死に損ねた男   作:マスキングテープ

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第8話 殺されかけた男

 キルヒアイス家の家長でジークフリード・キルヒアイスの父親、キルヒアイス氏の朝はごく普通に始まる。

 まず、日が昇ってから三十分後に目を覚まし、顔を洗うなどしてから、台所で朝食の準備をする使用人に挨拶の声を掛ける。

 使用人は朝食を作る傍ら、彼の唯一の楽しみであるという、小瓶入りの小さな熱帯魚やごく小さなエビに餌をやっている所であった。

 

 パジャマ姿のまま、家の隣にある蘭専用温室に、キルヒアイス氏は行く。温室の蘭達に水やりなど必要な手入れをして、蘭一つ一つの様子を確認し、キルヒアイス氏は官吏らしい生真面目さを発揮してノートに記録を付ける。

 

 それらの作業が一通り終わると、自室に戻って出勤用の服に着替える。パジャマに外の汚れがついている事に、妻のキルヒアイス夫人は結婚当初困惑していたものだが、結婚後二十年も経過すれば慣れてしまい、彼女は今では特に何も思わない。

 

 彼が食堂にやって来る頃には、朝食の準備が整っている。

 焼き立てパンや、肉とバターの香ばしい香りが、まず食堂に近付くキルヒアイス氏の食欲をそそり、食卓に並んだ燻製肉のピンクに、ふわふわのオムレツの淡い黄色、焼き立ての白パン、瑞々しいサラダが鮮やかな緑や黄で主人の目を楽しませる。キルヒアイス氏と同年代の男性使用人が、食堂でキルヒアイス氏を出迎え、食卓の皿に出来上がったばかりの、旬の緑豆を使ったポタージュスープを盛った。とてもなめらかなスープは、濃厚な味と共にやさしく喉を滑り落ちていく。

 キルヒアイス氏が朝食に対する賛辞を口にすると、彼は今日のスープに似た色の瞳を嬉しそうに細めて礼を述べた。

 

 先年の秋以来、キルヒアイス夫人は息子ジークフリードの看病のため、シュヴェーリンへ泊り掛けをするようになった。そのため、グリューネワルト伯爵夫人アンネローゼから紹介された男性使用人が、食事の用意や掃除洗濯など、キルヒアイス夫人不在中の家事を賄っている。

 

 男性使用人は、若い頃はさぞ女性に人気があっただろうと感じさせる品の良い外見している。主人に気を使わせないために鍛錬されたのだろう気配の消し方、洗練された立ち居振る舞い。完璧な家事の手腕。

 彼ほど有能な使用人は、平民で下級官吏のキルヒアイス家程度には不釣り合いなように思われて、キルヒアイス氏は当初どう扱っていいか困惑していた。

 彼の給料は、キルヒアイス家の財布から出ているので遠慮なく使ってもいいのだが、彼のいる生活に慣れてしまうと厄介な気がして、キルヒアイス氏は気を使いながら、彼を使役している。

 

 主が食事を終えない限り、使用人は食事を口に出来ない。そのため、キルヒアイス氏は、なるべく手早く食事を終えることにしている。一人の食卓に耐えかねて、キルヒアイス氏が相伴を頼む時もあるが、週末に一回あるかないかといった具合だ。

 

 食事を終えると身支度を再度確認し、彼は昼食の包みと折り畳み傘を使用人から受け取る。包みから漏れるパンの香りから、今日はクロワッサンサンドだろう、とキルヒアイス氏は予測した。

 

「いってらっしゃいませ、旦那様」

 

 家の中から自分を見送る使用人の声を背に、キルヒアイス氏は徒歩で司法省へと出勤した。見上げれば、厚い雲が上空を覆っていて、昼前には大雨が来そうな気配があった。

 

 丁寧に手入れされた家屋と庭を誇る、隣のベックマン家。その前を、キルヒアイス氏は通り過ぎた。庭先で花の手入れをしていたベックマン夫人が、にこやかに挨拶の声を掛け、彼もそれに応じる。

 三人の息子を次々と戦争で亡くして、長らく気落ちしていたベックマン夫妻だったが、昨年の冬前に、遠縁だという十代の少女を養子として引き取った。

 それ以来、夫妻は少しづつ元気を取り戻していった。老夫妻の気力の減退と、それに比例する住居の荒廃ぶりを心配していた近隣住民も、この好ましい変化と、それを齎した少女を歓迎している。

 

 湿った空気にのって、ベックマン夫妻の養女が奏でるピアノの音色が、キルヒアイス氏の背中を見送った。

 

 

 その同日、あるいはラインハルトがシュヴェーリンを逃げる様に去った数日後。

 

 ローエングラム公ラインハルトは、キルヒアイスに投げ掛けられた言葉を処理する暇を与えられる事はなかった。帝国で皇帝を除けば最高の権力を持つ人間に、衝撃を癒す暇を与えられるほど、帝国の状況は安定していないのが現状である。帝国は現在も、ラインハルトの強力な指導力と卓越した手腕を必要としていたし、それは今のラインハルトにとって、格好の逃避先となった。

 

 この日の朝、宰相府で、ラインハルトは、駐フェザーン帝国高等弁務官より定期報告の通信を受け取っていた。

 

「一先ず二人を奴らの目の届かない所へ保護し、関係先への監視も続ける様に。ただ、それが帝国によるものとは一切悟らせるな」

 

 ラインハルトは、端的に命じると通信を切った。首席秘書官マリーンドルフ伯爵令嬢ヒルダが、宰相執務室に足を踏み入れたのは、その直後の事である。ラインハルトは、高等弁務官が伝えた事案について、詳細に思案する時間を与えられなかった。

 ヒルダは、憲兵総監ウルリッヒ・ケスラー大将が至急の面会を求めている事を伝えた。ラインハルトは即座に了承の意を示し、先程からヒルダに頼もうと思っていた事案について口にした。

 

「それと、ケスラーとの面会後、オーベルシュタインをここへ呼んできて欲しい」

 

 ヒルダはふと違和感を覚えた。

 ラインハルトはケスラーの用件が何であるかを薄々察しているのではないか。そして、おそらくそれは、あのオーベルシュタイン上級大将の仕事範囲に入る事案なのだろう。ヒルダは、そのように勘付いた。

 ヒルダは、オーベルシュタインの義眼の眼差しを思い起こして、胸中の不安を掻き立てられた。彼女は決して不公正な人物でも、狭い視野の持ち主でもなかった。しかし、軍首脳部の多くがオーベルシュタインを悪し様に言うのに少しも影響を受けずにはおれなかったし、それとは別にヒルダは彼に対して幾らかの苦手意識があった。

 しかし今はその様な事を考える時ではない。と、頭を切り替えて、ラインハルトのスケジュールを優先度順に組み替えながら、ヒルダはケスラーを呼びに行った。

 

 

 ケスラーが齎したのは、旧貴族連合派の人物二人が、フェザーンから帝都オーディンへ潜入したとの情報であった。一人はランズベルク伯アルフレッド、もう一人はレオポルド・シューマッハ元帝国軍大佐。

 その人物の名前を聞いた瞬間、ラインハルトの口元に僅かな冷笑が浮かんだのを、共に話を聞いていたヒルダは見逃さなかったが、その理由までは判然としなかった。

 安全な亡命地を捨てて、旧貴族軍の残党が帝都に舞い戻ったというのは、何か良からぬ企みを抱いての事ではないか、とケスラーは己の見解を説明した。

 どうして、その事を知り得たのかをラインハルトが尋ねると、密告に拠るものである、とケスラーから返答があった。更にケスラーは、密告がなければ、フェザーン自治領発行のパスポートで、不審な点一つなく入国した二人を、それであるとは判別出来なかっただろうとも付け加えた。

 

「現在二人の監視を続けておりますが、旅券の件から考えまして、この一件にはフェザーンが何らかの関与をしている事は明らかなように思われます。故に宰相閣下のご判断を仰ぐべく、至急の面会を申し出ました次第です」

「解った。その件については追って沙汰する。ところで、その監視中の二名は本当にランズベルク伯とシューマッハで間違いないのだな」

 

 ケスラーは、部下達が顔写真や指紋を照合して確認を取ったと答えた。ラインハルトは少し考え込んだ後、形の良い唇を開いた。

 

「こちらの注意を惹く為に彼らの名前と姿を利用しているとも考えられる。監視を続けるのと並行して、二人が本人かどうかも再度徹底的に確認せよ。また、密告のあった二人が囮である可能性も否定できない。潜入した人間が他にいないか、怪しい動きがないか、帝都中を隅々まで洗い出せ。いずれも相手に気取られぬようにな」

 

 

 ケスラーを下がらせると、オーベルシュタインが来るまでの間、ラインハルトは己の思考整理のために、ヒルダを残した。

 オーベルシュタインは、折悪く軍務省から離れており、宰相府に到着するまでには一刻以上の時間が必要だったのである。

 

 ラインハルトは、彼の周囲が想像、或いは希望するのとは反対に、恋愛感情やそれに類する感情をヒルダに抱いている訳ではない。しかし、卓越した知性を持つ彼女を、他の女性とは別格に扱い、彼女との知的ではあるが散文的な会話を楽しむ所があるのも確かだった。無論、これには姉のグリューネワルト伯爵夫人アンネローゼを別として、という但し書きが付くのであるが。

 

 ヒルダの視線は、元帥服を纏ったラインハルトの横顔に注がれていたが、ラインハルトの方は激しい雷と雨にけぶる帝都の空に心を奪われているようであった。

 ラインハルトは、ランズベルク伯達が帝都に舞い戻った理由と、それを使嗾したであろうフェザーンの思惑についてヒルダと意見を交わしている。フェザーンや潜入者達の意図する所が、ラインハルトの暗殺などではなく、要人誘拐ではないかという所まで話が及んだ。

 その対象者を、ヒルダが順を追って挙げていく。まずは、帝国宰相たるローエングラム公ラインハルト。次にラインハルトの姉であるグリューネワルト伯爵夫人アンネローゼ、彼女の名前をヒルダが口にした時、その行為はラインハルトの痛烈なまでの怒気によって報いられた。

 

「フェザーンと潜入者共が、もし姉上らを狙おうものなら、ただでは殺さぬ。生まれて来た事を後悔するほどの苦痛を与えて、これ以上ないほど残虐な方法で殺してやる」

 

 その怒りの発露があまりに急激だったので、ヒルダは反応が数瞬遅れた。雷光に照らされたラインハルトの、怒りに満ちた顔。黄金の覇者の逆鱗に触れた事に気が付き、ヒルダは己の配慮の足りなさを陳謝し、情と理を尽くして彼を宥め始めた。窓の外で猛威を振う雷雨。強烈な雷光は、まるで彼の怒りが具現化した様であった。

 

 か弱い女性であるアンネローゼを狙う事は、ロマンティストであるランズベルク伯の好む所ではない事を挙げるヒルダに対し、ラインハルトは、実行者の主義はさておいて、フェザーンがそのように強制する可能性を提示した。

 ヒルダが、伯爵夫人を最初から標的にするつもりなら、ランズベルク伯という人選はしなかったであろうという事を説いてなお、応ずる彼の声の端々には、猜疑と怒りの感情が乗っていた。

 

 それを感じたヒルダは、ジークフリード・キルヒアイスの名前を対象者として挙げる事を咄嗟に断念した。彼の名前を挙げれば、ラインハルトの更なる憤怒を呼び起こし、一層理性を失うだけだと判断したからである。

 同時に、ヒルダはかつてシュヴェーリンの館に赴いた時に感じたそれを、再び思考の海に浮上させた。

 ラインハルトを冷酷非情の独裁者にするのは、アンネローゼとキルヒアイスの存在、匙加減一つではないか。

 それは近い未来にこの銀河を統べるだろう、この精気に満ち溢れた美しい若者と、彼に統治される民衆にとって何と危うい事だろう、ヒルダはそう感じずにはいられない。

 

 ヒルダは、キルヒアイスの命を最後まで諦めなかったのは、あのオーベルシュタインだと噂で聞いた事があった。それを聞いた時、ヒルダは単なる噂だろうと流したのだが、もしかしたらオーベルシュタインは意図があってキルヒアイスを助けたのではないか、とこの時彼女は初めて思い至った。ラインハルトの精神を揺さぶるのに、キルヒアイス程打ってつけの人物はいない。

 

 オーベルシュタインの事を一先ず思考の外に置いて、ヒルダは未だ怒りの名残を留めるラインハルトへ、以下の三点を重点的に説いた。

 グリューネワルト伯爵夫人ではランズベルク伯の主義故に実行を了承しない。ローエングラム公は、他の対象者に比較して実行が極めて困難である。そしてその最後の対象者こそ、ランズベルク伯とフェザーンの両者を満足させる。 

 

 怒りの冷えたラインハルトが、では彼らは皇帝を誘拐するのか、と特に驚いた様子もなく口にし、ヒルダは短く同意の返事をした。

 

 七歳の少年とは言え、帝国で最高位にある人物に対して、ラインハルトが陛下という尊称を用いないのはまだしも、首席秘書官であり門閥貴族出身のヒルダすらそれを咎める事も驚く事もないのは、彼女の革新的な態度や識見からだけではない。

 この帝国における最高権力者はラインハルトであり皇帝はその傀儡に過ぎないと軽んじられている事、最早ゴールデンバウム家は尊敬を受けるに値しないと看做されている事。そう言った帝国首脳部の持つ意識の、一つの発露であったと言える。

 

「しかし、誘拐の対象が皇帝だったとして、実行犯とフェザーンにとって何の利益があるというのだ、フロイライン(お嬢さん)」

 

 ラインハルトは、アイスブルーの瞳だけを動かして、ヒルダの方を見た。

 ラインハルトの視線は、ヒルダに女学校時代の事を想起させた。女学校時代に師事した教師が、問題を解かせようと生徒を指名する時、丁度このような視線と態度を、ヒルダや同級生達に向けていたものである。

 ランズベルク伯にとって、皇帝誘拐は誘拐ではなく救出であると考える可能性が高いこと、フェザーンにとって何の利益になるか定かではないが、現時点でフェザーンとって明らかな不利益になる可能性もまだ見出せない。

 ヒルダは女学校時代と同じ気分を味わいながら、上司の求める答えを口にした。

 生徒の回答を採点する教師の如く、ラインハルトがなるほどと口にした時、ヒルダは頷くと同時に抱いた疑念を更に深めた。この方は、生徒に答えさせる問題の解を教師が承知しているように、何が為されるのか既にご存知ではないのだろうか、と。

 ラインハルトはその答えに満足したように、視線を再び窓の外へ移した。相変わらず外では春雷が響いているが、その音響は既に遠ざかりつつあった。

 

「それにしても、またフェザーンの黒狐か。この役者と舞台でどういうシナリオを演出するつもりなのやら」

 

 フェザーン自治領の現自治領主ルビンスキーの仇名を忌々しげに吐き捨てた後、ラインハルトは問うというより、確認する様に、密告をして来たのはフェザーンの工作員であろうなと口にした。

 ヒルダはにこやかに同意を示したが、ラインハルトからの反応は特に得られなかった。オーベルシュタイン上級大将が、宰相府に到着した旨が告げられたからである。

 

 ラインハルトはようやくヒルダの方に顔を向けて、無言で首を振った。退室して業務に戻るように、というラインハルトの無言の意思表示を受けて、ヒルダは軽やかに一礼すると宰相執務室を辞して、首席秘書官の部屋へと戻って行った。

 

 宰相執務室の扉前に立つ親衛隊員の一人は、中性的な美貌の首席秘書官の顔を、僅かではあるが寂しそうな表情が覆っている事に気が付いた。

 もっとも、一親衛隊員の立場では、その表情の理由が何かも解らず、何が出来る訳もなく、首席秘書官がいつものような溌剌とした笑顔を見せてくれる事を祈りつつ、彼は己の職分に専念した。

 

 

 オーベルシュタインは、ラインハルトと共に、これから起こりうる事態、皇帝誘拐についての諸々を話し合っていた。彼らにとって、皇帝誘拐とは未来の可能性や予測ではなく、確定した予定であると認識されていたのである。

 

 皇帝誘拐と並行して、姉アンネローゼも襲撃される可能性を考えて、シュヴェーリン周辺の警備を一層強化する事が、まず最初に決定された。

 

 次に、誘拐が実行されるに当たって、犯人達のやりやすいように、皇帝の居住する新無憂宮の警備を緩くするべきか、とオーベルシュタインが問うた。

 当初は、今ですら警備がさして厳重でないのだから、そのままで良いとしていたラインハルトであったが、次の言を聞いて、ラインハルトはその意見を撤回した。

 

「もし、誘拐が成功した場合、現在新無憂宮の警備責任者である、モルト中将が責任を問われる事になりますな。これだけの重大な事件です。残念ですが、死んで罪を贖う以外の道はないでしょう。勿論、彼の直接の上官たる憲兵総監も同様です」

 

 モルト中将という人物は、独創性には乏しいが極めて誠実で生真面目な老将である。その職務への忠実さを買われて、彼は先帝フリードリヒ四世の時代から現在に至るまで、宮中警備の責任者を任されているのであった。彼は、あと半年、大過なく勤め上げれば、定められた年齢に達し、退役することになっている。

 ラインハルトは、古風で誠実そうな老人の顔を頭の中に描きながら、先日リヒテンラーデ一族の処刑についてキルヒアイスに詰られたのを思い返した。それから、ヴェスターラントの一件について、リップシュタット戦役終結間際に、キルヒアイスに糾弾された時の事も。

 

 ヴェスターラントの一件を見過ごしたのは、門閥貴族の愚かしさを広く喧伝することで、早く内戦を終わらせて犠牲者を減らすためである。

 リヒテンラーデ一族の少年達を処刑したのは、彼らが大罪人の係累であり、将来の禍根を断つためだ。

 これまで、そう言い張る事が出来たラインハルトであったが、今回の件に関して、彼は強弁出来るだけの理由を見つけ出せずにいた。

 モルト中将らは誠実に職務を果たしているにも拘らず、己の与り知らぬところで陰謀に巻き込まれ、全く過失のない事で死ななければならないのだから。

 そして、彼を死なせてまで皇帝を誘拐させるのは、同盟に侵攻する口実作りのためであり、邪魔になりつつある子供を他所に捨てる以上の理由などないのだった。

 

「新無憂宮を、今以上に厳重に警備させろ。警備の人間も倍に増やせ。それでも最盛期の警戒態勢には及ばんのだ。こちらが手加減してやらねばならないような無能と、手を組む気はない」 

 

 抗弁しようとしたオーベルシュタインを、ラインハルトの視線が射抜いた。だが、ラインハルトの氷蒼色に、僅かな揺らぎがあるのを、オーベルシュタインの冷徹な観察眼は見逃さなかった。

 

「警備を厳重にしてなお、誘拐が成功した場合は如何いたしましょう。モルト中将にしろ、ケスラー大将にしろ、閣下がご温情を掛けた所で、それに甘んじるような人物ではありますまい」

 

 ラインハルトはしばし逡巡した後、自らの気力を振り絞るようにして答えた。

 

「その時は仕方ない。モルトに責任を取ってもらうほかあるまい。だが、死なせるとしても、モルト一人だけだ。ケスラーにも相応の責任を問わねばならないが、憲兵総監まで死なせるとなると、色々と問題もでよう。別の処分を与える」

 

 出来ればモルトも死なせたくはないが、と考えていたラインハルトの内心を見透かすように、オーベルシュタインが口を開いた。

 

「閣下。差し出がましいようですが、玉座は多くの屍の上にこそ築かれるもので、本質的に白い手の王者など存在しませんし、王者の手足となって働く部下とてそれを承知しております。死が、忠誠に対する最高の報酬、優しさという場合もあるでしょう。それに私は、流血帝アウグストの様に、誰彼構わず殺せなどとは申しておりません。多数の民衆の幸福のために、犠牲が少なく済む方法を御決断下さい、と申し上げているにすぎません。王者は臣民に対して公平で寛大でなければなりません。王にとって、民衆一人一人は全くの例外なく等価値です。ならば、後は単純な算数の問題でしょう」

 

 オーベルシュタインは、彼の周囲が考えるほど、ラインハルトに無慈悲な君主になって欲しい訳ではなかった。

 彼が例に挙げた流血帝アウグスト。ゴールデンバウム王朝史上最悪の暴君である彼は、血縁、身分、老若男女の別なく誰に対しても平等に残虐であり、数年間の治世を暴力と恐怖で染め上げた。しかし、彼はその無慈悲さゆえに怖れられ、殺され、玉座を追われた。恐怖と権力だけでは人を治めることは出来ない。

 オーベルシュタインは、誰に対しても公平で寛大で、一方で必要とあれば誰であろうと躊躇わず切り捨てられる決断力を持った君主を望んでいるだけである。彼の希望から見ると、ラインハルトの決断は時に感情に流されて不安定で、些か甘過ぎる部分があるのが、最大の欠点であった。

 

「オーベルシュタイン。王者にとって臣民は一人の例外なく等価値だと言ったな。ならば卿は、私のために、民のために、必要であれば死ぬことも厭わぬと?」

「御意」

 

 オーベルシュタインは熱意と無縁な調子で、何の躊躇いもなく主君の問いに肯首する。ラインハルトは、不思議と納得したようにオーベルシュタインの、やつれた顔貌を見やった。ラインハルトは、何故か居たたまれない気分になって、おもむろに話題の転換を図る。

 

「ところで、手札に入ったはずのジャック二枚が、何故もう一組あるのか。インチキにしても些かまずい手だ。あの黒狐がやったとは思えん。我々がそれを拾った事は知らぬまでも、捨てた方は何の手札を捨てたかぐらい把握していそうな物だが……」

「もしかすると、対峙するプレイヤーの一人は、一人に見えて複数人の集合体ということもあり得ますな。その中の一人はジャックを二枚捨て、残りの人間はそれを知らぬまま、その二枚がある事を前提に動いているのかと」

 

 ラインハルトは少々思考に耽った後、オーベルシュタインに命じた。

 

「ジャック二枚を私の手元に持って来るように。くれぐれも丁重にな。役を作るのに必要になるかもしれぬし、少なくとも二枚のうち一枚には個人的に興味がある。偽札の方はケスラーに任せておこう。それとこの件でジョーカーがいなくなる訳だが、次の札を探しておいてほしい」

 

 

 一礼して、退出しようとするオーベルシュタインへ、ラインハルトは思い出したように付け加えた。

 

「リヒターとブラッケから興味深い提案があった。そちらにも既に書類が届いていると思うが、軍務尚書代理として、六月中に二人と共にシュヴェーリンへ赴く様に」

 

 こうしてオーベルシュタインは、周囲にとっても、おそらく本人にとっても予想外なことに、シュヴェーリンに行くことが決定した。

 

 

 

 フェザーン中心街に多数あるカフェは、朝出勤する人々を当て込んで、朝食メニューやテイクアウトのドリンクを用意して、今日も客を待ち構えている。

 そんなカフェの一つに入店する黒髪の女性が一人。彼女の煌めくような笑顔に、出勤途中の数人と、店内の若い男の視線が磁石の様に吸い寄せられる。彼女はそのような視線をあえて無視して、カフェにあるカウンター席の一つに腰を下ろした。夜勤帰りのクララである。

 

 温かいハーブティーを口にして、軽くトーストされたパンを一齧りして、クララは一心地ついた。それからおもむろに、週刊誌の目的のページを開く。週刊誌は、先程店内に入った時に、見出しに惹かれて手に取った物だった。

 記事には、先日のイゼルローン失陥に際して避難した民間人と、イゼルローン駐留艦隊の残存兵力が首都星ハイネセンにようやく到着し、生者には表彰式典や激励会が、死者とその関係者に対しては葬儀と追悼会が、盛大に執り行われた事が記されていた。

 自由戦士勲章の授与式の写真が三枚。イゼルローン攻略戦の犠牲者達の国葬の写真が一枚。

 一枚目は、戦闘時事実上の司令官だったアレックス・キャゼルヌ少将、との但し書きが写真に添えられていた。軍人というよりは優秀なビジネスマンと言った風情の中年男性だ。彼は上半身を包帯などの医療用具に覆われ、同盟軍制服の上着を肩に羽織って、杖を突き、何とも悲壮な姿で勲章を授与されている。

 二枚目の写真が、十六歳のユリアン・ミンツ曹長。写真からでも解る、透明感のある亜麻色の髪の美少年だ。クララは、いつかシュヴェーリンの館で直に見た、ローエングラム公の覇気に満ちた美貌を、ふと思い起こした。

 彼は車椅子に乗って授与式に臨んでいる。彼の両足は、膝から下が欠けていて、それは彼がなまじ美少年であるだけに、一層の痛々しさを見る者に伝えて来る。

 彼の車椅子を押しているのは、ヤン・ウェンリー大将。黒髪の、何とも表現しがたい雰囲気と容貌の持ち主だ。不細工ではない事は確かであるが、美形やハンサムであるとも断定し難い。元イゼルローン要塞司令官で、彼はユリアン・ミンツの保護者でもあると記事には記されていた。

 この写真が、記事に添付された写真の中で一番扱いが大きい。それはおそらく、被写体二人、年齢と階級が高い方は知名度において他の追随を許さず、若い方は何とも見栄えがして、いずれにしても話題になるからだろう。

 一番小さい写真は、帝国軍上級大将の制服を着た老人で、メルカッツ客員提督と但し書きがあるのみだった。彼は謹厳実直を絵に描いたような、典型的な帝国軍人の顔つきをしている。

 

 そこまでなら、フェザーン向けに翻訳されている、同盟の一般ニュース誌と然程変わらないが、問題はその後である。攻略戦の追悼式で、露骨に嫌悪の感情を表した、白い士官礼服を着たヤン・ウェンリーの姿が、克明に捉えられた一枚。

 同盟の一般ニュース誌であれば、犠牲者の写真が飾られた祭壇や、悲しみに暮れる遺族などの写真を使う所である。

 クララが手に取った週刊誌は、男性向けの所謂ゴシップ週刊誌で、その辺は遠慮も容赦もなかった。

  記事タイトルは『レベロ新政権と奇跡のヤンの不協和音』とある。

 

 内容としては、この様な時期に前線から自分を呼び付けた国防委員会、政治家に対して、ヤン大将が不信感を募らせている事。

 ハイネセンの政治家の判断ミスで、イゼルローン要塞が失われ、ヤン大将の家族や民間人が犠牲になった。ヤン大将はこの様な政治状況に対して義憤を募らせているらしく、近く軍を辞して、政界へと転向するのではないかと囁かれているらしい。

 それらしい状況証拠として、記事には関係者の談話や、政治家達と会食をしているという目撃談まで添付されていた。

 一方、ジョアン・レベロ最高評議会議長の方でも、ヤン大将以下、イゼルローン帰還者を冷遇している、と記事は続いた。

 例えば、ハイネセンに帰還したイゼルローン駐留艦隊は、新兵や艦船を補充した後、第十四艦隊と名前を変え、新任のモートン中将がその指揮官に任じられた。

 一方で、充てるべきポストがないことを理由に、ヤンは現在同盟軍大将以外の肩書と役職を持たない。名将の誉れ高い彼には、指揮する艦の一隻も存在しない状態である。

 入院中のクブルスリー統合作戦本部長、彼の代理を務めているのがドーソン大将、宇宙艦隊司令長官はビュコック大将。他にも宇宙艦隊総参謀長や統合作戦本部の各部門の本部長。これら大将以上の階級を以て充てるポストの数は数えるほどしかない。

 同盟軍は先年までに、帝国領侵攻作戦や救国軍事会議によるクーデターなどで、多くの人材を失ったが、それでも今あるポストを埋める人材数が足りないという事態には陥っていない。

 また、これら軍の重要ポストの多くが、前トリューニヒト政権と非常に親しかった者達で占められているにも拘らず、レベロ議長や若い国防委員長らは、これらの人事について殆ど手を入れてらず、故に現状維持のまま、ヤンの座るポストがない、という状況になっている。

 

 これは、レベロ議長ら政府首班が、ヤン大将を持て余している事の証左である。

 そもそも、レベロ議長は、イゼルローン要塞におけるヤン大将のありよう、例えば客員提督としてヤンの軍事顧問になっているメルカッツ中将などへの甘い対応などを、常日頃から苦々しく思っていたようだ、とこちらも匿名の関係者筋からの情報が載せられていた。

 

 クララは雑誌記事から目を離して、目と目の間を揉んだ。メルカッツ中将への甘い対応という箇所で、リップシュタット戦役終結前後からフェザーンに帰還するまでの数か月前を、彼女は思い出してしまったのである。

 

 シュヴェーリンでの待遇を、自分達の能力と実績に対する評価ないしは期待であると考えて、自分を含むあの館の職員はごく自然に受け入れていたが、それが一部から非難の対象だったらしい事は、薄々知っていた。

 メルカッツも、彼の能力や人柄に相応しい処遇と敬意をイゼルローン要塞で受けていたのかもしれず、それを甘過ぎると見る人もいるのだろう。

 他から隔絶したシュヴェーリンの館とそれを用意したラインハルト・フォン・ローエングラムの権力が、医療スタッフに対する悪意の防壁になっていたように。

 メルカッツに対する偏見や非難も、イゼルローン要塞が辺境の最前線にあるという地理条件と、要塞におけるヤン・ウェンリーの権限によって和らげられていたのではないだろうか。

 クララはふとそんなことを思いついたのである。勿論、それぞれの事例では事情が違うから、一概には言えないが。

 自分達は仕事が終われば、フェザーンに帰るだけで良かった。家、仕事、家族。その全てがフェザーンの地にある。メルカッツという人は違う。これから、防壁のない同盟で彼はどう過ごすつもりなのだろう。

 同じ要塞に居ながら、一度も顔を合わせた事のなかった老将の行く末について、彼女は己の境遇を重ねながら思いを巡らせた。

 

 

 朝の出勤ラッシュをカフェでやり過ごしてから、クララは帰宅した。彼女は寝る前に一風呂浴びて、先程届いたばかりの手紙を封切った。

 コルネリアス・ルッツからの手紙を読む彼女の顔は、薄らと赤く染まっていたが、それは湯上りのせいだけではなかった。一人暮らしの部屋で、何とも落ち着きのなくうろうろした挙句、帝国の人って情熱的なのかしら、と彼女は独り言ちた。

 早速手紙の返事を書くべく、ペンと便箋を取り出して、クララは最近変わった事や面白い事がなかったかを思い出そうとした。

 直ぐに思い出せたのが、つい最近まで、事故で入院していた青年と付き添っていたフェルディナントという男の事だった。

 付き添いの男が傷物にした責任云々と言いながら、青年に指輪とカフスボタンの入ったジュエリーケースを差し出していた事だとか。つい先日、一般病棟の二人の所に、若様をお探ししておりました、と老人が訪ね来て、その翌日には二人が入院費には過分な現金を病院に支払って逃げた事だとか。

 彼女はそれらを思い出して、直ぐに打ち消した。幾ら印象的だとは言え、患者の秘密を書くのは、この時代のフェザーンであっても職業倫理に反する。

 彼女は、ルッツも近々出征する予定があるのか、聞いてみたい誘惑にも駆られた。同盟が今朝読んだような状況なら、帝国は幾らでも攻め込む機会があることになると彼女は想像したのである。しかし、ルッツも高級軍人である以上、軍事機密に抵触するようなことは返事のしようがないだろう、と思い至って、彼女はその質問を断念した。

 

 結局、フェザーンの天候の話に始まり、最近配属された救急救命センターに話を繋げ、ルッツの体調を気遣い、近く帝国に出店するのフェザーン系資本のレストランやケーキ店の話題を提供し、最後にルッツへの溢れんばかりの思いを綴って締め括った。

 恋文としてはごくありきたりの文面を綴り終えて、クララは遮光カーテンを閉めて、就寝した。

 

  六月に入ったフェザーンは、その気温と空の色に、夏の気配を濃くし始めている。


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