死に損ねた男   作:マスキングテープ

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第7話 舞い戻った男 (11/9差替済)

 

 宇宙暦七九八年、帝国暦四八九年五月を迎える人々の気分は、サルガッソ・スペースを挟んで著しく色彩が違った。

 帝国においては、イゼルローン要塞攻略戦における完全勝利に国中が歓喜に湧き上がっていた。

 一方の同盟では、気候の暖かさとは逆に、重く沈んだ空気が漂っている。

 同盟軍は、イゼルローン要塞、駐留艦艇の三割強である約五〇〇〇隻、約八十万人の将兵を喪失した。その他、民間人も数百人が犠牲になった。

 失われた艦艇数に対して、失われた将兵の割合が幾分多いのは、要塞主砲の撃ち合いによる犠牲者の他に、要塞脱出の際に生じた、いくつかの混乱と悲劇によるものであった。

 その悲劇の中で最大の物と言えば、パニックを起こした将兵が艦艇の操作を誤り、幾つかの艦艇と避難のために集まっていた将兵を巻き添えにした一件であろう。この一件によってポートに使用出来ない箇所が増え、人員の退避により一層の時間が掛かり、被害が拡大したという点でも、特筆されるに値する悲劇であった。

 そんな中、要塞司令部の面々は、一隻でも多くの艦艇と一人でも多くの人員を逃がすため、最後まで現場に留まっていた。

 

 ヤン・ウェンリー大将が不在の間、司令官代理を務めていたキャゼルヌ少将は、ギリギリまで要塞司令部で脱出の指揮を執っていた。そして、脱出する際、混乱によって生じた爆発事故に巻き込まれ、彼は複数個所の骨折や火傷など、全治四ヶ月の重傷を負った。

 駐留艦隊は、臨時に指揮権を貸与されたメルカッツ客員中将の下、アッテンボロー少将らが、少しでも時間を稼ぐため艦隊を率いて奮戦していた。

 フィッシャー少将はミュラーが駆逐艦を使って行った封じ込め作戦の際に旗艦を壊され、全治一ヶ月の重傷を負って早々に戦線を離脱。グエン少将は、ガイエスブルグ要塞の行進でミュラー艦隊と交戦し、戦死している。

 あまりの事態で情報が錯綜した結果、要塞司令部は全滅との誤報も一時期流れ、軍関係者、政府首班の顔を青褪めさせた。

 結局、要塞司令部の面々の中でグエン以外に死亡した人間はいなかった。ただ、軽い打撲や火傷から全治四ヶ月の大怪我まで負傷程度の幅こそあれ、その中の誰一人として無傷ではありえなかった。

 

 これに対し、発足早々のレベロ政権は、キャゼルヌ少将らイゼルローン要塞司令部の留守番組を始めとして、味方の避難や救出で特に功績のあった将兵らに、勲章を授与する事を閣議で決定し、一週間後にこれを発表した。授与者リストの中には、メルカッツ中将の名前もあった事が、同盟市民の間で大きな話題となった。

 また、戦死したグエンは二階級特進で大将となり、今回の戦いにおける犠牲者達と一緒に、政府によって盛大な葬儀が営まれる運びとなった。

 

 しかし、これらの決定と発表の段階で、生者死者のいずれも未だに同盟の首都星ハイネセンに到着しておらず、イゼルローン失陥に伴う衝撃から、同盟市民は暫く立ち直れそうにはなかった。

 

 また、新しく同盟の最高評議会議長に選出されたジョアン・レベロと新政権にも、同盟市民の不安の種は存在した。

 レベロ本人は、高潔な人物で、能力も実績もある。この事を疑う人間は現時点で殆どいない。しかし、一方で在野の政治家時代から、教条主義的であると政敵から揶揄される事のあった人物でもある。彼はあらゆる意味で理想主義者であり、現実や人間に対して妥協の出来ない男であった。

 彼の潔癖なまでの思考と態度についていける人間はそう多くない。

 レベロは、ヨブ・トリューニヒトの様に取り巻きが大勢いる訳でもなければ、ホワン・ルイの様に意見や派閥の違う様々な人々と幅広く交流がある訳でもなかった。故にレベロは、議長に就任してすぐに、政権の閣僚人事で躓いているのだった。

 彼を慕う若手もいるが、彼らはレベロのミニサイズに過ぎず、しかもレベロと違って何の実績も能力も伴っていない。

 ジョアン・レベロが就任早々に発表した政権人事を見て、多くの同盟市民は、希望を抱くより不安を覚えたという。その事は新政権発足時の支持率に明確に反映されており、トリューニヒト前政権の大失態というアドバンテージがあるにもかかわらず、支持率は五割前後に留まっている。

 レベロ新政権は、早くも同盟市民の厳しい眼差しに晒されていた。

 

 

 帝国と同盟が、正反対の状況にある一方で、二国の中間に位置するフェザーンは、どちらかと言えば勝者側に寄って、幸福の余禄に預かっていた。

 

 惑星フェザーン中心部にある巨大総合病院。

 クララは、同盟の情勢を解説したニュース記事を読みながら、朝食のホットサンドに齧り付いた。この日、彼女が配属されている救急医療センターは、珍しい事にこの時間まで急患が来ず、職員達はのんびりと食事を楽しむ余裕があった。

 クララは、ルッツと交流を始めてから、政治情勢のニュースを殊更注視するようになった。ルッツが軍人である以上、彼が出征するかは帝国の情勢に左右されるからだ。最初は帝国関連のニュースだけに注目していたが、その内に同盟関連のニュースにも、彼女は目を向けるようになった。帝国の政情が穏やかでも、同盟の政情が不安定なら、ルッツが戦場に赴く機会はやはり増えるだろうと考えての事である。

 今やクララは、時間さえあれば看護の勉強をしているか、政治経済のニュースを漁っている。彼女も、フェザーンのメディアで見れる程度のニュースに、速報性や重要性が薄い事は知っていたが、何も知らないよりはましだと思ったのである。

 クララは、休憩室の時計を見上げた。そろそろ朝の五時を迎えようとしている。彼女の休憩もそれに伴って終わり、後は集中治療室にいる患者の経過をチェックしたり、処置を施すなりして、次のシフトのスタッフに引継ぎをすれば、彼女の今日の仕事は終わりである。

 彼女はニュースを見るのを止め、大きく伸びをしてから、集中治療室へと軽い足取りで進んだ。

 

 

 集中治療室のベッドの上で、上品な雰囲気を纏う線の細い青年がうとうとしている。クララが挨拶の声を掛けると、青年はのんびりと目を開け、育ちの良さを感じさせる口調で挨拶に応じた。彼の傍らに付き添う逞しい男が、ごく静かに答礼する。

 

 彼らは、四月の終わりに起きた交通事故に巻き込まれて、この病院に担ぎ込まれてきた。救急車で運び込まれたのは三人で、そのうちの一人は病院に到着した時、既に息を引き取っていて、病院のスタッフが出来たのは彼の死亡確認であった。

 

 しかし、三人には、いくつか奇妙な点があった。まず、交通事故だと聞いていたのに、青年の体にはレーザー・ガンによる真新しい銃創が確認出来たのである。他にも、青年や男、死亡した男性には、交通事故に因るものとは考えられない傷があり、不審に思った医師達は、フェザーン警察に連絡を入れた。

 連絡を受けて、病院職員達にとって顔馴染みの警察官達が来て、先に意識を回復した男に話を聞いたり、色々と調べていた。が、二日後、事件性がないからと上層部に言われ、捜査を打ち切られる事になった、と顔馴染みの警官は悔しそうに告げた。

 それを聞いた男は、まだ意識の戻っていなかった青年に寄り添うようになり、処置を施すのに邪魔だと暗に告げると、医師や看護婦のために場所を開けるようになったが、青年の近くに番犬の様に居座り続けたのである。

 男は先に回復し一般病棟に移ったが、それでも検診や処置のある時間帯以外は、集中治療室に来て青年の傍らにあった。しかし、そんな見慣れた光景も今日で終わりである。何故なら、青年も無事意識を回復し、経過にも問題がない事から、一般病棟に移される事になったのである。

 

 実の所、クララは青年の方に見覚えがあった。リップシュタット戦役の折に、ガイエスブルグ要塞で、彼女は青年の顔を見た記憶がある。それを彼女が強く覚えているのは、偉そうな門閥貴族の中で、彼が例外的に誰に対しても丁寧で謙虚な、感じの良い人物だったからだ。付き添っている男の方に見覚えはなかったが、隙の無い身のこなしや青年への献身ぶりなどから判断して、青年の家臣だろうと、クララ達は推測していた。

 

 リップシュタット戦役後、財産や家臣と共に亡命して来た門閥貴族など、フェザーンでは珍しくもなくなっていたから、彼女達はその事を触れ回ったりはしない。

 身なりや品の良い仕草、流麗な帝国公用語の操り方などから、他の病院職員も、青年が亡命貴族だろうと薄々気付いている。それにあえて触れないのはフェザーンの流儀でもあったし、医療従事者として患者のプライベートを最大限に尊重した結果である。

 そして何より、誰も好んで藪から蛇を出したいとは思わない。

 

 

「フェルディナント。すまないが、後で果物を買って来ては貰えないだろうか」

 

 一般病棟に移れば、食事制限も解除されるという医師の話を聞き、青年は傍らの男に頼み事をした。フェルディナントと呼ばれた男は、やや不満げな顔をして頼み事に即答をしなかった。頼み事自体が不服なのか、青年の体調などを心配してなのか、頼み事を聞くことで青年から離れることが嫌なのか、不服さの理由がいずれにあるのかは、当人以外は知る由もない。

 

「解った、店が開いたら買って来よう」

「ありがとう、宜しく頼む」

 

 フェルディナントと名乗るこの男の存在も、彼の青年に対する態度も奇妙な物だった。男は一方的に青年に献身しているように見えるのに、口調や態度は完全に同格同士のそれであった。

 では門閥貴族同士なのかとも思うが、青年は言動の端々に育ちの良さ、悪く言えば苦労知らずのお坊ちゃんといった感じが見て取れるが、男は全くそういう雰囲気がない。同僚か趣味を通じた友人だろうか、と仮定してみても、二人が同じ職場で肩を並べて働いたり、同じ趣味に熱中する姿を、どうにもクララは想像出来ない。

 

 処置の動作は頭で考えずとも体で覚えているから、その最中につい余計な事を考えてしまう。仕事に慣れ始めた医師や看護婦が、よくやりがちな事ではある。

 クララが強い視線を感じて顔を上げると、男の視線とかち合った。自分の内心を見透かされたような気がして、彼女は慌てて気持ちを切り替えた。

 

 

 翌深夜、クララが病院に出勤すると、救命救急センターの集中治療室に青年の姿が見えた。青年はオープン型の集中治療室にいたはずが、個室タイプの集中治療室に移されている。

 昨日の午前中に一般病棟に移されたはずなのに。クララはそう訝しんだ。それだけではなく、救急救命センター全体がピリピリとした空気に包まれている。

 彼女がその理由を知ったのは、同僚から引き継ぎをした時だった。青年をセンターの集中治療室から、一般病棟へ移送する時の事だった。一般病棟において、一、二分程度目を離した隙に点滴の流量が変更されており、薬液の量が変わったのが原因で、青年の体は変調を来たし、一時昏睡状態に陥ったという。

 監視カメラの映像で、集中治療室を出る直前、点滴の量はカルテの指示通りだったことが確認されている。点滴の器具が故障や不具合を起こしていたということもない。移送する際にそれを弄る必要もなければ、うっかり触れた程度で流量が変わるような代物でもない。

 だから医療ミスではなく、看護婦が目を離した隙に誰かが意図的に操作したのではないか、と職員達の推理が行きつくのは自然な事だった。

 薬と毒は、生体に影響を与える物質という意味において、本質的に同じ物だ。どんな薬でも、分量や投与すべき状況を誤れば、それは患者の死に繋がる。

 青年の死を願う誰かの手が、病院周辺まで伸びているのだと、この出来事は示している。買い物から帰ってきた男は、それからずっと自分の病室に戻らず、青年の側を片時も離れようとしない。そして、今やそのことを誰も咎めなかった。

 

 一睡もせずに青年を見守っている男と、今は安らかに寝息を立てている青年を視界の端に入れつつ、クララはどうしてあんなに人の良さそうな青年が狙われるのだろうと考えた。男の方は狙われる理由に心当たりがありそうであったが、それを口にする事もなさそうだった。

 どうも想像以上に厄介な事情のある患者達らしい。職員達は共通した認識を抱いた。

 

 クララは、これから起こるであろうトラブルに身震いしながら、数分後に来る急病患者に備えて、マグカップに残ったコーヒーを一気に飲んで気合を入れた。

 

 

 

 男の細く骨張った手から、樹脂製のマグカップが何の前触れもなく滑り落ちた。マグカップの中に入っていた水が、ベッドテーブルと、その上に置かれた物を濡らした。

 

「もうしわけありません、アンネローゼさ、ま」

「いいのよ、ジーク」

 

 濡れてぐじゃぐじゃになった、毛虫がのたうち回ったような字があちこちに書き散らされた便箋、線の内側より外側へと多く色が飛び出している塗り絵。帝国軍の活躍を報じた記事のコピー。

 それらをアンネローゼは手早くテーブルから取り除き、彼女のほっそりとした優雅な手が、消毒用のティッシュでテーブル面と、濡れた筆記具を拭き取る。それを手伝おうとキルヒアイスは右手を伸ばした、つもりで、ベッドテーブルの支柱に強かに手をぶつけてしまった。

 アンネローゼのしっとりとした手が、キルヒアイスのぶつけた個所の痛みを和らげるように、優しく撫でさすった。キルヒアイスのサファイア色の瞳とアンネローゼの深青色の瞳が自然と見つめ合い、どちらからともなく視線を逸らし合った。

 

 アンネローゼは、看護婦と使用人にキルヒアイスの事を伝えて事後処理と手当てを頼むと、静かに病室を辞した。

 部屋を出た彼女の足元へ、廊下の向こうから仔犬が走り寄って来て、千切れんばかりに尻尾を振っている。一方、彼女が出て来た扉を、仔猫が興味津々といった様子で見上げている。彼女は、仔犬を一撫でしてから、扉の前の仔猫を抱き上げた。

 

「まだ入っては駄目よ。ジークの体がもう少し良くなったらね」

 

 仔犬の方は了承したとばかりに元気良く吠え、仔猫は不平を述べるかの如く愛らしい鳴き声を上げた。アンネローゼは破顔すると、二匹の体を撫でてやった。

 キルヒアイスの療養のために引き取られた動物達であったが、今の所彼らに一番癒されているのは、アンネローゼかも知れなかった。

 

 

 五月に入ってからのキルヒアイスは、ベッドの背上げ機能を使ってではあるが、上体を起こして、手を動かす作業に取り組み始めた。本や新聞など、文字情報をゆっくりとではあるが、読む事が出来るようにもなっている。もっとも読み始めた最初の頃は、新聞の小さな囲み記事一つを読むのに、一時間以上掛かったりもしたのだが。

 

 相変わらず彼の脳は混乱を来たしており、彼の体は彼の思うようには動いてくれなかった。

 動かそうと思って動かないのは良い方である。時には、思った動きと違う動きになって、ベッドやテーブル、周囲の人々に手などをぶつけてしまう。筋肉が衰えたとはいえ男の大きな手である。変に勢いがついていると、当たられた方も痛くないはずはなく、その度にキルヒアイスは申し訳ない気持ちになるのだった。

 

 また、キルヒアイスの脳の混乱は、体の動作だけではなく、彼の記憶にも及んでいた。

 両親であるキルヒアイス夫妻、アンネローゼが話す思い出話、アルバム写真や映像、自分の事を記した、或いは自分が書き付けた文書。それらを見ても、時々思い出せない出来事がある。

 キルヒアイスは全てを忘れたわけではなかったが、所々に記憶の欠落があるのも確かであった。

 

 リップシュタット戦役時の、キルヒアイス上級大将の華々しい活躍を報じる記事。キルヒアイスはその時の記憶が全く欠落しているが故に、他人事のようにその記事を読んでいる。

 

 ただ、キルヒアイス本人は、過去の記憶の欠落を、殆ど思い悩んでいなかった。何故その過去を大事に思っていたか、という理由も含めて欠落しているからである。それよりも彼が気にしていたのは、将来に渡って記憶障害を起こし、それで日常生活に支障をきたす可能性であった。

 彼の新しい主治医は、キルヒアイスにメモをつける事、手紙を書く事を習慣づけるように勧めた。

 メモを付ける事は、何かを忘れない為にも何かを思い出す為にも有用であるので、何かあれば必ず書き留めるなりして記録するように、と主治医は言い含めた。

 手紙を書くのは、直接口で何かを伝えるのと違って、相手にそれを渡す前に、一呼吸置いて不備がないか読み返せる。言った言わないの揉め事にもなりにくい。今のキルヒアイスの様に、意図したことが上手く口に出来ない、何を言いたいのかが整理出来ない状態にあって、それは非常に有効な手段であると告げた。

 

「そして何より、手紙を書くにも、メモを作成するにも、手を動かす必要がありますからね、手の良い運動になります。手紙の内容を考えるのも、良い刺激になるでしょう」

 

 中年の主治医は、キルヒアイスへの回答をそう締めくくった。

 

 それからというもの、キルヒアイスのベッドテーブルに、書き殴られたメモ用紙の丘がうず高く形成され、見かねたアンネローゼやキルヒアイス夫人の手によって、ノートに記入済みのメモが貼り付けられるようになった。

 

 こうして、シュヴェーリンの館における五月最初の週が終わった。

 

 

 

 イゼルローン要塞攻略戦を大勝利で飾った、ケンプとミュラー、それにアイゼナッハの三艦隊は、五月中旬を過ぎて、ようやく首都星オーディンに帰還した。

  今回の作戦に当たった三提督を乗せた地上車を中間に配し、装甲車と高級地上車で形成された行列が、元帥府への道をゆっくりと進んで行く。その沿道には、多くの帝国臣民が詰めかけ、歓呼の声をもって彼らを迎えた。

 

 丁度それと同時刻、シャフト技術総監は、恐ろしく浮かれきっていた。自分が提案した作戦が当たって、同盟に勝てたのだ。彼の妄想した作戦手順と、実際の戦況は著しく異なっていたがそんな事は些末な問題である。

 彼の提示した技術を使って、帝国軍が勝ったという事実が大事なのである。運良く行けば、ラインハルトの覚え目出度く、尚書の地位も夢ではないかも知れぬ。そうでなくとも、技術総監としてのシャフトの地位は暫く安泰であることは間違いない。

 作戦における肝心要の要塞移動技術は、フェザーンからの供与物であった。それを結実させたのは、科学技術総監部の下っ端研究員とケンプら現場将兵であって、シャフトは殆どそれに寄与していなかった。が、シャフトはその事実を自分の記憶から綺麗に消し去っており、己の欲望を翼として、輝かしい未来への妄想を飛躍させていた。

 

 彼の果てなき妄想を断ち切ったのは、ラインハルトからの呼び出しであった。

 今回の勝利における褒賞の話であろう。と、期待に胸を膨らませて元帥府執務室を訪れた彼を待っていたのは、ラインハルト以下、オーベルシュタイン、憲兵総監ケスラー大将らの、温かさには程遠い眼差しであった。

 公金横領、収賄、機密漏洩、特別背任。ケスラーが、シャフトが今まで犯した罪状を淡々と並べ立てる。

 ラインハルトに、弁解はあるかと問われたので、シャフトは如何に自分がこの度の勝利に貢献したかについて滔々と演説をうち始めた。

 シャフトの自己弁護が十秒にもならない内に、ラインハルトはその美貌に冷笑を浮かべてそれを遮った。

 シャフトは最後の足掻きに、己の罪状に対する証拠を求めたが、それに対してケスラーは罪状の明確な物証や証言を丁寧に羅列してみせた。

 絶望のためにシャフトは項垂れ、屈強な憲兵達に連行されていったが、誰もそれを哀れだとは思わなかった。

 

 科学技術総監部における癌の親玉を掃除したお陰で、ラインハルトは旗下の将帥らと共に、ケンプら三提督を気分良く出迎える事が出来た。

 

 ラインハルトは、まず三提督を労うと、ケンプ、ミュラー、アイゼナッハの三名を上級大将に昇進させると発言して、彼らの功に報いた。

 この中で最年長のケンプはさておき、将来性を買われて大将になったと揶揄されていたミュラー、ラインハルト旗下に加わったばかりのアイゼナッハは、この軍功と地位を持って、ラインハルト体制下における自らの立場と評価を確立するに至った。

 

 ただ、イゼルローン要塞から脱出する艦艇に追撃を掛けなかったことが、イゼルローン攻略戦の直後から三提督の帰還までに、一部将帥の間で批判の対象となった。もし、脱出した艦艇の中にヤン・ウェンリーが居たならば、みすみす大魚を逃したことになるからだ。

 これに関しては、人工天体二つの爆発によってデブリだらけになった回廊を無理に進めば、帝国軍も無傷では済まなかった可能性が高い事。

 ラインハルトから極力将兵の損耗を抑えるよう指示され、ケンプらはそれを全うしただけである事。

 数日間、回廊を監視して、敵軍の完全撤退を確認して帰還の途に着いている事。 何より、作戦目的は回廊の制圧ないしは無効化であり、ヤン・ウェンリーの首を上げることではなかった事を、ラインハルト自らが説いて、その批判を抑えた。

 何より、ヤン・ウェンリーがイゼルローン要塞に居なかった事実が、後日判明するに至って、ケンプらに対するその種の批判は完全に消え去った。

 

 これでラインハルトの旗下には、既にその地位を得ているキルヒアイス、ミッターマイヤー、ロイエンタール、オーベルシュタインを含め、七名が上級大将の地位に並ぶことになる。

 

 

 

「オーベルシュタインの奴が喜びそうな流れだな。ローエングラム公の下に多くの上級大将と大将が並び立ち、それでいて、誰も突出するには至っていない」

 

 ロイエンタールはそう言って、年代物の白ワインを掲げた。その日の深夜、ロイエンタールの私邸において、ミッターマイヤーとロイエンタールの二人は、ゆるりと酒の杯を重ねていた。

 

 士官用クラブ『海鷲』で、ケンプ、ミュラー、アイゼナッハらの上級大将昇進の前祝いと称して、主だった将帥達による馬鹿騒ぎが行われた後だったので、既に二人とも出来上がっており、卓上にある酒の減り具合は著しく遅い。

 言うまでもない事であるがオーベルシュタインは、昇進祝いと称したこのバカ騒ぎには、当然のように不参加である。

  参加者全員に程よく酔いが回った所で、この日の主役で、家族のいるケンプやアイゼナッハを気遣い、比較的早めに場はお開きとなった。

 斯くして、参加者達は三々五々に海鷲を辞し、ミッターマイヤーとロイエンタールの二人は、ロイエンタールの私邸で飲み直しているのである。なお、家族も恋人もいないミュラーは、ビュッテンフェルトに引き摺られて、夜の歓楽街へと消えて行った。

 

 

 ミッターマイヤーは酔いが回っているせいか、ロイエンタールの言葉に対して反応が鈍く、手に持ったロックウィスキーを飲む訳でもなく、ただ氷が解けていく様子をぼうっと眺めていた。

 

「……オーベルシュタインの事もそうだが、ローエングラム公は、キルヒアイスが倒れてから、随分お変りになられた気がする。今回の作戦案と言い、どうにも」

 

 暫く、部屋を沈黙が満たした後、不意にミッターマイヤーが呟いた。それを聞いたロイエンタールは、左右色の違う双眸に、暗い喜びの光を輝かせたが、ミッターマイヤーは本格的に睡魔に負けそうになっており、親友の様子に気が付かなかった。

 

「変わったのではなく、今の姿が本来のローエングラム公だという可能性もある。キルヒアイスの不在でそれが露わになっただけかもしれん。考えてもみろ、ミッターマイヤー。俺達があの方に出会った時には、既にキルヒアイスが傍にいた。俺達が良く知るローエングラム公の御姿で、キルヒアイスが存在しえなかった時というのは、キルヒアイスが倒れるまでただの一度とてなかった」

 

 ミッターマイヤーは、急激に酔いが醒めて、その発言をした親友の顔を凝視した。

 

「それにだな。ローエングラム公がお前の言う通りお変りになっているとして、俺はそれを不思議とは思わぬ。何かを得る為でもなく、何かを取り戻す為でもない。人は、何かを失わない為に最も残酷になれるのだ。そう」

 

 俺の母親の様に。声はしなかったが、ミッターマイヤーは、親友の唇がその言葉を形作るのを確かに見た。五年前のカプチェランカで、酔ったロイエンタールが口を滑らせた話を思い出す。

 

 ロイエンタールの両親は、身分も裕福さも年齢も何もかもがちぐはぐな夫婦であった。

 身分も低く既に若くもない夫は、若く美しく高貴な妻に劣等感があり、彼は自分が唯一誇れる物、財産で関心を引こうとした。ロイエンタールの私邸が、下級貴族の邸宅の割に壮麗なのは、夫が妻に喜んでもらいたい一心でそのように作らせたからだった。

 妻レオノラは、零落した実家マールバッハ伯爵家のため、金のために結婚した。金と物にしか頼れぬ夫に対して愛はなく、愛を求めて、彼女は家庭の外にそれを見出した。

 やがて、オスカー・フォン・ロイエンタールが生まれた。赤子の目が開いた時、ロイエンタールの母は息子の右の瞳に、愛人の瞳の色を見出した。青い瞳を持つ者同士の夫婦には、現出しないはずの黒。彼女は、それを自分の罪の証と思い込んだ挙句、子供の黒い瞳を抉り出そうとしたのである。

 レオノラは、贅沢な生活を、己の名誉を失いたくなかった。失いたくない物の中には、愛人の存在もあったかもしれぬ。自分の不義が表沙汰になれば、全てが終わる。であればこそ、彼女は、息子に宿った罪の証を抹消せねばならなかった。

 

 ただ、ロイエンタールは最近思う事がある。もし、自分が生まれる前に母親の不義が発覚していればどうだっただろうと。母親は不義を犯した女として、ロイエンタール家から放逐されたかもしれない。または、外聞のため、離婚はされぬが家中で冷遇されたかもしれない。いずれにせよ、全てを失っただろうことは間違いない。

 子供の父親が誰か調べられ、愛人の種なら、オスカー・フォン・ロイエンタールはこの世を見ることなく身罷ったかもしれない。或いは全てを失う事に耐えられず、体内の子供ごと母親は自死したかもしれない。

 いずれにしろ母親にとって、子供の黒い瞳が己の罪の証であることに変わりはないが、それを抉り出す必要性はずっと低くなっていたはずだ。この仮定における彼女は、もはや失うべき何物も有していないのだから。

 全てを失った後に自分が生まれていたら、母親は俺を、とそこまで思考が及んで、ロイエンタールはそれを断ち切った。今の彼には他に考えるべきことがあった。

 

 翻って、ローエングラム公は、キルヒアイスを失わない為に、これからどう行動するのか、と彼は思考を切り替えた。

 また、リヒテンラーデ一族の悲劇が繰り返されるのだろうか。もし、その悲劇によって誰かが犠牲になるとして、それが自分やミッターマイヤーでないなどと誰が言い切れるだろうか。

 ロイエンタールやミッターマイヤーの人柄、実績などはこの際関係ない。要はローエングラム公がどう判断するかだ。

 ロイエンタールは、リヒテンラーデ一族を処断した一件でそれを嫌というほど味わった。

 ローエングラム公は、自分が十歳の時に幼年学校に入り、今に至る地歩を固めたという理由で、十歳以上の男子を一人前とみなし、死刑にすると決めたのだった。その中には、明らかに陰謀など企みようのない子供もいたというのに。

 ロイエンタールは、特に人道主義者という訳ではなかったが、謂れのない罪で処刑される子供達を見て、平然としていられるほど冷血でもなかった。

 

 ロイエンタールにとって、誰かが何かを失わない為に自分が犠牲にされるのは、母親との一件だけで充分過ぎた。

 彼の脳裏で、母親の美しい手が自分に向かってナイフを振り上げる光景が、何度も何度も繰り返される。

 

 その光景を打ち消すため、ロイエンタールは光景がリピートする度に白ワインを呷った。ミッターマイヤーが飲み過ぎだと窘めるが、それが聞こえていないかの様に、ロイエンタールはひたすら酒を流し込んでいく。

 

 やがて、気が付けば、ナイフを振り上げる滑らかでなよやかな女の手は、形の良い男の手に変じた。ロイエンタールが、その手を辿って視線を動かせば、そこにあるのは自分によく似た女の顔ではなく、ローエングラム公の華麗な顔貌であった。

 

「おい、ロイエンタール」

 

 ミッターマイヤーは、酔い潰れて机に突っ伏した親友に呼び掛けた。ロイエンタールは目を閉じており、貴公子然とした顔には、苦悶の表情が浮かんでいる。

 ミッターマイヤーは、親友の寝顔を肴にして、グラスに残った酒をすべて平らげた。ロイエンタールと同じように前後不覚になるまで酔い潰れて、ミッターマイヤーは今聞いたことを全て忘れ去ってしまいたかった。だが、残念ながら二人の卓に残った酒は、ミッターマイヤーを即座に酔い潰すには全く量が足りなかった。

 

 卓上の酒を飲み乾したミッターマイヤーは、ロイエンタール邸の瀟洒な天井をしばし仰いでから、ロイエンタール邸で働く使用人達を呼んだ。

 呼び掛けに応じて参じた執事達に頼み、酔い潰れたロイエンタールを寝室まで運んでもらう。その様子を見届けていると、ミッターマイヤーに再びの眠気が襲ってきた。彼は抵抗することもなく、そのままロイエンタール邸の絨毯の上で睡魔に身を委ねた。

 

 

 

 シュヴェーリンへの車中で、ラインハルトはここ数日の疲れから、しばし舟を漕いでいた。

 その寝顔は、女神にその若さと美しさを惜しまれ、永遠の眠りを賜った王子の御伽噺を彷彿とさせるが、残念なことにその芸術品を鑑賞する者は、親衛隊長のキスリング唯一人で、彼は主君の寝顔に心一つ動かされない様子であった。

 ラインハルトがキルヒアイスに最後に会いに来たのは、イゼルローン攻略戦が終わる直前のことだった。それから数えてほぼ一ヶ月ぶりの、シュヴェーリンへの訪問である。

 

 寝起きで、ややぼんやりしながら、ラインハルトはキルヒアイスの病室に入った。

 キルヒアイスはベッドの背上げを起こして、仔猫と仔犬の相手をしていた。ラインハルトが病室に入って来たのに気が付いて、キルヒアイスは二匹の相手を止めて、ラインハルトに穏やかに微笑み掛けた。ラインハルトも、キルヒアイスに子供じみた笑顔を見せて答えたのであった。

 アンネローゼが気を使って、外から二匹の名前を呼ぶと、二匹はまっしぐらに彼女の元へ向かった。

 

 動物達に見せている、アンネローゼやキルヒアイスの笑顔は、全く身構えた所のない自然な物で、いつの間にやら館に増えた住民に姉やキルヒアイスを取られたような気がして、ラインハルトは少し拗ねた。もっとも、そのお陰でこうやって、姉達が安らかでいられるのだからと、ラインハルトは何とか理性で、子供じみた拗ねを抑えた。

 

 ラインハルトが最後に会ったのは、まだ記憶の混濁が酷い時で、端的に言って壊れていたキルヒアイスを、ラインハルトは直視出来ずにいた。それに比べれば、今のキルヒアイスは、記憶の欠落が随所に見られるものの、以前の様な明晰さと明るさが見られるようになった。

 長い昏睡状態の間に痩せこけたキルヒアイスの体も、僅かづつではあるが精気を取り戻しつつあるように見えて、それは幾分ラインハルトの罪悪感を和らげた。

 キルヒアイスは、今は手元のノートに思い付いたことを書き留める様になっており、ラインハルトもそれに少し目を通した。

 毛虫がのたうち回っていたような字が、蚯蚓の這ったような字になり、今は象形文字位のレベルまでになっていた。かつてのキルヒアイスの手跡と比較すれば、下手な字には違いないが、それでも字形の変遷は、確かにキルヒアイスの回復を物語っていて、それを見るラインハルトの顔を思いがけず綻ばせた。

 

 

 ラインハルトとキルヒアイスは、久方ぶりに心の置けない親友同士の会話を楽しんでいた。と、キルヒアイスが何かを思い出したような素振りを見せた。

 

「そうだ、ラインハルト様。私についていた従卒が、今どうしているのかご存じありませんか。最近手紙を幼年学校に送ったのですが、宛先不明で返って来たのです。あの子はまだ卒業する年齢でもありませんし……」

 

 ラインハルトは鷹揚に頷き、その従卒の名前をキルヒアイスに問うた。

 

「フォン・コールラウシュと……」

 

 その瞬間、キルヒアイスの脳内を奔流の様に記憶が押し寄せた。カスタード色の髪をした、少し強がりの、出会った頃のラインハルトに雰囲気の似た少年の顔、幼い彼がキルヒアイスに話した、家族の話。

 つい先日読んだばかりの、リップシュタット戦役前後のニュース記事。それらの事象がキルヒアイスの脳裏である一つの推測を形作った。キルヒアイスの顔から一瞬にして血の気が失せ、その痩せた手が、震えながらもシーツを強く握りしめた。ラインハルトは、聞いた名前を記憶するのに気を取られ、キルヒアイスの様子が先程と変化した事には気が付いていない。

 

「分かった。コールラウシュというのだな。すぐにでも調べさせよう」

「ラインハルト様。彼を覚えていらっしゃらないのですか?」

 

 ラインハルトは笑みをキルヒアイスに向けた時、ようやくキルヒアイスの様子がおかしい事に気が付いた。

 しかし、キルヒアイスは戦役の途中まで自分と別に動いていたのだから、その時キルヒアイスの側にいた従卒の顔や姓名までは良く知らなかった。それなのに、キルヒアイスは何故俺を責める様に見るのだろう?

 ラインハルトはその事を不可解に思いながら、キルヒアイスを見つめた。キルヒアイスのサファイア色の瞳が、深い悲しみを湛えてラインハルトを見返している。

 

「コールラウシュとは、リヒテンラーデ公の姪御が嫁いだ家です、ラインハルト様。私の従卒はその家の息子、ええ、ラインハルト様と私への暗殺事件を使嗾なさったとして、自裁なされたリヒテンラーデ公の又甥に当たります」

 

 ラインハルトの氷蒼色の瞳が、驚きのために見開かれた。キルヒアイスは悲痛に満ちた顔をラインハルトに向け続けている。

 ラインハルトはリヒテンラーデ一門の家名など一々記憶してはいなかったし、処刑を執行したのはロイエンタール達であって、ラインハルトはその現場に立ち会った訳でもない。例え直接見聞きしていたとしても、半年以上前の政争の敗者などラインハルトにとってはもはや無用の物であって、いずれにしろ忘れ去っていたには違いない。

 一方で、今まで意識不明で、つい最近色々と思い出し始めたばかりのキルヒアイスにとって、少年の動向は過去の事ではありえなかった。

 キルヒアイスは、年の割に随分幼く見えた従卒を思い出す。泣き虫で意地っ張りの割に変な所で素直で、両親や姉について語る彼の口調からは、彼が家族から愛されて育ってきたのだとよく分かった。

 

「どうしてです、ちゃんとお調べになれば、あの子に罪はないとお分かりになったでしょうに」

「リヒテンラーデ一族を早急に始末せねば、殺されるのは俺やお前の方だった!あの時は、時間をかける余裕などなかったのだ、キルヒアイス」

 

 キルヒアイスの表情に、絶望の色が混じった。

 キルヒアイスは、かつてゴールデンバウム王朝の始祖ルドルフ大帝が、自分に歯向かった共和主義者の親族をそうしたように、従卒の少年を辺境へ流刑にしたのだろうと考えていた。キルヒアイスは、ラインハルトがルドルフや門閥貴族達ほど残酷だとは思っていなかったし、思いたくなかったのである。

 更に表情を変えたキルヒアイスを見て、ラインハルトは己の失言を悟った。しかし、もう後悔しても遅い。キルヒアイスは、悲しみと怒りを綯交ぜにして、ラインハルトを睨んだ。

 

「何故殺したのですか、ラインハルト様!あの子はまだ一二歳でした。何が出来ようはずもないではありませんか!」

「俺は十歳の時に、この帝国を壊すと決めて幼年学校に入った。だからだ。リヒテンラーデ一族の、その年頃の子供達が、その時の俺と同じ位の気概を持っていないなどとどうして言い切れる。今は子供でも、数年経てば力を蓄え、復讐を果たすために、俺やお前を殺しにやって来るかも知れない。俺はそれで良い。だがな、キルヒアイス。俺はお前を失うのだけは嫌だ」

 

 自分を守るために、将来の禍根になるであろう子供を殺したのだと言われて、キルヒアイスは戸惑った。ラインハルトも、キルヒアイスを守るために行ったはずの事で、キルヒアイスに責められるのは辛かった。

 

「ラインハルト様に出来たからと言って、他の者に出来るとは限りません。ラインハルト様が自分を基準になさるのは結構ですが、それでは皆が辛いのです。もう、わたし、は」

「キルヒアイス、お前は」

 

 常になく感情が高ぶったせいで、キルヒアイスの血圧が上がる。

 言い過ぎた、もう少し言い方という物があったのに、ラインハルト様に謝らなければ、と考えていたキルヒアイスの意識は、突如として暗闇に閉ざされる。

 寝たきりの穏やかな状態に慣れ切っていたキルヒアイスの体は、その血流変化に対応する事が出来ず、気絶した。

 

 意識を失ったキルヒアイスをみて、ラインハルトは医師達のいる部屋に繋がるベルを力一杯押した。医師達が病室に入って来るのと入れ替わりに、ラインハルトはふらふらと病室の外に出た。

 医師達の慌ただしい様子を聞きつけて、アンネローゼが顔を出した。彼女は、力なく歩く弟の背に声を掛けた。

 

「ラインハルト、どうしたの?」

 

 ラインハルトは姉の声に振り返り、罪を宣告された罪人の様に、怯えの混じった表情を浮かべた。

 アンネローゼは、ただ何が起こっているのか知りたくて、弟に声を掛けただけであった。その視線も声も、客観的に見て、何の悪意もありはしなかった。

 しかし、今のラインハルトには、アンネローゼの他意のない視線や声ですら、自分を責めているように感じた。ラインハルトは、姉の問いかけを無視して、館を辞した。

 

 

 これ以降、ラインハルトが、キルヒアイスに会いにシュヴェーリンの館を訪れる事はなかった。

 

 宇宙暦七九八年、帝国暦四八九年五月中旬。首都星オーディンの大地には、静かに雨が降り注いでいた。


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