After La+ ジュピトリス・コンフリクト 作:放置アフロ
(エイダ、なんであんな風に変わってしまったんだ? リンはあの子に何をしたんだ?)
マリアの意識は下へと落ち続けた。
(キアもイイヅカさんもバーバラも、誰も救うことができなかった)
周囲は暗すぎて何も感じ取れない。深海に着底した鉛の塊になったような気分だった。
その時、ふっ、とマリアの鼻腔を甘い香りがくすぐった。
(いいえ、あなたはもうあの子を苦界から救ってあげた)
ふと、そちらの方を見遣ると左右に揺れる光が緑の鱗粉を散らしていた。マリアはその甘い香りに、声に何か覚えがあるような気がした。
揺れる光は後ろに結んだ栗毛の先端であった。女性の後姿だった。歩くたびに、馬の尻尾のように規則正しく左右に栗毛を振っていた。
暗闇に唯一輝く。まるで誘導灯のようだった。
(待ってよ)
遠ざかりつつあるシルエットを追いかけ、マリアはその肩に手を伸ばす。
(私は、・・・お前を知っている?)
肩に手を突いたとき。
体が前方に突き飛ばされたように押し出され、女性も暗闇も消え去り、情景が一瞬にして移り変わっていた。かろうじて踏みとどまり、周囲を見渡すと、旧世紀の古い現像写真のようにセピア色に染まる街並みが広がっていた。その中で、通りに面した酒場の看板が照らすピンクや紫の淫靡なネオンの光だけが色彩を演出していた。
夜の盛り場。一階では安物の酒を出すが、二階では別のものを提供する。
「ふざけるなっ!この淫売ババァ!!」
場末のとある酒場の二階から聞き覚えのある声が、通りに佇むマリアまで薄い壁を突き破って到達した。
(そう。1年前に私はエイダとここで出会った)
だが、それは彼女が脳の奥に封印してきた記憶だった。
UC97年某月。木星圏のあるコロニーにて。
《ジュピトリスⅡ》のクルーに突如召集命令が下され、休暇は取り消された。船に残っていたクルーは街に繰り出していた同僚・部下らを呼び戻していた。
ほとんどのクルーは義務として携帯端末を持ち歩いているので、簡単に連絡が着いた。しかし、休暇のときにわざわざ端末を船に『置き忘れる』不心得者も中にはいた。
《ジュピトリスⅡ》整備長のイイヅカもそのひとりである。
「困ったもんだ。イイヅカさんも部下を持つ身なんだから、いつまでも能天気じゃ・・・」
私、マリア・アーシタは舌打ちを漏らしながら通りを早足で進む。
結局イイヅカとは連絡が着かないので、私以下BSS社の人間が直接街に行き、探す事態となった。
少し戸惑ったが、彼が行きそうなところといえばこのネオン街であることから私は足を踏み入れた。うろつく酔客や黒服が卑猥な言葉をかけてゆく。無視してイイヅカの捜索のみに意識を集中した。
(まだ子供じゃないか!?)
脳裏に彼の激昂する思考が入り込んできた。
近いぞ。どこだ?
私は周囲に注意深く視線を送りながら駆けた。
そして、『Candy Girl』という電飾看板が点いた店の前を通り過ぎようとしたとき、
「ふざけるなっ!この淫売ババァ!!」
即座に立ち止まった。ためらわずに店のスイングドア、ー旧世紀の古いフィルム、西部劇に出てきそうな、-を押しやって中に入り、蒼い瞳を走らせる。
丸テーブルに突っ伏しグラスをもてあそぶ酔客。カウンターの内からとがめるようないかつい視線を送る酒場の親父。けだるそうにゆっくりと回る天井扇。羽の枚数まで数えられそうな気がした。まるで、今の私の気持ちそのもののような回り方だ。
すぐに一角の階段が目に止まり二階へと上がる。狭い廊下の端で口論する二人、ー中年以上の女のぜい肉のたっぷり乗った後姿と、M字禿頭の中年アジア男性、-を見つけ、盛大に嘆息した。
「俺は確かに『若い娘が好い』とは言ったが、子供がいいと言った覚えはねぇ!」
「なに言ってんだい!こんなはした金で全うな女が抱けると思ってたのかい!?用は抜ければ、良いんだろう?
その子だって口が使えるんだから」
「てめぇ、こんな年端もいかねぇガキに客を取らせようと、・・・しや、がって、・・・」
廊下の反対端でブッホ社のロゴが胸に入った濃紺のジャンパーに身を包み、同色のベレー帽をくるくる、と指で回してもてあそぶ私の姿を捉えたのだろう。イイヅカの口調は尻すぼみに小さくなっていった。
「よう、おっさん」
「・・・よ、よぅ」
背中を壁に預けた私は剣呑な視線と気軽な呼びかけをイイヅカに送る。さっきまで元気よく口論していた勢いはどこへやら、中年親父はおびえる小動物のようだった。
その様子に顔を疑問符で一杯にした女が私の方を振り返った。体の前面にもたっぷりと肉が乗っかり、どこが顎やら首やら、どこから胸なのか腹なのか、全く判別できない。
(まさに肉塊、だな)
おまけに、太すぎてはっきりとしない首には二重にパールのネックレスを巻きつけている。
(俗物。・・・いや、欲の塊、と言った方がいいか)
嫌悪感が強くなった。
「召集命令だ。お楽しみのとこ悪いが、休暇は取消しだ。《ジュピトリス》に戻れ」
イイヅカの方へ近付くと彼のうろたえる表情が強くなり、久しぶりに愉快になった。
イイヅカの前には半開きのドアがあり、その中をのぞいてやろうとやる気満々だった。
呆然と私の顔を見る女の脇を通り抜けるとき、トイレの芳香剤のような強烈な臭いに私は舌打ちし、女に一瞥をくれた。
(まるで、心の腐敗を隠すような臭いだな)
にらみを受けた女は、まるで『幽霊を見た顔』に変化し、棒のように立ちすくんだ。
歩みを止めぬままドアの前まで来ると、そこに片手を突いた。
「・・・いやいやいや!」
「いやいやいやぁ?」
口元に不気味な笑みを浮かべながらも、蒼い瞳は全く笑っていなかった。無情にドアを押し開ける。
そして、室内の様子を見て、私の手からベレー帽が床に落ちた。
10歳ぐらいの黒髪の少女がいた。
髪と同じ黒色のベビードール、まとうのは透ける扇情的な一枚のみ。天井から吊り下げられた鎖につながった手枷に拘束され、十字架にかけられた神の子のようだった。
ドアが開けられ部屋に差し込む明かりが強くなったからだろう、俯いていた少女がこちらに気付き顔を上げる。
東洋と西洋が入り混じり整った顔立ち。しかし、目はにごり光は宿していない。
そして、ぴったりと合わされた太ももの内側、その谷間の上から赤い液体が、たらり、と下へゆっくりと流れ落ちていた。
私の理性は吹き飛びそうになった。
「お前っ!!」
イイヅカを壁に突き飛ばし、ジャンパーのポケットから小型リボルバーを抜く。銃口を向けなかったのは、かろうじて理性が残っていたからだろう。
「まてまて!やってない!!あのババァとのやり取りを聞いただろうが!?」
「あんた、・・・まさか、・・・」
リボルバーに気付いていないのか? 女は取り憑かれたような目をして、よろよろと向かってきた。
近付くにつれ、女の香水が強くなる。思わず、鼻の頭にシワを寄せた。私は捕まれる前に彼女を突き飛ばした。
「臭い女だなっ!」
尻餅を着いた女を冷たく見下ろす。
すると、
(臭い子だねぇ!)
女はおびえた目で見上げながら口も開いていない。それなのに何かの記憶の残渣が脳裏をかすめた。
「あんた、・・・
あん時のチビすけじゃないか!勝手に足抜けして、こんなとこにいたのかい。この恩知らずめっ!」
ー一体なにを言っているんだ、この女は?
恐れ怒るに従って女の体から『黒い揺らめき』がにじみ出て、水をぶちまけたかのように床に広がっていき、私の足元へ向かってきた。
ーなんだ? これは? 来るな! 入ってくるな!!
それは重力に逆らうように、足から膝へ、膝から私の秘部へと潜り込もうとした。
咄嗟に手で払おうとすると、そこには先ほど女を突き飛ばした時に付いた『黒い揺らめき』がべっとりと油のように付着していた。
恐慌状態になりかけた私はリボルバーの銃口を女のほうへ向ける。
「お前! 何をした!!」
そこに女はいなかった。
代わりにそこにいたのは、少女だった。だがそれは先ほどの黒髪の少女ではない。少し年上の15歳ぐらいだろうか?手入れも知らない栗毛を伸び放題にぼさぼさにしていた。俯いた少女の表情は窺えない。
気が付けば、私は拳銃ではなく、杖を手にしていた。
(これは、・・・夢?)
だが、夢にしては情景がやけに鮮明であった。それなのに、杖を持つ指先や肌の感覚はこれを現実と認めていない。ずれた感覚、違和感があった。
(これは誰かの記憶の中・・・?)
そう思った直後、『私』は杖を振り上げ、床に座りこんだ少女に叩きつけていた。
「なにガキなんかこしらえてるんだよ、お前は!自分の立場が分かっているのかい!?」
『私』の口から発せられた声は、あの淫売屋の女のものだった。
何度も少女を打ち据えると『私』は杖を投げ捨て、少女の手をつかみ引きずるようにエレカに乗せると、看板も出していないモグリの診療所へと連れ込んでいった。
少女を無理やり診療室に押し込め、禿頭の闇医者に何事か囁くと『私』はさっさとそのドアを閉め外の待合室でタバコを吹かし始めた。
どれくらい時が経ったのだろう?
買ってきた新しいタバコの包みを開け、その最後の一本を吸い尽くそうとしたその時、医者に抱えられるようにして、足元のおぼつかない少女が診療室を出た。
「売り物に傷は付いてないだろうね?」
「ああ、だが・・・」
『私』の言葉と医者のやり取り、茫然自失となって待合所の椅子に座り込む少女を無視して、私の意識は診療室の中へ飛んだ。
まるで、拷問器具の一種のような両脚を広げるように固定できる診療ベッド。その横のワゴンにはハサミや先端が鉤状になった金属の棒がトレーに入れられている。ハサミ類はすべて血まみれだ。
そして、一際目立つ大きめのボウルが置かれていた。ボウルの端にも血がべっとりと付着している。そして、私は薄いステンレスの向こうで、光がしぼんでいくのを見た。
(なんの光だ。小さな鼓動のような・・・・・・?)
中身へ意識を飛ばさずにはいられなかった。
そして、
「うあああぁぁぁ!!!」
絶叫し、見た物のおぞましさに激しく嘔吐した。狭い廊下に吐き出せるだけ吐き出すと、私は口を拭おうとしてリボルバーを手にしていることに気付き、ここが現実だと認識した。
「お、おい!?大丈夫か?マリア?」
「うるさい!私に触るな!!」
「誰のせいでこんな宇宙の果てに追い出されたと思ってるんだい!?」
淫売屋の女は立ち上がりこちらをにらみつけ、わめいていた。
「お前の仲間があたしの店をめちゃくちゃにしたからだろう!めしを食わしてやった恩を忘れて・・・。
無理やりおろさせたのが、そんなに憎かったのかい!!」
その言葉がボウルの中身を思い出させ、激情に駆られるまま女にリボルバーの銃口を向ける。
「お前、気持ち悪いんだよっ!」
女の体は壊れた機械仕掛けの人形のように震えた。
「こ、このジオンの生き残りのくせに!!」
再度女の背中から立ち上った『黒い揺らめき』は今度は放射状に広がって包み込んだ。
「使えない子だねぇ。ひざまづきな!」
『私』が手にした杖でまた少女を叩き、無理やり床に座らせる。
(イヤだ!これ以上変なものを見せるな!!)
そう思っても、その情景は私の中に直接入り込んでくる。
「下がダメなら、口でやるんだよ」
少女を『買った』男は倒錯的な笑みを浮かべながら、左手でズボンのジッパーを下ろし、右手で少女の髪を乱暴につかみ、上へ向けさせる。
その顔を見た私は頭をハンマーで殴られたかのような衝撃を受けた。
オレンジがかった栗毛。蒼い瞳。先細りの顎。
紛れもない、それは私自身だった。
(なんだ、これは。発狂したのか?)
ー先日のジュドーとルーの結婚式以来、ふさぎこんでいた私は頭がおかしくなってしまったのか?
ーそれとも、昔子供のときに擬似記憶でグレミーにこんなものを植えつけられたのか?
そして、
混乱する意識を無視して、男が行為に及んだ。
・・・助けて
・・・たすけて
・・・タスケテ
少女が気持ち悪さに咳き込み、えずく感覚が私の中に入ってくる。
―ヤメロ!!
―――助けて
―――たすけて
―――タスケテ
痛くても痛いと言えない、苦しくても苦しいと言えない、少女の絶望が私の中に入ってくる。
―チクショウ!コロシテヤル!!
「やめろ―――ぉぉぉ!!」
引き金を引くと、狭い閉鎖空間に銃声が反響し聴覚を麻痺させた。
眉間を撃ち抜かれた淫売屋の女はがくりと崩れ落ち、膝を『く』の字にして仰向けに倒れた。射入口から水道の蛇口をひねったように血が噴き出す。
女に向けて引き金を引き続けた。動かぬ肉塊となった女は、弾着の度に脊髄反射で手足をピクピクと痙攣させた。
すでに空となった回転弾倉が虚しく回り続け、撃鉄が乾いた音を立てていた。
後ろから両肩を捕まれ、無理やり振り向かされた。イイヅカだった。大声で何か叫んでいるようだが、銃声と精神的な衝撃で呆然と彼の顔を見返すことしかできない。私の手をつかみ階下へ逃げようとしているようだ。
―――タスケテ
引きずられるように2、3歩踏み出して思い留まり、立ち止まった。
―まだ呼んでる声がする・・・。
イイヅカの手を振り払い、開け放たれたドアに向かい中に入った。鎖と手枷につながれた黒髪の少女が、虚ろな目を私に向けつぶやいた。
(・・・タスケテ)
その顔にもうひとりの自分の顔が重なる。怒りと混乱に霧がかかっていた頭がはっきりしてきた。
「・・・ってるんだ!?マリア、早く逃げるぞ!!」
イイヅカを無視して鎖を手繰る。リボルバーを仕舞うと、右腕にできるだけ鎖を巻きつけ両手でそれを握り、壁に片足の裏を付けて踏ん張った。
「何やってんだよ!?そんなのほっとけ」
「この子を、苦しめるものを、断ち切る」
全身に力を込める。大胸筋が収縮し、上腕二頭筋が盛り上がるのを感じた。ギチギチ、と限界にきしむ金属音が部屋に響いた。
《ジュピトリス》に逃げるように戻り、艦長のウド・バッハに報告すると彼は、
『分かった』
それだけ言ってマリアとイイヅカを解放し、自室で待機するよう命じた。
連れてきてしまった少女、―エイダと少女は自分の名を言った、―は航宙長のバーバラが面倒を見てくれているようだ。
私は照明も付けず、暗闇の部屋に膝を抱えてひとり沈んでいた。
そこへドアがノックされる。
「マリィ。キアーラだけど、開けてくれる?」
何も言えず、動くこともできなかった。
長いこと無為に時が過ぎていったが、外のキアーラも去るつもりはないようだった。
のろのろとした動作でドア横まで行き、電子取手を開錠する。
「ごめんね。無理、させちゃった、かな?」
首だけ振って何とか否定の意思を伝えた。
しかし、すぐ部屋に戻り床にうずくまる。今は廊下の照明を受けて輝く彼女の金髪ですらまぶしかった。
キアーラは部屋に入ると、壁の間接照明を一番弱く点けると、すぐ隣に腰を下ろした。香ばしいカカオが私の鼻腔をかすかに刺激する。
「はい、ココア。どうぞ」
キアーラが無重力用の飲料カップを差し出す。
「熱いから気を付けてね」
カップを受け取ろうと私は手を伸ばしたが、指先が震えていた。きっと唇も震えていると思う。
「マリィ?」
キアーラが心配する目つきをしていた。私はごまかそうとして笑おうとしたが上手くできずに、顔を変に歪めただけだった。
「は、はは、なんだろう」
手を引っ込め、また自分を抱いた。キアーラは何も言わず、ただ私の震える手に自分のそれを重ね合わせてくれた。彼女がそうしてくれていると、私の不安は少しだけ軽くなるような気がした。
私は短く嘆息した。
「初めてだった」
エメラルドグリーンの視線が私の横顔にじっと注がれていた。
「エルピー・プル、エマリー・オンス。モビルスーツの戦いでは何人も手にかけてきたけど」
キアーラは幾分怪訝そうな表情をしたようだが、
「初めてだったんだ」
何かを悟ったように息を呑んだ。
私の網膜にその光景が焼き付いて離れない。
糸が切れた操り人形みたいに倒れる女。床に広がる赤い染み。動かぬ肉塊。
「生身の、無抵抗な人間を、正面から・・・・・・」
それ以上言わせず、キアーラが強く抱きしめた。彼女の暖かさが伝わってくる。
でも、
それでも、
私の震えを消し去ることはできなかった。
次の日から私は医務室に通い、精神安定剤を処方してもらうことになった。