべき事ではないのかもしれないが、昨晩と同一人物だとは思えないな」

 

「言うな、カミュ。あれでも無理をしているんだ」

 

「…………サラ………だめ…………」

 

 先頭を切って歩き出そうとするサラの姿を見たカミュは、何か意味ありげな言葉と共に大きな溜息を吐き出した。そんなカミュを窘めるように小声を発するリーシャと、マントから顔を出したメルエの追い打ちが響く。

 空元気のような無理のあるサラの声は急激に萎み、肩を震わせた。それは、哀しみの為なのか、それとも怒りの為なのかは解らない。だが、振り向いたサラの顔を見たメルエが、即座にカミュのマントの中へ隠れてしまった事で、その心は推して測るべきだろう。

 

「もう! 初めてなのですから、仕方ないではないですか!」

 

 そんなサラの叫びは、明け始めたランシールの村に響き渡り、それを聞いていた船員達の顔にも総じて笑顔が浮かんでいた。

 この一連の出来事は、本来であればサラの名誉の為に伏せておくべき物であろうが、カミュのマントの中から未だに『だめ』という言葉を発しているメルエに向かって肩を落とすサラの姿は、船員達の間で後世まで語り継がれる事だろう。

 それは、昨夜、カミュ達が宿屋へ戻る頃にまで遡る。

 

 

 

 

 一行が村まで戻ったのは、太陽が西の空へ沈んでしまう直前だった。

 陽が沈み、店仕舞いを始めている商人達を押し止め、リーシャ達四人は買い物を済ませて行く。宿屋の厨房などを借りる事が出来るとは決まっていないのだから、気が早いと言えばその通りであるのだが、食材も宿屋で借りる訳にはいかない以上、店が空いている内に購入する必要があったのだ。

 食材を売っている店は固まっており、その店に残っている肉や魚などを吟味しながら、手を引いたメルエに希望の物を尋ねるリーシャの姿は、日暮れ時に子供と買い物をする母親そのものである。

 それを口にしたサラは、厳しい視線を頂戴した後、荷物持ちになってしまうのだが、それは当然の報いであろう。

 

「良い鳥肉が残っているんだ。明日には出せなくなってしまうから、安くしておくよ」

 

「ん?……確かに良さそうな肉だな……メルエ、鳥肉のソテーでも良いか?」

 

「…………ん…………」

 

 カミュの帰還祝いである筈なのだが、リーシャが献立を聞くのはメルエ唯一人。色々な物に目移りしているメルエは、未だに生きている魚や、大きなカボチャなどを見て目を輝かせていた。

 メルエが見ている一つ一つの食材を説明しながら、その調理方法を口にするリーシャの言葉は、カミュやサラであっても、その出来上がりを想像できる程に詳細な物であり、空腹の身体を充分に刺激させる。

 閉店作業を行っていた筈の店主達も、リーシャの調理方法を聞きながら他の調理方法を口にしたりと、とても楽しい雰囲気の買い物の時間は流れて行った。

 

「……買いすぎではないのか?」

 

「船員達も食べるだろう? 他の宿泊者もいなかったからな」

 

 膨れ上がる荷物は、カミュの両手だけでは足りず、サラの両腕にも乗せられる。その量は、とてもではないが四人で食し切れる物ではなかった。

 食後の為の果物をメルエと共に見ているリーシャに問いかけたカミュは、その返答に諦めに似た溜息を吐き出す。その後ろをふらふらと歩くサラは、既に口を開ける状態ではなかった。

 片腕で<大地の鎧>を抱えているリーシャに荷物が持てない以上、カミュとサラで持たなければならないのだが、加えて果物まで購入すれば、その袋をカミュが口で咥えなければならないだろう。

 だが、そんなカミュの心配は、このパーティーで一番の頑固者によって杞憂に終わった。

 

「メルエ、無理をする必要はないんだぞ?」

 

「…………メルエ………だいじょうぶ…………」

 

 果物の入った革袋は、頑として聞かないメルエが持つ事となったのだ。

 それ程の重量がある訳ではないが、両手で抱えるように革袋を持ったメルエは、顎の付近まである物を溢さぬように必死に支え、リーシャの後ろを歩く。その姿は、親鳥の後を追いかける雛鳥のようで、カミュは小さな笑みを溢した。

 サラが発する魔法の言葉を口にしたメルエは、その言葉を発した以上、『大丈夫』にする責任があると考えているのか、宿屋に着くまで一言も弱音を吐かず、支えようとするリーシャの腕も振り切って歩く事となる。

 

 

 

「厨房で夕食を作るのですか?……まぁ、今日は他の客もいないから良いですが……本来は、食事を付ける際は、私達が作った物と区別を付けられると困るのですよ」

 

「すまない……そこまで考えが及ばなかった」

 

 意気揚々と宿屋に帰還した一行であったが、事の顛末を宿屋の主人に話すと、思いがけない難色を示される事となった。

 確かに、カミュ達以外の宿泊者がいた場合、リーシャの作る料理が自前の食材を使っているとはいえども、他の宿泊者達とは明らかに料理が異なっていた場合、それが問題となる可能性がある。

 ここまでの旅の中で、宿屋に泊った際にリーシャが料理を作った事は何度かあるが、他の宿泊者がいた場合は常に一品ないし二品程度の物であった。だが、今回は、明らかにその食材の数が異常である。流石に人の良い宿屋の主人であっても、顔を歪めざるを得なかったのだろう。

 

「いや、言った通り、今日は他のお客もいないから問題はありませんよ。お手伝いの必要はないのですよね?」

 

「ありがとう。全てこちらでやるので、調理器具だけお借りしたい。勿論、ご主人の家族にも振舞えるだけの量は作るつもりだ」

 

「…………メルエ……てつだう…………」

 

 恐縮するリーシャを見た宿屋の主人は、苦笑を浮かべながら手を振り、只の苦言である事を示唆するが、リーシャはそんな主人に深く頭を下げた。

 このような場合の交渉に関しては、カミュが前面に出て来る事はなく、常に後方で成り行きを見守るのだが、後ろから入って来たサラが衝突して来た事によって、自然と前へと押し出される事となる。大量の荷物は、サラの視界を奪ってしまっていたのだ。

 カミュだけではなく、サラも大量の荷物を抱えている事に気が付いた主人の表情は、呆れたような物から、心からの笑みへと変化する。

 

「厨房は好きに使って下さい。後片付けさえして下されば、問題はないですから」

 

 笑顔を浮かべる主人に対して頭を下げた面々は、そのまま食材を持ったまま厨房へと入って行く。手を伸ばすカミュを振り切るように果物を抱えたメルエを見た宿屋の主人は、先程までの笑みを強い物へと変化させ、厨房へと消えて行く四人を見送るのだった。

 

 厨房へと入ったサラとメルエは、買って来た食材を調理場に広げ、リーシャの指示を待つのだが、厨房の調理器具を一つ一つ確かめているリーシャは、なかなか口を開こうとしない。

 耐えられなくなったサラが、何かを問いかけようと口を開いた時、ようやく口を開いたリーシャが指示した相手は、サラでもメルエでもなく、所在無げに立ち尽くしていたカミュだった。

 

「カミュ、船員達に食事に行かないように言って来てくれ。着替えた後にサラとメルエで料理をするから、お前は部屋でゆっくり身体を休めておけ」

 

 振り返ったリーシャの顔は優しい笑顔。

 本心から、相手の身体を案じているような言葉に、指示を待っていたサラもメルエも笑みを浮かべた。

 全てを包み込むような慈愛は、周囲に居る者達にも優しさを運び、その場の空気をも変えて行く。

 小さな笑みを浮かべたカミュは、一つ頷きを返した後、厨房を出て行った。

 

「よし、一度部屋に戻って着替えよう」

 

「はい」

 

「…………ん…………」

 

 カミュの背中を見送ったリーシャの言葉に頷きを返したサラは、メルエの手を引いて部屋へと戻って行く。

 この後に、世にも恐ろしい出来事が待っている事を誰一人として予想できなかっただろう。

 それは、最後に厨房を後にしたリーシャでさえも同様であった。

 

 

 

 着替え終わり、厨房へと戻って来たサラとメルエは、リーシャから指示を受け、野菜を洗う為に外の井戸へと向かって行く。

 既に太陽は尻尾しか見えない。暗闇が支配し始めた村の中を野菜を抱えたサラとメルエが歩き、井戸へ着いた頃には、周辺には既に誰一人として人はいなかった。

 井戸の中に落とされた桶を二人で引き上げ、汲み上がった水に触れては、『冷たい』と叫びながら笑い合う。まるで姉妹のように楽しげな声を上げて、二人は水桶に野菜を入れて行った。

 

「メルエ、駄目ですよ。それでは野菜が台無しになってしまいます」

 

「…………むぅ……メルエ……やる…………」

 

 水桶の中で乱暴に野菜の葉を洗うメルエを注意するサラは、メルエの手から野菜を受け取ろうと手を伸ばすが、その手は空を切ってしまう。

 サラの手から逃れるように背を向けたメルエは、そのまま水桶ごと移動し、再び野菜を洗い始めた。その姿を見たサラは、溜息と共に笑みを溢し、自分の分の野菜を丁寧に洗って行くのだった。

 店頭で売られている野菜のほとんどは、その身に大量の土を付着させている。太陽の恵みを受け取り、大地の栄養を吸った野菜達は、その恩恵の名残を色濃く残しているのだ。

 

「こっちは、これで終わりですね。メルエの方はどうですか?」

 

「…………メルエ………できた…………」

 

 洗い終わった野菜を駕籠に戻したサラは、泥で茶色く濁った水桶の水を捨て、一度大きく伸びをした後、隣で奮闘していたメルエへと視線を送る。サラよりも数の少ない野菜を一生懸命洗っていたメルエの頬は、その水桶の水と同様に、茶色く汚れていた。

 誇らしげに胸を張り、汚れの落ちた野菜をサラへ突き出すメルエを見て、サラも優しい微笑みを浮かべる。

 野菜を洗う事に集中していた為、太陽が完全に大地に隠れてしまっていた事に初めて気付いたサラは、メルエの水桶の水を捨て、その中に野菜を入れた後、それをメルエへと手渡して宿屋へと戻り始めた。

 

「リーシャさん、洗って来ましたよ」

 

「…………メルエ………できた…………」

 

 宿屋の厨房に入ると、リーシャは肉類の下ごしらえの最中であった。

 購入して来た鶏肉や魚に塩を振り、カミュから預かっていた『黒胡椒』を少々馴染ませる。船員達を含めた全員分の食事なだけあって、その量は厨房の机一杯に広がっていた。

 サラ達が戻って来た事に気が付いたリーシャは、誇らしげに野菜を掲げるメルエの頭を撫でた後、受け取った野菜を包丁で切り分けて行く。既に鍋が火に掛けられており、スープを作るのか、少々の肉類も入っていた。

 

「あの……リーシャさん、次は何をすればよろしいですか?」

 

「ん?……そうだな……別に無理して手伝ってもらう物はないから、部屋で休んでいても良いぞ?」

 

 鼻歌交じりに野菜を刻み、それを大きな鍋の中へと入れて行くリーシャの姿を見ながらサラは小さく問いかけた。

 何かをしたいと思っているサラとは異なり、良い香りを発し始めた鍋に目を輝かせていたメルエは、リーシャの後ろにくっ付いて調理を眺めている。その瞳は、初めて見るリーシャの調理の手際の良さに爛々と輝いていた。

 サラの願いも虚しく、メルエに微笑みながら作業をしていたリーシャは、サラとメルエに戦力外通告を言い渡す。しかし、そんなリーシャの言葉は、やる気十分になっている『賢者』には届かない。

 『賢き者』として、何事にも探究心を持つこの女性は、今回の料理に対して強い執着を持っていたのだ。

 

「お手伝いします! 何でも言って下さい!」

 

「…………メルエも…………」

 

 胸の前で拳を握り締めたサラを不思議そうに見上げていたメルエまでもが、リーシャへ視線を戻し、眉を上げて意気込み始める。リーシャは軽く溜息を吐き出した後、小さな笑みを作り、作業工程を考え始めた。

 メルエに包丁などの刃物を使わせる事は難しいだろう。そうかと言って、サラに包丁を握らせれば、メルエが黙っている筈がない。『自分もやる』と言い出す事は確実であろう。

 色々と考えあぐねた結果、リーシャはようやく口を開いた。

 

「わかった。ならば、このスープが噴きこぼれないように見ていてくれ。火の調子を見ながら、時には灰汁を取ってくれると助かる」

 

「…………ん…………」

 

 リーシャの言葉に、その足下に居たメルエは大きく頷きを返した。自分に役割を与えられた事が嬉しいのだろう。傍にあった木箱を鍋の傍に寄せ、その上に立って鍋に掛かる火をじっと眺め始める。

 しかし、もう一人の女性は、先程までのやる気はどこへやら、何故か固まったように動かない。

 

「サラは手伝ってくれないのか?」

 

「い、いえ! お手伝いはしますが、包丁を握らせては貰えませんでしょうか?」

 

 動かないサラへ視線を移したリーシャは、返って来たその言葉に顔を歪めた。それは、先程までリーシャが危惧していた内容なだけあって、敬遠したい物でもあったのだ。

 だが、目の前のサラの瞳を見る限り、それを避ける事は難しいのだろう。リーシャの指示に戦闘時以外で逆らった事のないサラが、ここまで感情を露にしている以上、それを拒む事が如何に難しいかをリーシャは悟っていた。

 

「わかった。メルエは、そのまま鍋を頼むぞ」

 

「…………ん…………」

 

 一つ溜息を吐き出したリーシャは、火を見つめているメルエに灰汁の取り方を教えた後、サラをまな板の傍へ招き入れる。

 宿屋の厨房にある包丁としては、かなり手入れが行き届いている物を手に取り、そのまま傍にあった芋の皮を綺麗に剥き始めた。

 芋の実を削る事無く、皮だけを綺麗に剥いて行く手際の良さに、サラは感嘆の溜息を吐き出し、それを我が物にしようと、真剣に見つめる事となる。

 

「このような感じで、ここにある皮を剥いてくれ。多少は実の部分を削ってもいいから、手を切らないように気をつけろよ。まぁ、サラの場合は回復呪文があるから大丈夫なのかもしれないがな」

 

「はい! 任せて下さい」

 

 包丁と共に、皮で覆われた芋を渡されたサラは、勢い良く首を縦に振り、真剣に芋と向き合い始めた。

 人生初となる包丁を握ったサラではあるが、よくよく考えれば、<聖なるナイフ>を手にして魔物と相対した回数も乏しい。その後は、<銅の剣>という斬るというよりも叩くという武器を手にし、今の武器の<鉄の槍>へと移った。

 つまり、サラには、手元にある刃物で、何かを切るという作業自体の経験が薄いのだ。

 

「おっ! メルエは灰汁取りが上手いな」

 

「…………ん…………」

 

 サラから目を離し、自分の作業へ戻ろうとしたリーシャは、一生懸命に灰汁を取っているメルエの姿を見て、微笑みと共に賞賛の言葉を送る。

 始めての作業に対して褒められた事が余程嬉しかったのだろう。花咲くような笑みを作ったメルエは、一つ頷いた後、再び灰汁取りに専念し始めた。

 その後、魚の白身の下ごしらえを終わらせたリーシャは、再びサラの許へと様子を見に行くのだが、その場所で見た光景に、後悔の念しか浮かばなかったと言う。

 

「サラ……実の部分を多少削っても良いとは言ったが、それでは食べる部分が少な過ぎるだろう……」

 

「えっ!? あ、すみません……」

 

 真剣に皮剥きを繰り返していたサラであったが、その速度はリーシャに比べると余りにも遅い。料理の初心者である故に仕方のない事ではあるのだが、今回はその速度の遅さが救いだったのかもしれない。

 二個三個、剥き終わった芋がサラの前にある容れ物に入っているのだが、その姿は見るも無残な物。皮が付いていた頃に比べ、半分以下の大きさへと成り下がっていた。

 剥き終わった皮は、実の部分を多く付着させ、厚く切り落とされている。それを見たリーシャは、溜息を吐き出すしかなかった。

 

「皮剥きはもう良い。今度は、野菜を切ってくれ」

 

「は、はい……」

 

 一生懸命やっている事を知っているだけに叱る事は出来ず、リーシャは皮剥きを交代する事で、サラに他の作業を指示する。

 皮を剥いていた包丁を洗い、別の野菜類をサラの前へと取り出した。

 手本を見せるように、それを切って行くリーシャの姿を真剣に見ていたサラは、再び大きく頷きを返し、野菜へと包丁を入れて行く。

 先程の皮剥きに比べて、横になった野菜を刻んで行く作業であった為、時間はかかるだろうが、心配はないと思ったのか、リーシャはその場を離れる事にした。

 

 しかし、その判断は、またも誤りであった。

 再び戻って来たリーシャは、先程渡しておいた野菜を切り終えたサラが、違う物に包丁を宛がっているのを目撃する。

 小さく丸いその野菜は、黄色い皮を切る事は難しくない筈なのだが、何より包丁の角度が危うい。片手で野菜を抑えなければならないにも拘わらず、サラは両手で包丁を扱っており、野菜が動くにつれて、包丁を入れている角度がずれて行っているのだ。

 

「サ、サラ、そのままでは……」

 

「…………!!…………」

 

 慌てて近寄り、リーシャはそれを制しようと声を発するが、既に時遅し。

 サラの包丁の下にあった小さな野菜は、そのまま横へと転がり、サラが込めていた力を利用して、真横へと吹き飛んだ。

 サラの横では、木箱に乗ったメルエが、真剣に鍋と睨めっこをしながら灰汁を取っている。そのメルエの側頭部に小さく丸い野菜が直撃した。

 声にもならない叫びを上げて横へと倒れる際に、メルエの腕は熱く煮えた鍋に当たり、火に掛かっていた鍋も大きく揺れ動く。

 

「メルエ!」

 

 倒れ込むメルエの上に、鍋に入ったスープが零れて来たとしたら大惨事である。今までのどんな戦闘の時よりも素早く、リーシャはメルエへと駆け寄った。

 メルエが床に倒れるよりも早くに、その身体を抱き上げ、瞬きをする間もなく、その場を離脱する。まるでリーシャが離れるのを待っていたかのように、鍋はその内包される液体の重さに耐え切れず、身体を傾かせた。

 先程まで、メルエが一生懸命に灰汁を取り、澄んだ色をしていたスープは、全て厨房の床に撒き散らされ、それから遅れて、金物の鍋が落ちる音が響き渡る。

 

「メルエ、腕は大丈夫か!? サ、サラ! 早く<ホイミ>を!」

 

「は、はい!」

 

 リーシャに呼ばれたサラは、ようやく我に返り、倒れ込んだメルエの許へと駆け出す。自分が齎した災難による結果を目の当たりにし、心の中は混乱を極めていた。

 先程まで持っていた包丁は打ち捨て、零れたスープを踏み締めて駆け寄った先では、腫れ上がった腕をしたメルエが倒れている。リーシャに抱かれながらも、苦悶の表情を浮かべ、今にも泣き出しそうな程に眉を下げていた。

 メルエと同年の幼子であれば、声の限りに泣き叫ぶところなのだろうが、この少女は、常識という枠組みには嵌らない。特に自身の苦痛などで涙を見せる事は有り得ないと言っても過言ではない。その辺り、甘える部分と、そうではない部分の理解を間違っているとも言えた。

 

「メ、メルエ……ごめんなさい……今すぐ、痛くないようにしますからね」

 

 駆け寄ったサラは、即座に<ベホイミ>を詠唱する。ここで、<ホイミ>ではなく、自身の持つ最上級の回復呪文を詠唱したサラは、完全に我を失っていたのだろう。

 淡い緑色の光は、瞬時にメルエの腕に残る火傷を消し、その腫れも引かせて行く。メルエの瞳に浮かんでいた涙は消え、代わりにサラの瞳を涙が満たして行った。

 

「…………サラ………だめ…………」

 

「そうだな……やはりサラは駄目だな」

 

 腕の痛みがなくなったメルエは、自身を見下ろしながら涙を浮かべるサラの顔を見て、追い打ちをかけるように口を開く。それに呼応するように、リーシャまでもがサラを追い込んで行った。

 面を食らったのはサラである。

 浮かべていた涙も引っ込み、先程までの悲哀も消えて行く。

 

「スープは作り直さないと駄目だな……」

 

「…………サラ………だめ…………」

 

「うぅぅ……申し訳ございません」

 

 代わりに湧き上がった憤りだったが、それは、巻き散らかされたスープの残骸を見ながら溢したリーシャの言葉で萎んで行った。

 鍋の中には、旨味を全て吸い尽くされた肉の残骸以外は何も残っていない。

 メルエが根気良く灰汁を取って来た物は、全て厨房の床の土に吸い込まれていた。

 全く同じ言葉を呟くメルエにも反論する事は出来ず、リーシャの悲しそうな呟きに掛ける言葉も見つからない。だが、それでもやはり、サラはサラだった。

 

「もう一度頑張ります! 私に出来る事は何でもやります!」

 

 十七という歳にアリアハンを出てから、常に悩み、常に苦しみ、そして涙して来たこの『賢者』は、一度や二度の躓きで心を折ったりはしないのだ。

 それは正に、洞窟内で間違った道順を指し示しても、何度も自分の感じた事を口にする女性戦士に似通った物であるのだが、それを口にする事は控えておこう。

 そんな意欲的な『賢者』なのだが、やはり人の根本は変わる事はない。それを彼女は即座に証明して見せた。

 

「で、では、私はもう一度野菜を切りますね……きゃあ!」

 

 この世界の宿屋の厨房は、基本的に土の上に石を敷き詰め、石畳のようにしている。王宮などとは異なり、その敷き詰め方も大雑把であり、歪な部分が多かった。

 そして、やる気を出せば出す程に空回るサラという人物は、その歪な隙間に見事に捕まってしまう。

 スープが零れて濡れた石に足を滑らせたサラは、様々な物を巻き込んで行った。

 転ばぬと伸ばされた手は、机の上に乗せられていた、下ごしらえを終えた肉や魚を掴み、床へと落として行く。反対側の手は、傍で見上げていたメルエの額を強かに打ち、振り上がった足は、先程床に落とした鍋を蹴り上げてしまった。

 

「…………うぅぅ……うぇぇん…………」

 

 腕に火傷を負っても泣かなかったメルエが、サラに額を叩かれた事でリーシャの胸に泣き付く。

 大きな泣き声を発して胸に縋り付くメルエを抱き締めたリーシャであったが、再び巻き起こったサラによる大惨事に、顔を伏せてしまった。

 床に散らばった肉や魚。

 跳ね上げられた鍋は、大きな音を立てて再び床に転がる。

 その全てが、リーシャにとって、考えたくもない光景であった。

 

「あいたた……も、申し訳ありません」

 

 メルエの泣き声が響く厨房の中で、強かに腰を打ったサラは、腰を擦りながら起き上り、そしてその惨状を目にする。それは、サラでさえも考えたくもない光景だった事だろう。

 あのリーシャが、何も言わず、肩を震わせる事無く、ただ俯いている。その腕の中には、身体を振るわせながら涙するメルエの姿。それは、サラにとって地獄絵図にも等しい物だったのかもしれない。

 

「……サラ……」

 

「は、はひぃ!」

 

 呟くように口を開いたリーシャの声が、地獄から鳴り響く地鳴りのように聞こえたのはサラだけだろう。その心境を示すように、サラは裏返った声で何とか返答を返した。

 サラの返事の余韻が残る厨房に静けさが戻る。

 既にリーシャの胸の中で、泣き声を止めていたメルエが鼻を啜る音だけが、何故か耳に良く響いていた。

 

「もう良い……メルエを連れて、部屋で大人しく待っていろ」

 

「で、ですが……」

 

 リーシャは顔を上げない。

 それが尚更、サラの胸に恐怖を運んで来る。

 この惨状を生んだ事を自覚して尚、リーシャの言葉に反論しようとしたのは、サラの強さなのだろうか。

 だが、仏の顔も、既に鬼へと変わっている。

 そのような我儘が許される刻限は、既に過ぎ去っていたのだ。

 

「……もう一度言わなければ駄目か?」

 

「い、いえ! 申し訳ありませんでした!」

 

 静かに、本当に静かに響き渡るリーシャの声。

 それは、明確な最後通告だった。

 『これ以上、自分が言葉を発しては駄目だ』と感じたサラは、勢い良く立ち上がり、リーシャの胸で眠りそうになっているメルエを連れて、大急ぎで部屋へと戻って行く。

 台風のように過ぎ去った災難は、厨房に料理人の溜息を残して行った。

 

 

 

 

 そのような一連の出来事があった事は、昨晩の食事時にリーシャによってカミュへ語られた。

 船員達も揃っての大所帯の食事は、リーシャの作った料理に彩られ、楽しい物となったのだが、食事の時間が遅れた理由として、リーシャはそれを語ってみせたのだ。

 その頃には、リーシャも笑顔で語っていた事から、既に笑い話へと昇華している事は明白であり、船員達もその話を聞いて大声で笑い合う事となる。

 残るは顔を真っ赤に染め上げたサラだけ。

 サラの被害を、その身体で受けたのはメルエだけであったのだが、そんなメルエもリーシャの料理を笑顔で食しており、サラが気後れする理由もなかったのだろう。最後の方では開き直り、『初めてなのだから、仕方がない』という理由を全員に叫ぶ事となった。

 

「まぁ、昨日の事はもう良いだろう? メルエ、久しぶりにトルドと会えるぞ。あのメアリという暴力女が、しっかり約束を守ったのかも確かめないといけないからな」

 

「…………ん…………」

 

 振り向いて強がりを言うサラに溜息を吐き出したリーシャは、その話を打ち切り、次の目的地の話題を持ち出す。

 その言葉の中にある内容を汲み取ったメルエは、笑みを消し、真剣な表情で頷きを返した。

 それは、リーシャとメルエの中の共通認識なのかもしれない。

 

「その呼び名を、アンタから告げられる人間がこの世に居るのか?」

 

「なんだと!」

 

 リーシャの発言の中にあった単語を聞き、カミュは心底不思議そうに首を捻る。彼からしてみれば、その呼び名を欲しい儘にしているのは、この女性戦士なのかもしれない。

 嫌味でもなく、馬鹿にしている様子もないカミュの姿に、リーシャは血相を変えた。

 そんな二人のやり取りに噴き出すサラとメルエ。

 久しく見ていなかった、四人のやり取りが、朝早いランシールの村で繰り広げられていた。

 

 

 

 試練を終え、再び歩み始めた一行。

 次の目的地は、サマンオサ。

 『変化の杖』と呼ばれる宝物がある国。

 そして、アリアハンの英雄オルテガと並び称される『勇者』が居る国。

 

 そこへ向かう前に、彼等は昔の縁を辿る事となる。

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとございます。

本来であれば、必要のない回なのかもしれませんが、詳しくは活動報告で記させて頂きます。
ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。

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