~幕間~【ランシール近郊海域】
<ジパング>の地を離れ数日が経過したが、メルエの瞳に映る景色は、未だに波打つ海原だけであった。
目指す場所は<ランシール>。
滅びし村にて、『最後のカギ』という物の手掛かりとして告げられた場所である。
「…………」
「メルエ、いくら見ていても海しか見えないぞ?」
船が出港してから数日、リーシャの目も海しか捉える事は出来なかった。それでも、毎日メルエは木の箱の上へ登り、海原を眺めている。
何がそれ程に楽しいのか、メルエの顔に浮かんでいるのは満面の笑み。現に今、リーシャの言葉に振り返ったメルエの顔もまた、花咲くような笑顔であった。
「天気も少し悪くなって来た。メルエはサラと共に船室に入っていろ」
「…………いや…………」
リーシャの言葉通り、先程まで暖かな光を落としていた太陽は厚い雲によって隠れ、船の上に影が差し始めていた。しかし、そのようなリーシャの忠告にも、メルエは不満そうに首を横に振る。
こうなってしまっては、メルエが言う事を聞かない事を知っているリーシャは、軽い溜息を吐き出した。
「……うっ……おぇ……」
再び海を眺め始めたメルエから視線を移したリーシャは、すぐ横で座り込んでしまっているサラを見て、もう一度大きな溜息を吐き出す。<ジパング>を離れて、既に数日が経過しており、常に揺れ動く船上で生活をする事は、サラの体力を着実に蝕んでいたのだ。
「……サラも具合が悪いのであれば、船室に移動したらどうだ?」
「……うっ……い、いえ……魔物が出て来た時に、回復呪文が……ひ、必要だと思いますので……おぇ……」
『そのような状況では、例え居たとしても役には立たないだろう?』という言葉を、リーシャはどうにか飲み込んだ。
彼女にとっては、自身の使命にも近い役割と考えているのだろう。故に、目が回るような状況の中、なんとかこの場所に留まっているのだ。
「……カミュからも何とか言ってやってくれ」
「……諦めろ……」
強情を張る二人に溜息を吐いたリーシャは、カミュへと救いを求めるが、返って来た答えは、とても簡素な物だった。そんなカミュの素っ気ない態度に、リーシャは怒りよりも呆れを感じ、再び大きな溜息を吐き出すのであった。
その内、太陽だけではなく、空全体を厚い雲が覆い始め、暗い闇が周囲を支配して行った。
空が黒く変わると同時に、大粒の滴が地へと降り注いで来る。その勢いは増し、甲板を瞬時に濡らして行った。
「降り始めたぞ! メルエ、いい加減にこちらへ来い!」
「…………ん…………」
自分の顔に当たり始めた雨に、ようやくメルエが動き始めた。
雨と同時に吹き出した風は、波を高くうねらせ、帆に激しく衝突してマストを大きく撓らせる。船の上は一気に慌ただしくなって行った。
「一度、帆をたため! マストが折れちまうぞ!」
頭目の声が響き、それに応える船員達の叫びが響き渡る。船の甲板では船員達が右往左往を繰り返し、その雰囲気に怯え始めたメルエは、リーシャの腰にしがみ付いてしまった。
海には、先程までメルエが笑顔で見つめていた優しさは欠片もない。激しく船へとぶつかる波音が、メルエを一層怯えさせていた。
<ジパング>を出港し、未だに陸地が見える場所で次の目的地の確認をする頭目の言葉が、ある騒動を引き起こした。それは<ランシール>へ向かうつもりだと語ったカミュへと告げられたリーシャの言葉から始まる。
リーシャが告げた村の名は、カミュやサラも聞き覚えのある村の名前。
「<スー>? <スー>と言えば、遙か東にある大陸へ向かわなければならないぞ?……そこまで行くのであれば、最低でも数ヶ月はかかる」
「……数ヶ月……」
カミュ達の旅は、急げばどうなるというような物ではない。しかし、世界中が『魔物』の脅威に怯え、何時この世界が『魔王』の力によって消え去るか解らない現状では、のんびりと旅をする事が出来ないのも事実なのだ。
「……それ程の時間を費やす訳にはいかないな……」
「しかし、あの老人は<スー>へ行ってみろと言ったぞ?」
軽い溜息を吐き出したカミュへ、即座にリーシャが反論を向けた。本来であれば、目的地を決めるのはカミュの役目である。その事に関しては、リーシャもサラも疑問に感じた事はなく、ましてや異論を唱える事もなかった。
「……『<スー>へ行ってみろ』ではなく、『<スー>へ立ち寄ったならば』という言葉だった筈だ……」
「そうか?……もしかすると、<スー>には重要な物があるのかもしれないだろう?」
あの場所に居た老人が話した言葉は、かなり訛りが酷く、聞き取り難い物であった。故に、それぞれの感じ方によって、受けた印象も変わって来るのだ。
だが、それが理解できたとしても、リーシャの提案は簡単に受け入れる事が出来る物ではなかった。
「しかし、リーシャさん……数ヶ月も掛かるのであれば……」
「確かに、私達の旅は時間が限られている……しかし、『急がば回れ』という言葉もあるだろう?」
時間を気にするサラの忠告は、アリアハンに古くから伝わる格言によって斬り捨てられた。驚きの表情を浮かべるサラの胸中は、リーシャがその格言を知っていた事への驚きと、それをこの場面で告げるリーシャへの驚きに彩られている。
「……数ヶ月の時間を無駄には出来ない。まずは近場にある<ランシール>へ向かう……」
「うっ……そうか」
カミュの強い否定に、リーシャも自分の主張を取り下げざるを得なかった。リーシャにしても、無駄な時間がない事は理解しているのだ。
それでも、リーシャの中の何かが<スー>という村に引っ掛かりを覚えていた。
そのような経緯もあり、ようやく定まった一行の進路は、今まさに大荒れの様相を見せ始めていた。振り出した雨の滴は大粒に変わり、甲板を叩きつけるような大きな音を立てている。
「メルエ! 船室へ戻っていろ!」
もはや防ぎようもなくなった雨をまともに受けている小さな身体は、リーシャという傘の保護を求めて、その腰に力強くしがみ付いている。未だに風がそこまで強くなっていない事から、船が大きく揺れる事はないが、船員へと次々と指示を出す船頭の姿を見れば、それも時間の問題だと思われた。
「…………いや…………」
リーシャの指示に、メルエは小さく首を横に振る。いつもならば、素直に指示に従い、サラと共に船室へ入って行くメルエが強情に首を振る姿に、リーシャは驚きの瞳を向ける。
しかし、リーシャは心の何処かで、そのメルエの行動の原理に気付いていたのかもしれない。
「風が出て来たぞ! 帆をたため!」
メルエを宥めようと口を開きかけたリーシャの耳に船員達の声が響く。その言葉通り、先程まで真っ直ぐに甲板へと降り注いでいた雨の滴が、横殴りの者へと変化している。厚い雲が広がり、太陽の光を遮断し、空を真黒に染め上げていた。
「メルエ、私と一緒にお部屋に戻りましょう?」
「……いや……」
サラがメルエへと近付き促すが、そのサラの言葉にもメルエは首を横へ振ったのだ。サラは首を振っているメルエの眉が下がっている事に気が付き、その姿に何かを感じ取る。
最近、幼い我儘を覚えたメルエは、カミュ達三人に甘える事は多くなった。しかし、心の奥底で、未だに自分が置いて行かれる事への恐怖を持つ為なのか、三人を本当に困らせる事はしない。故に、今のメルエの状況は、三人を困らせたい為の物でも、単なる我儘でもないのだろう。
そこで初めて、サラは周囲を確認するように見渡した。
「……メルエ……何かあるのですか?」
「…………ん…………」
確認するようなサラの言葉を聞き、メルエの首が縦に振られる。それはサラの懸念を現実の物へと変えて行った。
メルエは不思議な感覚を持っている。魔物の襲来に気が付くのは、大抵の場合、先頭を歩くカミュであるが、四人が固まって行動している時だけは、魔物の気配を真っ先に感じるのはメルエなのだ。
「カミュ様!」
サラはメルエが感じている物が魔物の襲来である事を悟り、周囲の者達へ視線を巡らせているカミュへ声を上げた。しかし、風と雨が強まって来ている甲板の上では、サラの叫び自体が無情にも搔き消されてしまう。
「うわぁぁぁぁぁ!」
その時、雨と風をも切り裂くような声が甲板に響き渡った。声の主は、甲板の先頭で作業していた船員達。その中の一人は既に甲板へと腰を落としている。腰が抜けてしまったのか、海の中から現れた物を見つめながら必死に手を動かしているが、移動する事は出来てはいない。
「メルエ! 腕を離してくれ!」
船首の先の海から出現したそれを見たリーシャは、未だに腰にしがみついているメルエを引き剝がそうとする。現状を把握したサラも、メルエを促すようにその手を取った。
メルエは、サラに素直に従い、リーシャの手を離す。もしかすると、以前に目の前の魔物と共に出現した物への軽いトラウマが残っていたのかもしれない。
船の進路を遮るように出現した魔物。それは、船出の際に一度遭遇した事のある魔物だった。
カミュ達が乗る巨大な船をも飲み込んでしまうような程の巨体。
船に撒き付き、握り潰してしまいそうな程に長く、粘着性のある足。
「<大王イカ>だぁ!」
近海を制する魔物であり、幾つもの船を沈めて来た<大王イカ>が二体。その巨体から伸びる足が船を覆い、甲板に降り注ぐ雨をも遮っていた。
この巨大な<いか>は、船乗り達の間では最大の脅威となっている。船員達でも戦闘が可能な<マーマン>や<しびれくらげ>とは違い、出会ったが最後、海の藻屑となる事が決定事項となってしまうのだ。
『魔王バラモス』の出現と共に現れたこの巨大な魔物が、航海を不可能にさせたと言っても過言ではない。
「カミュ!」
「……わかっている……下がっていろ」
一度空を見上げたリーシャは、何かを期待するようにカミュへと視線を送り、その視線を受けたカミュは大きく一つ頷いた。
カミュが一歩前に踏み出した事を確認した船員達が、腰を抜かしている船員を担ぎ、大慌てでカミュの後ろへと駆け込んで来る。彼らもまた、これから何が起こるのかを理解しているのだ。
サラもまた、カミュの背中を見て、何かを感じたように顔を上空へと上げる。見上げた空は、厚く黒い雲が広がり、その中には、微かな光が見え隠れしていた。
この状況も以前と同じ。
『英雄』と、後の世に名を残す者だけが唱える事の出来る呪文の行使に適した環境なのだ。
メルエを胸に抱きながら思考の渦へと落ち始めたサラの耳に、凄まじいまでの雷鳴の轟きが飛び込んで来た。その轟音が、カミュという『勇者』が特有の呪文である<ライデイン>を唱えた事を示している。
光によって視界が奪われ、雷鳴によって音が失われた。
「グモォォォォ……」
カミュの唱えた<ライデイン>は、上空の厚い雲から二本の光の矢を使役する。カミュの呼び掛けに応えた『天の怒り』は、真っ直ぐに<大王イカ>の巨体を貫き、その生命を根こそぎ奪って行った。
『あの魔法は、雷を使役する物であって、支配する物ではない』
黒焦げになり、海へと沈んで行く二体の<大王イカ>を呆然と眺めながら、サラは先日のカミュの言葉を思い出していた。
黒い雲が空を覆い、雷がその中を駆け巡る時、<ライデイン>は詠唱が可能だとカミュは告げている。しかし、サラはこの光景を見ている内に、カミュが言う『支配する』呪文も、この世の何処かに存在するのではないかと考え始めていた。
空に雲がなくとも雷雲を呼び出し、強制的に『天の怒り』を落とす魔法。それはもはや、神や精霊に近い能力を有している事になる。
もし、古の『英雄』がそれ程の魔法を習得していたとすれば、その者は世界を制していても可笑しくはない。
「よし! 魔物の脅威も消えた。野郎ども、一気に抜けるぞ!」
「おぉぉぉぉぉ!」
<大王イカ>二体が海へと沈み切った事を確認した頭目が船員達に指示を出し、その指示に船員達が応じる。荒れ始めた海の波を切り裂くような雄叫びが響き渡った。
船員達が慌ただしく動き始め、船は荒れた大海原を切り進んで行く。
「…………カミュ…………」
リーシャの横で雨に濡れながらも成り行きを見ていたメルエが、カミュの腰に纏わり付く。雨が滴り落ちているメルエの髪を一撫でしたカミュは、視線をリーシャへと向けた。
「メルエを中に。良く拭いてやってくれ」
「わかった。メルエ、おいで」
「…………ん…………」
先程とは違い、素直に頷いたメルエが、リーシャに手を引かれて船室へと入って行く、魔物という脅威は消えたが、海という脅威は依然健在。しかし、この脅威に対しては、カミュ達に出来る事は何もないのだ。
視線を船員達へ移したカミュは、雨に濡れる事も構わずに船員達の作業を眺めている。その後姿を見ていたサラが、不意にカミュへと近付いて行った。
「カミュ様……あの<ライデイン>の上位魔法という物は、本当に存在する物なのでしょうか?」
サラは、自身の中に芽生え始めている『不安』の正体に気が付いてはいない。それが、その力を有するカミュの行動に対する『不安』ではなく、その力を有してしまったカミュへの『人』の行動へ向けられた物だという事を。
「……わからない……」
「そ、そうですか……」
端的な回答を受け、サラは顔を俯かせる。実際のところ、カミュでさえその存在自体に確証はないのだ。
『
「……例え存在していたとしても、それ程に強力な物が『書物』として残っている可能性はないだろうな……」
「そ、そうですね。もし、万が一邪悪な心を持った者が習得してしまえば、恐ろしい事になると思います」
カミュの言葉通り、もし<ライデイン>の上位魔法が存在していたとしたら、古の『英雄』と云われる者が、その魔法を『書物』という方法で残すだろうか。
選ばれた者だけが契約を果たし、行使を可能とする物ではあるが、世界を制する程の力は必ず災いの元となる。それを予測出来ない者を『英雄』とは呼ばないだろう。
実際、過去数百年、数千年の『人』の歴史の中で、『英雄』や『勇者』と謳われる者は数多く存在してはいたが、その中で世界を手中に収める程の能力を有していた者は、記録には残っていなかった。
それは、サラの言うように、『邪悪な心』を持った者が有する可能性を考え、取得した『英雄』がその強大な力を隠蔽した為なのか、それとも、只単純にその能力を有する資格を持つ『英雄』が存在しなかったからなのかは解らない。
ただ、今までの『英雄』と呼ばれる人間の中で、その能力を持って世界を制するという願望を持った者が存在しなかった事は確かであろう。
そして、サラの中でカミュという『勇者』もまた、そのような『邪悪な心』を有さない者の一人であったのだ。
「ランシールまでは、まだ数週間はかかるぞ。お嬢さんも、具合が悪くなる前に船室へ戻っていな」
「ふぇ!? あ……おうぇ」
戦闘からその後の思考までの流れの中、緊張感を維持して来たサラであったが、立ち尽くす二人を気遣う頭目の言葉に船が揺れ動いている事を思い出し、途端に口元を押さえた。
甲板には、未だに大粒の雨が降り注ぎ、海原は大きくうねっている。その波の上に浮かんでいる船もまた、右へ左へと傾きを繰り返していた。
「船はまだまだ揺れるぞ。早く船室に戻って、大人しく寝ているこった」
「う……うぇ……は、はい」
サラの姿を見て苦笑を浮かべた頭目は船室への移動を命じ、サラはその指示に大人しく従う他なかった。
『ふらふら』と船室へ向かって歩くサラの後姿に、先程までの強さは微塵もない。『賢者』と謳われる者の思考の続きは、後日へと回される事となる。
ジパングから真っ直ぐ南へ向かって船を進めて更に数日が経過した。甲板の淵に置いてある木の箱の上に立つメルエの視界にも、未だに海以外の光景は見えては来ない。それでもメルエはいつものように目を輝かせながら海を眺めていた。
「メルエ……よく飽きないな……」
「……アンタに飽きる暇はない筈だが……」
目を輝かせて海を見つめるメルエを溜息混じりに眺めていたリーシャの言葉は、カミュによって遮られた。
カミュの言うとおり、この世界の海は平和な航海が出来る程に穏やかな海ではない。ここまでの航海で、カミュ達は数え切れない程の戦闘を行っているのだ。
「わかっている。だが、船の上にでも現れない限り、私が斧を振るう事は出来ない」
だが、リーシャの言う事も事実。
彼女のような『戦士』は遠隔的な攻撃を持ち合わせていない。弓などを使用する事は出来るであろうが、魔法力を有していないリーシャには海の中の魔物を倒す術はないのだ。そして、魔法を使うと言っても、サラやメルエの持つ灼熱呪文や火炎呪文では船に損害を与えてしまう事を否定できない。
カミュの持つ<ライデイン>や、なんとか範囲を調節できるようになったメルエの<ヒャダルコ>が唯一の有効手段となっていた。
「……大型の魔物が出て来ていない事が、唯一の救いだな……」
「ああ。サラではないが、ルビス様のご加護による物なのかもしれないな」
ここまでの航海で、<大王イカ>のような大型の魔物が出現したのは二度。しかもその時は必ず天候と海が荒れていた。故に、カミュの有する<ライデイン>が行使出来る状況だったのだ。
リーシャの口にした『精霊ルビスの加護』という物には同意する事はないが、カミュもこの航海が幸運に包まれている事だけは理解していた。
「私達がアリアハンを出発して、もう二年近くになる……私達は……いや、なんでもない」
不意に海を眺めるメルエの後姿を遠く見つめていたリーシャが口を開いた。既に一行がアリアハンを出発して一年半が過ぎている。<ランシール>へ着き、そこで情報を集め、次の目的地に着く頃には、二年の月日を超えるだろう。
ここまでの旅路を少し思い返したリーシャは、何かを口にしようとし、それを途中で止めた。
「……進むしかない……」
「!!……そうだな……」
リーシャの心の内にある不安を察したかのように、カミュが呟きを返す。リーシャと同じようにメルエの背中を見つめるカミュの瞳はとても強く、温かな光を宿していた。
それを見たリーシャの顔にゆっくりと表情が戻って行く。
『私達は、本当に<魔王>へ近付いているのだろうか?』
それが、先程リーシャが口にしかけた言葉。
ここまでの旅路で、彼等は様々な事に遭遇し、それに立ち向かって来た。だが、どれも『魔王バラモス』との繋がりを見い出せる物ではなかった。
<ジパング>で遭遇した知識を有した魔物である<ヤマタノオロチ>も、太古から<ジパング>に生息していた魔物であり、『魔王バラモス』と関係を持った物であった訳ではない。故に、リーシャは不安に思ってしまったのだ。
「ん? 二年近くになると言う事は、サラの歳は十九になったのではないか?」
「……」
リーシャの一抹の不安は、カミュという静かな光に照らされる事によって搔き消されて行った。
自分の胸の内にあった不安が簡単な物ではない事をリーシャは理解している。それでも、リーシャの不安は小さくなるだけではなく、跡形もなく消え去った。
その理由は、リーシャにも理解出来ていないだろう。
不安が無くなったリーシャは、自分の言葉の中にあった時間の経過を思い出し、仲間の誕生日に思い至っていた。
その仲間はここにはいない。船酔いと、疲労によって船室で倒れているのだ。サラの船酔いは一向に慣れる様子はなく、陸地も見えずに走り続ける船の揺れに完全に参ってしまっていた。
「それに……メルエと出会ってからも一年以上経っているしな。メルエの誕生日は何時なんだ?」
「……何故、俺がそれを知っていると思う?」
リーシャの問いかけに、カミュは盛大な溜息を吐き出す。確かに、あのロマリア城付近の森でメルエと出会ってから一年は経過している。
彼等三人を結びつける楔のような存在。もし、彼等があの場所でメルエと出会わなければ、彼等がここまで旅を続ける事が出来なかった可能性の方が高いだろう。途中でいがみ合い、お互いを罵り、最悪の場合は殺し合っていたかもしれない。
それ程にあの頃の三人の関係は脆く、儚い物であった。
「よし! 今日は、サラとメルエの誕生祝いをしよう。メルエの誕生日は、私達と出会ったあの日だ。そうと決まれば、私は食事の用意だな」
「お、おい」
自己完結をしたように立ち上がったリーシャに、カミュは驚きの瞳を向ける。まさか、こんな海の上でそのような事を実施するとは思わなかったのだ。
カミュにしても、メルエの誕生祝いをする事に否定的である訳ではない。だが、別段<ランシール>に着いてからでも良い筈なのだ。
「<ジパング>で手に入れた食材を少し譲って貰おう。船の上だからな……豪勢な物は出来ないか……う~ん」
献立を考えているのか、起ち上がったまま少し考える素振りを見せるリーシャを見て、カミュは諦めに近い溜息を吐き出した。
こうなっては、カミュが幾ら何を言っても、リーシャは聞く耳を持たないだろう。それが、彼女の欠点であると共に、長所でもある。それをカミュも理解しているのだ。
「……残りの航海日数を頭目と相談し、食料を使い切るような馬鹿な真似だけはしないでくれ」
「あ、当たり前だ! その位の事は、私も考えている!」
何か不安を煽るようなリーシャの姿を見て、カミュは自分が忠告した事が正しかった事を知る。
彼女は良くも悪くも『真っ直ぐ』な人間なのだ。故に直情的であり、悪く言えば『猪突猛進』の部分も否めない。だが、その分理解し易い。
「私は、厨房に入るからな! 何かあったら、すぐに呼びに来い!」
カミュの疑いの視線を受けたリーシャは、慌てて厨房の方へと歩いて行った。盛大な溜息を吐き出したカミュは、心地良い風を受けて靡く帆へと視線を向ける。
先日の荒れた天候が嘘のように空は晴れ渡り、上空では海鳥が群れを成して飛んでいた。
「サラ、メルエ、おめでとう!」
「おめでとう」
その夜は、海も静かで風も穏やかであった。故に、波は少なく、船の揺れも少ない。サラの表情にも僅かばかりの余裕が生まれ、笑顔を見せている。
船の甲板に大勢が円を囲み、訳が分からないメルエがリーシャの隣に座って、困ったように周囲を見渡していた。
円の中心には、大皿に乗った数多くの料理。リーシャがメルエとサラの為にと腕を振るった物であり、船の上で作ったとも思えない豪勢な料理に、カミュ一行だけではなく、船乗り達も目を輝かせている。
「……この後の航海で、食料がないという事はないのだろうな?」
「ああ、その辺りは心配するな。これだけ大きな船だ。それ相応の食料は入れてあるし、ジパングという場所でも食料を調達した。特に柑橘類は欠かせないからな」
料理を見たカミュが溜息を吐く中、カミュの隣に座っている頭目がその懸念に応えた。
確かに、食料は保存が効く物から、新鮮な物まで様々だ。特に船乗り達は、海が穏やかで手が空いている時に釣りを行ったりして食料を調達していた。一週間、二週間の航海どころか、一月程の航海にも耐えられる積み荷を運ぶ事が出来る船でもあるのだ。
「あ、ありがとうございます」
そんなカミュの懸念の中、ひたすら恐縮したようにサラは頭を下げ続けていた。これ程の人間に祝福された事など、彼女の人生で一度たりともないのだろう。
幼い頃に両親を失い、孤児として教会で暮らしていた。友など出来ず、遊ぶ相手もいない。そんな中、憶えていた自身の誕生日は、いつも一人で祝っていた。
神父は仕事が忙しく、他に祝ってくれる者もいない。いつも、一人ベッドの上で、自身を生んでくれた両親と、自身を護ってくれた『精霊ルビス』へ祈りを捧げる事が彼女の誕生日の風景であったのだ。
「…………???…………」
「メルエは、自分の生まれた日を知らないだろう? だから、私達と出会ったあの日をメルエの誕生日にしようとカミュと話し合ったんだ。メルエがこの世界に生まれてくれた事への感謝と、私達がメルエに出会えた事への感謝を!」
皆が嬉しそうに微笑む姿に自然と笑みを浮かべるメルエではあったが、内容が解らないため、小首を傾げながらリーシャへと視線を向けていた。
その視線を受けたリーシャは柔らかく微笑み、手に持ったグラスを高々と掲げる。それに呼応するように船乗り達がグラスを掲げ、涙を潤ませたサラもまた、メルエに笑顔を向けながらグラスを掲げた。
「……メルエ、おめでとう……」
「…………ん…………」
最後にカミュがグラスを掲げ、メルエへ優しい笑みを浮かべた事で、彼女は自身の幸せに気が付いた。
自分が存在する事を喜んでくれる者達。
カミュ達と出会えた事に感謝しているのは、他でもないメルエ。だが、メルエが感じていた以上に、カミュ達はメルエを愛していた。
その事を理解したメルエは、花咲くような笑顔を浮かべ、小さな手でグラスを掲げた。
「よし! 海も穏やかで、魔物が出て来る気配もない。私がこの船で出来る限りの料理を作ったつもりだ。皆も、大いに食べ、飲み、そしてメルエとサラを祝ってくれ!」
「おお!」
船乗り達の大きな声に、リーシャは笑みを浮かべる。
<ジパング>という土地で死闘を演じた者達の僅かな休息。
笑みを浮かべながら果物を頬張るメルエに、涙を流しながらグラスを傾けるサラ。二人の姿を見ながらリーシャは視線をカミュへと移し、そして今までで一番の微笑みを浮かべる。
そこには優しく微笑む青年の顔。
『勇者』として存在する事を義務付けられた者の人間としての表情があったのだ。
その日は、陽が暮れるまで甲板に笑い声が響いていた。
「カミュ、寝ないのか?」
「……またアンタか……」
昼の喧騒が嘘のように静まり返った甲板は、月光によって照らし出されていた。
その甲板に立つ一人の青年。いつものように空に浮かぶ月を見上げ、静かに佇んでいる。一瞬その姿に見入ってしまったリーシャであったが、意を決して声をかけた。
「眠っておいた方が良いぞ。<ランシール>まではまだ遠い」
船に乗っている時に、カミュは極力眠る事はない。魔物の襲来に備えているという事もそうであろうが、船の上で働く船乗り達を眺めている事が多いのだ。
しかし、今宵は甲板に人影はない。皆、昼の祝いで騒ぎ疲れ眠りに落ちている。唯一、方位磁針を見つめて船の進路を確認している者が見張り台にいるだけである。
「お前は、このパーティーの
「……何度も言うが、
相変わらず月を見上げ続けるカミュに、リーシャは大きな溜息を洩らす。しかし、返事を期待していなかったリーシャは、カミュから予想外の言葉に驚く事となった。
カミュは『何度も言うが』という言葉を発してはいたが、その言葉はリーシャに届いた事は一度もない。初めて聞くカミュの言葉に、リーシャは一瞬言葉を失った。
「な、なに?」
「……俺は、あれ程の笑みを浮かべるメルエを初めて見た。あの僧侶……今は賢者だな……あれが、涙を流しながら微笑んでいたのも、メルエが幸せそうに微笑んでいたのも、原因はアンタだ」
月を見上げていた筈のカミュの瞳は、今はリーシャをしっかりと見つめている。
真っ直ぐなカミュの瞳を受け、リーシャは戸惑ってしまう。これ程に、真っ直ぐなカミュの言葉を受けたのは、ダーマ周辺で自身の在り方に迷っていた時以来であった。
「以前にも話したが、メルエが微笑むのも、あの頭の固い賢者が前へと進むのも、アンタがいればこそだ。
「そ、それは……」
『それはカミュがいたからこそだ』と言おうと口を開けたリーシャは、思わず口を噤んでしまう。目の前に広がる光景に息を飲んでしまったのだ。
それは、彼女にとって信じられない光景。
この二年近くの旅で初めて見る光景だった。
「……ありがとう……」
「カ、カミュ……」
リーシャの目の前には、綺麗に頭を下げるカミュの姿。
カミュから軽い謝礼の言葉を受けた事はある。だが、ここまで素直な感謝を受けたのは初めての事だった。
それが何についての感謝なのかは、正確には解らない。だが、<ジパング>にて、カミュの心に踏み込んでしまっているリーシャに向かって頭を下げる事が意味する物を、リーシャは朧気ながらも理解した。
「……このパーティーは、敵の魔法に惑わされたアンタに全滅させられる恐れもある。そういう意味でも、
「な、なに!?」
しかし、胸の奥が熱くなっていたリーシャは、その熱を瞬時に冷まされてしまう。顔を上げたカミュの口端は、何かを楽しむように上がっていたのだ。
別の熱が徐々に頭へと昇って行くのを感じたリーシャの顔が赤く染まって行く。
静かな夜の海を漂う船の甲板に、闇を切り裂く怒声が響き渡った。
読んで頂き、ありがとうございました。
本当の意味での新章スタートです。
約半年ぶりの更新となるでしょうか……
できるだけ、1週間に1度の更新を心掛けて行きます。
ご意見、ご感想を心よりお待ちしております。