新訳 そして伝説へ・・・   作:久慈川 京

122 / 277
~幕間~【スーの村周辺】

 

 

 少女は脇目も振らずに駆けて行く。

 門を抜け、目の前に広がる平原を南に向かって走り行く。

 小さな足は思うように動かず、何度か絡まり、前へと倒れ込んだ。

 転がる木だけになった杖を拾い上げ、それでも彼女は走った。

 

 どれ程走っただろう。幼い彼女の足で全力の走りをしたとしても、それ程の距離を移動出来た訳ではないだろう。それでも彼女の目の前には木々が立ち並ぶ森が出現していた。

 陽は西の空へと移動を始め、もう数刻もすれば、大地へと落ち始める頃である。彼女は周囲を確認するように視線を向け、恐る恐る森の中へと入って行った。

 

 

 

 

「サラ、メルエは、どちらに向かった!?」

 

 装備を整えたリーシャが宿屋の外に出て叫び声を上げる。こちらも装備品などを整えたサラが、魔法の法衣の裾を翻して宿の外へと飛び出して来た。二人は、宿屋の外に出て、周囲を見渡すが、既にメルエの姿があろう筈がない。故にこそ、リーシャはサラへその行方を問いかけたのだが、それが解らないから、サラもリーシャを呼びに戻ったのだ。

 

「解りません」

 

「しかし、闇雲に探す訳にも行かないだろう!? メルエの行く先は見当が付かないのか?」

 

 目を伏せて言葉を返すサラを振り返ったリーシャは、尚更声を荒げる。リーシャにもそれが無意味な行為である事は解っていた。サラの責任ではない。だが、それ程までにリーシャの心を搔き乱すような出来事が起きているのだ。

 リーシャの心に余裕はなく、既にその手には鉄の斧を握り締めている。万が一、メルエを誘拐した人間などがいた日には、その人間はこの世での生を手放してしまう事は間違いないだろう。

 

「闇雲に探すしかないのです! 今回はカミュ様の時とは違います。カミュ様は、リーシャさんの言う通り、私達を探してくれている筈。だからこそ、私達が一か所で待っていれば、必ず私達を見つけてくれます。しかし、メルエは……メルエは私達が見つけてあげなければ!」

 

 完全に我を失っているリーシャを冷静に戻す程の声量でサラが言葉を発した。驚いた表情を浮かべるリーシャへ、サラは先程以上に厳しい表情を作り、村の出口に向かって駆け出す。

 これ程広大な大地の中で、メルエという幼い少女を探し出す事の難しさをサラが理解していない訳がない。リーシャは、改めて現状の厳しさを痛感する事になった。

 

「まず何処から行くつもりだ!」

 

「これ程に小さな村です。メルエのような幼子が村の中を歩いていれば、必ず目に入る筈。それが、首を傾げる者ばかりとなれば、村の外に出たのは間違いありません。メルエがこの村から船着き場までの道しか知らない以上、その道を辿るしか方法はないでしょう」

 

 サラの言う通り、村の人間に軽く話を聞いてみたのだが、ほとんどの人間がメルエの姿を見てはいなかった。皆一様に首を傾げるだけであったのだ。故に、サラは『メルエは村の中を歩いていない』という結論に達する。そして、最後に話を聞いた村人の聞き取り辛い言葉の中にあった『走って行った』という言葉で、メルエが村の外に出て行った事を確信したのだ。

 

「今のメルエは魔法を行使出来ません。いえ……本当は行使出来るのですが、メルエの心がそれを拒んでいます。どちらにせよ、今のメルエには魔物に対応出来る力がない事に変わりありません。私達が見つけてあげなければ……」

 

「くっ……急ぐぞ、サラ!」

 

 村の門を飛び出したサラの言葉は、最後の部分を濁された物だった。その先の言葉は言わなくても理解出来る。今のメルエでは魔物と戦う事は出来ない。魔物と対峙するよりも前に、あの幼い『魔法使い』の心は折れてしまっているのだ。心が折れると言う事は、戦う者達にとって最大の足枷となる。特にメルエのような『魔法使い』にとっては、最重要と言っても過言ではない。

 村を出た二人は、一度遠くを見るように視線を彷徨わせた後、猛然の南西へと走り出した。事態は刻一刻を争う程の状況。それを二人とも理解しているからこそ、表情を険しく変化させ、力の限り走り始めたのだ。

 太陽は真上を過ぎ、西の大地へと帰宅を始めている。もう数刻すれば、この大地は闇の支配が進み、魔物達の活動も活発化して来るだろう。暗闇の中、メルエには道を照らす灯りを灯す手段はない。そのような者を探し出す事が不可能に近い事を知ってはいても、二人は闇雲に探すしか方法はないのだ。

 

「サラの魔法で、メルエの居場所が解る物はないのか?」

 

「そのような都合の良い魔法はありません!」

 

 走りながら、藁をも掴む思いで口にしたリーシャの言葉は、サラの激しい怒声に斬り捨てられた。第一、そのような魔法があれば、自分達がこれ程の期間、カミュと離れている訳がない。すぐにでもカミュの居場所を確定し、自身のいる場所からそこへ向かって飛べば良いのだ。そして、そのような事はリーシャも理解はしているし、自分が発した言葉が不可能な事である事も察してはいる。それでも、何か言わなくては、リーシャ自体の心まで折れてしまいそうなのだ。

 

「手分けをするか!?」

 

「このような場所で手分けをすれば、問題が大きくなるだけです。二人でメルエを探します。私は<ルーラ>で戻れますが、リーシャさんは無理でしょう!?」

 

 闇雲に探すとはいえ、広大な大地。二人で別れて探した方が良いのではないかというリーシャの提案に、サラは即座に首を横に振った。サラの言う通り、リーシャは魔法が行使出来ない。キメラの翼のような道具があれば別だが、あの道具は、今のこの世界では希少価値の高い物であり、リーシャ達は所有しておらず、村で販売もしていない。

 この状況で、メルエをリーシャが発見し、メルエの魔法で帰る事が出来ればまだ良いが、それでもどちらが発見したのかが解らず、もう一方は夜の大地を彷徨う事になるだろう。故に、サラは別れて捜索する事を拒否したのだ。

 船着き場までの間は、ほぼ平原が広がっていた筈。平原をメルエが歩いているのならば、メルエの足で走る距離とリーシャ達の走る距離が違う以上、その姿がいずれ見えて来る筈ともサラは考えていた。だが、万が一、平原の脇に点在する森の中に入ってしまったとしたら、メルエを見つける事が更に難しくなる。要は、その見極め時なのだ。

 メルエが船着き場まで真っ直ぐ向かったと信じ、船着き場を目指して走り続けるか、何処かでその予測も間違っていたと認め、点在する森の中へと入って行くか。サラは再びその決断を迫られていたのだった。

 

 それでも、二人は走るしかない。

 二人が妹として愛する、幼い少女の為に。

 いつも心を和ます笑みをくれる少女の心を救う為に。

 

 

 

 

 

 森の中は、太陽の光も届き難く、薄暗い。そんな薄暗い木々の間を、一人の少女が進んでいた。いつもならば、目を輝かせて聞き入る木々のざわめきや、動物達の鳴き声が、今は恐ろしく聞こえて来る。物音に恐れを抱きながら、彼女は森の奥へと進んで行った。

 踏みしめる大地は、乾いた落ち葉が敷き詰められ、歩く度に乾いた音を立てている。鳥達の羽ばたきに身を竦め、動物達の鳴き声に足が止まる。一人での行動は、幼い少女に『恐怖』を植え付けて行った。

 

「…………カミュ…………」

 

 それでも彼女が村を出た理由。それは、呟いた名を持つ一人の青年の気配を感じたからに他ならない。何を感じたのか、何故感じたのかは、おそらく彼女にも説明出来ないだろう。だが、何故か倒される魔物の断末魔と、その魔物を倒した者の持つ剣の風切り音が聞こえた気がしたのだ。説明は出来ない。ただ、それは彼女にしか感じる事が出来ない物なのかもしれない。

 森を彷徨い歩く幼い少女は、自身の心の中に存在する絶対的な強者を探し続ける。衝動的に村を出たメルエではあったが、そこに確信はないのだ。『そのような気がした』というだけの事であり、本当にカミュという存在を感じた訳ではない。そのような不確かな物であっても、村を飛び出してしまったと言う事実が、メルエの心に余裕がなくなっている事を明確に示していた。

 メルエの心は、限界まで追い詰められているのかもしれない。彼女の傍には母のように姉のように慕うリーシャがおり、姉のように友のように慕うサラがいるにも拘わらずだ。

 今にして思えば、この幼い少女が不安な時、怯えている時、哀しい時は、いつもあの青年のマントの中に隠れていた。青年が魔物と対峙している時は、他の者の腰にしがみ付く事はあったが、必ず青年の背中が見えていたのだ。

 メルエという哀しい生い立ちのある少女に、未来という光を指し示したのは、サラではなくカミュである。メルエを救う事を決めた要因はサラであるが、実際にメルエを救いに来てくれたのはカミュであった。全てを諦め、絶望すらも感じなくなった幼い少女の心を、温かく優しい光で照らし出してくれたのは、カミュなのだ。暗く、前すらも見えない夜道を『とぼとぼ』と歩き続けて来たメルエの未来を静かに照らし出す『月』のように。

 

「…………カミュ…………」

 

 だからこそ、メルエはカミュを探し求める。今のメルエの心は不安によって押し潰されそうになっていた。それは、怪我や病気の為ではない。ましてや、魔物の脅威の為でもない。メルエという少女の存在意義に係わる程に重大な、彼女自身への不安である。

 暗闇が支配する絶望の底へ落とされたメルエは、静かで優しい光を探し求める。太陽のように激しい光ではない。誰しもが照らし出され、逃げる場所も無い程の眩しい光でもない。静かで、自分だけを照らしてくれているような優しい光。その光を求め、メルエは歩き続ける。

 一心不乱に彷徨い続けるメルエの瞳には、『怯え』の色が濃く刻まれていた。甘えと我儘を知った幼き少女は、その感情を吐き出せる相手を知り、そして依存する。まるで、自分の居場所はそこにしかないかのように。その場所でしか生きられないとでも言うように。

 だが、それは仕方のない事なのかもしれない。彼女を照らし出してくれた光は、常に暖かく、優しかった。どんな時も、どのような状況であろうとも、必ず彼女を救い出してくれる。叱られた事もあった。突き放された事もあった。それでも、最後には優しく小さな笑みを彼女に向けてくれたのだ。

 リーシャやサラの浮かべる笑みとは異なるそれは、メルエの心を解放し、広い世界へと羽ばたかせてくれる。それは、カミュという『勇者』が持つ力なのかもしれない。それは、カミュという男性が持つ父性なのかもしれない。いずれにしても、喜びを知らずに育った幼い少女に、歓喜という感情を蘇らせた事だけは事実である。

 喜びを知った人形は、愛情という肥料を与えられ、心という花を咲かせる。心を持った人形は、既に人形ではなく、『人』となって行った。

 

「クエェェェ!」

 

「…………!!…………」

 

 森を彷徨う内に、いつの間にか陽は陰っていた。元々陽の光が届き難い森の中は、先程までよりも更にその薄暗さを増し、メルエの瞳に映る物影も濃くなって行く。それでも歩き続けていたメルエの目の前に、二体の魔物が現れた。以前にトルドが開拓する町からの帰り道で遭遇した事のある魔物。大きな頭部が細長い脚の上に乗っているような魔物がメルエの行く手を塞ぐように、巨大な嘴を広げていた。

 

「クェ! クエェェ!」

 

 アカイライと呼ばれる鳥頭の魔物は、逃げようと横へ移動したメルエに合わせて身体を動かし、再び雄叫びのような鳴き声を上げる。その雄叫びは、不安と恐怖に圧し潰されそうになっているメルエの心を折るのに充分な脅威を誇っていた。

 木だけとなった杖を胸に抱き締めたメルエは、雄叫びに身体を跳ね上げ、眉を下げて瞳に涙を溜め始める。既に、この幼い『魔法使い』の戦意は、露と共に消えていた。

 

「…………うぅぅ………ぐずっ…………」

 

 以前に遭遇した際は、この幼い『魔法使い』が行使するマホカンタによって、魔物が行使する魔法から仲間達は護られた。だが、今の少女には、その面影は微塵も無い。瞳に溜めた涙を地面に落とさないように鼻を啜る事しか出来ない。救いを求めるように周囲に視線を送るが、一人で飛び出して来てしまった彼女の周りを護る者など誰もいなかった。

 今のメルエには、魔法自体が行使出来ないのだ。いや、正確に言えば、メルエの心が行使出来る状態にないのだった。

 魔法とは神秘であり、その行使が出来る者は、魔法力という者を有している者だけである。魔法力とは、『精神力』とも言い換える事が出来る。この世に生まれ落ちた時からその者が持ち得る力。それは、その者の精神に宿る力であるが故に、その心が乱れれば、統制が利かなくなるのだ。

 『魔法使い』や『僧侶』にとって、心の成長という物は、自身の成長の中でも極めて重要な部類に入る。勿論、魔法を行使する事の出来ない『戦士』や『武闘家』などに精神力がないとは言わない。要は、それを表に出す事が出来るかどうかの違い。『武闘家』などは、『魔法使い』や『僧侶』が魔法の行使に使う魔法力の原型を拳に宿し、魔物と戦っている者もいるだろう。それは『戦士』も同様である。

 全ての生命の源である精神力という物を制御する筈の心が、今のメルエは起動していないのだ。それは、メルエのような『魔法使い』にとって、致命的な欠陥を持ってしまった事に他ならない。魔法が行使出来ない『魔法使い』は戦闘で役には立たない。成人した男性魔法使いであれば、軽めの武器を装備し、自身が逃げる時間ぐらいは稼げるかもしれないが、幼いメルエにそれを期待する方が無理であろう。

 そして、今のメルエが手にしている物は、只の木の棒と言っても過言ではない。ひのきの棒という攻撃用に作られた武器でもない木の棒。それで、魔物を退ける事など出来はしないのだ。

 

「クエェェェェ!」

 

「…………!!…………」

 

 打つ手無しのメルエは、二体のアカイライの間を動き回る事しか出来ない。そして、遂にアカイライの鋭い嘴がメルエに襲いかかった。左に移動しようとするメルエに襲いかかった嘴は、メルエの宝物の一つであるとんがり帽子を弾き、地面へと落としてしまう。

 抉るように突き出された嘴に引っかけられた帽子は、回転しながら花弁を散らして行く。それは、メルエの唯一の友が作ってくれた花冠の花弁。数枚の花弁がメルエの手元に落ちて来た。帽子に装着された花冠は未だに顕在ではあるが、大事な友との約束の証を傷つけられたメルエの瞳に怒りの炎が宿る。

 

「…………うぅぅ…………」

 

 しかし、メルエは唸り声を上げてアカイライを睨みつける事しか出来ない。それ程に、今のメルエの心は病んでいるのだ。杖を振り上げる事は出来ない。自身の指から魔法を行使する自信も無い。怒りは覚えるが、それを超える程の不安と恐怖が胸を支配している。もはや、メルエに成す術はないのだ。

 

「クェ!」

 

 再び襲いかかるアカイライの嘴。

 引き裂かれる布と、飛び散る鮮血。

 苦痛の叫びと、歓喜の雄叫び。

 

 メルエの左腕を護っていた服の一部は切り裂かれ、肉を切り裂き、赤い血が噴き出す。痛みに堪えられず、苦悶の叫びを上げたメルエは、その場に倒れ伏した。勝ち誇ったような叫び声を上げた二体のアカイライは、倒れたメルエの小さな身体を取り囲むように覗き込む。ゆっくりと、その柔らかな肉を啄むように下げられた嘴が、メルエの着ている衣服を引っ張り上げた。

 メルエの着用しているアンの服は、みかわしの服と同じ生地で出来ている。だからこそ、アカイライの攻撃から致命傷を避ける事が出来たのだ。だが、この状況になってしまえば、その効力など皆無。

 メルエが旅を続けて来た中で、彼女が怪我を負った事など、一度たりともない。自身の行使した魔法の余波で火傷を負った事はあるが、魔物から受けた傷など一つも無いのだ。それは、常に彼女を護っていた三人の保護者の存在があったからこそ。メルエが傷つく事を許さず、メルエの命を最優先に考えていた者。メルエに光を教えた『勇者』。メルエに愛を教えた『戦士』。そして、メルエに心を教えた『僧侶』。

 いや、もう一人だけ存在した。メルエを傷つけ、メルエを疎み、メルエを売り払った者。そして、メルエを見つけ、メルエを想い、メルエを庇った者。

 そんなメルエだけを見て来た者達は、今はいない。アカイライの巨大な鋭い嘴が何度もメルエの身体を突く中、『不安』が『恐怖』と『絶望』に変わったメルエの瞳を涙が満ちて行く。生まれて初めて味わった『幸せ』は、生まれて初めて味わった『絶望』によって打ち砕かれる。『諦め』でも『達観』でもない、胸を締め付けるような感情は、メルエの心を更に壊して行った。

 

「…………ぐずっ………カミュ…………」

 

 少女の呼びかけに応える者はいない。溢れ出した涙は地面を濡らし、抱き締めた杖をも濡らして行く。もはや抵抗する事はないと理解したのか、アカイライがその嘴を勢い良く振り上げ、地面に横たわる少女の身体に突き刺すように振り下ろされた。

 鋭い嘴は幼い少女の肉など容易く突き破り、その命をも奪ってしまうだろう。止まったように緩やかに流れる時。自身へ向かって落ちて来る嘴を見たメルエは、恐怖と絶望の中、その瞳をゆっくりと閉じて行く。

 

 まるで、全てを諦めてしまったかのように。

 まるで、自身の命が尽きる事を受け入れるかのように。

 その胸に襲いかかる恐怖と絶望から解放される事を願うかのように。

 

 だが、この少女は確かに愛されていた。それは、『精霊ルビス』という全世界の信仰の対象となる者にではなく、その上に立つ全知全能の神からでもない。それは、彼女に光と愛と心を教えてくれた者達。彼女の幸せと笑みを護ろうとする者達。そんな、常にこの幼き少女を見守って来た者に愛されていたのだ。

 

「アストロン」

 

 絶望に壊れかけたメルエの心に、懐かしい声が響き渡る。杖を抱き締め、瞳を瞑ってしまっていたメルエは、その発信源を見ようと瞳を開けた。

 その声は、明確な呪文の詠唱を紡ぎ出している。その呪文は、この世界でたった一人しか唱える事の出来ない魔法。後の世に英雄と称される程の器量を有した者しか契約は出来ず、人々が『勇者』と称する者しか行使出来ない魔法。それを紡ぎ出した人物は、メルエが心より願い、心より欲した者。

 顔を動かそうとしたメルエの身体が徐々に、その色を変化させ、意識を刈り取って行く。何とか視界の端にその人物をメルエが捉えた時、メルエの意識は途絶えた。

 

「……誰に向けて牙を剥いているつもりだ?」

 

 鉄となったメルエにアカイライ如きの嘴は意味を成さない。乾いた音を立て、アカイライの嘴がひび割れた。痛みを叫ぶように顔を上げ、雄叫びを上げるが、その雄叫びは突如として現れた青年の振るった剣撃によって、強制的に遮られた。『ごとり』という重い音を立てて地面へと落ちたアカイライの頭部に驚愕の表情がこびりついている。それ程に意外な一撃だったのであろう。

 

「クエェェェ」

 

 一体の同朋が一瞬で斬り伏せられた事に動揺する事無く、生き残ったアカイライが青年の胴目掛けて嘴を突き出す。青年は不意を突かれた様子も無く、その嘴を左腕に装着している鉄製の盾で弾き飛ばし、無造作に右腕の剣を振るった。

 振るわれた両刃の剣は、まるで吸い込まれるようにアカイライの足を刈り取り、体液と雄叫びを噴き上げ、アカイライの鳥足が宙を舞う。地面に倒れたアカイライは激痛に叫び声を上げ、憎しみを込めた視線を青年へと向けるが、そこで目に映った青年の瞳を見て、瞬時に怯えの色を瞳に宿した。

 

「獲物と勘違いをした自らを恨むのだな……」

 

「クケェ―――――――」

 

 冷たい瞳を向けたまま、言葉を発した青年は、その手に持った剣を振り上げる。その時、『恐怖』という感情に支配されたアカイライは、自身が行使出来る唯一の魔法を行使した。

 先程までの鳴き声とは違う雄叫びを上げたアカイライの周囲の風が、魔物の支配下に置かれる。巻き起こる風は、剣を振り上げていた青年目掛けて、真空の刃となって襲いかかった……筈だった。

 

「ふん!」

 

 しかし、アカイライが行使したバギという魔法が造り出す真空の刃は、青年が振り下ろした剣によって、逆に斬り裂かれる事となる。斬り裂かれたと同時に霧散して行く風。それは、アカイライという魔物の未来を示していた。

 最早足を失い、動く事の出来ないアカイライに成す術はない。真空を斬り裂いた勢いをそのままに、青年は魔物の生命の元を断つ一撃を放つ。深々と刺し込まれた剣は、魔物から体液という命の源を奪い、その灯火を吹き消して行った。

 

「……ふぅ……」

 

 軽く一息を吐き出した青年は、剣を一度大きく振い、体液を地面へと飛ばして行く。そのまま背中の鞘に納め、地面に横たわる鉄像に近寄って行った。

 鉄色に変わり果てた幼い少女の髪の部分を優しく撫でた青年は、小さな笑みを浮かべた後、周囲を見渡すように視線を送る。しかし、彼が求める者達がいないのか、怪訝な表情な浮かべた後、少女の傍に座り込んだ。

 

 

 

 

 

 太陽が完全に西の空へと沈んでしまった頃、メルエが入り込んだ森の中は完全な闇に閉ざされていた。その中で一際目立つ灯りが一つ。赤々と燃える焚き火が、真っ黒く染まった空へ、白い煙を悠々と流している。その焚き火へ薪をくべる人影とその人影の傍で横になる小さな影だけが映っていた。

 メルエは、極度の緊張と、極度の不安、そして初めて感じた絶望感の疲労で、今は眠りについている。その寝顔は、村の宿屋の花壇に座り込んでいた時のような物ではなく、安心しきった安らかな物。その原因は、彼女が意識を断つその瞬間に見た、待ち望んでいた者の顔なのだろう。

 故に、メルエは何の心配もしていないのだ。魔物からの脅威の不安も無く、自身が道に迷う心配も無い。ただ、その者の纏うマントの裾を握り、笑顔を作っていれば良い。そうメルエに思わせる程の絶対的な何かを、火に薪を入れ続ける青年は有していた。

 

「……あの馬鹿達は、何をしている」

 

 そんな青年は、燃え盛る炎を眺めながら、一人小さく呟きを洩らし始める。幼い少女が常に共にいる筈の者達が傍にいない事への苛立ちなのだろう。だが、そこまで洩らした青年は、少し考えるような素振りを見せた後、横で眠る幼い少女の衣服や髪の毛を触り、何かを確認するように安堵の溜息を洩らした。

 少女の髪は油と埃にまみれている訳ではない。出会った頃のように色が変わる程に汚れが付着している訳でもない。その顔はどこかやつれてはいるが、垢や泥で汚れている物でもない。それは、少女の傍で共に旅する者がいた事を示していた。

 そんな安堵の溜息が虚空へと消え、夜空に輝く大きな月が木々の隙間を縫って少女を照らし出した時、青年の耳に懐かしい声が聞こえて来る。

 

「………エ………メル………」

 

 何処か遠くから響くような声は、青年の傍で眠る少女の名を叫んでいるようにも聞こえた。既に森の中に入っているのだろう。叫ぶ声は、徐々にその声量を増し、着実にこちらへ近付いて来ている事が解る。青年は、一つ大きな溜息を吐き出し、再び火に薪をくべた。

 

 夜風は優しく炎を揺らしている。

 雲一つない空からは、大きな月が優しい光を注いでいた。

 安らかに眠る少女を二つの『月』が優しい光で照らし出す。

 少女のささやかな幸せを見守るように。

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

今回はかなり短めになってしまいました。
もう少し、この出会いは劇的な物にした方が良かったかなとも思うのですが、この方が彼ららしいかなとも思いまして。
次話からは、ようやく四人が再度終結し、新たな旅立ちとなります。
第十章はもう数話あると思います。

ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。